辛味調味料と夏のスープ
朝の仕込みをしていると、店の扉が開いた。
「おはよう、リーナ」
振り向くと、ジュードが立っていた。ほんの少し疲れた様子だが、どこか安心したような表情を浮かべている。
「おかえりなさい! 無事で良かった」
リーナはふっと肩の力を抜いて、笑顔で出迎えた。
「ただいま、なんとか片付いたよ」
ジュードは椅子に腰を下ろし、ふぅと息をついた。
「リーナは一人で平気だったか?」
「うん。アデラインさんが一緒に山へ食材探しに行ってくれたの」
「アデラインが? それは心強いな。新しい食材、見つかったか?」
「大葉とヤマミドリ、それからエルダーベリーっていう実もね」
リーナは棚から小瓶を取り出し、中のジャムを見せた。
「エルダーベリーでジャムを作ってみたの。食べてみて?」
焼きたてのパンに赤紫のジャムを塗って渡すと、ジュードが一口かじった。
「うまっ! 酸味が爽やかで、甘すぎなくていいな」
「でしょ? 美容にもいいって鑑定が出て、アデラインさん大喜びだったの」
「はは、アデラインらしいな」
ジュードは笑ってもうひと口パンをかじった。
「遠征はどうだった?」
「ちょっと厄介だったけど、何とか倒せたよ。でも疲れた」
「お疲れさま。本当に無事でよかった」
昼営業が終わり、片付けをしていると、扉が勢いよく開いた。
「リーナ!」
駆け込んできたのはマリアで、両手に小瓶を抱えて目を輝かせていた。
「マリア? どうしたの?」
「この前もらったレシピ、ついに完成したのよ!」
彼女が取り出したのは、赤く澄んだラー油と、細かく挽かれた一味唐辛子の入った小瓶だった。どちらも見た目からすでにおいしそうで、リーナは思わず身を乗り出した。
「わあ、綺麗にできてる!」
リーナは瓶を手に取り、香りを嗅いだ。
「作り方、教えた通りにできた?」
「うん! 焦がさないように弱火でじっくり。香りが立ったら火を止めて冷ましたわ」
「一味の方は?」
「唐辛子をしっかり乾燥させてから粉砕したの。うちの乾物屋にある手回しミルが大活躍よ!」
「味見してみていい?」
リーナはラー油を指先に一滴つけて舐めてみた。
ピリッとした刺激のあとに、香ばしさと深みがふわりと舌に残った。
「うん、いい辛さ! スープにぴったり」
「でしょ? あのスープ屋さん、これで助けられそうかな?」
「きっとね!」
そのとき、階段を降りてきたジュードが顔を出した。
「スープ屋って、あの暑さで困ってた人か?」
「そう。冷たいスープと、辛味で食欲を刺激するスープ、両方試作してみたの」
「今日、屋台に行ってみる?」
「もちろん!」
「俺も行くよ。ってリーナ何持ってるんだ?」
「え? 壺」
「何が入ってるんだ? 重いだろ。俺が持つよ」
「えーっと、出汁が入ってる。実物があった方が説得力あるし……ありがとう、助かる」
「まったく……次は台車でも用意してくれよ」
笑いながら、三人は準備を整えて屋台広場へと向かった。
屋台広場に着くと、スープ屋台の前で中年の店主が暇そうに立っていた。
「こんにちは!」
リーナが声をかけると、店主が振り返った。
「ああ、この前の嬢ちゃんたちか。いらっしゃい」
「その後、どうですか? お客さんは……」
「まぁ、正直さっぱりさ。暑くなると、誰もスープなんて飲みたがらないからねぇ」
店主は肩を落としてため息をついた。
「今日は、ちょっとしたご提案があって来ました」
リーナはそっと持参した素焼きの壺をジュードから受け取り、前に出した。
「まずは、冷たい出汁です。これは今朝、素焼きの壺で水出ししたもので、風通しのいい場所に置いておくと自然に冷たくなるんです」
壺のふたを開けると、ツチタケとウミクサの旨味が混ざった香りがやわらかく漂った。リーナは柄杓で出汁をすくい、小さな器に注いで差し出した。
店主が恐る恐る口に運ぶと、すぐに目を丸くした。
「……おお、確かに冷たい! さっぱりしてて、これは飲みやすいな」
「夜のうちに仕込んで、朝のうちに提供すれば、暑くなる前に十分出せます」
「便利そうだな、その壺」
「今日は試作用に持ってきたものです。もし気に入っていただけたら、しばらくお貸しもできますし、街の道具屋で購入もできますよ」
「へぇ、ありがたい話だな。試させてもらうよ」
「それと、もう一品。辛味スープの試作品もあります」
リーナは鍋を借りて、手際よく調理を始めた。
フェングリフの出汁を温めると、濃厚な香りが立ち上り、屋台の空気を一変させる。戻した乾燥ワカメを加えると、磯の香りが溶け込んでいく。
続いて溶き卵をゆっくりと流し入れる。鍋の中に白と黄色がふわりと咲き、まるで花が舞うようだった。塩と醤で味を整え、最後にマリアが作った特製ラー油をひと垂らし。赤く輝く油がスープの表面に広がり、香ばしい香りが辺りに漂う。
「完成です。飲んでみてください」
店主がスプーンを取り、一口すすると――動きを止めた。
「これは……美味い! 辛さが効いてて、でも後味がすっきりしてる!」
「暑さで落ちた食欲を、辛味で刺激してあげるのが狙いです」
「こりゃクセになるな!」
香りに誘われて、周囲の屋台の人たちが集まってきた。
「なになに? 美味しそうな匂いだね」
「一口いい?」
次々とスープを試飲してもらうと、みんなが口々に賞賛の声を上げた。
「夏こそ、こういうスープが欲しくなるんだよな!」
「辛いけど飲みやすい。これは売れるぞ」
マリアがにっこり笑って、一歩前に出る。
「スープに使ったツチタケとウミクサと乾燥ワカメ、それから一味唐辛子とラー油は、うちの乾物屋で扱ってます。よければ、ぜひ覗いてみてくださいね!」
マリアの言葉に、周囲の人々から「買うぞ」「俺も試したい」と声が上がった。
「本当に、ありがたい……これなら、この夏を乗り切れそうだ!」
店主は深々と頭を下げた。
帰り道、三人は満足げな表情で並んで歩いていた。
「上手くいったね」
リーナがふっと笑うと、ジュードもうなずいた。
「ああ、店主さん、すごく嬉しそうだったな」
「商品も喜んでもらえてよかったわ。乾物屋の看板にもなるかも」
マリアは手にした瓶を見つめながら、嬉しそうに言った。
「でも、リーナのアイデアがなかったら、こうはならなかったわね」
「私ひとりじゃ思いつかなかったよ。みんなで協力したからこそ、だよね」
リーナは二人の顔を見て、やさしく微笑んだ。
「チームワークってやつだな」
ジュードが照れ隠しに言って、マリアが笑いながらうなずく。
「今度は、他の屋台の人たちも相談に来るかもね」
「そしたらまた、みんなで考えよう」
夕暮れの街を歩きながら、リーナは小さな達成感に包まれていた。一人でできることには限りがあるけれど、仲間と協力すれば、もっと大きなことができる。
(街の人たちが喜んでくれて、本当に良かった)
マリアの乾物屋も、ジュードの優しさも、そして困っている人を助けたいという気持ちも。すべてが繋がって、今日という日になった。
「明日からあの屋台、お客さんで賑わいそうね」
「きっとそうだ」
三人の笑い声が、夕暮れに染まった街に明るく響いていった。




