エドワードさんと懐かしのコメ
昼下がりの「アンナの食卓」には、いつものように穏やかな時間が流れていた。
お昼のお客様も引け、リーナはのんびりと厨房の片付けを進めていた。マルクは帳簿と格闘中、アンナは明日の仕込みについて相談しようと、リーナの手元を眺めている。
そんな時、扉の鈴が軽やかに鳴った。
「こんにちは、お邪魔します」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには旅装束に身を包んだ紳士が立っていた。
「あっ、エドワードさん!」
リーナは手を拭いて駆け寄る。東方交易商のエドワード・モリス。醤や味噌の仕入れを取り次いでくれている、頼りになる商人だ。
「リーナさん、お元気でしたか?」
丁寧なお辞儀と品のある笑みに、リーナも自然と笑みを返した。
「はい、おかげさまで。エドワードさんもお元気そうですね」
「ええ。街では慰労会の話題で持ちきりでしたよ。リーナさんの料理がとても評判だったと、皆さん口々に」
「……それは嬉しいですね」
エドワードの言葉に、リーナの表情が照れくさそうにほころぶ。
そのままアンナとマルクも加わり、和やかな雑談が始まった。
「ところで、今日は新しい東方の食材をお持ちしました」
エドワードがふと、声を低めて切り出す。
「以前、リーナさんが興味を持たれていたものです」
「えっ?」
彼が取り出したのは、ずっしりとした麻袋だった。口を開けると、中からさらさらと白い粒が流れ落ちる。
「これは……『コメ』と呼ばれている穀物です」
リーナの手が、ぴたりと止まった。
こぼれ落ちた白い粒は、小さくて細長く、どこか懐かしい形をしていた。
指先でそっとすくい上げ、手のひらに広げる。肌に触れた瞬間、記憶の扉が音を立てて開いた。
(……念のため、確認しよう)
目を凝らすと、文字が浮かび上がる。
『白米』
『品質:中級』
『特性:炊飯により甘みと粘り気を引き出す』
『用途:主食、握り飯、炒め物、粥など多用途に適応』
浮かんだ文字を読み終えた瞬間、リーナの胸の奥に熱いものが込み上げる。
(やっぱり……お米だ)
あの日々の情景が一気に蘇る。 祖母と並んで土鍋の前で、炊きあがりを待った夕方。 小さなアパートでひとり、鍋の音を聞きながら食べた夜。
(お米……日本のお米……)
「リーナちゃん?」
アンナの声に、はっと我に返る。
「あ、いえ……少し、見覚えがあって」
咄嗟に笑みを浮かべる。前世の記憶など、説明できるわけがない。
「これは、どんなふうに食べるものなんでしょうか?」
「それが、実はよく分からないのです」
エドワードは眉をひそめる。
「東方の商人たちは『水で煮る』としか教えてくれなくて。パンのようにこねるのかとも思ったのですが……」
「うーん、小さいのお」
マルクが米粒をつまんで観察する。
「これで腹が満たせるのか疑問じゃな」
「細くて華奢な粒ね。粉にするわけでもなさそうだし……」
アンナも不思議そうに見つめている。
リーナは胸の奥にこみあげる感情を必死に抑えながら、やがて静かに口を開いた。
「確か……水で炊くんだったと思います」
「炊く?」
エドワードが首を傾げる。
「茹でるのではなく、少なめの水でじっくりと熱を通す感じです。ふっくらと蒸し上がるように……」
言いながら、リーナの心の中には祖母の言葉が浮かんでいた。
——チリチリと音がするでしょう? ——あと少しだけ待つ時間よ。
「では、試してみてもいいですか?」
「もちろん!」
エドワードが目を輝かせた。
「ぜひお願いします。量はどれくらいに?」
「そうですね……まずは、お椀に二杯くらい。失敗しても大丈夫なように、少しだけ」
リーナは袋から米を取り出し、ボウルに移すと、冷たい水を注いだ。
水の中で、米粒がゆらゆらと踊る。
その音、感触、流れ出す薄白い研ぎ汁——。
(……懐かしい)
思わず、息をのむ。 あの静かなキッチンで、祖母と並んでいた記憶。 「一粒一粒、大切にしなさい」と笑っていた声が、今にも聞こえてきそうだった。
「なるほど、まずは洗うんですね」
エドワードが覗き込む。
「はい。表面の粉や汚れを落とすんです。炊き上がりの香りにも関わるので」
リーナは手のひらで優しく米を撫でるようにして、何度も水を替えながら丁寧に研いでいく。研ぎ汁は最初こそ白く濁っていたが、次第に透き通っていった。
それだけで、もう心があたたかくなる気がした。
「次は、水の量を測ります」
リーナは鍋に移した米に、静かに水を注いだ。
手の甲をそっとあて、指を沈めて水位を確認する。
「このくらい……指の第一関節までが目安です」
「そんなもので大丈夫なの?」
アンナが心配そうに尋ねる。
「はい。炊いているうちに、米が水を吸って膨らみますから」
リーナは火を起こし、鍋をそっとかまどに置いた。
パチパチと薪がはぜる音が、じわじわと緊張を解いてくれる。
(強火で、ぐつぐつと……音が変わるまで)
やがて鍋の中から、ふつふつと泡が立つ音が聞こえてきた。米が水を吸って動き出し、湯気がうっすらと鍋の縁から漏れ始める。
(ここで弱火……)
「……いい匂いがしてきたな」
マルクが鼻をくんくんと動かす。
ふわりと立ちのぼる湯気に、ほのかな甘みが混じっている。
パンとも、スープとも違う、柔らかでやさしい香り。
「この香り、癖になりそう……」
アンナが目を細めた。
15分ほど経った頃、チリチリと音がし始めたところで、リーナは火を止めた。
「ここから、蒸らします」
「蒸らす?」
「余熱で仕上げるんです。しばらく静かに待つと、中までふっくら炊けますから」
待っている間、厨房には独特の香ばしい香りが漂っていた。
炊きたてのご飯の香り。
リーナは思わず目を閉じて、深く息を吸い込む。
(ああ……この匂い……)
前世で毎日嗅いでいた、あの懐かしい香り。
涙が出そうになるのを、必死にこらえる。
「リーナちゃん、大丈夫?」
アンナが心配そうに声をかける。
「はい、ただ……本当に良い香りだなぁと思って」
そして、蒸らし終えた鍋の蓋を、そっと持ち上げる。
ぶわっと湯気が立ち上がり、真っ白で艶やかなご飯が顔をのぞかせた。
「おおお……」
マルクが感嘆の声を上げる。
「こんなに真っ白になるのか!」
「まあ、美しい……」
アンナもうっとりと見つめる。
「小さな粒だったのに、こんなにふっくらと」
エドワードは目を丸くして、鍋の中を覗き込んだ。
「これは……まるで真珠のようです。本当に食べられるんですか?」
「もちろんです」
リーナはふわりとご飯をほぐす。一粒一粒が立ち上がり、艶めいて、ほのかに湯気をまとっている。
そして鍋底を見ると、薄く黄金色に色づいた部分が見えた。
「あ、おこげができてますね」
「おこげ?」
エドワードが首をかしげる。
「鍋底の、少し焦げた部分です。これも美味しいんですよ」
リーナは薄く色づいた米粒も丁寧にすくい上げる。香ばしい香りが一段と強くなった。
「それでは、どうぞ」
小さなお椀に盛り分け、みんなの前へと並べる。
湯気のたつ白いご飯を前にして、三人はそろって手を合わせた。
「いただきます」
マルクが一口食べた瞬間、目を丸くして声を上げる。
「……うまい! なんだこれ、もちもちしてて、甘い!」
「まあ……優しい味ね。噛むと、甘みが広がって……」
アンナが嬉しそうに頬を緩める。
「これは……不思議な食感です。ぱさつかないし、柔らかいのに、形が崩れない」
エドワードが感動したように口にした。
「あ、このちょっと色づいた部分も試してみてください」
リーナがおこげの部分を取り分けると、三人とも興味深そうに口に運ぶ。
「おお……これは香ばしいのお!」
マルクが目を丸くする。
「同じ食材なのに、全く違う味わいですね」
エドワードも驚いたように頷いた。
「カリッとした食感も面白いわ」
アンナも感心している。
リーナも、ご飯を口に運ぶ。
ほんのりとした甘み、もちもちとした食感、噛むほどに感じる米の旨味。
(ああ……お米……)
その美味しさに、気づけば頬に熱いものがつたっていた。
「リーナちゃん……?」
アンナが驚いたように顔をのぞき込む。
リーナは、はっとして涙を拭った。
「すみません、本当に……本当に美味しくて、感動してしまって」
ふっと笑いながら、もう一度、ご飯を口に運ぶ。
前世を思い出すと同時に、この新しい人生での出会いにも感謝の気持ちが湧き上がる。
「リーナさん、これは素晴らしいです!」
エドワードが目を輝かせて言う。
「この『コメ』、もっと広めたい。他にも料理法はあるのでしょうか?」
「はい。握ったり、炒めたり、スープに入れたり……色々と」
「握る?」「炒める?」
一斉に首をかしげる三人に、リーナはくすりと笑う。
「ふふ、次はそれをお見せしますね」
湯気の立つご飯を見つめながら、リーナは心の中でつぶやいた。
(お米、ありがとう。また会えて、本当に嬉しいよ)
これから始まる米料理の無限の可能性に、リーナの胸は静かに躍っていた。