表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/127

倒れた料理人

 連日の猛暑が続くアードベルの街。朝の空気にはまだ少しひんやりとした気配が残っている。リーナはその空気の中、早朝五時にはすでにアンナの食卓の厨房に立っていた。

 

 夏至祭から一週間が経ち、祭りでの評判が街中に広まった結果、店の昼営業は以前の二倍近い客足になっていた。夜も常連客が増え、一層賑わっていた。


「今日も暑くなりそう」


 独り言を呟きながら、リーナは昼営業用のお任せ定食の仕込みを進める。夜営業の下ごしらえ、それに最近は新メニューの試作も欠かせない。特に気になっているのは海産物だ。もっと新鮮な海の幸が手に入れば、どんな料理が作れるだろう。その潮の香りを想像するだけで、無意識に口角が上がった。


「まずは今日の営業を乗り切らないと」


 手を動かしつつも、頭の中には新しいアイデアが湧き出て止まらなかった。



 開店と同時に、常連客たちが店に顔を出した。


「リーナちゃん。今日も暑いねぇ」


 ソフィアが、いつも通り元気いっぱいに声をかけてくる。


「いらっしゃいませ。本当に暑いですね」


 リーナは無理に唇の端を引き上げ、お任せ定食を運んでいく。その笑顔の裏で、こめかみの奥に鈍い痛みが波打っていた。


「リーナちゃん、ちょっと疲れた顔してるね」


 常連客が心配そうに覗き込む。


「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」


 答えながらも、リーナは焦りを覚えていた。最近は本当に寝不足が続いている。料理教室の準備、新メニューの考案、そして店の営業。気づけば夜中まで作業する日が増えていた。街の人々の期待はますます高まっている。今、手を抜くわけにはいかない。


「お願い、もう少し頑張れ、私!」


 小さくつぶやき、再び厨房へと戻っていく。


 昼過ぎ。商業ギルドの集会場は、熱気に包まれていた。料理教室の会場をアンナの食卓から移して以来、参加者は一気に三倍以上に増えている。これまで店が手狭で参加できなかった人たちが、こぞって申し込んでくるのだ。


「それでは今日は、蒸し鶏とオクラのお味噌汁を作ります」


 リーナは大きな声で教室を始めた。声が少しかすかに震えていることに、前列の参加者が気づいた。


「まず、フェングリフの胸肉に砂糖を揉みこんで」


 実演を交えながら説明を続ける。包丁を持つ手に思うように力が入らない。手先が微かに震えている。


「リーナ先生、大丈夫ですか?」


 前列の女性が心配そうに声をかける。


「ええ、大丈夫です。ちょっと緊張してるだけで」


 リーナは慌てて笑顔を作った。額に浮かぶ汗は、暑さだけのせいではない。


「次に、お味噌汁の作り方ですが」


 言葉を継ごうとした途端、視界がぐらりと揺れた。一瞬、白く霞んで見える。


「お味噌を入れる前に――」言葉が、頭の中でぐしゃぐしゃに混ざり合う。手順が混乱し、何を言っているのか自分でも分からなくなった。何とか説明を終えたリーナの顔色は、見るからに悪い。


「先生、本当に大丈夫?」「無理しないでくださいね」


 参加者たちの声が次々と飛ぶ。


「大丈夫です。それでは、皆さんも作ってみてください」


 必死に笑顔を保とうとする。その笑みは明らかに引きつっていた。



 料理教室をどうにか終えたリーナは、仕入れのためにマリアの店を訪れていた。


「それでね、リーナ。最近、街の女の子たちの間でさ、『夏こそ恋の始め時!』って盛り上がってるらしいよ」


 マリアが奥の部屋でハーブティーを淹れながら、楽しそうに話しかけてくる。


「へぇ~。暑いとそれどころじゃない気もするけどね」


 リーナは苦笑しながら答え、椅子に座った。頭の奥が揺れるような感覚に襲われた。


「あれ?……っと」声にならない呻きが漏れた。

「大丈夫?」


 マリアが振り返り、心配そうに眉を寄せた。


「ちょっと疲れてるのかな」


 リーナは無理に笑みを作る。その笑顔を保つのも苦しい。


「ねえ、無理しなくていいんじゃない? 顔色、すごく悪いよ」

「大丈夫……だと思うけど」


 リーナは立ち上がろうとしたが、世界が真っ白に染まった。


「あ、ダメだ」


 最後にそう呟いた直後、リーナは力なく崩れ落ちた。


「リーナ!!」


 マリアの悲鳴が店内に響いた。


 ***


 リーナはゆっくりと意識を取り戻した。目を開けると、見慣れない天井が目に入る。鰹節や昆布の、乾物の向こうから微かに香る出汁の匂いが漂ってきた。どうやら、マリアの店の奥の部屋のようだ。


「ここは?」

「気がついた?」


 ジュードの声がすぐそばから響いた。汗で髪が額にはりつき、普段より険しい顔をしている。訓練の最中だったのか、息も少し荒い。


「倒れたの? 私」


 リーナはぼんやりした頭で状況を整理しようとする。


「巡回中にマリアに会って、一緒に来た。医者にも診てもらったよ」


 ジュードの声には珍しく動揺が滲んでいた。その険しい顔と荒い息は、彼がどれほど急いで駆けつけたかを物語る。


「今日は夜営業があるから早く帰らないと」


 リーナが体を起こそうとすると、ジュードが慌てて彼女の肩を押さえた。


「今日はダメだ。体が一番だろ?」


 すると、医師が部屋に入ってきた。街でも信頼されている医者だ。


「気がつきましたか。脈を診させてください」


 医師は落ち着いた手つきでリーナの脈を取り、目の下のくまや手の震えを確認する。


「明らかな過労です。このところ無理をしていたでしょう? しばらくは安静が必要です。最低でも三日、できれば一週間は休んでください」


 その言葉に、リーナは息を呑んだ。


「一週間も? お店が」


 声が震える。


「リーナ」


 ジュードが彼女の名を呼んだ。


「俺は、店のことより、リーナが心配だ。……俺は、リーナが笑ってるのを見るためなら、なんだってやる」


 隠しきれない彼の愛と、彼自身の痛みが、琥珀色の瞳の奥で揺らめいていた。


「ジュードさん、今はリーナを家まで運んで、しっかり休ませることが先よ」


 マリアが冷静な口調で言い、部屋の空気を整える。


「ごめんね。心配かけて」


 リーナは唇を噛んだ。

 ジュードはリーナを背負って、アンナの食卓へ向かう。


「リーナちゃん、大丈夫?」「無理しちゃだめだよ」「ゆっくり休むんだよ」


 道行く人たちが、次々と声をかけてくる。


「みなさん」


 背中でリーナがかすかに呟く。


「みんな、リーナのこと心配してるんだ。だから、今は素直に休め」


 リーナの部屋に着くと、ジュードは彼女をベッドに横たえた。


「ごめん、心配ばっかりかけて」

「謝るなよ。今はちゃんと寝ろ」


 ジュードがリーナの髪を撫でた。


 窓の外では、夏の夜風がカーテンを揺らしていた。その涼しさが、リーナの火照った体を少しずつ鎮めてくれる。

 こんなにも多くの人が自分を支えてくれている。その実感が、不安に苛まれていた心を穏やかにしてくれた。やがて、その優しさに身を委ね、リーナは深い眠りへと落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ