乾物屋オープンと料理教室
朝の光が柔らかく差し込み始めた頃、アードベルの商業区域はどこか浮き立った空気に包まれていた。
店先には人が集まり、ざわめきと笑い声が交差する――今日は街に新たな風が吹く日だ。
そう、乾物屋がついに開店するのだった。
「アンナの食卓」の朝の仕込みを終えたリーナは、清々しい気持ちで店を出た。
通りを抜け、新しい店舗の前に立つと、見知った顔が手を振ってくる。
「リーナちゃん!」
ベラがにこにこと嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ベラさん、おはようございます」
その背後では、マルクが店の入口に大きな看板を取り付けていた。
「『アードベル乾物屋』……いい響きだな」
満足げにうなずくマルクに、マリアが丁寧に頭を下げる。
「マルクさんのおかげで、ここまで段取りよく進みました。本当にありがとうございます」
「なに、こういうのは慣れてるからのぉ」
マルクは少し照れくさそうに頭を掻く。
店の中では、棚にツチタケやウミクサ、その他の乾物がきれいに並べられている。
どれも質の良いものばかりで、リーナが厳選に協力した自慢の品揃えだ。
「すごい……本格的なお店になってますね」
リーナが感嘆の声を上げると、ベラが笑顔で応じた。
「リーナちゃんの料理教室のおかげで、みんな出汁の大切さが分かったからね」
「もう予約も何件か入ってるのよ」
マリアの声にも、自信と誇らしさがにじんでいる。
「本当?良かった!」
リーナも安堵の表情を浮かべる。
その時、店の外から子どもの声が聞こえてきた。
「お母さん、これがツチタケ?お味噌汁のやつ?」
「そうよ。今日からこのお店で買えるんだから、助かるわねぇ」
若い母親がツチタケの詰め合わせを手に取り、隣で話していた年配のご婦人はウミクサの乾燥束を見つめてうなずいている。
店の前には行列ができ始めていた。
開店の熱気を名残惜しく見送りながら、リーナは「アンナの食卓」へと引き返した。
午後からは料理教室の時間だ。
今日は特別な食材を紹介する予定になっている。
* * *
午後、「アンナの食卓」の2階には、いつもの顔ぶれが集まっていた。パン屋のソフィア、近所の主婦たち、そして今日は特別に騎士団の料理人、ロドリックも参加している。
「皆さん、今日は新しい食材をご紹介します」
リーナが机の上に麻袋を置くと、中から小さな白い粒がさらさらと転がり出た。
「これは『コメ』という穀物です」
「小さいのね」
ソフィアが興味深そうに見つめる。
「これが食べ物になるんですか?」
主婦の一人が不思議そうに首をかしげる中、ロドリックは米粒をそっと指先に乗せ、しばらく見つめていた。
「興味深い……どのように調理されるのですか?」
「水で炊くんです。少ない水で蒸すように煮ると、この小さな粒が膨らんで、白くて甘い『ご飯』という料理になるんですよ」
リーナが説明しながら、米を研ぎ始める。
「まずは丁寧に洗って…」
冷たい水の中で米粒が踊ると、だんだんと研ぎ汁が透明になっていく。
「なるほど、表面の汚れを落とすのですね」
ロドリックが真剣に見つめる。
「次に、水の量を調整します」
鍋に米を移し、指の第一関節まで水を入れる。
「このくらいが目安です」
「……ずいぶん少ないように見えますが?」
不安げな声に、リーナは笑って応える。
「大丈夫です。炊いている間に水を吸って、膨らみますから」
火にかけると、やがて鍋の中からぽこぽこと音がしてきた。
15分ほど経って、チリチリという音に変わったところで火を止める。
部屋にふわりと立ち込める香りに、誰もが思わず鼻を動かした。
「……この香り、素晴らしいですね」
ロドリックが目を細め、深く息を吸う。
「パンとも全く違う……穀物そのものの、素朴で温かい香りがする」
やがて蒸らし時間が終わり、リーナがゆっくりと蓋を開ける。
真っ白でふっくらとしたご飯が、湯気の中から現れた。
「わぁ……!」
「ほんとに白い!」
「粒が立ってる!」
みんなが小さなお椀によそったご飯を口に運ぶ。
「美味しい!」
「もちもちしてる」
「優しい甘みがある」
驚きの声が上がる中、ロドリックは無言のまま、お椀の中をじっと見つめていた。
「これは……」
しばらくして彼が静かに言葉を発した。
「これは、生命の目覚めだ」
視線はまっすぐ、湯気の向こうを見ている。
「土のぬくもり、水の流れ、太陽の光――その全てが、この小さな粒に宿っている。火とともに目覚め、こうして姿を現した……これは、自然と人が織りなす『いただきもの』だ」
参加者たちは一瞬呆気にとられたが、すぐにくすくすと笑い、温かな拍手が起こった。
「さて、今日はこのコメを使った料理をもう一品、ご紹介します」
リーナは用意していた食材を取り出す。
フェングリフの肉と、新鮮な卵――そして玉ねぎ。
「親子丼という料理です」
「親子?」
ロドリックが首をかしげる。
「鶏のお肉と卵を使うからです」
「なるほど!これは家族の調和を表現した料理なのですね」
ロドリックが感動したように頷く。
リーナは鶏肉を一口大に切り、薄切りの玉ねぎとともに鍋に入れて出汁で煮る。
醤と砂糖で甘辛く味を調え、煮立ったところで溶き卵を流し入れると、ふわふわの卵とじが出来上がる。
それをご飯の上にそっとのせて、親子丼の完成だ。
「わあ、いい匂い!」
「こんなに彩りがいいのに、鍋一つでできるの?」
「しかも、一皿で完成してるわ!」
参加者たちは湯気の立つ丼を前に、期待に目を輝かせた。
そして、最初のひと口。
「……美味しい!」
「卵がとろとろで、お肉がやわらかい!」
「この甘さ、クセになるわ」
声があがる中、ロドリックは丼を手に取り、目を閉じてゆっくりと味わった。
そして――
「まさに家族の物語だ」
ぽつりと漏らしたその一言に、再び場が静まる。
「親と子がひとつの器で巡り合い、出汁の海でぬくもりを交わす。そこに、大地の恵みたるご飯が寄り添う……」
「まさに家族の食卓そのものです」
またもロドリック節が炸裂し、皆が吹き出しながらも、どこか頷いていた。
「ロドリックさん、騎士団の厨房でも作れそうですか?」
リーナが尋ねると、彼は力強くうなずく。
「もちろん!これだけボリュームがありながら、体に優しい……騎士たちの腹ごしらえにもぴったりです!」
その言葉に参加者たちも嬉しそうに頷いた。
料理教室が終わる頃には、みんなが炊飯のコツや親子丼の作り方を熱心にメモしていた。
「家で家族に作ってみたい」と意気込む声も多く、笑顔が絶えない時間となった。
夕方、リーナは再び乾物屋へと足を運んだ。
店の前には、今も数人の客が並んでいる。
「リーナちゃん!」
ベラが手を振り、マリアも満面の笑みで応える。
「おかげさまで、初日から大盛況よ!」
「ツチタケもウミクサも、どんどん売れてるの!」
通りでは、今日の料理教室に参加した主婦たちが顔を合わせて、さっそくご飯の炊き方について語り合っていた。
二つの出来事が重なった今日は、アードベルの食文化にとって、また一つの大きな転換点となった。
リーナは夕日に染まる街を見渡しながら、静かに微笑んだ。
(みんなが料理を楽しんでくれて、本当に嬉しいな)
これからも、この街に美味しい幸せを広げていこう。
そんな温かい思いを胸に、リーナは「アンナの食卓」へと帰っていった。