新しい扉
朝一番に街の中心部から聞こえてきた鐘の音は、特別な響きを持っていた。
「完成したのね」
アンナが窓辺で呟く。噴水広場の方角から、人々の興奮した声が風に乗って聞こえてくる。
共用魔法冷蔵施設の完成を告げる鐘だった。
「見に行きましょうか」
リーナが提案すると、マルクが頷いた。
「そうじゃな。儂らが出発する前に、この目で見ておきたいものじゃ」
3人は店を出て、噴水広場へ向かった。
* * *
噴水広場の近くには、見慣れない立派な石造りの建物が建っていた。
「これが……」
リーナは息を呑んだ。想像していたよりもずっと大きく、美しい建物だった。入り口には「アードベル共用冷蔵施設」と刻まれた看板が掲げられている。
すでに多くの街の人々が集まっていて、皆興奮気味に話し合っている。
「リーナちゃん!」
ベラが手を振りながら駆け寄ってきた。
「すごいものができたのね。これでうちの野菜も、もっと長持ちするわ」
ベラが感嘆の声を上げると、周囲の人々も興味津々といった様子で建物を眺めている。
建物の中を覗くと、ひんやりとした空気がふわりと流れ出してきた。床には魔法陣が刻まれ、淡い青白い光を発している。
壁際には小部屋のような区画がずらりと並び、それぞれ木の扉が取り付けられている。鍵穴がついており、どうやら施錠も可能らしい。
「上下の隙間から冷気が循環するんですって。中の温度が均一になるようになってるらしいわよ」
「なるほどね。扉があっても冷えるわけだ」
「1つの区画が月銀貨5枚から。でも、今は商業利用しかできないのよね」
「うちみたいな一般家庭にも、いつか使わせてくれるといいなぁ」
「あんなにしっかりした作りなら、食品の保存だけじゃなくて、管理にも安心ね」
街の人々の明るい声が飛び交う中、リーナは一歩下がって施設全体を見渡した。
自分の魔石冷蔵庫購入がきっかけとなって、こんな素晴らしい施設ができたのだ。美食の街アードベル構想がまた進んだ。
「立派なものができたな」
バルトロメオ団長が現れて、満足そうに施設を見回した。
「これで街の食文化がさらに発展する。リーナのおかげだな。」
「いえ、そんな」
「冷たいお菓子の需要も増えそうですね」
団長の目がキラリと光る。相変わらずの甘党ぶりに、リーナは思わず笑みを浮かべた。
* * *
午後、店に戻ると、マルク夫婦の荷物整理が大詰めを迎えていた。
「もうほとんど片付いたわね」
アンナが2階を見回しながら言う。30年間住み慣れた部屋が、すっかり空っぽになっている。
「寂しくなります」
リーナが呟くと、マルクが優しく微笑んだ。
「寂しいのは確かじゃが、それ以上に楽しみなんじゃよ。孫の顔を毎日見られるんじゃからの」
「それに」
アンナが続ける。
「リーナちゃんがいてくれるから、この店は安心して任せられる」
今夜が、3人で過ごす最後の夜だった。
* * *
夕方、リーナは特別な夕食を作ることにした。
炊き込みご飯、お味噌汁、フェングリフの唐揚げ、そして色とりどりのピクルス。どれも、この数か月で街の人々に愛されるようになった料理たちだった。
「今日は豪華じゃのう」
マルクが厨房を覗き込む。
「最後の夜ですから。皆さんに喜んでもらいたくて」
炊き込みご飯には、フェングリフ肉、ツチタケ、ニンジンをたっぷりと入れた。ツチタケとウミクサの出汁で炊き上げたご飯は、一粒一粒に旨味が染み込んでいる。
お味噌汁は、今が旬の夏野菜をたっぷりと。
フェングリフの唐揚げは、いつものように外はカリッと、中はジューシーに仕上げた。
ピクルスは、パプリカ、キュウリ、ニンジンを色鮮やかに漬け込んだもの。酸味とほのかな甘みが口の中に広がって、揚げ物の後でもすっと箸が進む。
一口ごとに、次の料理が待ち遠しくなるような、そんな味だった。
「いい香りじゃのう」
「お腹が空いてきたわ」
マルク夫婦が嬉しそうに話している。
* * *
午後7時、いつもの夜営業の時間になると、常連客たちが次々と店にやってきた。
「今日は特別な日だからな」
トムが大きな声で言う。
「マルクさんたちのお見送りをしないと」
「そうそう、寂しくなるわ」
ソフィアも目を潤ませている。
「でも、リーナちゃんがいるから安心よね」
常連客たちが10人ほど集まって、狭い店内は久しぶりに満席になった。
「皆さん、ありがとうございます」
リーナが炊き込みご飯を大きなお櫃に盛って運んでくると、店内に歓声が上がった。
「うわあ、豪華じゃないか」
「いい匂いだ」
「リーナちゃんの料理の総決算みたいね」
皆で料理を囲みながら、思い出話に花が咲いた。
「最初にリーナちゃんが作ってくれた焼き鳥、美味しかったのう」
「あの時は驚いたわ。魔物の肉がこんなに美味しいなんて」
「マヨネーズを初めて食べた時の衝撃も忘れられないわ」
「おにぎりには本当にびっくりしたよ。握るなんて発想、思いつかなかった」
一つ一つの料理に、思い出が詰まっている。
「リーナちゃんが来てから、毎日の食事が楽しくなったよ」
ハンスが照れながら言う。
「新しい味に出会えるのが、毎日の楽しみだった」
「この街の食文化が変わったよね」
「マルクさん、アンナさんも嬉しかったでしょう?」
皆の視線がマルク夫婦に向かった。
「ああ、本当に……」
マルクが少し言葉に詰まる。
「リーナちゃんが来てくれて、儂らの人生が変わったんじゃよ」
「息子が独立してから、正直寂しかったの」
アンナが静かに話し始める。
「毎日、お客さんは来てくれるし、仕事もあるけれど、家族の時間がなくなってしまって」
「そんな時に、リーナちゃんが来てくれた」
マルクが続ける。
「最初は、単にお客さんが一人増えただけだと思っていたんじゃ。でも、だんだん分かってきたんじゃ」
「娘ができたみたいで、嬉しかったの」
アンナの目に涙が浮かんでいる。
「毎日、一緒に料理を作って、一緒に食事をして、一緒に笑って……こんなに楽しい時間を過ごせるなんて思わなかった」
「リーナちゃんは、おっちょこちょいなところもあるけれど」
マルクが笑う。
「お金を机の上に置きっぱなしにしたり、料理に夢中になりすぎて周りが見えなくなったり」
「でも、そんなところも含めて、全部愛おしいのよ」
アンナが涙を拭う。
「本当に、ありがとう。リーナちゃんのおかげで、こんなに幸せな時間を過ごせました」
店内が静寂に包まれた。常連客たちも、皆目を潤ませている。
「リーナちゃん、大丈夫じゃよ」
マルクが前を向く。
「リーナちゃんには、この街に素晴らしい人たちがついている。皆さんが見守ってくれるから、安心して旅立てるんじゃ」
「そうよ」
ソフィアが立ち上がる。
「リーナちゃんは、もう私たちの家族よ。何かあったら、いつでも助けるから」
「そうだそうだ」
トムも頷く。
「何か困ったことがあったら、遠慮しないで頼ってくれ」
「みんなで支えるから、心配いらないよ」
ハンスも力強く言う。
常連客たち一人一人が、リーナへの思いを語ってくれた。
「こんなに温かい人たちに囲まれて、私は幸せです」
リーナも涙を流しながら言う。
「マルクさん、アンナさんと出会えて、皆さんと出会えて、本当に良かった」
* * *
午後10時、常連客たちが帰った後、3人だけの静かな時間が訪れた。
2階のリビングで、ハーブティーを飲みながら語り合う。
「明日は早いから、もう休まないといけないんだけど」
アンナが時計を見る。
「でも、なんだか寂しくて眠れそうにないわ」
「儂もじゃよ」
マルクが笑う。
「リーナちゃんと過ごした時間が、走馬灯のように思い出されるんじゃ」
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
「はい。クラリス王国から出てた馬車ですよね」
「あの時は、まさかこんなことになるとは思わなかったわね」
「魔物の肉を焼いて、びっくりしたんじゃ」
「それから毎日、新しい料理を作ってくれて」
一つ一つの思い出が、宝物のように輝いている。
「リーナちゃん」
アンナが真剣な表情になる。
「私たちからのお願いがあるの」
「はい」
「無理をしないで。一人で頑張りすぎないで」
「そうじゃ」
マルクも頷く。
「困った時は、素直に人に頼るんじゃよ。この街には、君を支えてくれる人がたくさんいるんじゃから」
「分かりました」
「それから」
アンナが微笑む。
「たまには、私たちに会いに来てね。港町はそんなに遠くないから」
「もちろんです。必ず遊びに行きます」
「孫にも会わせてあげたいの。リーナお姉ちゃんって呼ばせるから」
その言葉に、リーナの胸が熱くなった。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
3人は深夜まで語り合った。
* * *
翌朝、空がほんのり明るくなった頃、マルク夫婦の荷物を馬車に積み込む作業が始まった。
「荷物はこれで全部ですか?」
御者が声をかける。
「港町まで、安全にお送りします」
荷物はそれほど多くない。長年住み慣れた家を離れるにしては、あまりにも少ない荷物だった。
「思い出は、心の中に持っていくから」
アンナが説明する。
「物なんて、そんなに必要ないのよ」
朝の8時、出発の時間が近づいてきた。
街の人々が次々と集まってくる。トム、ハンス、ソフィア、ベラ、マリア。料理教室の生徒たちも来てくれた。
そして、ジュードが騎士団のメンバーたちと一緒に現れた。
「見送りに来ました」
ジュードが言う。
「マルクさん、アンナさんには、本当にお世話になりました」
「ジュードさんたちも来てくれたのね」
「当然です」
アデラインが上品に微笑む。
「お二人がいなくなるのは寂しいですが、リーナがいれば安心ですね」
「美味しい料理を作ってくれるしな」
ガレスが豪快に笑う。
「お元気で」
シリルが丁寧にお辞儀をする。
「僕たちも、リーナさんのことはちゃんと見守りますから」
ルークが真剣な表情で言う。
「ありがとうございます」
マルクが深く頭を下げる。
「リーナちゃんのこと、よろしくお願いします」
「さあ、そろそろ出発しましょうか」
御者が声をかけた。
マルク夫婦が馬車に乗り込む。
「皆さん、本当にありがとうございました」
アンナが窓から顔を出す。
「30年間、支えてくださって……」
彼女の声は震えていたが、その目はしっかりと未来を見据えているようだった。
それを合図にしたかのように、周囲から次々と声が上がる。
「元気でね!」
「お身体に気をつけて!」
「孫の顔を見せに、また戻ってきてくださいよ!」
口々に声をかける人々。
「リーナちゃん」
アンナがリーナを見つめる。
「あなたに出会えて、本当に良かった。ありがとう」
「私の方こそ、ありがとうございました」
リーナは涙をこらえながら答える。
「お元気で」
馬車がゆっくりと動き始めた。
「お元気で!」
「また会いましょう!」
「さようなら!」
皆が手を振る。マルク夫婦も窓から手を振り返す。
リーナも一生懸命手を振った。笑顔を保とうと努力する。
馬車は大通りを進み、やがて街の出口へ向かう。どんどん小さくなっていく。
それでも、リーナは手を振り続けた。
馬車が街の出口の角を曲がり、ついに見えなくなった瞬間。
笑顔を保とうとしていた唇がわずかに震えた。
ぽろりと一粒、涙が頬を伝う。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように――
「う……うぅ、うわぁぁぁ……」
リーナは声を上げて泣き出した。
「ありがとうございました……本当に、本当に、ありがとうございました……」
声にならない声で繰り返す。
ジュードが優しく肩に手を置いた。
「大丈夫だよ」
「でも、寂しい……」
「そりゃ寂しいさ。大切な人を見送ったんだから」
ジュードが優しく言う。
「でも、リーナは一人じゃない。俺たちがいるし、街の皆がいる」
「そうよ、リーナちゃん」
ベラが背中をさすってくれる。
「私たちは家族よ。何かあったら、いつでも頼って」
「泣いてもいいから」
ソフィアが優しく言う。
「気持ちが落ち着くまで、思いっきり泣いて」
リーナは皆に支えられながら、しばらく泣き続けた。
* * *
午後、一人でアンナの食卓に戻ったリーナは、空っぽになった2階を見上げた。
静かだった。
でも、寂しいというより、不思議と温かい気持ちが心を満たしていた。
(あの時の私は、きっと傷ついていたんだな)
リーナは静かに振り返る。クラリス王国の実家から勘当されて、行く当てもなく馬車に揺られていた日々。家族に捨てられた痛みで、心の扉を固く閉ざしていた。
(でも、マルクさんとアンナさんは、そんな私を温かく迎えてくれた)
最初は警戒していた。また傷つくのが怖かった。でも二人の無償の愛に触れて、少しずつ心が溶けていった。
(本当の家族って、血のつながりじゃないんですね)
涙が再び頬を伝った。でも今度は、感謝の涙だった。
マルク夫婦と過ごした幸せな時間。街の人々の温かい支え。これからも続いていく、料理を通じた繋がり。
「ありがとうございました」
もう一度、小さく呟いた。
そして、厨房に向かう。
今日も、誰かのために料理を作ろう。
リーナの心の中には、これまでの全ての思い出と、これからへの希望が輝いている。
新しい扉が開かれた。
アンナの食卓の新しい章が、今日から始まる。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
リーナにとっても、この物語にとっても、大きな節目となる一話でした。
次回からは、いよいよリーナが本当の意味で『ひとり立ち』をしていくパートに入ります。
新たな挑戦、出会い、そして再会も……?
これからも、リーナの物語を見守っていただけたら嬉しいです。
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引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。