海風の女
「ちょっと、そこのお兄さんたち!」
澄んだ声がピシッと響いた。男たちがびくりと肩を震わせ、一斉に声の方を振り返る。
路地の奥から、一人の女性が漁具を肩に担いで近づいてきた。海風になびく赤い髪、日に焼けた健康的な肌。すらりとしているが、動作の一つ一つに漁師として鍛え上げられたしなやかな筋肉が感じられる。
落ち着いた足取りで歩み寄る。その顔に、港の女らしい朗らかさが浮かんでいる。しかし、真っ直ぐに男たちを射抜く瞳は容赦がない。
「あっ、アズール……!」
男の一人が、怯えたようにその名を呼んだ。アズールは男たちの前で立ち止まる。
「女の子に声かけるのはいいけどさ、場所とやり方くらい考えなさいよ?」
男たちはたじろぎ、視線を泳がせる。
「こんな路地でゴチャゴチャやってたら、変な噂立つでしょ? 港町で面倒起こしたくないなら、帰りなさいって」
アズールが担いだ漁具の先端で、くるりと帰る方向を示す。その仕草は軽いものだったが、男たちは居心地悪そうに身じろぎすると、そそくさとその場を立ち去っていった。
アズールは溜め息をひとつ吐いてから、リーナに目を向けた。
「怖い思いさせちゃったね。平気?」
「はい……本当に、ありがとうございます」
リーナは、張り詰めていた息を深く吐き出し、その場に崩れ落ちそうになる膝にぐっと力を込めた。
「大丈夫大丈夫。あの子たちも悪い子じゃないのよ。ただ、調子に乗りやすいだけだから」
アズールは口角だけ上げ、指先で無造作に髪を払った。
「で? 誰を探してたの?」
「あの、探している人がいて……マルクさんとアンナさんというご夫婦と、その息子のシモンさんを」
リーナが名前を口にすると、アズールの笑顔がすっと消え、真剣な眼差しでリーナの顔を見つめ返した。
「マルクとアンナ? それにシモン?」
「はい。シモンさんは、ペスカードの漁師の方と結婚されたって聞いていて……アズールという、女性の方と」
リーナは言いながら、目の前の女性をじっと見つめた。赤い髪、漁師の出で立ち、そして「アズール」という名前。
「もしかして……アズールさん?」
アズールは息を呑んで目を見開き、「あんたか!」と声を上げて、リーナの肩を両手で掴んだ。
「あはは! そっか!」
その手には、漁師特有の硬いタコと、驚くほどの熱がこもっていた。
「私がアズールよ! シモンの嫁の!」
「あんた、リーナね? 義父さんたちから、あんたの話めっちゃ聞いてるわ。恩人だってね」
「恩人だなんて……むしろ私の方がお世話になって」
「何言ってんのよ。あんたがいなかったら、義父さんたちはこっちに来られなかったんだから。みんな感謝してるの」
アズールはリーナの手をぐっと握る。ゴツゴツとした骨張った感触だが、不思議なほど安心感があった。
「義父さんたちは元気よ。今朝は朝市に行ってるけど、昼には戻るはず」
「よかった……お二人ともお元気で」
「そんな顔しないでよ。せっかくの再会なんだから、笑わなきゃ損でしょ」
アズールはニカッと笑い、リーナの肩をポンと叩く。
「案内するわよ。うちはすぐそこだから」
アズールは軽い足取りで歩き出した。
「ありがとうございます。でも、お仕事の邪魔をしてしまって……」
「気にしないで。今日は暇してんのよ」
アズールは笑いながら漁具を肩に担ぎ直す。その笑い声は潮風のように爽やかで、リーナの強張っていた身体からふっと力が抜けていく。
「それにしても、よくここまで来れたわね。この辺、ほとんど迷路だから」
「手紙に書いてあったんです。でも、具体的な住所はわからなくて……」
二人は石畳の道を並んで歩く。アズールは周りを指さしながら軽快に説明を続けた。
「あそこが道具屋。錆びた錨とか、太いロープが山積みになってるだろ? 向こうの煙突の家は網の修理屋ね。潮と……ああ、網に塗る油の匂いが混じって、ちょっと独特なのよ」
アズールのセリフの合間に、リーナの鼻孔をくすぐる、嗅いだことのない匂い。アードベルとはまったく違う、生活と海とが密着した匂いだ。
「本当に海の町なんですね」
「でしょ? 荒っぽい人も多いけど、根はみんな優しいのよ」
アズールが振り返って笑う。その視線は、リーナではなく、路地の向こうにある港や、行き交う漁師たちに向けられていた。「いい町だろ?」とでも言うように、その目尻が誇らしげに細められた。
「ここよ」
アズールが立ち止まったのは、他の家と変わらない石造りの二階建ての家の前だった。
「義父さんたちは隣の家に住んでるの。でも今は留守だから、うちで待ってて」
「ありがとうございます」
リーナが深々と頭を下げると、アズールは担いでいた漁具をトン、と地面に置いた。
「で? ここまで来たのは義父さんたちに会うためだけなの?」
「はい。騎士団の任務でペスカードに来たんですが、マルクさんたちにどうしても会いたくて」
「へぇ、なるほどね」
アズールは、それまでの親しげな表情をわずかに引き締めリーナという人をきちんと見る。義理の両親の恩人として敬意を帯びた眼差しだった。
「ああ、そうだ。今度、うちで海の魚を使った料理を作ってくれない? あんたの料理、義父さんたちから聞いててさ。どんな味になるのか、ずっと興味があったのよ」
「もちろんです! ぜひ作らせてください」
リーナの声に明るさが戻る。思わずアズールの手を両手で包んだ。
「よし、決まりね! 義父さんたちが帰ってきたら、みんなでお祝いよ。久しぶりの再会なんだから、きっと喜ぶわよ」




