港町の夜
馬車が止まった頃には、西日がペスカードの空を赤く染めていた。一行は長旅の疲れを引きずりながら荷物を降ろし始める。ジュードが街の看板を見上げた。
「ペスカードの入り口だ」
潮風に晒されて錆びついた文字を、リーナも見つめる。新しい任務地への期待に、胸が高鳴った。
「いよいよだ」
小さくこぼれた呟きは、馬車のきしみと荷物を下ろす音に紛れた。
「まずは宿に向かおうか」
ジュードが努めて明るい声色で仲間を促す。ペスカードは想像以上の活気に満ちていた。内陸のアードベルとはまるで違う、濃密な潮の香りと、漁師たちの野太い声が街全体を包み込んでいる。
「すげぇな、この活気!」
「海鳥亭はこっちだね」
ルークが地図を片手に先導し、一行はメインストリートから少し入った路地へと進む。石造りの二階建ての宿はすぐに見つかった。看板に描かれた海鳥の絵は少しかすれているが、建物の中からは賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
扉を開けると、樽のようにがっしりとした体格の中年男性が、朗らかな笑顔で一行を迎えた。
「いらっしゃいませ!」
「お世話になります」
ジュードが丁寧に頭を下げると、主人は快活に笑った。
「今回は七人だな。部屋はちゃんと用意してあるぞ!」
奥から弾むような若い女性の声が響いた。
「父さーん、騎士団の人たち来たの?」
茶色の巻き髪を揺らし、パタパタと小走りで現れたのは若い女性だった。
「いらっしゃいませ! アンリっていいます!」
彼女は一行を値踏みするように見渡し、すぐにジュードの姿を捉えると、その瞳が熱を帯びた。頬を紅潮させ、あからさまな期待を込めた視線をジュードに注ぐ。
「わぁ……すっごいかっこいい~! お名前は?」
「ジュード」
不躾な視線に気まずさを感じたのか、ジュードはわずかに視線を逸らし、短く答えた。
アンリはさらに身を乗り出し、甘えた声を出す。
「ジュードさん……! かっこよすぎ!」
ジュードは片手を軽く振って困惑の笑みを浮かべたが、同時に一歩下がり、彼女との物理的な距離を取った。
「いや、そういうの、落ち着かないから本当にやめてほしい」
その拒絶の仕草にもかかわらず、アンリはうっとりとした表情を崩さない。だが、その視線が隣のリーナに移った途端、彼女の瞳から熱が消えた。刺すような冷たさが宿る。
「で、この人も騎士なんですか? 全然騎士って雰囲気じゃないけど……何しに来てるんです?」
急激な声の変化に戸惑いつつも、リーナは小さく息を吸い穏やかな笑みで応じた。
「料理人として来ています」
アンリは鼻で小さく笑うと、ジュードたちには聞こえないよう、リーナだけを睨みつけるようにして呟いた。
「……ふーん。料理人ね。邪魔にならなきゃいいけど」
背を向けたアンリが、階段を上がりながら事務的に告げる。
「お部屋にご案内しますね! ついてきてください」
部屋は三つ。リーナが個室、残りの六人が三人ずつの相部屋だ。
「女性はここよ」
一番奥の、小さいながらも清潔な部屋だった。窓からは港が望める。
「ありがとうございます。素敵なお部屋ですね」
「そうですか」
アンリは短く答えると、すぐに踵を返した。男性陣の部屋へ向かう彼女の声は、先ほどとは打って変わって甘く弾んでいる。
「騎士のみなさんは、こちらのお部屋です!」
髪を指先でくるりといじりながら、その視線はジュードに固定されていた。
「ありがとな」
ガレスが、そのあからさまな態度の変化に苦笑いを漏らす。アンリはジュードの腕に手を添えながら言う。
「何かあったら、なんでも言ってくださいね? 特にジュードさん! 私、力になりたいなって思ってますから!」
「気持ちはありがたいけど、俺たち任務で来てるからさ。あんまり構わないでくれた方が助かるな」
ジュードがその腕をやんわりと外し、きっぱりと線を引くとアンリの表情が不満げに固まった。
「そうですか。夕食は一階の食堂でお召し上がりくださいね」
そう言い残し、彼女は不機嫌な足取りで階段を下りていった。
アンリが去るやいなや、アデラインがリーナの部屋に駆け込んできた。
「リーナ、大丈夫? あの子、あからさま過ぎて笑っちゃうわね」
「やっぱり気づきますよね」
リーナが苦笑すると、アデラインは肩をすくめた。
「若い女の子が騎士団に憧れるのは分かるけど、あれはちょっと舞い上がりすぎね」
そして、悪戯っぽく笑う。
「でも、ジュードは顔がいいから仕方ないわ。リーナは妬かないの? あんなにジュードにベタベタしてたのに」
「えっ!? 私がですか?」
リーナの声が上ずる。アデラインは楽しそうに喉を鳴らした。
「冗談よ。でもリーナ、ちょっと顔赤いわよ」
「もう、からかわないでください」
リーナは両手で頬を覆い、むくれたように唇を尖らせた。
***
夕食の時間になり、一行は一階の食堂へ向かった。ランプの灯りが揺らめく石壁の食堂は、漁師や商人たちでごった返し、潮と料理の匂い、そして弾けるような笑い声が熱気となって満ちていた。
「いらっしゃいませ」
アンリが駆け寄り、ジュードの腕にためらいなく手を絡ませた。
「ジュードさん、疲れてないですか? 私、今夜は特別におもてなししたいなって思って」
ジュードは表情を崩さぬまま、即座に腕を引き抜いた。
「気持ちはありがたいけど、いらないよ。俺は普通で十分だから」
アンリはわずかに唇を噛み、気まずそうに目をそらすと、その鬱憤を晴らすかのようにリーナへ視線を向けた。
「内陸の人には魚の匂いがきついかもしれないけど、平気なんですか~?」
嫌味を隠さない物言いに、リーナはほんの一瞬眉をひそめたが、すぐに笑顔で返した。
「平気です。ペスカードの料理、すごく楽しみにしてたので」
アンリは不満げに鼻を鳴らし、踵を返した。
運ばれてきたタラの塩焼きもホタテのバター焼きも、豊かな磯の香りが食欲をそそる。
「うまいな、これ。ホタテが甘い」
ジュードが感心したようにフォークを動かす。
「本当に美味しいです。潮の旨味がすごいですね」
リーナもその新鮮な味に驚き、頬を緩ませた。
「そりゃあな! 自慢の海の恵みだからな!」
突然、隣のテーブルから豪快な声が飛んだ。日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、逞しい腕の漁師だ。
「内陸から来たのか?」
「ああ、アードベルからだ」
ガレスが答えると、漁師は目を細めた。
「おお、都会だな。仕事か?」
「巡回任務で来たんだ」
ジュードが当たり障りなく応じる。
「最近、漁の具合はどうなんですか?」
シリルの問いに、漁師の笑みが急に曇った。食堂の賑わいの中で、そのテーブルだけ空気がわずかに沈む。
「そりゃあよ、困ったもんだ。オオカヅラって魔物ばっかり網にかかっちまってよ」
「魔物が網に!?」
リーナの声が鋭くなる。漁師はがしがしと頭を掻き、深い溜息をついた。
「魚が獲れねえんだ。魔物は食えねえし、捨てるしかなくて港がもう臭くてたまらん。それに群れで動くから、他の魚も逃げちまう」
その顔には、生活を脅かされていることへの苦々しい色が浮かんでいた。
「どのくらいの大きさなんですか?」
「これくらいだな。大人の太ももぐれえの太さだ。やたら筋肉が締まっててよ、固そうだ」
漁師は両手で大きさを示して見せた。オオカヅラ問題は、予想以上に深刻で、根が深そうだった。
***
夕食後、客がまばらになった食堂の隅で、一行は明日の打ち合わせを始めた。
「まずは朝市を覗いてみよう。ペスカードの空気も知りたいしな。地元の人とも話ができるだろ」
ジュードが静かに指示を出す。
「オオカヅラも、実際にどんなものか見たいですね」
「港の臭いの原因も確かめるべきだな」
ロドリックが渋い声で同意する。
「まずはみなさんに話をじっくり聞いたほうがいいと思います」
リーナが意見を述べると、ジュードは口元をわずかにゆるめ、テーブルの縁を一度だけ指で叩いた。
「そうだな。リーナはマルクさんたちのところに行くんだろ? ロドリックさんは海産物調査を頼む」
「承知した」
「俺たちは朝市と漁師への聞き込みだな」
役割分担が決まり、一行はそれぞれ部屋へ戻るために立ち上がった。
「ジュードさん、おやすみなさい。また明日もお話できたら嬉しいな」
アンリがジュードにだけ甘い声で話しかける。ジュードは涼しい顔で軽く頭を下げただけだった。アンリは、そこに存在しないかのように、リーナには一度も視線を向けなかった。
***
部屋に戻ったリーナは、窓を開けて港の夜景を眺めた。船の灯りが海面を照らし、寄せる波が光を静かに揺らしている。初めて見た海の光景は、しばらく消えそうにない。
オオカヅラの問題は厄介だが、もし食材として活用できれば新しい可能性につながるかもしれない。アンリのあからさまな態度については、確かに気持ちの良いものではないけど、今はそんなことを気にしている場合ではない。自分にはやるべきことがある。
海風が運んでくるどこか懐かしい潮の香りを深く吸い込む。
(よし、明日も頑張ろう)
リーナは決意を新たにすると、寄せては返す波音を聞きながら、静かに目を閉じた。ペスカードでの初めての夜は、こうして静かに更けていった。




