はじめての現場指導
朝の職人組合の大きな作業場は、いつもとはまるで違う雰囲気に包まれていた。パン職人、肉屋、菓子職人、料理人、見習いから親方まで……ガードルートが職人組合の中から選んだ者たちだ。
「皆さん、おはようございます」
リーナが声を張ると、ざわめきが少しだけ収まった。だが職人たちの表情は、期待よりも不安の色が濃い。
「で、結局何をやらされるんだ?」
「鉄板とかいう得体の知れないもので料理するって?」
「俺はパンしか焼けないぞ」
不満の声が、ぽつぽつと上がり始め、リーナは呼吸が浅くなるのを感じた。協議会で決めた内容を思い出しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「夏至祭までの間、皆さんには新しい調理法を覚えていただきます。主に鉄板を使った料理と、串焼き料理、それから――」
「ちょっと待てよ」
年配の職人が手を上げ、口を挟んだ。
「鉄板って、あんなでかいもので料理するのか? 熱くて危険じゃないのか」
「そうだそうだ!」
別の男も不安そうに首を振る。
「揚げ物なんて怖くてできない。油がはねたらやけどするし、やけどしたら仕事に響くぞ」
「俺なんて、普段は甘いもん作ってるのに、今日は野菜の下ごしらえって言われたんだ。意味がわからん」
お菓子職人らしき男が口をとがらせる。リーナは言葉を探すように息を呑んだ。事前の打ち合わせでは、もう少しスムーズに進むと思っていた。けれど実際に三十人の職人を前にすると、それぞれが長年培ってきた技術とプライドを抱えているのがひしひしと伝わってくる。
「あの、皆さんの専門技術はもちろん大切にします。ただ、夏至祭では一日に数千食を作らなければならないので――」
「数千食?」
若い見習いの青年が目を丸くした。
「そんなの無理ですよ。それに、あの人は調理担当って聞いたのに、俺は洗い物担当。不公平じゃないですか」
「だから効率を重視した役割分担を――」
「効率、効率って……」
年配の職人が吐き捨てるように言い、舌打ちをする。
「慣れない道具で怪我でもしたらどうするんだ? 俺たちは道具じゃない、人間なんだぞ!」
リーナの心臓が、どくんと鳴った。予想以上に反発が強い。
「リーナ」
昼休憩の頃、ジュードが作業場の入り口に姿を見せた。リーナは作業場の隅で、疲れた顔のまま一人佇んでいた。彼女の様子を見つけるなり、ジュードは眉をひそめた。
「大丈夫か? けっこう荒れてるって聞いたけど」
「うん、大……丈夫」
そう言ってみたものの、声に力がない。リーナは思わず目を伏せた。
「みんな、それぞれの仕事に誇りを持ってるから、急に慣れない作業をお願いするのは難しいみたい。それに、鉄板とか揚げ物とか、確かに怖いと思う。今までやったことのない人には、余計にね」
「そりゃそうだろうな」
ジュードは隣に腰を下ろし、静かに続けた。
「職人ってのは、自分の手に馴染んだ道具が一番安心なんだ。『お前の知らない道具で、今日からこれやれ』なんて言われたら、不安になるし反発もする」
「でも……夏至祭までもう時間がないのに」
「時間がないからって、押しつけたら余計にこじれるだけだぞ?」
ジュードの言葉に、リーナははっとした。
「……リーナらしく、一人ひとりと向き合ってみたらどうだ?」
「私らしく……?」
「最初から全員まとめようとするから無理が出るんだよ。リーナはさ、人の話をちゃんと聞けるんだから。時間かかっても、その方が絶対うまくいくって」
リーナは小さく頷いた。急いで型にはめようとしたから反発された。相手の声を聞く。それはとても大切なことだ。
「ありがとう! ジュード。ちょっと見えてきたかも」
午後からリーナは方針を変えた。全員に一斉に説明するのではなく、数人ずつに分かれてもらい、それぞれの不安や普段の仕事について話を聞いて回ることにしたのだ。
「鉄板を使うのが怖いって言ってましたけど、どんなところが不安ですか?」
年配の職人は、最初は警戒していたが、自分の気持ちを聞かれると、少しずつ表情が和らいでいった。
「あんなでかい鉄の板、触ったこともないんだよ。どれくらい熱くなるのかもわからないし、やけどしたら目も当てられない」
「なるほど……確かに最初は怖いですよね。でも、安全な使い方をきちんと覚えれば大丈夫です。まずは低い温度での練習から始めてみませんか?」
「……そんなもんかねぇ」
別の職人には、作業分担の不満について尋ねた。
「下ごしらえばっかりで嫌だって言ってましたけど……どうしてそう感じたんですか?」
「ああ。俺、普段は甘いもんを作ってるんだ。野菜を切るなんて、滅多にやらないからさ。それなのに、今日はいきなり野菜を切れって言われて……なんか、自分の仕事が否定された気がしてさ」
「そんなつもりじゃありません。下ごしらえって、実は料理の出来を左右するすごく大切な仕事なんです」
「でも、ずっとそればっかりじゃ、さすがにしんどいよ」
「最初のうちは交代しながら、いろんな作業を試してもらうつもりです。それぞれの得意分野が分かったら、そこを中心に配置していく予定です」
「……それなら、ちょっとやってみてもいいかもな」
また若い見習いは、揚げ物に対する不安を口にしていた。
「油が怖いって言ってましたよね」
「はねた油が顔にでもかかったら大事になる。家族も心配しますし、そう簡単に怪我なんてできないよ」
「ごもっともです。だから、いきなり油を使うような作業はお願いしません。まずはおにぎりを作る作業とか、焼き上がった料理を盛り付ける作業から始めて、慣れてきたら少しずつ範囲を広げていけたらと考えています」
「……最初から危ないことをやれってわけじゃないなら、考えてみます」
職人たちはそれぞれに事情を抱え、それぞれに不安とプライドを持っている。リーナはそれを、ようやく少しだけ理解できた気がした。
夕方、リーナは作業場で、ノートを広げていた。昼間に聞き取った内容を思い出しながら、職人ひとりひとりの特徴や希望、不安を丁寧に書き留めていく。
『年配職人 鉄板に対する恐怖心あり。安全性の説明が必要。まずは低温での使用から』
『菓子職人 野菜下ごしらえに抵抗感。作業の意義と交代制を説明済。興味は持ってくれた』
『若い見習い 揚げ物への恐怖あり。まずは安全な作業から、徐々に訓練を進める』
文字を並べながら、リーナの表情に少しずつ明るさが戻っていく。みんな、それぞれ事情がある。それを無視して一律に教えるのではなく、まずは「安心して動ける場所」を見つけてもらう。時間はかかっても、その方がきっといい。
コンコンコン。ノック音が、思考を中断させた。
「リーナ、いるか?」
聞き慣れた声に、リーナは「どうぞ」と返す。入ってきたのは、ガードルートだった。作業場の明かりに照らされたノートを見て、目を細める。
「へぇ、一人ひとりの不安や適性をまとめてるのか。なかなか几帳面だねぇ」
「でも、こんなに時間をかけていていいんでしょうか? もっと効率よく進めた方がいいのかなって……」
「効率だけが正義じゃないさ」
ガードルートは椅子に腰を下ろし、腕を組む。
「確かに夏至祭までは時間が限られてる。でも、無理やり型にはめて、みんなが嫌々やるようになったら、意味がないだろう?」
リーナは、視線をノートに落とした。
「それでも、焦ってしまって……。私がもっと手際よく指示を出せていればって」
「今日の午後、あんたが職人たちと話してる様子を見てたよ。顔つきが変わってた。あんたの言葉に、少しだけ安心したような顔になってたよ」
ガードルートは、リーナの肩を軽く叩いた。
「人の声をちゃんと聞ける人間は、そうそういない。あんたのやり方は、間違ってないよ。胸を張んな」
その言葉に、リーナの肩の力がすっと抜けた。
翌朝。
作業場に入ったリーナは、空気の違いにすぐ気づいた。まだ全員ではないが、何人かの職人が笑顔で挨拶をしてくれる。彼らの姿勢には、昨日までにはなかった柔らかさがあった。
「おはようございます。今日は、昨日お話しした内容を踏まえて、少し役割分担を変えてみたいと思います」
リーナは一呼吸おいて続けた。
「もちろん、無理にお願いするつもりはありません。やってみて合わないと思ったら、遠慮なく言ってください。 一緒に一番いい方法を見つけましょう」
沈黙の中、最初に手を挙げたのは、あの年配職人だった。
「昨日話した鉄板の件だけど……低い温度からでいいなら、やってみるよ」
「本当ですか?」
「ああ。いきなり熱いのはまだ怖いけどな。でも、少しは慣れてみようと思って」
続いて、お菓子職人も口を開く。
「俺も、下ごしらえの意味が少しわかった気がする。ただ、他の作業もそのうちやらせてくれよな」
「もちろんです!」
さらに若い見習いが、まっすぐ手を上げた。
「おにぎりなら僕にもできそうです。危なくない作業から覚えていけるなら、やってみたいです」
リーナは、成功への道筋が見えた気がした。完璧ではないけれど、確実に前に進み始めている。時間をかけてそれぞれと向き合った分、きっと本番では良いチームワークを発揮してくれるはずだ。
「ありがとうございます。それでは、今日から少しずつ、新しい配置で練習してみましょう」
作業場には、昨日とは違う穏やかな空気が流れていた。




