乳兄弟
前世の記憶が戻って三日目の朝だった。
「失礼いたします、レオンハルト殿下」
柔らかくもきちんとした口調。入ってきたのは、乳母のヘレナだった。
彼女はいつものように品のある立ち居振る舞いで、でも今日は少しだけ、眉間にシワを寄せている。そしてその後ろには——
……え、誰だ?
明るい赤茶の髪に、ぱっちりとした琥珀色の目。肌は透けるほど白くて、鼻筋がすっと通っている。やたら整った顔立ちの子どもが、俺をじっと見ていた。
(ちょ、待て。この完成度……!)
3歳児って、もっとほっぺたがぷくぷくしてるもんじゃないのか? 俺なんて金髪に緑目の「よくいる王族顔」なのに、こいつはまるで洋画の子役みたいな見た目をしてる。
「おはようございます。レオンハルト殿下」
うわ、声まで澄んでる。しかも礼儀正しすぎる。
「あ、うん。おはよう」
(あっ……ジュードか)
記憶が繋がった瞬間、その子がぺこりと頭を下げた。
「今日はお勉強が終わったら、お庭で遊んでいらしてはいかがですか?」
ヘレナが優しく提案してくれた。でも、その声には何か心配そうな響きが混じっている。
(あー、そうか。ここ三日間の俺、記憶が戻ったせいで変だったのかも)
「分かったよ、ヘレナ」
***
「今日は古典文学の一節を写しましょう」
先生が板書を始める。この世界の文字が黒板に並んでいく。
(ん?読めるな。あれ?書けるぞ?)
まるで頭の中に辞書が入ってるみたいに、意味がすらすら浮かんでくる。
(転生者ボーナスとかなのか?)
隣を見ると、ジュードがとても真面目な表情で、丁寧に文字を書いている。集中してる姿が、なんというか、めちゃくちゃ可愛い。
(3歳でこのレベル?王族教育パねぇな……)
でも不思議と頭に入ってくる。前世の大学受験より楽かも。というか、俺なんて転生者ボーナスがなかったら完全に落ちこぼれてたぞ。
「次は歴史です。ブランネル王国の建国についてお話ししましょう」
おお、これは面白そうだ。前世じゃ知らない世界の話だから、純粋に興味が湧く。
「200年前、初代国王アルフレッド一世が...」
ふむふむ。隣国との戦争、同盟、交易路の確立。この世界なりの歴史があるんだな。
ジュードは相変わらず真剣に聞いている。時々、「はい」って手を上げて質問もしてる。
(真面目だなぁ、この子)
俺はといえば、転生者ボーナスで理解はできるけど、正直、現代人の感覚で「へー、そうなんだ」って感じで聞いてる。
「それでは、お勉強はこれで終わりです。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
ジュードがきちんと挨拶してる。俺も慌てて真似する。
「あ、ありがとうございました」
***
「殿下、お庭に行かれるのですね。お怪我なさらないよう、お気をつけくださいませ」
カレンが心配そうに眼鏡の奥の目を細める。
「大丈夫だよ、カレン。ジュードと一緒だし」
「はい...でも何かございましたら、すぐにお呼びください」
「よし!ジュード、庭行こう!」
陽射しが暖かくて、風が心地いい。よく手入れされた花壇と、中央に大きな樫の木がある。
「いい天気だね~」
「はい、そうですね」
ジュードが行儀よく答える。なんか、敬語で話されると距離感があるな。
「ねえ、ジュード。僕たち同じ年だし、もっと普通に話そうよ」
「え? でも……」
「二人だけの時だけでも! ね? ダメかな?」
ジュードが人形のように整った顔で、きょとんと目を瞬かせる。
「……分かった。じゃあ、レオン」
「うん、できればハルトがいいかも」
「ハルト?」
「そう、二人の時だけね」
俺が笑いかけると、ようやくジュードの頬がわずかに緩んだ。
「あの木、大きいね」
樫の木を見上げながら言うと、ジュードも一緒に見上げた。
「うん、とっても大きい」
「登れそうじゃない?」
「え?」
「木登り、したことある?」
「そんなの……危ないよ」
ジュードは優等生らしく眉をひそめる。だが、その琥珀色の瞳が、ちょっとだけきらきらしてる気がした。
「でも、母上に怒られちゃう」
「バレなきゃ大丈夫」
悪戯っぽく片目をつぶる俺に、ジュードの唇から小さなため息が漏れる。
「...本当に大丈夫?」
「うん!僕が先に登るから」
***
とりあえず、一番低い枝に手をかけてみる。
(うわ、3歳の体って思ったより大変だな)
腕の力が全然ない。前世だったら軽々登れたのに。
「ハルト、大丈夫?」
「だ、大丈夫」
なんとか枝に足をかけて、よいしょよいしょと登る。意外と、体が軽いから何とかなるかも。
「すごい...本当に登ってる」
ジュードが下から見上げてる。
「ジュードも来てよ」
「え、僕も?」
「うん。一人だと寂しいし」
しばらく迷っていたジュードだけど、意を決したように枝に手をかけた。
あれ?
「うわ、ジュードの方が上手いじゃん」
すいすいと登ってくるジュード。意外と運動神経いいのかも。
「え、そうかな?」
照れたような笑顔。さっきまでの真面目な表情とは全然違う。
「すごいよ。僕なんて必死だったのに」
二人で同じ枝に座る。
「わぁ……」
高いところから見る庭は、いつもと違って見えた。花壇の模様がよく分かるし、向こうの方まで見渡せる。
「きれいだね」
「うん」
ジュードも嬉しそうに周りを見回している。真面目だと思っていたけど、こんな一面もあるんだな。
「ねえ、ジュード」
「なに?」
「君って、意外と冒険好きなんだね」
「え?そんなことないよ。ただ……」
「ただ?」
「ハルトが楽しそうだったから」
そう言って、ちょっと恥ずかしそうにうつむく。
(あー、この子、すごくいい子だな)
大学生の時とは全然違う。子供同士の友情って、こんなに温かかったっけ?
「僕も、ジュードと一緒にいると楽しいよ」
「本当?」
「本当」
ジュードがぱあっと笑顔になる。その笑顔が、さっきまでの人形みたいな整った顔とは全然違って、すごく自然で温かくて—
メキメキッ
「え?」
枝がしなる音がした。
「あ、やばい」
俺たちの体重で、枝が――
バキッ!
「「うわあああああ!」」
二人して地面に落下。幸い、花壇のふかふかの土だったから大怪我はしなかったけど、泥だらけになった。
「いたた……」
「だいじょうぶ?」
ジュードが心配そうに俺を見てる。髪の毛に葉っぱがついて、頬に泥がついてるけど、怪我はなさそう。
「うん、平気。ジュードは?」
「僕も平気」
良かった。でも――
「レオンハルト殿下!ジュード!」
ヘレナの声だ。振り返ると、彼女が青い顔で走ってくる。
「一体何をしてるのですか!」
怒ってる。すごく怒ってる。
「あ、あの」
「ちゃんと座りなさい」
俺たちは正座させられた。泥だらけのまま。
「木登りなんて、どうして危険なことを……レオンハルト殿下は王族でいらっしゃるのですよ? もしお怪我でもなさったら」
ヘレナの説教が始まった。でも、その声には怒りよりも、心配の方が強く感じられる。
「ジュードも、どうしてレオンハルト殿下と一緒に。もっとしっかりしなさい」
「ごめんなさい」
ジュードが素直に謝る。
「僕も、ごめんなさい」
俺も頭を下げる。
「まったく、もう少し考えて行動してください。本当に心配したんですよ」
でも、ヘレナの表情が少し緩んだ。本当に心配してくれてたんだな。
「今度からは、もっと安全な遊びにしてくださいね」
「「はい」」
二人で声を揃えて答えた。
ヘレナに連れられて部屋に戻ると、カレンが待っていた。
「いやぁぁぁ!レオンハルト殿下が泥だらけですぅ!」
半泣きしているカレンに泥を落としてもらった後。
「怒られちゃったね」
「うん...でも」
ジュードが小さく笑う。
「でも?」
「楽しかった」
その笑顔を見て、俺も自然と笑ってしまった。
「僕も楽しかった。一緒に怒られるのって、なんか……共犯者みたいで」
「きょうはんしゃ?」
「うん。悪いことを一緒にした、秘密の仲間ってこと」
「……悪いこと、なんだ」
ジュードが小声でつぶやく。真面目な響きに、思わず笑ってしまった。
「まあ、ちょっとだけね。でも楽しかったろ?またやろうね」
「……うん」
俺は、前世の癖で、つい小指をすっと差し出した。
だが、ジュードはそれに応えず、不思議そうに首をかしげるだけだった。その琥珀色の瞳が、差し出された指の意味を静かに問うている。
「これ、なあに?」
ああ、そっか。
俺は少しだけ淋しくなったけど、すぐに優しく笑った。
「僕が昔いた場所の、おまじない。こうして指を絡めて約束すると、絶対に破れないんだ。すごく、すごく大事な約束の仕方」
ジュードはしばらく黙って俺の顔を見つめていたが、やがて、こくりとうなずくと、ためらいがちに自分の小さな小指を差し出した。
そっと絡み合う、二人の指。
子供の指先から伝わる確かな温度。
夕陽に照らされて、その約束はきらきらと光っていた。




