元婚約者は想像の斜め上
高慢な貴族たちが「金の麦穂亭」から去って1週間後。 場所はブランネル王国の王都。豪奢な最上級客室にて――
「……あの味が忘れられない」
エリオット・クライドは、窓の外の遠景をぼんやりと見つめながら、ぽつりと呟いた。
あの日食べた魔物肉のロースト。あれは、間違いなく人生で最高の一皿だった。
「またその話?」
隣で優雅に爪の手入れをしていたミランダ・バローズが、うんざりとした表情でため息をついた。
「僕はね、あれほど完璧な料理を味わったことがないんだ。あの料理人を見つけ出したい」
「でも、あの宿の料理人が作ったんでしょう?」
「いや、違う。あの日だけ、明らかに別の料理人が厨房に入っていた。フリッツという男に聞いてみたが、何かを隠しているようだったよ」
エリオットは窓辺から身を翻し、ミランダに向かって真剣な目を向けた。
「帰りにアードベルへ寄ろう。街で聞き込みをすれば、あれほどの腕前の持ち主なら、きっと評判になっているはずだ」
* * *
二日後――アードベル。
「魔物肉のローストを作れる料理人?いっぱいいて分からんよ」
「魔物料理はこの街の名物だからね。いろんな人が作れるさ」
商人も、職人も、誰一人として候補がいっぱいいて分からないと首を振った。 エリオットの苛立ちは募る一方で、ミランダはあくびを噛み殺しながらついて歩く。
「もういいじゃない、エリオット。そんなに躍起になるほど?」
「いいや、諦められるわけがないだろう。クライド公爵家の名に懸けて、あの料理を再び味わう」
エリオットの目がぎらつくように光った。その時、通りすがる二人の女性の会話がふと耳に入った。
「今日もアンナの食卓、混んでるって」
「当然よ。あのリーナちゃんの料理は本当に絶品だもの」
「魔物料理なんて、彼女が来てから初めて口にしたけど、もう病みつきよね」
「……リーナ?」
「魔物料理?」
エリオットとミランダは顔を見合わせた。 その直後、エリオットはぱんと手を叩いた。
「その店に行ってみよう! きっとそこだ!」
* * *
昼時の「アンナの食卓」には、すでに10人ほどの行列ができていた。 近所の職人や商人たちが、笑顔で談笑しながら順番を待っている。
「なによ、この行列……。庶民って、こんなにも辛抱強いの?」
ミランダが眉をしかめた。
「まったく……でも仕方ない。あの料理人に会うためだ」
エリオットは腕を組んで前を睨むが、数分と経たず痺れを切らした。
「失礼」
そう言って、行列の先頭に割り込もうとしたその時、大柄な大工のトムが怪訝な顔で振り返った。
「おい、何してる。ちゃんと順番を守れ」
「僕はクライド公爵家の者だ。すぐに済む、先に通してくれたまえ」
「公爵だろうが王様だろうが、ここでは関係ない。後ろに並べ」
トムはぴしゃりと言い放った。
周囲の客たちも、ピリついた視線を一斉にエリオットへ向けた。 彼にとって、これはまったくの異常事態だった。普段なら名を出すだけで道が開ける。だが、この町の空気は違う。
「まあまあ……」
ミランダが作り笑いを浮かべ、周囲に声をかけた。
「みなさん、どうして列を作っているの? 少しだけ話をしたいだけなんだけど」
野菜売りのベラが肩をすくめた。
「そりゃもちろん、この店の絶品料理を食べるためさ」
エリオットが一歩前に出た。少し鼻息が荒くなっている。
「この店の料理人に話があるんだ。僕の時間を無駄にしないでくれるかな?」
「これだから貴族は」
パン屋のソフィアがあからさまに眉をひそめる。
「貴族だろうが順番は順番。ここはそういう場所だよ」
エリオットの額に、じわりと汗が浮かぶ。 彼の声はほんの僅かに上擦っていた。 周囲の視線が重く、冷や汗が首筋を伝う。
「いいから、料理人を呼べ!」
そう言って店の扉を乱暴に押し開けようとした、その時――
ちょうど中から、エプロン姿の少女が現れた。
「どうかなさいましたか?」
店の中から出てきたのは、艶のある黒髪を後ろでまとめ、白いエプロンを身に着けた若い女性だった。 その姿を目にした瞬間、エリオットとミランダの足が止まり、目を見開く。
「リーナ・リヴィエ……?」
まさか――。 いや、間違いようがない。
リーナもまた二人の顔を認め、動揺を隠せなかった。
(……なんで、こいつらがここに!?)
しかし、深く息を吸い、表情を整える。 今の自分は、もうあの屋敷の令嬢ではないのだから。
「エリオット様、ミランダ様」
静かで淡々とした口調で挨拶するリーナに、エリオットが目を輝かせて一歩踏み出す。
「やはり君だったのか! こんな場所で、こんな格好で……まさか、料理人をしているなんて」
「勘当されたんでしょう?」
ミランダが横から口を挟んだ。唇には侮蔑の笑みが浮かんでいる。
「婚約を破棄されて、実家にいられなくなった可哀想な令嬢。けれど平民相手にお料理だなんて……ふふ、ずいぶん様になってるじゃない?」
その言葉に、店の中の常連客たちがざわついた。
「えっ、リーナちゃんって貴族だったの?」
「勘当……? 婚約破棄って、誰が?」
エリオットはその反応を聞いて、自信を深めたかのように頷いた。
「やはり、あの料理は君だったんだな。先週、この町の宿で出された魔物肉のロースト。あれほどの味は他にない」
リーナは一瞬だけ迷ったが、すぐに答える。
「……はい。フリッツさんと一緒に作りました」
「やっぱり君か!」
エリオットは勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「そうかそうか……ふふっ、なるほどな。あんな田舎町で、偶然僕が訪れた場所で君が料理していたのも……全部、そういうことだったんだな?」
「……はい?」
「君、まさか僕を追ってここまで来たのか? いや、違うな――ずっと僕を想っていて、再会を信じてこの町で待っていた……! 君のその一途な想い、よくわかったよ。でも安心しろ、僕が救ってあげる」
(……本気で言ってるの?未練も何もないんだけど!)
リーナは呆れるような目で彼を見つめながら、心の中で深くため息をついた。
「だからこそ、僕は君に手を差し伸べようと思う。――君を、僕専属の料理人として雇ってあげよう。給金は弾むし、クライド公爵家の名誉も手に入る。これ以上ない好待遇だよ?」
その場が静まり返った。 誰もが目の前の男が何を言っているのか、理解できずにいた。
リーナは一度だけ目を閉じ、胸の奥に浮かんだざわめきを静かに沈めた。 そして、まっすぐにエリオットを見つめる。
「……お断りします」
「……は?」
「私は、ここで働きたいんです。あなたに未練など一片もありません。それに……」
一拍。
「あなたの傍で働くなんて、身の毛がよだちます」
「なっ……!」
エリオットの顔が真っ赤に染まった。周囲の視線がさらに刺さる。
「君は僕が誰かわかって言っているのか!? クライド公爵家の三男で――」
「私の元・婚約者ですよね」
リーナは冷たく言い放った。その言葉には、怯えも未練もなかった。
「でも、それが何か?」
ざわっ、と店内の空気が動く。
「こいつ、リーナちゃんを捨てたのか!?」
「よくもそんなことを……!」
「帰れ!」
「リーナちゃんを傷つけるな!」
次第に怒りの声が上がり、視線は敵意に変わっていく。 周囲の空気に、さすがのミランダも顔を引きつらせた。
「ちょっ、なんなのよこの人たち……! なんで庶民のくせに、私たちに……!」
エリオットも戸惑っていた。 彼の頭の中には、リーナが笑顔で感謝し、自ら料理人として仕えると思い込んでいたのだ。
「君は……僕を拒むのか……?」
「ええ」
リーナは、はっきりと頷いた。
「私は今の生活に満足しています。あなたたちのような方々とは、もう関わりたくありません」
その瞬間、リーナの背後から声がした。
「リーナ?」
聞き慣れた声に、リーナが反射的に振り返る。
そこには、遠征帰りの姿そのままに、風に乱れた赤茶の髪を揺らす男――ジュード・ベネットが立っていた。
彼はその場の張りつめた空気と、リーナの険しい表情を見て、目を細める。 琥珀色の瞳が、一瞬で鋭く光を帯びた。
「――これは何の騒ぎ?」