見落としていた大切なこと
「はい、今日はここまでにしましょう」
リーナの手が軽く打ち鳴らされると、作業場にいた三十人ほどの職人たちが、それぞれの持ち場で動きを止めた。少し汗を浮かべながらも、どこか晴れやかな表情が並ぶ。訓練が始まってから数日。初日の混乱が嘘のように、場は落ち着いてきていた。
鉄板を前に緊張していた年配の職人は、いまや手慣れた様子でお好み焼きを裏返している。野菜の下ごしらえに戸惑っていた菓子職人も、「意外と性に合ってる」と呟きつつ、刃先を滑らせる金属音に集中しながら、黙々と野菜の準備を進めている。
「明日からは、お客さんが前にいると思って練習してみましょう。声かけや手際の良さも大切ですからね。お疲れさまでした」
「ありがとうございました!」
それぞれが疲れた表情を見せつつも、誇らしげに挨拶を交わし、作業場を後にしていく。その姿を見送りながら、リーナの胸にも静かな達成感が広がっていた。
(最初は本当にどうなるかと思ったけど……時間をかけて、一人ずつと向き合ってよかった)
片付けを進めながら、リーナは心の中でそう呟いた。
その夜。リーナは部屋の机にノートを広げ、夏至祭当日のことを考えていた。すでに決まっていることは多い。メニューは確定している。職人たちの調理訓練も順調だ。鉄板やかまどといった設備も搬入予定が整っている。
「あとは本番を迎えるだけね」
静かに息を吐き、リーナは目を閉じて想像を膨らませる。噴水広場に並ぶ屋台。香ばしい香りが漂い、人々の笑い声が響く。職人たちがお好み焼きを焼き、威勢よく声を上げる。
「いらっしゃいませ! 熱々のお好み焼き、いかがですか!」
お客さんがお金を払って、出来立てのお好み焼きを受け取る。そして嬉しそうに食べ歩きを始めて――
「……あれ?」
手が止まった。お好み焼きのお皿って、どんなのだっけ?
(そうだよ……プラスチックの使い捨て容器なんて、この国にはないのに。なんで今まで気づかなかったんだろう……)
熱くてソースがたっぷりかかったお好み焼きを、どうやって渡せばいいのか。お皿を貸せば、戻ってこない可能性もある。考えれば考えるほど頭が真っ白になった。
(まさか、そこを考えてなかったなんて……!)
慌ててノートをめくり、空いたページに書き殴る。
「お皿の返却は? 持ち帰られたらどうなるの? 予備は? 食べ終わったら……」
「串は? どこで捨てるの?」
「べっこう飴で手がベタついたら?手洗い場は? 石鹸は? 拭く布は?」
立て続けに浮かぶ疑問の数々に、リーナは思わず頭を抱えた。
(……料理のことばっかり考えてた。お客さんがどう食べて、どんなふうに過ごすか、そこまで想像が及んでなかった)
「これは一人で悩んでても仕方ない」
リーナはノートを閉じ、椅子から立ち上がった。明日、協議会に相談しよう。今なら、まだ間に合う。
翌日の昼。リーナは急ぎ、関係者に声をかけて騎士団の会議室に集まってもらった。高い天井を持つその室内は、窓から射し込む鈍い午後の光に満たされている。分厚い木のテーブルは、どこか冷たい手触りを感じさせた。
「突然お集まりいただいて、すみません」
顔をそろえたのは、バルトロメオ、マルセロ、ガードルート、ギルバート。夏至祭の運営を支える幹部たちだ。
「どうした、何かあったのか?」
険しい顔でバルトロメオが身を乗り出す。
「はい、実は……」
リーナはノートを開き、昨夜思いついた問題点をひとつひとつ説明していく。器の扱い、ゴミの処理、手洗い場の設置……どれも、当日を想像してみて初めて気づいた現実だった。話し終えると、室内に沈黙が広がった。
「……ああ」
「たしかに、お皿の扱いは大きな問題ですね。販売価格のことばかり気にしていて、そこまで想定できていませんでした」
責められるのではなく、一緒に考えてもらえる。
「串の処理もそうだな。鉄板ばっかり気にしてて……その後のことを考えてなかった」
「手洗い場……」
誰も完璧ではなかった。皆、それぞれの担当に集中するあまり、見落としていたことだ。リーナだけが悪いわけではない。
バルトロメオが静かに息を吐く。
「君に任せっきりだったな、リーナ。来場客が食べる環境については盲点だった」
その言葉に、リーナの肩から少しだけ力が抜けた。
「私も料理に集中しすぎてました。でも、今ならまだ間に合うと思って……」
「ならば、今ここで決めよう。やるべきことは山ほどある」
バルトロメオの声が、場を引き締める。リーナは次のページにペンを走らせた。マルセロが机の上に資料を広げ、預かり金制度を提案する。お皿を貸し出すときに料理代に預かり金を上乗せし、返却時にそのまま返金する仕組みだ。ガードルートはゴミ箱の手配を即答し、ギルバートは魔石を使った手洗い場の設置を引き受けた。役割分担がどんどん決まっていく。リーナは必死にペンを走らせながら、ふと考える。
(これで本当に足りるだろうか)
食べ歩きができる。ゴミも捨てられる。手も洗える。確かにそうだけれど、それだけで祭りの日の混雑に対応できるのか。小さな子どもを連れた家族が、立ったまま熱いお好み焼きを食べるのは難しいのではないか。ご年配の方が、ずっと歩きながら食事をするのは大変ではないか。
リーナは手を挙げた。
「すみません、もうひとつ……提案があります」
「食べ歩きも楽しいですが、ちゃんと座って食べられる場所も必要だと思うんです」
「座って食べる場所、か?」
「はい。ご家族連れや、ご年配の方もたくさん来られると思います。落ち着いて食べられる場所があれば、器の返却も自然に促せます」
リーナは懸命に言葉を紡ぐ。
「魔石で水が出る手洗い場のそばに、テーブルと椅子を並べて、食事エリアを作れませんか? そこに器の返却口も設けて、石鹸や布巾、手拭きも用意して……」
「ふむ……確かに、合理的だ」
「快適な環境があれば、子ども連れにも優しい祭りになるだろうな」
リーナはホッとして小さく息を吐いた。提案が受け入れられただけでなく、さらに膨らませてもらえている。話し合いが進み、マルセロは預かり金制度の具体的な運用を、ガードルートはテーブルや椅子、ゴミ箱の手配を、ギルバートは手洗い場の設置と管理を、それぞれ引き受けた。
「リーナ、君には衛生管理を任せたい。食事エリアが清潔に保たれるように、考えてほしい」
「はい! みなさんが安心して食事できるように、しっかり準備します!」
会議が終わり、部屋を出ていく四人の背を見送りながら、リーナはひとり、会議室に残った。
(これで……大丈夫だろうか)
手洗い場の水が足りなくなったら。ゴミ箱が溢れたら。預かり金を払いたがらない人が出たら。考え始めるときりがない。けれど、少なくとも昨日よりは前に進んだ。一人で抱え込んでいたら、きっとこんなに早く形にはならなかった。
「気づけたことが何より大事だ。誰だって、自分の得意な分野に集中しがちになる。だが、今の君は全体を見渡そうとしている。それはとても素晴らしいことだ」
リーナは振り返った。まだバルトロメオが残っていた。その言葉が、静かに染み入ってくる。
「……でも、まだ見落としていることがあるかもしれません」
「それはお互い様だ。だからこそ皆がいる。誰か一人が完璧にやる必要はない」
「君のおかげで、より良い祭りになりそうだ」
その言葉に、リーナは深くうなずいた。料理を作るだけではなく、食べてくれる人のことを考える。笑顔で帰ってもらうために、環境や仕組みを整える。それもまた、自分の大切な役目なのだと思えた。
夏至祭まで、残る時間はわずか。まだまだやることは山積みだけれど——きっと大丈夫。きっと最高の祭りになる。




