魔石冷蔵庫と、別れの足音
魔石冷蔵庫の搬入があるこの日、「アンナの食卓」は定休日とは思えないほどの慌ただしさに包まれていた。
昨夜からリーナが片付けを済ませた厨房の角では、見覚えのあるダンテ・ハイムと、その助手らしい若い男性が慎重に作業を進めている。
ダンテの指示で、ついに魔石冷蔵庫が所定の位置に収まった。高さ一・五メートル、幅一メートル。重厚な木材の外装に金属の装飾が施され、扉の中央には青白く光る魔石が静かに輝いていた。
「魔石への最終調整を行います」
ダンテが手をかざすと、魔石がふわりと明るさを増した。彼の手から流れ込む魔力が石に吸い込まれ、やがて光は安定し、冷たい気配が周囲に広がる。
「完了です。肉類で三日、野菜なら一週間は保存可能です。魔石は一年間持続しますから、補充はその頃にお願いしてください」
「分かりました。ありがとうございます」
リーナは心から頭を下げた。金貨三十枚という大きな出費だったが、それだけの価値はある。試しにそっと扉に手をかけて開けると、ひんやりとした冷気が顔を撫でてきた。
「……すごい。本当に冷たい」
庫内は薄暗く、魔石の光がほのかに棚を照らしている。上下二段に分かれた棚には、十分な容量が確保されていた。
「何か入れてみましょう」
「じゃあ……昨日買ったフェングリフの肉を試してみますね」
布に包んだ肉を上段に置き、扉を閉める。数分後、再び開けてみると、肉の表面にしっとりと冷気が宿っていた。
「これは……すばらしいです。これで夏の暑さも怖くありません」
作業を終えたダンテたちが帰った後、リーナは一人で新しい冷蔵庫を眺めていた。
(前世では当たり前だった冷蔵庫……まさかこの世界でも使えるようになるなんて)
料理の幅が広がる。冷たい料理、夏向けの保存食、何より食材の無駄が減る。
午前も終わりに近づいた頃、外から馬車の音が聞こえた。
「ただいま、リーナちゃん!」
「おかえりなさい!」
アンナとマルクが荷物を抱えて店に入ってくる。数日ぶりの再会に、リーナの表情がぱっと明るくなった。
二人は旅の思い出を嬉しそうに話し始めた。孫が「ばあば、ばあば」と呼んでくれたこと、息子夫婦と海に行ったこと、一緒にお菓子を作ったこと。マルクもアンナも、目を細めながら楽しかった日々を振り返っている。リーナが一人で店を切り盛りしたことを心配してくれたが、なんとか大丈夫だったと答えると、二人は安心したように頷いた。
アンナが荷物の中から包みを取り出した。港町の土産だという。乾燥した海草と、小魚を茹でて干したもの。
リーナは目を凝らして見た。
『乾燥ワカメ』
『品質:上級』
『特性:水で戻すと食感と磯の香りが楽しめる海藻』
『用途:汁物、和え物、サラダなどに』
『煮干し』
『品質:最上級』
『特性:小魚を茹でて干した物、濃厚な出汁が取れる』
『用途:出汁の素、そのまま食用としても可』
「これは! すごいものをもらってきましたね!」
リーナの目が輝いた。
「そんなにいいものなの?」
「はい! 特に小魚の方は、お出汁を取るのに最高の素材です。海草の方も、お味噌汁に入れたら美味しくなりそう」
「港町の知り合いが、定期的に送ってくれるって言っていたの。リーナちゃんが喜んでくれるなら、お願いしてみましょうか?」
「ぜひお願いします!」
リーナは興奮を抑えきれずにいた。昆布に続いて煮干し、そしてワカメ。出汁の可能性がまた一つ広がり、リーナは胸の内でそっと拳を握った。
アンナが厨房の角に目を留めた。新しい冷蔵庫に気づいたようだ。二人は驚いて近づいてくる。
「触ってみてもええかの?」
「もちろん。開けますね」
リーナが扉を開けると、冷気がふわっと広がった。
「ひゃあ! 冷たい!」
「こりゃすごい。夏でも肉が保存できるんじゃな」
二人はしきりに感心している。
「他にも色々ありました。聞いてください!」
リーナは、魔石冷蔵庫の他にも、新しい調理器具の注文やバルトロメオ団長との面談、街に共用冷蔵施設を作る計画など、ここ数日の出来事を次々と話していった。
「リーナちゃん、本当にしっかりやってくれたのね」
「一人でここまで……立派になったのう」
二人の温かな眼差しに、リーナは少し照れながら笑った。
***
昼食の準備をしていると、店の扉が開いた。
「よお、リーナちゃん!」
「試作品ができたぞ!」
トムとハンスが木箱を抱えて現れた。
「いらっしゃいませ! 本当ですか?」
「ああ、昨夜遅くまでかかったけどな」
ハンスが木箱を開けると、中には見慣れない道具がいくつも入っていた。
「これが……えーっと、菜箸って言ったっけ?」
三十センチほどの長さの木の棒が二本。先端は細く削られ、持ち手の部分は少し太く、滑りにくく加工されている。
「こっちがしゃもじ。ご飯をよそうやつだな?」
薄く削られた木のへら。表面はつるりと滑らかで、ご飯粒が付きにくそうな仕上がりだった。
「それと、味噌を溶かすための道具も作ったぞ」
ハンスが誇らしげに差し出したのは、細かい網を張った小さなザル。取っ手がついていて、手軽に使えそうだった。
「どれも素晴らしい出来です!」
リーナは目を輝かせながら道具を手に取り、さっそく実演を始めた。菜箸で野菜炒めをすると、トングよりも繊細な動きができて、炒め加減も自在だ。
「ほう……細かい作業がやりやすそうだな。でも使い方が難しそうだ」
トムが目を細める。次にしゃもじでご飯をよそう。ふんわりすくい上げたご飯が、つぶれることなく器にのった。
「おお、すくえるすくえる……って熱っ!」
リーナが吹き出しそうになるのをこらえながら、次は味噌こしを使って味噌汁づくり。味噌を溶かしながらこすことで、ダマにならず、まろやかな仕上がりになった。
「ちょっとやってみていいか?」
ハンスが興味津々で手を伸ばす。
「ええ、どうぞ!」
職人たちが代わる代わる手に取り、道具の使い勝手を確かめる姿に、リーナも思わず笑顔になる。
「技術料はいらないって言ったけどよ、こいつら、売れ筋になりそうだ。むしろこっちが払うべきじゃないか?」
「そう言ってもらえると嬉しいです。約束なので今度、美味しい料理をふるまわせてくださいね」
二人が帰ったあと、マルク、アンナ、リーナの三人で昼食を囲んだ。
「新しい道具も、冷蔵庫も、本当に便利ね」
「リーナちゃんがいると、次から次へと新しいことが起きるな」
「ありがとうございます。でも、みなさんの支えがあるからですよ」
食後のひととき、アンナがふと声を落とした。
「……実はね、相談があるの」
「何でしょうか?」
「息子が『父さんたち、いつこっちに来るの?』って急かしててね」
マルクも静かに頷く。
「孫も『じいじとばあば、ずっといて』って言うんじゃ。可愛い盛りでな、そばにいてやりたい」
リーナは二人の表情を見て、すぐに察した。
「移住の話……ですね」
「そうなの。でも、リーナちゃんを一人にするのが心配で……」
リーナはふっと笑って、優しく答えた。
「寂しくはなりますけど、大丈夫です。お二人には、ご家族との時間を大切にしてほしいです。お孫さんとの時間は、今しかありませんから」
「本当に……いいの?」
「はい。魔石冷蔵庫もあるし、街の共用施設も、あと三週間で完成します。それまでにしっかり準備しておきますから」
マルクが安堵の表情を浮かべ、アンナもそっと頷いた。
「それなら……本格的に暑くなる前に移ろうかしら。さすがに夏の引っ越しは堪えるもの」
「共用施設が整えば、街の生活もひと段落するでしょうしね」
「そうですね。それまで、いつも通りに頑張ります」
リーナは、ほんの少し胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながらも、二人の決断を笑顔で受け止めようとしていた。
「でも、隣町ですし。新しい料理ができたら、すぐにお知らせしますよ」
「それは楽しみだ」
「港町からの海産物も、定期便で送るからね。リーナちゃんの新作料理、期待してるわよ」
夕日が厨房の窓から差し込み、穏やかな光が三人の間を照らした。
新しい道具、新しい設備、そして新しい食材。リーナの料理の世界は、またひとつ広がった。
そして三週間後、別れのときが来る。
(すごく寂しいけど、笑って見送らなきゃ)
この街で、また新しい季節が始まる。




