唐揚げと転生の記憶
出発から七日目。国境を越え、荷馬車はブランネル王国の森深くを進んでいた。湿った土の上を行く車輪の音が、静かに響く。昼間だというのに、頭上を覆う木々のせいで、昼なのに薄暗さが続く。肌を刺す空気はひんやりと冷たく、濡れた土と苔の匂いがした。
賑やかだった鳥のさえずりは、いつしか完全に途絶え、風が木々を揺らす音すら聞こえない。不自然なまでの静寂の中、馬が不安そうに鼻を鳴らし、歩調を乱し始めた。
「この辺り、最近魔物が出るって話だが……」
森道を走る馬車が、急にがくんと止まった。
「どうした?」
マルクが顔を出すと、御者が険しい顔で答えた。
「……道に木が倒れております。少し時間をいただければ、どかしますが……」
リーナは馬車の窓から外を見やった。午後の陽射しすら届かない薄闇の中、巨大な針葉樹が道に横たわっている。
「……変ね。まるで森全体が息を潜めているみたい」
リーナの言葉に、マルクも不安げに耳を澄ます。
「そうじゃ、みんなで木をどかせば早く通り抜けられるぞ」
マルクが威勢よく声を上げ、馬車から身を下ろした。アンナとリーナもそれに続いて外へ出る。
太い幹の針葉樹が根元から倒れていた。マルクが手を添えて押してみたが、幹は微動だにしない。根元を見ると、何かに引き裂かれたような痕跡があった。
「これ……普通の倒木じゃない?」
リーナが木の根元を指差す。樹皮が何本もの爪痕で削られていた。深く、鋭く。人間の手では絶対につけられない傷だ。
「魔物の仕業か……」
御者の顔が青ざめる。
「でも、もう去ったかもしれんし」
マルクが倒木をどかそうと一歩を踏み出した、その直後――
ばさり。
重く、低い羽音が響いた。それは鳥の羽ばたきなどではない。もっと大きく、もっと不気味な音だった。
木々の枝がざわめく。何かが上空を通り過ぎていく。
「マルクさん!アンナさん! 下がって!」
叫ぶリーナの声と同時に、黒い影が空を切る。
巨大な鳥型の魔物――フェングリフが馬車に向かって急降下してきた。翼を広げた全長は優に三メートルを超える。漆黒の羽根、鋭い爪、そして獲物を見据える金色の瞳。森に住む魔物の中でも特に獰猛で知られる存在だった。
御者が腰を抜かして尻餅をつく。馬たちも恐怖で嘶き、暴れ始めた。リーナは迷わず二人の前に飛び出し、小さな護身用ナイフを抜く。息が浅くなり、胸の奥で心臓が激しく鼓動を打っている。
(せめて、二人だけでも逃がさなければ! 時間稼ぎくらいには、なるはず!)
手が震え、足もガクガクと震える。こんな小さなナイフが、あの巨体に通用するはずがない。
リーナは奥歯を噛みしめ、震える膝に力を込めた。
フェングリフが翼を広げて飛び立つ。
鋭い爪が陽に反射しリーナの肌が粟立った。あの爪にかかれば、人間の身体など紙のように裂かれてしまうだろう。視界が影で覆われようとした瞬間。
「よっ、と!」
赤い閃光が横から飛び込み、魔物の爪を甲高い金属音と共に弾き飛ばした。現れたのは、一人の青年。
彼が構えた剣には、紅蓮の炎が宿る。ゴウ、と音を立てて燃え盛る炎は風に絡みつき、森の影を赤く染め上げた。
「お嬢さん、怪我はない? 勇敢だったな」
不意にかけられた軽やかな声に、リーナはまだ現実が掴めずにいた。目の前の見知らぬ青年と、彼が携える炎の剣。その熱波が、恐怖で冷え切った肌をちりっと焦がす。
「あ……あなたは?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。警戒を込めて相手を見据える。
「あとで名乗るよ。今はこっちが先だ!」
わずかな会話を残し、青年は再び魔物へと向き直る。炎を映して揺らめく琥珀の瞳は、先程の軽やかさを消し去り、鋭さを帯びていた。
フェングリフが雷鳴のような咆哮を上げる。攻撃されたことへの怒りに燃える金色の瞳。
「怒ってるなぁ。でも、ちょっと相手が悪かったんじゃない?」
軽口とは裏腹に、踏み出した足が地面をとらえ、そのまま次の動作へと流れた。視界の先から魔物が突進してくる。巨体が地面を蹴り、轟音が森を揺らす。
ヒュッと空気を切り裂く音と共に炎の剣が閃き、魔物の毛が焼け、焦げた匂いが鼻をついた。
狙いすました一撃が急所を捉え、巨体の動きが鈍っていく。それでも最後の力を振り絞り、飛びかかってくる。
青年が深く息を吸った。炎が剣身を伝い、一気に駆け上がった。これまでとは比較にならない輝きを放つ。凄まじい熱量と光が放たれ、リーナは咄嗟に腕で顔を庇った。
紅蓮の軌跡が魔物の巨体を断ち、フェングリフが重い音を立てて地に倒れ込んだ。
「ふぅ、完了っと」
青年が剣を鞘に収め、振り返った。まだ熱の名残が漂う空気の中、リーナは息を飲むのも忘れてその光景を見つめていたが、彼と視線が合って我に返る。
「無事か? 泣いてない?」
彼の悪戯っぽい笑顔に、リーナは小さく息を吐き、強張っていた肩から力を抜いて視線をそらした。咄嗟に感情を悟られまいとスッと表情を消し、努めて平坦な声で答える。
「泣いてないわ」
「泣いてないのか。慰められないじゃん」
青年が、にやりとウィンクした。その場違いな陽気さに、リーナはわずかに頬を引き攣らせた。
風向きが変わり、ふと鼻をかすめた匂いに眉をひそめる。
魔物の焼けた匂い。その奥に、もっと馴染みのある――焦げた脂、醤油、にんにく。
(……これ、唐揚げの匂い?)
ズキンと、頭の奥を鋭い痛みが貫き、頭の中に一気にどこかの風景が流れ込んできた。
古びた厨房。油の跳ねる音。白いエプロン。湯気。カウンターの笑顔。
「いらっしゃい! 今日の唐揚げ、カリッと揚がってるよ!」
笑っていたのは、自分。でも今の自分じゃない。
――別の人生の光景だった。
日本。二十八歳。気づけば彼氏いない歴=年齢を更新中だった。両親を早くに亡くし、小料理屋を営む祖母に育てられた。祖母亡き後は高校中退。その後、惣菜屋で唐揚げを揚げ続けた日々。
「美味しかったよ」「また来るね」――その一言が嬉しくて。その言葉だけが、一日の疲れを吹き飛ばす魔法だった。
いつか自分の店を持ちたいと夢見て、叶うことなく交通事故で命を落とした。信号待ち中、居眠りトラックに突っ込まれ――目覚めると「リーナ・リヴィエ」としてこの世界に生まれ変わっていた。
(思い出したわ……全部)
惣菜屋で過ごした日々。味や香り。下味の手順。油の温度の見極め――そのすべてが鮮明に蘇る。身体の奥に染みついた感覚が、忘れていた技術が、腕の中で形を取り始める。それと同時に、胸の奥から不思議な感覚が湧き上がってきた。
フェングリフの死骸を見ると、目の前に薄っすらと文字が浮かび上がった。
『フェングリフ(軍鶏)』
『部位:胸肉、もも肉、手羽先、手羽元、せせり、ささみ……』
『品質:上級』
『調理法:唐揚げ、照り焼き、水炊きに最適』
「……何これ?」
リーナは思わず目をこする。けれど文字は消えない。前世でやったことのあるゲームの鑑定とかステータスに似ている。でも、あれは画面の中の話で――もう一度、魔物を見つめると、情報が更新される。
『特殊効果:魔力回復効果あり』
心臓が音を立てる。これは幻覚じゃない。本当に、見えている。なんでかは分からないけれど、一つだけ確かなことがある。素材の質、脂の入り方、筋肉の締まり。
(これ、唐揚げにしたら絶対美味しい!!)
むしろ、軍鶏より上質かもしれない。野生の締まり、魔力の影響か、滋養に富んだ味わいすら感じられそうだった。下味は醤油、酒、しょうが、にんにく。
(あ、でもこの世界に醤油ってあるのかな? うーん……確か、東方から輸入される『醤』って調味料があったような)
衣は片栗粉と小麦粉を半々で。油の温度は百七十度。考えれば考えるほど、頭の中が活気づいていく。リーナの目が異様に輝く。
「これ……」
息を詰めて、魔物の死骸を見つめる。
「食べられるんじゃない?」
「は!?」
青年が素っ頓狂な声を上げた。マルクとアンナも、目を丸くしている。
「魔物の肉だぞ? 食べるつもりか?」
「え、ダメなの?」
リーナが純粋に首をかしげると、青年は口を押さえた。マルクとアンナは凍りつき、ようやく追いついた御者は腰を抜かしている。だが、リーナの視線は魔物の肉に釘づけだった。
「でも、これ毒ないよ?」
言いながら、リーナ自身も不思議に思う。なぜ、そう断言できるのか。でも、目の前に浮かぶ文字は『毒性:なし』と示している。
「毒もないし、魔力回復効果まであるって。最高の食材なんじゃない?」
リーナの瞳は、生き生きと輝き、声は明らかに高揚していた。
「え? 魔物を最高の食材って言うやつ、初めて見たぞ……」
青年はあっけに取られた様子だったが、すぐに堪えきれないように吹き出した。
「それに、からあげって何だ? 料理名なのか?」
「最高に美味しい料理よ!」
リーナが熱っぽく語り始めた。その変貌ぶりに、マルクがぽつりと呟く。
「……花が咲いたみたいじゃ」
アンナが深く頷いた。期待に満ちたリーナの視線が、青年を射抜く。
「じゃあ、街に行く前に、ちょっと試してみる?」
「面白そうだな、乗った!」
青年は、にやりと口角を上げた。
「俺はジュード。ジュード・ベネットだ。よろしくな、変わったお嬢さん」
「私はリーナ・リ……いえ」
リーナは一度言葉を切り、小さく首を振った。もう、あの家の名は必要ない。 顔を上げ、晴れやかな笑顔で告げる。
「リーナです。よろしくお願いします、ジュードさん」




