初挑戦・フェングリフ唐揚げの奇跡
朝日が街の屋根を照らし始めた頃、リーナはすでに「アンナの食卓」の厨房で火を起こしていた。かまどの前にしゃがみこみ、薪に火をつける。乾いた木がパチパチと音を立て、ようやく炎が安定してきたところだった。
「おはよう、リーナちゃん。随分と早いのね」
階段から降りてきたアンナが、火の番をするリーナを見て目を細める。
「おはようございます、アンナさん。今日はちょっと特別なことをしたくて」
「特別な?」
「はい。昨日、ジュードさんが預けてくださった魔物の肉を受け取りに行くんです。それと、調味料のことで確認したいことがあって」
「調味料?」
「醤ってご存知ですか?東方からの輸入品で、ちょっと変わった香りのあるものです。聞いたことだけはあって……ひょっとしたら、肉料理の下味に使えるかもしれなくて」
アンナが少しだけ首をかしげた。
「名前は聞いたことがあるわね。高級品で、ほんの少しつけるだけっていう」
「やっぱり。あの香りと塩気、調理に使えば新しい味になる気がするんです。でも実際に試してみないと分からないから……できれば仕入れという形で、少量だけ貸していただけませんか?もしうまくいったら、ちゃんとお返しします」
リーナの真剣な表情に、アンナの顔がほころぶ。
「ふふ、そんなに目を輝かせて。いいわよ、私たちもあなたの料理、楽しみにしているんだから」
「ありがとうございます!」
リーナは深々と頭を下げた。
* * *
「おーっす、リーナ! 早いな~」
解体業者の作業場に着くと、ジュードが陽気に手を振ってきた。
「おはようございます、ジュードさん。昨日はありがとうございました」
「堅い堅い。昨日みたいに気軽にいこーぜ」
作業場の奥から、大柄な親方が大きな包みを持って現れる。
「嬢ちゃん、昨日の肉だ。皮と骨は分けてあるが、こっちは正真正銘の肉だぞ」
包みを広げると、ふっくらとした白い肉塊が現れた。鶏肉に似ているが、もっときめ細かい。リーナの視界に、あの不思議な文字が浮かび上がる。
『フェングリフ(若鳥)』
『部位:胸肉』
『品質:上級』
『調理法:唐揚げ、ローストに最適』
(やっぱり……これは絶対に美味しい)
「これ、おいくらになりますか?」
「いや、お代はいらねぇよ。普通なら捨てるもんだしな。ただし……」
親方が真剣な目で見つめてくる。
「万が一、変なことになっても知らねぇぞ?」
「はい、責任は私が持ちます」
リーナのまっすぐな返答に、親方はあきれたように肩をすくめた。
「変わった子だなぁ……まあ、食い物への情熱は本物だな」
* * *
「ところでさ、醤って知ってる?」
肉を受け取ったあと、リーナが声をかける。
「東方の調味料だっけ? つけダレくらいにしか使わないって話だけど?」
「実は、あれを肉の下味に使えないかと思ってて」
「下味? そんな使い方、聞いたことないな」
「香りが強いから、少量でも肉に深い味がつくんじゃないかって。試してみたくて」
ジュードが腕を組んで唸る。
「なるほどな。そういう発想、面白いかも。だったら、騎士団が使ってる輸入商人のとこ、案内してやるよ」
「ほんと? ありがとう!」
ジュードの案内でたどり着いたのは、やや高級感のある輸入品専門店だった。
「いらっしゃいませ。ジュード様のご紹介でしたら、どうぞご遠慮なく」
応対に出たのは、整った髭をたくわえた中年の店主だ。
「醤を少し、料理に使いたいのですが……」
「醤? ああ、ございますよ。高級品ですが、どのくらい必要ですか?」
「ほんの少しで構いません。肉の下味に使ってみたいんです」
「下味、ですか……?」
店主が目を細める。
「珍しい使い方ですね。小瓶ですと銀貨2枚になりますが」
「に、2枚……!」
思わず声が漏れる。たったひと瓶で2000円相当。気軽に買える額ではない。
「もう少し小さいものは……?」
「ではこちらのミニ陶器入りで銀貨1枚になります」
リーナは、マルクから借りた銀貨を差し出し、小さな器を受け取った。中には、深い琥珀色の液体が少量入っている。香りを嗅ぐと、濃厚で、どこか香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「ありがとうございます。どんな味になるか、今度ご報告しますね」
「料理に醤を使うなど、聞いたことがありませんでした。成功を祈っていますよ」
店主が丁寧に見送ってくれる。
* * *
「ただいま戻りました」
厨房へ入ると、マルクが心配そうに振り向いた。
「おかえり、リーナちゃん。その荷物……まさか?」
「はい。フェングリフの胸肉です。今日はこれを使って、新しい料理を作らせていただこうと思います」
「おお、昨日の焼き鳥とは違うのかい?」
「はい。今日は『唐揚げ』という揚げ物に挑戦します」
リーナは、厨房の棚に仕舞い込まれていた大ぶりの鍋を引っ張り出す。東方から渡ってきたという、底の深い鉄製の鍋。アゲナベと呼ばれている。
「これ、使うのかい?」
「はい。この鍋がないと、うまく揚がらないんです」
リーナは手早く準備を始めた。まずは肉の下処理。フェングリフの胸肉は驚くほどしっとりとした質感で、包丁の刃が吸い込まれるように入る。
「……この感触、絶対美味しい」
一口大に切り分けた肉をボウルに入れ、小瓶の醤を慎重に注ぎ、水でほんの少し薄める。おろした生姜と刻みにんにくも加えて、手で揉み込みながらなじませる。
鼻先に広がる、香ばしくて少し甘いような独特の香り。塩気と旨味が、肉の奥まで染み込んでいくようだった。
「さて、ここで少し寝かせます」
その間に、衣の準備。片栗粉がないので、小麦粉だけまぶすか、水で溶いて粘度を調整するか、何通りか試してみるつもりだった。
「さて……油の温度はどうかな」
アゲナベにたっぷりと油を注ぎ、暖炉の火にかける。菜箸代わりの木の棒を差し入れると、先端に細かい泡がふわりと立ちのぼった。
「うん、これくらいかな」
一切れの肉に粉をまぶし、油へとそっと落とす。
「じゅわっ!」
心地よい音が響き、油の中で衣が花のように広がった。
「……いい音」
火の勢いに気をつけながら、揚げ色を見極める。表面がきつね色になったところで一度引き上げ、しっかり油を切る。
だが、次の一切れは焦げ気味になってしまった。
「うっ……ちょっと火が強すぎたかも」
慌てて薪をずらすが、火力の調整は難しい。3つ目、4つ目は逆に温度が下がりすぎ、衣がべちゃりとした食感に。
「うーん……どうしたら……」
額に汗が滲んできた頃、店の扉が鳴った。
「邪魔するぜー」
入ってきたのは、筋骨たくましい大柄な男。作業着に木屑がついている。どうやら職人らしい。
「あの、今日はまだ準備中で……」
「ああ、トムじゃよ。大工のトム」
マルクさんが紹介してくれる。
「新しい料理人かい?随分と若いね」
「はい、リーナと申します。よろしくお願いします」
「おう、よろしくな。それにしても、なんだこの匂い。うまそうだな」
焦げもあったはずなのに、店内には確かに食欲をそそる香ばしい香りが漂っていた。醤の香りが、油と混ざり合って深みを増している。
「火加減がうまくいかなくて……」
リーナが困っていると、トムがかまどに目を向けた。
「火なら任せとけって。薪の組み方と風の通し方で、温度を安定させられる」
トムが手際よく薪を並べ直すと、炎の勢いが落ち着き、鍋底の油の泡が均一に踊り始めた。
「……すごい。ありがとうございます!」
リーナはもう一度、衣をまぶした肉を油に落とす。今度はじゅわっと控えめな音を立て、泡が穏やかに弾けた。
「この音……いい感じ!」
きつね色に染まった唐揚げを引き上げると、カリッとした衣が表面にしっかりと張り付き、湯気とともに香ばしい匂いが立ちのぼった。
「できました!」
黄金色に輝く唐揚げが皿に並ぶ。その場にいた全員が、思わずごくりと喉を鳴らす。
「ほんとに……これ、魔物の肉なのかい?」
トムが目を丸くして聞いた。
「はい。フェングリフという、鳥型の魔物です」
「まあ……試してみるか」
トムが一口、齧った。
「……うっま!! なんだこれ、鶏肉より柔らかくて、味が濃い!」
「でしょ!?」
マルクも続いて一口。
「おお、サクサクなのに中はジューシー……こりゃ驚いた。昨日の焼き鳥も良かったけど、これはまた別格じゃ!」
その時、扉がもう一度開いた。
「よう、からあげってやつ、できたか?」
入ってきたのはジュードだった。
「ジュードさん!」
「いい匂いにつられてきたよ。成功したっぽいな?」
「はい! トムさんに火加減を教えてもらって、なんとかここまで……!」
「トムさん?」
「ああ、大工のトムだ。お前さんは……騎士か?」
「騎士団のジュードだよ、よろしく!」
「騎士団の人がなぜここに?」
「森でリーナの焼き鳥食べさせてもらったんだよ。それがマジで絶品で」
「焼き鳥?」
話を聞いたトムさんが目を輝かせる。
「他にも魔物料理を?」
「まだ焼き鳥と唐揚げだけですが、これからもっと色々と」
「楽しみだなあ。魔物の肉がこんなに美味しいなら、食材費も安く済みそうだ」
確かに、廃棄されている肉を有効活用できれば、店の経営にも家庭にも良い影響がある。
「さあ、どうぞ」
「いっただきまーす」
ジュードが口に含んだ瞬間、表情がゆるんだ。
「うわっ、なにこれ……サクッとしてて、中がとろけそう。うますぎ」
「下味に醤を使ったんです。香りが残ってるでしょう?」
「それだ、香ばしいのに、くどくない。こりゃ他の料理にも応用できそうだな」
その会話を聞いて、アンナも奥から顔を出した。
「あら、唐揚げができたの? ちょっと味見させてね」
一口食べると、彼女の目がぱっと見開かれる。
「っ! うそみたいに美味しい……」
リーナの胸に、じんわりと喜びが広がっていった。
* * *
その後、噂を聞きつけた近所の人たちが、次々と店にやって来た。
「魔物の肉が美味しいって、本当かい?」
「私も試してみたい!」
最初は半信半疑だった人々も、一口食べると一様に目を見張った。
「これは……革命だな」
「信じられない……捨ててたなんてもったいない!」
あっという間に、最初に作った分は完売。
「すみません、材料がもう……」
「明日もやるのかい?」
「はい。よろしければ、また」
「じゃあ予約してくよ!」
「俺も!」
次々と予約が入り、厨房は活気に包まれていた。
「リーナちゃん、すごいじゃない!」
アンナが目を細めて笑った。
「こんなに人が集まるなんて、久しぶりよ」
「本当ですか?」
「ええ。あなたのおかげね。ありがとう」
* * *
夕方、片付けを終えた厨房で、ジュードが言った。
「なあリーナ。騎士団にも紹介してみないか?」
「騎士団に?」
「魔物討伐のあと、捨ててた肉がこれだけ美味いなら、有効活用できる。団の財政にも良い影響があるし、なにより……俺たちがうまいもん食えるしな!」
「ふふっ……それは大事ですね」
「そのうち団員連れてくるから、よろしくな」
「はい、楽しみにしています」
ジュードが帰ったあと、リーナは2階の自室で窓辺に腰を下ろした。
今日一日、必死だったけど、それ以上に楽しかった。
「この国に来て、本当によかった」
小さくつぶやいて、リーナはゆっくりと目を閉じた。明日はもっと美味しい唐揚げが作れるかもしれない。いや、きっと作ってみせる。