リーナの料理教室と職人のプライド
朝から、リーナの胸はそわそわと落ち着かなかった。
「大丈夫よ、リーナちゃん。あなたなら絶対うまくいくわ」
アンナが温かい手でそっと肩を叩く。リビングでは、マルクが椅子の位置を微調整していた。
「そうじゃ。リーナちゃんの料理で感動しなかった人なんて、アードベルにはいないよ」
マルクの励ましに、リーナは小さく笑った。とはいえ、今日はただ料理を振る舞うのではなく――教える立場だ。
(ちゃんと説明できるかな……)
木のテーブルには、今日使う材料がきれいに並んでいる。ツチタケ、ウミクサ、卵。シンプルな材料、だからこそ技術の差が出る料理だ。
「あら、もうお客さんが来たみたいよ」
階下から話し声が聞こえる。リーナは深呼吸して、エプロンの紐をきゅっと結び直した。
「リーナちゃん、楽しみにしてたのよ!」
市場のベラが元気よく階段を上がってくる。後ろから、大工のトムとパン屋のソフィアも顔をのぞかせた。
「火加減のコツ、教えてくれるか?いっつも焦がしちまうんだよな」
「私も!パン作りに応用できそうなヒントがあればうれしいな」
常連客たちの賑やかな声に、リーナの緊張が少しずつほぐれていく。
――そのとき、見知らぬ男が静かに現れた。40代ほどの年齢。がっしりとした体格に、使い込まれた手。料理人のそれだ。
「失礼する。騎士団で厨房を預かっているロドリック・グレイだ」
低い声と厳しい表情。初対面の印象は、正直ちょっと怖い。
「あっ、ロドリックさんですね。バルトロメオ団長から伺ってます。今日はよろしくお願いします」
リーナが礼をすると、ロドリックはふん、と鼻を鳴らした。
「20年、団員たちの胃袋を支えてきたが……小娘に何が教えられるのか、興味はある」
その一言に、場が一瞬しんとした。だが、ベラが間髪入れずに手をひらひらと振る。
「あらロドリックさん、試してみればわかるわよ。ねえ、トム?」
「そうそう。俺も最初は半信半疑だったけど、今じゃすっかりファンだからな」
常連客たちのフォローに、リーナは感謝の気持ちでいっぱいになった。
「それでは、始めさせていただきますね。今日は、出汁を使っただし巻き卵を作ります」
* * *
「まずは、基本の出汁から取っていきましょう」
「ベラさんたちは、家でもお出汁を取ってるんですよね?」
「ええ。でも、やっぱりリーナちゃんのが一番おいしいのよね」
「同じ材料のはずなのに、どうして味が違うのかしら?」
「火加減と、タイミングですね。あとは……やっぱり愛情でしょうか」
ふふっと笑って言うと、周囲からも明るい笑い声が漏れる。ただ一人、ロドリックだけが腕を組んだまま無言で見ていた。
昨夜から、水にウミクサとツチタケをじっくり浸しておいた。
今回は、その戻し汁を鍋ごと弱火にかけ、沸騰しないように気をつけながら静かに温めていく。
沸く直前にウミクサを引き上げ、ツチタケだけを残して、さらにゆっくりと煮出していく――。
湯気とともに、山と海の旨味がふわりと混ざり合い、柔らかな香りが部屋いっぱいに広がった。
「これが……出汁?」
はじめてロドリックが声を発した。リーナが小さな器に出汁をすくって差し出すと、彼は少し躊躇してから口をつけた。
「……っ!」
その瞬間、ロドリックの眉が大きく跳ね上がった。
「な、なんだこれは……まるで……」
彼が突然、語り始める。
「柔らかな朝霧が森を包み込み、木々の隙間から差し込む光が、濡れた苔に反射するような……そんな味だ……!」
一同がぽかんと口を開ける中、ロドリックの言葉は止まらない。
「ウミクサのほのかな塩気が、ツチタケの奥深いコクを際立たせて……これは、スープでは留まらない。命を溶かしたような一椀だ!」
「……さっきまであんなに無口だったのに?」
トムが小声でつぶやき、ベラとソフィアが肩を震わせる。
「しかも何言ってるんだか分からないわ」
リーナは思わず笑いをこらえながら、言った。
「この出汁を使って、だし巻き卵を作りますね」
* * *
「出汁と卵を混ぜるのね……」
ソフィアが感心したように呟く。
「はい。卵3つに対して、出汁を大さじ3。そこに少しだけ砂糖を加えます」
ボウルの中で卵液がやさしく混ざり合い、淡く黄色がかった、とろみのある液体になった。
「次は、火加減がポイントです。強すぎると焦げちゃうし、弱すぎても固まらないので、ちょうどいい温度でじっくりと」
リーナが温めたフライパンに油を敷くと、じゅわっと音が響き、出汁の香りがふわりと立ち上った。卵液を注ぎ、手早く混ぜ、端から巻いていく。
「わあ……」
「すごくいい匂い!」
見守る参加者たちが、身を乗り出す。
何層にも重なった卵の間から、湯気が立ち上り、出汁の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。黄金色の艶やかな表面が、窓から差し込む光をやわらかく反射する。
「はい、完成です。ふわふわで、冷めてもおいしいですよ」
リーナが切り分けた断面からは、ほんのり出汁が滲み出ていた。
「それじゃあ、今度はみなさんの番です」
リーナの声に、それぞれが調理に取りかかる。
トムは焦り気味で卵液を流し込み、強火のまま焼いてしまった。
「うわっ、焦げた……!」
「大丈夫です。次は火を弱めてみましょう」
リーナが笑顔でフォローすると、トムも照れたように頷いた。
ベラは慣れた手つきで焼いていくが、巻くときに崩れてしまう。
「あら、形はいまいちだけど……愛嬌ってことで!」
ソフィアはパン作りで培った器用さを活かし、きれいな巻きに成功していた。
そして、ロドリック。
「……ふむ」
彼は無言のまま、真剣な表情で卵液を作る。フライパンの前に立つと、手早く油をひき、正確なタイミングで卵液を流し込む。
「おお、さすが!」
「巻き方がきれい……!」
職人の動きだった。滑らかに巻かれた卵焼きは、見た目にも美しく、ふわっとした厚みがあった。
「それでは、いただきます!」
テーブルの上には、各々が焼いた卵焼きが並ぶ。多少焦げたり崩れていたりもしたが、どれも笑顔と一緒に盛られていた。
「ふわふわ……!これは家でもやってみたい!」
「出汁が入ってると、全然ちがう……奥行きがあるわ」
「パンの具にしてもいいかも……!」
賑やかな声が飛び交う中、ロドリックは黙って自分の作品を一口、口に含んだ。
次の瞬間――
「……っ、なんということだ」
またスイッチが入った。皆が「始まった……」という顔で見守る中、ロドリックが再びグルメ評論家モードに突入する。
「出汁の旨味が、卵の優しい甘さと溶け合い、舌の上でとろけるようだ……!これは……ただの卵焼きではない。もはや一つの完成された料理、芸術だ!」
「オムレツとも違う……これは、卵と出汁の奇跡的な融合……料理の真髄だ……!」
熱弁を振るった後、ロドリックは我に返ったように黙り込む。
リーナが、そっと声をかける。
「すごく、お上手でした。焼き方も、出汁の加減も、完璧です」
ロドリックは複雑な表情で、ぽつりと呟いた。
「……技術では負けるつもりはなかった。だが……この発想は……」
「料理に、正解ってないと思うんです。今日は、いくつかの違いを楽しんでもらえたら、それで大成功ですよ」
そう言って笑ったリーナに、ロドリックはようやく、静かにうなずいた。
全員が帰り支度をはじめる頃、ベラが笑顔で言った。
「リーナちゃん、本当にありがとう。家でも作ってみるわね」
「次もあるんでしょ?楽しみにしてるよ」
「新作、期待してるから!」
それぞれが声をかけて帰っていく中、ロドリックだけが少し立ち止まって振り返った。
「……また、来させてもらう」
それだけを言い残して、静かに去っていく。
その後、静けさを取り戻したリビングに、足音が響く。
「よっ、リーナ。お疲れ」
「ジュード!」
リーナが振り返ると、ジュードが階段をのぼってきたところだった。
「今来たとこ。さっき廊下でロドリックさんとすれ違ったけど……何だか考え込んでたな」
「ふふ……色々あったから」
「料理教室、うまくいったんだな」
「うん。みんな、喜んでくれて……良かったよ」
安堵の笑顔を浮かべるリーナを見て、ジュードもやわらかく笑った。
「それはよかった。リーナの料理なら、きっとみんな感動するって分かってたよ」
そして、ふと表情を引き締める。
「……実はさ。ちょっと話があるんだ」
「え?」
「来週から、遠征に出ることになってさ」
その言葉に、リーナの胸がどくんと跳ねた。
「遠征……?」
「東の森に新しい魔物が出たらしくて。調査と討伐、だってさ。まあ……よくある任務だけど」
ジュードの声は、努めて明るかった。
「危険な任務、なの……?」
「正直、詳しいことはまだ分からないけど。あんまり心配しないで。俺、ちゃんと帰ってくるし」
リーナの心に、不安がじわりと広がる。
「……うん。待ってる」
「帰ったらまた、うまいもん食わせてよ。それを楽しみにしてるからさ」
そう言って、ジュードはいつもの軽い笑みを見せた。
* * *
ジュードが帰った後、リーナは一人、片付けを続けていた。
今日の料理教室は成功だった。だけど、ジュードがいない日々をどう過ごすか――答えは、すぐに出た。
『新しい料理を考えよう。ジュードが帰ってきたとき、一番に食べてもらえるように』
そう思うと、胸の奥にあった不安が、少しだけ和らいだ。
リーナは静かに微笑み、明日の仕込みに取りかかった。