倒れた料理人
連日の猛暑が続くアードベルの街。朝の空気にはまだ少しひんやりとした気配が残っている。リーナはその空気の中、早朝五時にはすでにアンナの食卓の厨房に立っていた。
夏至祭から一週間が経ち、祭りでの評判が街中に広まった結果、店の昼営業は以前の二倍近い客足になっていた。夜も常連客が増え、一層賑わっていた。
「今日も暑くなりそう」
独り言を呟きながら、リーナは昼営業用のお任せ定食の仕込みを進める。夜営業の下ごしらえ、それに最近は新メニューの試作も欠かせない。特に気になっているのは海産物だ。もっと新鮮な海の幸が手に入れば、どんな料理が作れるだろう。その潮の香りを想像するだけで、無意識に口角が上がった。
「まずは今日の営業を乗り切らないと」
手を動かしつつも、頭の中には新しいアイデアが湧き出て止まらなかった。
開店と同時に、常連客たちが店に顔を出した。
「リーナちゃん。今日も暑いねぇ」
ソフィアが、いつも通り元気いっぱいに声をかけてくる。
「いらっしゃいませ。本当に暑いですね」
リーナは無理に唇の端を引き上げ、お任せ定食を運んでいく。その笑顔の裏で、こめかみの奥に鈍い痛みが波打っていた。
「リーナちゃん、ちょっと疲れた顔してるね」
常連客が心配そうに覗き込む。
「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」
答えながらも、リーナは焦りを覚えていた。最近は本当に寝不足が続いている。料理教室の準備、新メニューの考案、そして店の営業。気づけば夜中まで作業する日が増えていた。街の人々の期待はますます高まっている。今、手を抜くわけにはいかない。
「お願い、もう少し頑張れ、私!」
小さくつぶやき、再び厨房へと戻っていく。
昼過ぎ。商業ギルドの集会場は、熱気に包まれていた。料理教室の会場をアンナの食卓から移して以来、参加者は一気に三倍以上に増えている。これまで店が手狭で参加できなかった人たちが、こぞって申し込んでくるのだ。
「それでは今日は、蒸し鶏とオクラのお味噌汁を作ります」
リーナは大きな声で教室を始めた。声が少しかすかに震えていることに、前列の参加者が気づいた。
「まず、フェングリフの胸肉に砂糖を揉みこんで」
実演を交えながら説明を続ける。包丁を持つ手に思うように力が入らない。手先が微かに震えている。
「リーナ先生、大丈夫ですか?」
前列の女性が心配そうに声をかける。
「ええ、大丈夫です。ちょっと緊張してるだけで」
リーナは慌てて笑顔を作った。額に浮かぶ汗は、暑さだけのせいではない。
「次に、お味噌汁の作り方ですが」
言葉を継ごうとした途端、視界がぐらりと揺れた。一瞬、白く霞んで見える。
「お味噌を入れる前に――」言葉が、頭の中でぐしゃぐしゃに混ざり合う。手順が混乱し、何を言っているのか自分でも分からなくなった。何とか説明を終えたリーナの顔色は、見るからに悪い。
「先生、本当に大丈夫?」「無理しないでくださいね」
参加者たちの声が次々と飛ぶ。
「大丈夫です。それでは、皆さんも作ってみてください」
必死に笑顔を保とうとする。その笑みは明らかに引きつっていた。
料理教室をどうにか終えたリーナは、仕入れのためにマリアの店を訪れていた。
「それでね、リーナ。最近、街の女の子たちの間でさ、『夏こそ恋の始め時!』って盛り上がってるらしいよ」
マリアが奥の部屋でハーブティーを淹れながら、楽しそうに話しかけてくる。
「へぇ~。暑いとそれどころじゃない気もするけどね」
リーナは苦笑しながら答え、椅子に座った。頭の奥が揺れるような感覚に襲われた。
「あれ?……っと」声にならない呻きが漏れた。
「大丈夫?」
マリアが振り返り、心配そうに眉を寄せた。
「ちょっと疲れてるのかな」
リーナは無理に笑みを作る。その笑顔を保つのも苦しい。
「ねえ、無理しなくていいんじゃない? 顔色、すごく悪いよ」
「大丈夫……だと思うけど」
リーナは立ち上がろうとしたが、世界が真っ白に染まった。
「あ、ダメだ」
最後にそう呟いた直後、リーナは力なく崩れ落ちた。
「リーナ!!」
マリアの悲鳴が店内に響いた。
***
リーナはゆっくりと意識を取り戻した。目を開けると、見慣れない天井が目に入る。鰹節や昆布の、乾物の向こうから微かに香る出汁の匂いが漂ってきた。どうやら、マリアの店の奥の部屋のようだ。
「ここは?」
「気がついた?」
ジュードの声がすぐそばから響いた。汗で髪が額にはりつき、普段より険しい顔をしている。訓練の最中だったのか、息も少し荒い。
「倒れたの? 私」
リーナはぼんやりした頭で状況を整理しようとする。
「巡回中にマリアに会って、一緒に来た。医者にも診てもらったよ」
ジュードの声には珍しく動揺が滲んでいた。その険しい顔と荒い息は、彼がどれほど急いで駆けつけたかを物語る。
「今日は夜営業があるから早く帰らないと」
リーナが体を起こそうとすると、ジュードが慌てて彼女の肩を押さえた。
「今日はダメだ。体が一番だろ?」
すると、医師が部屋に入ってきた。街でも信頼されている医者だ。
「気がつきましたか。脈を診させてください」
医師は落ち着いた手つきでリーナの脈を取り、目の下のくまや手の震えを確認する。
「明らかな過労です。このところ無理をしていたでしょう? しばらくは安静が必要です。最低でも三日、できれば一週間は休んでください」
その言葉に、リーナは息を呑んだ。
「一週間も? お店が」
声が震える。
「リーナ」
ジュードが彼女の名を呼んだ。
「俺は、店のことより、リーナが心配だ。……俺は、リーナが笑ってるのを見るためなら、なんだってやる」
隠しきれない彼の愛と、彼自身の痛みが、琥珀色の瞳の奥で揺らめいていた。
「ジュードさん、今はリーナを家まで運んで、しっかり休ませることが先よ」
マリアが冷静な口調で言い、部屋の空気を整える。
「ごめんね。心配かけて」
リーナは唇を噛んだ。
ジュードはリーナを背負って、アンナの食卓へ向かう。
「リーナちゃん、大丈夫?」「無理しちゃだめだよ」「ゆっくり休むんだよ」
道行く人たちが、次々と声をかけてくる。
「みなさん」
背中でリーナがかすかに呟く。
「みんな、リーナのこと心配してるんだ。だから、今は素直に休め」
リーナの部屋に着くと、ジュードは彼女をベッドに横たえた。
「ごめん、心配ばっかりかけて」
「謝るなよ。今はちゃんと寝ろ」
ジュードがリーナの髪を撫でた。
窓の外では、夏の夜風がカーテンを揺らしていた。その涼しさが、リーナの火照った体を少しずつ鎮めてくれる。
こんなにも多くの人が自分を支えてくれている。その実感が、不安に苛まれていた心を穏やかにしてくれた。やがて、その優しさに身を委ね、リーナは深い眠りへと落ちていった。




