華やかなローストで挑戦状
朝の準備を終えたリーナが店内の掃除をしていると、入り口のドアが開いた。振り返ると、昨日出会ったばかりのローラが困ったような表情で立っている。
「おはよう、ローラ。どうしたの?」
「おはよう、リーナ。あの……ちょっと相談があって」
ローラの声には昨日の明るさがない。リーナは手を止めて振り返った。
「どうぞ、座って。何かあったの?」
ローラは席に着くと、小さくため息をついた。
「昨日のあのお客様……やっぱり昨夜の夕食でも、酷い言われようで……」
「『こんな料理で金を取る気か』なんて言われて……。今朝も『やっぱり田舎の宿ね』って鼻で笑って……もう、聞いていられなくて……」
ローラの目に涙が浮かんでいる。
「お父さんもお母さんも、うちの料理人のフリッツさんも、すごく落ち込んでて。フリッツさんなんて30年も料理を作ってるのに『もう料理を作る自信がない』なんて言い出したの」
リーナの胸に怒りがこみ上げてきた。料理人のプライドを踏みにじるなんて、許せない。
「それで、もしかしてリーナの料理で何とかならないかなって思って……でも、うちの厨房を使ってもらうなんて図々しいかな」
ローラの遠慮がちな表情に、リーナは迷わず頷いた。
「フリッツさんが良ければ、もちろん手伝うよ!一緒に作ろう」
「本当?」
ローラの顔がぱっと明るくなった。
「昨日ジュードさんから届いたストームホーンで特別な料理を作りましょう」
* * *
金の麦穂亭の厨房は、さすが高級宿だけあって設備が充実していた。大きなかまど、広い調理台に豊富な調理器具が揃っている。
厨房の奥で、50代ほどの男性が肩を落として座っていた。白い帽子をかぶり、エプロンをつけているが、その背中からは深い落胆が伝わってくる。
「フリッツさん、紹介するね。昨日お話しした、リーナよ」
ローラに紹介されて、フリッツがゆっくりと振り返った。疲れ切った表情だが、職人らしい誠実そうな目をしている。
「リーナさん……お若いのに、素晴らしい料理を作られるとか」
「いえ、そんな。フリッツさんこそ、30年も料理を作られてるんですよね」
「30年……それがあのお客様には全く通じませんでした」
フリッツの声は沈んでいる。
「今日、もし良かったら一緒に料理を作りませんか?新しい魔物の肉を使って」
リーナがストームホーンの肉を取り出すと、フリッツの目に興味の光がよぎった。
「これは……見たことのない肉ですね」
「ストームホーンという鹿系の魔物です。鹿肉はしっかり火を通した方がいいから、中まできちんと火を通しましょう」
「鹿肉……確かに、完全に加熱すべきですね」
フリッツが立ち上がった。職人としての血が騒いでいるようだ。
「どのような調理法を?」
「まず下味をつけて、表面をしっかり焼いてから、低温でじっくりローストします」
リーナは塩と黒コショウ、すりおろしたにんにくを取り出した。
「黒コショウを使うのですか?」
フリッツが驚いている。
「高価な香辛料ですが……」
「特別な料理ですから」
リーナは惜しみなく黒コショウを使い、肉の表面に丁寧に揉み込んでいく。フリッツも手伝いながら、その手際を見つめていた。
「なるほど、このようにしっかりと下味を……」
「2時間ほど室温で馴染ませましょう。その間にスープと付け合わせの準備をしませんか?」
* * *
下味をつけたストームホーンを置いて、リーナとフリッツはスープの準備を始めた。
「スープはどのようなものを?」
「フェングリフの出汁を使ったトマトスープを作ってみませんか?」
「フェングリフの出汁で……面白そうですね」
リーナがトマト、セロリ、玉ねぎ、オクラを持参すると、フリッツは先ほどまでの落ち込みようが嘘のように、生き生きとしていた。
「新しい調理法を学べるのは嬉しいものです」
フリッツが微笑んだ。
鍋にフェングリフの出汁を温め、細かく刻んだ野菜を加えていく。玉ねぎとセロリが出汁の中で踊るように煮える。
コトコト……
甘い香りが立ち上がってきた。
「トマトを加えて……」
角切りにしたトマトが鍋に入ると、一気に色鮮やかになった。最後に白ワインを少し加えて、香りを引き立てる。
「素晴らしい色ですね」
フリッツが感嘆している。
「オクラも加えましょう」
「彩りがより美しくなりますね」
* * *
2時間が経ち、下味の馴染んだストームホーンを焼く時間になった。
「フライパンを熱して、オリーブオイルを……」
「承知しました」
フリッツが慣れた手つきでフライパンを準備する。
「じゅわあっ」
肉が焼ける音と共に、香ばしい香りが厨房に広がった。上下と側面を丁寧に焼き、全体に美しい焼き色をつける。
香ばしい香りが、厨房の空気を満たしていく。黒コショウと肉汁の混ざった香り。食欲をそそるそれは、廊下を抜けて食堂へと届いていった。
「いい色に焼けましたね」
「はい、次はかまどの余熱を使って中まで火を通しましょう」
「なるほど……余熱でじっくり仕上げるとは」
フリッツが感心している。
「柔らかく仕上げる方法ですよ」
焼き上がったストームホーンは、香ばしい外皮の下にしっとりとした肉が隠れている。
「涼しい場所があればいいんだけど……」
「地下の貯蔵室があるわ!そこで冷やそう!」
ローラが案内してくれた地下室は、石造りの立派な空間だった。
「ここなら完璧に冷やせるね」
厚手の布で包んだストームホーンを涼しい地下室に安置した。
次は付け合わせだ。
「色とりどりの野菜で華やかにしたいんです」
「華やか……確かに、見た目も大切ですね」
フリッツが人参、カリフラワー、ブロッコリーを手に取った。
「蒸し野菜にして、ほうれん草はバターでソテーしましょう」
「承知しました」
30年の経験を持つフリッツの手際は見事だった。野菜を美しく切り揃え、蒸し器に並べていく。
* * *
夕方になり、いよいよ仕上げの時間だ。
地下室からストームホーンを取り出すと、完璧に冷えて熟成されていた。
「念のため確認してみましょう」
リーナは完成したローストに目を凝らし鑑定した。
『ストームホーンロースト』
『品質:上級』
『特性:完全加熱済み、安全に調理されている』
『用途:そのまま食用可能』
「完全に火が通ってる、これなら安全ね」
「そのような確認方法があるとは……」
フリッツが驚いている。
ストームホーンを薄切りにしていく。完全に火が通っているのに、肉汁がじゅわりと出てくる。
「素晴らしい仕上がりです」
フリッツの声に感動が込もっている。
大きな皿に色とりどりの蒸し野菜を並べ、ほうれん草のバターソテーを添える。その中央に、美しくスライスされたストームホーンローストを盛り付けた。
「まるで芸術作品のようですね」
赤いトマトスープ、緑のほうれん草、オレンジの人参、白いカリフラワー、そしてピンクがかった茶色のストームホーン。色彩豊かで美しい料理が完成した。
「フリッツさんの技術があったからこそです」
「いえいえ、リーナさんの指導のおかげです」
* * *
金の麦穂亭の食堂で、例の貴族カップルが夕食を待っている。男性は金髪で整った顔立ちだが、表情は傲慢そのもの。女性は栗色の巻き髪で豊満な体型、派手なドレスを着ている。
「どうせまた、塩気だけでごまかすんでしょうね……舌が痺れるわ」
女性が鼻で笑った。
「所詮は田舎の宿だからな」
男性も同調する。
そこに、ローラとフリッツが特別料理を運んできた。
「本日の特別料理でございます。アードベルで最近流行しております、魔物の肉を使った料理でございます」
皿が置かれた瞬間、2人の表情が変わった。
「魔物の肉?いや……でもこれは……」
華やかな盛り付けと、立ち上る香りに、思わず息を呑む。
「見た目だけなら合格点。でも……」
女性が呟いた。
トマトスープも続けて提供される。鮮やかな赤色と、フェングリフ出汁の豊かな香りが食堂に広がった。
「この香りは何?」
男性が困惑したような顔をしている。
恐る恐るストームホーンを口に運ぶ。噛むと、野性味のある深い味わいが口の中に広がった。しっかりと火が通っているのに、驚くほどジューシーで柔らかい。
「こんな肉料理、食べたことがない……」
女性も同様に驚いている。
「……これは……ちょっと、すごいかも」
トマトスープを一口飲むと、フェングリフ出汁の深いコクとトマトの酸味が絶妙に調和している。オクラのとろみが口当たりをまろやかにしていた。
2人は無言で料理を味わい続けた。いつもの横柄な態度は、どこかに消えてしまっている。
* * *
厨房で様子を見守っていたリーナとフリッツは、2人の反応に満足していた。
「やりましたね」
フリッツの顔に自信が戻っている。
「フリッツさんの技術があったからです」
「30年間料理を作ってきて、今日ほど達成感を感じたことはありません」
ローラも嬉しそうに厨房に戻ってきた。
「あの2人、完全に黙っちゃった。お父さんもお母さんも喜んでる」
「よかった」
リーナは心から安堵した。
「ありがとうございました、リーナさん」
フリッツが深々と頭を下げた。
「料理への情熱を思い出させてくれて」
「こちらこそ、勉強になりました」
店に戻る途中、リーナは今日の出来事を振り返っていた。フリッツさんの技術と経験、ローラの優しさ、そして美味しい料理。
でも、あの2人の貴族カップル。特に男性の方は、どこかで見たような気がするのは、きっと気のせいだろう。気のせいだと信じたい。
夜の風が心地よく吹き抜ける中、リーナは次の料理のことを考えていた。