胡麻の香り、ひとり膳
「アンナの食卓」の厨房に、朝の光がやわらかく差し込んでいた。
今日は定休日。マルクさんとアンナさんは、朝早くに隣町へ出かけていった。孫に会いに行くのだと、昨日は本当に嬉しそうだった。
(今日は一人……久しぶりに、じっくり食材と向き合えるかも)
リーナはテーブルの上に並べた新しい食材を眺めた。昨日、ジュードと歩いた街で手に入れたものだ。小さな真っ赤な唐辛子。つやつやした白ごま。琥珀色に澄んだごま油。そして、薄く乾いたアジの干物。
「ふふ、いい顔してるね。どれからいこうかな……よし、ゴマ!」
勢いよく決めると、棚からすり鉢を取り出した。やや重たい石のすり鉢。普段はスパイス用に使っているものだ。白ごまをひとつかみ、すり鉢に落とす。
「さて……いくよ」
すりこぎを握り、くるくると円を描く。プチプチ、と小さな音。ゴマが砕けていくたびに、香ばしい香りが立ち上った。
(あ、この香り……!)
懐かしい音。懐かしい香り。祖母の小さな台所で、すり鉢を回す音を聞いていた記憶が、ふわりと蘇る。
「……おばあちゃん、よくこれ作ってくれたなあ」
ほんのり涙ぐみながらも、手は止めない。力を入れすぎず、リズムを崩さず、じっくりすり続ける。やがて、ゴマは細かく砕かれ、しっとりとした粒感を残した和え衣にちょうどよさそうな状態になった。
「……うん、いい感じ!」
ひとりでも思わず口元がほころぶ。リーナは鍋に湯を沸かしながら、ベラさんのところの新鮮なほうれん草を手に取った。さっと洗い、根元から鍋へ。鮮やかな緑に変わるまで、ほんの短い時間でいい。すぐに冷水にとって、しゃっきりとさせる。この一手間が、大事なのだ。水気をよく絞り、包丁で食べやすく切り揃える。
すったゴマに、砂糖と醤を少しずつ加えて、和え衣を整えていく。味見をしながら、塩気と甘みのバランスを見極めるのは、もう体に染みついた感覚だ。そこにほうれん草を加え、優しく混ぜ合わせた。
「はい、できたっ」
器に盛りつけて、一口。口の中に広がったのは、懐かしさと優しさが詰まった、あの味だった。
「さて、お次は……この子たちの出番かな」
リーナは黒大根と人参を並べると、手際よく皮をむき始めた。
(きんぴら……に近い感じでいけるかも)
包丁を動かすたびに、トントン、と軽快な音が響く。できるだけ細く、火の通りに差が出ないように丁寧に切っていく。
ごま油をフライパンに垂らして火にかけると、すぐにふわりと香ばしくてちょっと異国めいた香りが広がった。
「……ああ、これこれ。この香り、ほんとずるいよね」
野菜を入れると、すぐに透明がかって、しんなりとしてきた。
「……さて、問題はこいつだ」
赤くて小さな唐辛子をひとつ手に取る。くるんと巻いたその姿は可愛いけれど、油断ならない。
「辛すぎたら誰も食べてくれないし……ちょっとだけ、ね」
種を取り除き、ほんの少しだけ細かく刻んで加える。するとすぐに、鼻をつく刺激的な香りが広がった。
「うっ……く、くしゃみ出そう……!」
くしゅん、とひとつくしゃみをして、思わず苦笑する。
(ちょっとしたスパイス、ってやつだね)
出汁と砂糖と醤を加え、味をととのえる。火を止めて、白ごまをパラパラと散らす。
「……うん、いい感じ!」
一口味見してみると、甘みの中にピリリとした刺激。舌がびっくりするほどではなく、体がじんわり温まるような優しい辛さだった。
「これなら、みんなも食べられそうだね」
最後に、アジの干物に取りかかる。
「やっぱり、これはシンプルに焼くのがいちばんだよね」
フライパンを熱し、油は敷かずに干物をそっとのせる。じゅう……と、静かな音が広がり、すぐに香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「おいしそう……!」
皮に軽く焼き色がついたところで、慎重に裏返す。魚の身が崩れないよう、ヘラの角度にも気を使う。そのあいだに、黒大根をおろし器でおろしていく。
おろし金に当たる音がシャリシャリと響き、辛味の強そうな黒大根おろしが、山のように盛り上がった。
「焼き魚と大根おろし……この組み合わせ、やっぱり最強」
焼き上がりを待つあいだ、リーナはもうひとつ鍋を火にかけていた。昨夜から戻しておいたツチタケとウミクサを入れた鍋から、静かに湯気が立ち上っている。
「やっぱり、味噌汁がないと落ち着かないよね」
ツチタケの甘い香りと、ウミクサの磯の風味が混じり合って、どこか懐かしい匂いになっていく。刻んだ黒大根の葉をさっと加え少し煮込み、味噌を溶き入れる。おおたまでくるりと混ぜたら、ふわりと優しい香りが漂った。
(ああ……この香り、やっぱり好き)
フライパンの火を止め、焼き上がったアジと共に、器に盛りつける。炊きたての白いご飯をよそって、すべての料理が出揃った。
ほうれん草の胡麻和え。黒大根と人参のきんぴら風炒め。アジの干物、大根おろし添え、お味噌汁。そして、つやつやと光る、ふっくらご飯。
自分用だけれど、心のこもった、まるで誰かをもてなすような膳になった。リーナは静かに席につき、深く息を吸い込んだ。
「いただきます」
まず手をつけたのは、胡麻和え。香ばしいゴマの風味が、ほうれん草の優しい甘みを引き立てて、口いっぱいに広がる。次に、きんぴら。シャキシャキした黒大根と甘い人参に、唐辛子のほどよい刺激が加わって、思わず体がほっとゆるんだ。
アジの干物は、皮がパリッと香ばしく、噛めば噛むほど凝縮された旨味が広がる。大根おろしのさっぱりとした辛味が、それをきゅっと引き締めてくれた。
白いご飯をひと口、ゆっくり噛みしめる。そして温かいお味噌汁を一口すすると、ほっと心が落ち着いた。
おかずたちのどれと合わせても、それぞれ違った幸せが口の中に生まれる。
(おばあちゃんの小料理屋でも、こんな風に一品一品、心を込めて作ってたんだろうな)
そんな気がして、目頭が熱くなった。
食事を終えたあと、リーナは食器を片付けながら、ふと手を止めた。
「明日は、ジュードたちに食べてもらおうかな」
きっと、喜んでくれる。暑くなるこの季節に、唐辛子のぽかぽかした辛さはきっと役に立つはず。でも、辛すぎないようにしないと。みんなが笑って食べられるように。
「……楽しみだな」
窓の外を見ると、街の景色もすっかり夏めいていた。服装も、歩き方も、どこか軽やかになってきている。
(夏が本格的に来る前に、もっといろんな料理を試してみたい)
リーナは口元をほころばせながら、最後の食器を棚にしまった。




