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店主としての第一歩

 初夏の陽射しが窓から差し込む厨房で、リーナは新しい菜箸を使って野菜炒めを作っていた。長い木の棒二本を器用に操り、フライパンの中の野菜を軽やかに混ぜ返す。


「おお、便利そうじゃの」


 マルクが感心したような声を上げる。


「はい。手が熱くならないし、細かい作業もしやすいですよ」


 リーナは嬉しそうに菜箸を持ち上げた。トムが作ってくれた菜箸は、想像以上に使い勝手が良い。


 厨房の隅では、魔石冷蔵庫が静かに動作している。金貨三十枚という大金を投じた設備だが、その効果は絶大だった。野菜はシャキシャキしているし、お肉も新鮮なまま保存できる。


「そういえば、リーナちゃん」


 野菜炒めを皿に盛っているリーナに、アンナが少し心配そうな顔で声をかけた。


「お金の管理、大丈夫?」


「お金の管理?」


 リーナはきょとんとした表情を浮かべる。


「この前、常連の商人さんが言ってたのよ。リーナちゃんが冷蔵庫に、金貨をぽんって出してたって」


「ああ、はい。ちゃんと払いましたから、大丈夫ですよ」


「そうじゃなくて……」


 アンナとマルクが顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。


「実は私、リーナちゃんの部屋を掃除させてもらう時に、いつもハラハラしてたのよ」


「え?」


「机の上に金貨や銀貨が無造作に置いてあるでしょう?あんな大金をあんなところに置いておくなんて、危険じゃない」


 リーナは目を丸くした。


「え、でも他にどこに置けば?」


「そこじゃよ、問題は」


 マルクが深くため息をつく。


「商売のことは何も教えてなかったことに最近気づいての。心配になってきたんじゃよ」


「商売のこと?」


「お金の管理じゃ。一人で店をやっていくなら、知っておかなきゃいけないことがたくさんある」


 ***


 翌日の午後、マルクとリーナが最初に立ち寄ったのは、職人組合の建物だった。

 石造りの二階建ての建物は、商業区域の一角にひっそりと佇んでいる。看板には「アードベル職人組合」と書かれていた。


「店主名義変更の件で来ました」


 受付の中年女性に声をかけると、彼女は顔を輝かせた。


「あら、『アンナの食卓』の!リーナさんですね。街中で評判になってますよ」


「あ、ありがとうございます」


 リーナは少し照れながら会釈した。


「手続きは簡単です。こちらの書類にお名前を書いて頂ければ」


 差し出された羊皮紙を前に、リーナは少し困ったような表情を見せた。


「あの……その……もう、家とは縁がなくて。名乗れる名字がないんです……」


「複雑な事情があっての」


 マルクが優しくフォローする。


「承知いたしました。そういう方もいらっしゃいますので」


 受付の女性は配慮深く頷いて、書類の名前欄に「リーナ」とだけ記入してくれた。


「はい、これで完了です。正式にリーナさんが店主として登録されました。頑張ってくださいね」


「ありがとうございます」


 拍子抜けするほど簡単な手続きだった。

 次に向かったのは商業ギルドの建物だった。職人組合とは比べものにならない立派な石造りの三階建てで、重厚な扉には金の装飾が施されている。


「すごく立派ですね」


「ああ、商人だけじゃなく貴族たちも使う施設じゃからの」


 マルクが説明しながら扉を押し開ける。中に入ると、大理石の床に高い天井、シャンデリアが煌めく豪華なロビーが広がっていた。リーナは思わず息を呑む。


「預金の件で」


 受付の青年に声をかけると、彼は丁寧に案内してくれた。


「初めてのご利用でしょうか。こちらが預金事業の説明書になります」


 渡された書類を覗き込んだリーナは、思わず声を漏らした。


「……手数料は年に二%?盗難や火災でも保証される……?」


 リーナは顔を上げて、驚きの表情を浮かべる。


「こんな仕組みがあったなんて」


「多くの商人の方にご利用頂いています。特に、ある程度まとまった金額をお持ちの方には安心してお使い頂けるかと」


 青年の説明を聞きながら、リーナは口座開設の手続きを進めた。



 商業ギルドから戻ると、マルクは店の二階リビングでリーナに帳簿を見せた。


「これが、うちの帳簿じゃよ」


 厚い革表紙の帳簿には、日々の売上や仕入れ費用が細かく記録されている。マルクの几帳面な性格が表れた、美しい文字で埋められていた。


「毎日これを?」


「そうじゃ。商売をするなら、お金の出入りを把握しておかないといけない」


 マルクはページを開いて、指で項目を指し示す。


「この欄が売上、こっちが仕入れ。で、毎日の終わりにここを計算して……」


「うわぁ、細かい……」


 リーナが思わず呟くと、マルクは苦笑いを浮かべた。


「慣れれば大したことないじゃよ。月末になったら、全部まとめて利益を出すんじゃ。まぁ、最初は手探りでも大丈夫」


「……けっこう、細かいですね」


 リーナは改めて帳簿を見つめて苦笑した。


「料理だけじゃダメなんですね」


「そりゃそうじゃ。けどな、最初は誰だって手探りじゃよ」


 マルクは優しく微笑む。


「君はもう立派な大人だ。料理の腕はすばらしいし、街の人たちからも愛されておる。きっと素晴らしい店主になれるはずじゃよ」


「マルクさん……」


「それに、困ったことがあったら港町まで相談に来ればいい。馬車で半日もかからぬのだから、そう遠くないじゃろ

 う?」


 アンナも隣で頷いている。


「リーナちゃんなら大丈夫じゃ。儂たちが安心して店を任せられるのは、リーナちゃんだけじゃ」



 夕方、一人になった厨房でリーナは新しい料理のことを考えていた。


 帳簿の付け方を覚えて、お金の管理方法を教わって、正式に店主として登録された。確かに大人としての第一歩を踏み出した気がする。


 でも、料理への情熱は変わらない。


 むしろ、もっと多くの人に美味しいものを食べてもらいたいという気持ちが強くなった。


 魔石冷蔵庫を開けて、中を確認する。フェングリフ肉、野菜、乾燥ワカメ、煮干し。新しい食材と新しい設備。市場で見かけた夏野菜たちを思い出す。

 トマト、ナス、ズッキーニ、パプリカ。鮮やかな色合いの野菜たち。


「そうだ」


 リーナの頭に、ある料理のアイデアが浮かんだ。夏が近づいて、だんだん暑くなってきている。騎士団の皆も、暑さで食欲が落ちてきているかもしれない。


 野菜をたっぷり使って、冷やして食べる煮込み料理。野菜の甘みと旨味がぎゅっと詰まった、夏にぴったりの一品。

 冷蔵庫があるからこそ美味しく冷やせる、新しい料理。


 リーナは菜箸を手に取ると、明日の買い物リストを頭の中で組み立て始めた。


 大人としての責任を背負いながらも、料理人としての情熱は燃え続けている。

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― 新着の感想 ―
マルクさんとアンナさん、リーナの本当の親より愛情を向けてくれてるようで優しい気持ちが湧きますね。 自分も歳を重ねた時、こんな素敵な人になれるだろうか…?
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