ついに開幕
朝の涼しい空気が頬を撫でていく。
夏至祭当日の朝。リーナは美食エリアへ向かって歩いていた。
空は薄い水色に澄み渡り、色とりどりの布飾りが風に揺れるたび、陽光をきらきらと反射する。噴水広場の周りには、もう人の気配がある。屋台の準備を進める職人たち。ふらりと祭りの空気を味わいに来た家族連れ。小さな子どもたちのはしゃぐ声が、屋台の間を駆け抜ける風と一緒になって広場を賑やかにしていた。
噴水広場の脇には、美食エリア専用の木製テーブルと椅子が整然と並べられている。まだ開場前で人影はまばらだが、カラフルな布が掛けられていて、祭りらしい華やぎを演出していた。頭上を覆うテントの帆布には、赤や青、金の布飾りが丁寧に縫い留められ、朝の光を受けてきらきらと輝いている。
石畳を踏むリーナの足音は、いつもより軽やかに響く。いや、軽やかというより、少し浮き足立っているのかもしれない。
「ついにこの日が来たんだな……」
小さくつぶやきながら、リーナは噴水広場を見上げた。
美食エリアの一角では、すでに三十人ほどの職人たちとボランティアが集まり、てきぱきと準備を進めていた。トムが大きく手を振り、イヴァが笑みを浮かべる。ベラもソフィアも、目を輝かせ、やる気に満ちていた。
「みなさん、おはようございます」
リーナが声をかけると、あちこちから元気な返事が返る。彼らはこの日のために必死に練習を重ね、調理の技を磨き、息の合ったチームワークを築き上げてきた。
だが、その熱気に触れたからこそ、リーナの中に再び不安が押し寄せた。
「本当に、これほどまでに売れるのかな……」
二千五百食。協議会で決めた目標ではあるが、いざ当日を迎えると、その数字の途方もない大きさに圧倒されそうになる。一日に二千五百食など本当に可能なのか。客足は途絶えないだろうか。もし売れ残れば、皆に申し訳ないだけでなく、貴重な食材を無駄にしてしまう。
「リーナ」背後から声がかかり、革手袋をはめたガードルートが近づいてくる。
「設備の最終チェックを、一緒にやるぞ」
リーナは「はい」と即座に答え、不安を振り払うように大きく頷いた。今は悩んでいる場合ではない。ただ、やるべきことに集中するだけだ。
移動式かまどの火加減と鉄板の温度を確認する。美食エリアでは各屋台に複数の調理設備を備えているが、それでもすべてを捌ききれるかはわからない。何台もの魔石冷蔵庫の中には、昨夜から仕込んでおいた具材が、きちんと冷えた状態で保存されている。
「べっこう飴の在庫も確認しました」
職人の報告に「ありがとうございます」と返しながら、リーナは一つひとつ確認を進めた。そうして、ようやく心も少しずつ落ち着いてくる。準備は整った。仲間たちの顔も頼もしい。
商業ギルド長であるマルセロが近づいてきた。朝から隙のない身だしなみだ。
「開場まで、あと一時間です。最終の確認をお願いします」
リーナは「はい」と返した。
「よし、行列ができ始めたぞ」
開場三十分前、ギルバートが息を弾ませながら報告に来た。美食エリアの前には、カラフルな布飾りの揺れる風の中、数十人ほどが列を作り始めている。だが、リーナにはまだ心もとない数に思えた。
「大丈夫かな……」
そんな不安が拭いきれないでいると、見慣れた顔が現れた。ジュードだった。今日は騎士団の制服ではなく、私服姿だ。
「おはよう、リーナ」
「ジュード、どうしたの? 今日は休み?」
「祭りの警備はあるが、開場の様子を見に来た」
ジュードはいつもの軽い調子で答え、リーナの肩に軽く手を置いた。
「不安そうだな」
「うん……正直、ちょっと」
「平気平気。リーナの料理なら、絶対みんな飛びつくって」
その言葉は、浮足立っていたリーナの心を、ふっと軽くしてくれた。
「ありがとう」
「頑張れよ、リーナ」
ジュードは親指を立てて、警備の持ち場へと向かっていった。その背中を見送っていると、入れ替わりにアデラインが現れた。きらびやかな布をまとい、いつもより少し華やかな装いだ。
「あら、リーナ」
「アデラインさん」
「私たちも応援に来たのよ。ほら」
アデラインが振り返ると、バルトロメオ団長とガレスが揃って歩いてくる。特にバルトロメオ団長は、遠目からでもわかるほど、屋台のべっこう飴をちらちらと盗み見ていた。団長が甘いものに目がないのは、街では周知の事実だ。アデラインが指摘すると、バルトロメオは「うるさい」と、そばにいたガレスに八つ当たりにも似た返事を小さく返した。そんな彼らの変わらないやり取りを見ていると、リーナの気持ちも少しずつほぐれていった。
高く澄んだ鐘の音が、再び広場全体に響き渡った。開場の合図だ。
「それでは皆さん、始めましょう」
リーナの声に、職人たちは「はい!」と力強く答えた。
最初に屋台の前に立ったのは、年配の夫婦だった。
「これが噂の……」
男性は興味深そうに屋台を眺める。
「この、肉巻きおにぎり串というのは、いったいどのような料理なんですか?」
「これは、炊いた米を薄切りの肉で包み、串焼きにした料理でございます」
職人の一人が、リーナが教えた通りに丁寧に説明した。
「お米を……握るのか?」
「ええ、食べやすいように形を整えてあります」
「面白そうね。一つお願いします」
注文を受けた職人が、鉄板で焼き上がったばかりの肉巻きおにぎり串を取り分け、皿に載せる。濃い褐色の醤が絡みつき、ゴマが散らされた串からは、食欲をそそる香ばしい匂いが立ち上っていた。
「お待たせいたしました」
湯気を立てる串を差し出すと、夫婦は恐る恐る一口かじった。
「これは……!」「なんて美味しいの」
男性も女性も驚いたように声をあげる。串をかじると、香ばしい肉の脂と、甘辛い醤の味が、もっちりとした米粒からじゅわっと広がった。
「お米がこんなに……」
「肉の旨味とこの香りが、絶妙に絡んでいる」
二人は顔を見合わせ、驚きに満ちた笑みを交わす。やはり、この味は喜んでもらえるのだ。
「美味しかったわ。ありがとう」
夫婦が笑顔で立ち去ると、入れ替わりに若い女性のグループがやってきた。
「さっきの人たちが美味しそうに食べてたから」
「私はあっちのべっこう飴が気になるなぁ」
「あっ、ドライフルーツが入ってるんだ」
次々に来客が続き、職人たちも徐々に調子を掴んでいく。しかし、午前中の売れ行きは、リーナの予想したほどには伸びなかった。
美食エリア全体を見渡しても、どの屋台もまだそれほど忙しい様子はない。
「このペースで本当に大丈夫なのだろうか……」
不安がよぎる。だが、職人たちは黙々と調理を続けている。肉巻きおにぎり串の屋台では串を返す手が、お好み焼きの屋台では生地を広げる音が響く。売れ行きがいまひとつなのは、リーナには自分の責任のように思えてしまう。メニューの選び方が悪かったのか、値段設定が間違っていたのか。
「リーナさん」職人のひとりが声をかけた。
「午後の仕込みを始めましょう」
「はい」
時計を見ると、すでに正午を回っていた。午前中はゆっくりとしたスタートではあったが、職人たちも徐々に調理の調子を掴んできている。お客さんからも「美味しい」「珍しい」という声が聞こえてきた。
「皆さん、午後の仕込みを始めましょう」
リーナの声に、職人たちが「はい!」と元気よく応じる。きっと午後は、さらに多くの客が訪れてくれるはずだ。
「午後、頑張らないと」
リーナは美食エリア全体を見回しながら、つぶやいた。




