記憶の扉
気がついたら、見知らぬ天井があった。
ぼんやりと開いた目に、高い白い天井と、きらきら光る金色の模様が映る。知らないベッド。知らない部屋。
そして、やたらと小さい自分の体。
起き上がろうとして持ち上げた手は、信じられないほど小さく、柔らかい。足はベッドの端にまったく届かない。
「あれ……?」
漏れた声は、自分のものとは思えぬほど高く、幼い。
体を動かすたび、意識のどこかが《まだ三歳だ》と囁いている。この肉体の記憶が、霧のように思考へ混ざり込んでくるのが分かった。
レオンハルト。僕の名前。ブランネル王国の、第三王子。
ベッドの縁をつかみ、ずるりと滑り降りる。思ったより床が遠く、短い足がもつれてよろめいた。
豪華な部屋だ。金糸の刺繍が揺れるカーテン、壁には美しい絵画。だが、何かがおかしい。
頭の奥に、靄のかかったもう一つの記憶がある。『陽斗』という名前。それ以外は、まだ霞の向こうだ。
――そのとき、腹の奥を突き上げる、鋭い痛み。
「トイレ……」
考える暇はない。本能に突き動かされ、よたよたと部屋を出る。
長い廊下を進み、奥にある扉に手をかける。ぎい、と重たい木が軋む音が、やけに大きく響いた。
そして、その向こうに現れたものを見て――息が止まる。
穴のあいた、簡素な木の椅子。その下に置かれた、白い陶器の鉢。
――マジか。王族のトイレが、これってマジか。
たったそれだけの光景が、僕の頭を内側から破壊した。
なぜ、こんなにも衝撃を受ける?
違う。知っているからだ。僕が「当たり前」だと思っていたものを、知っているから。
――寮の白い便器。自動で流れる水。温かい便座。銀色の蛇口から際限なく溢れる湯。ハンドソープの香り。
《僕の名前は――陽斗。日本の大学生だった》
農家の息子。都会の大学。友人たちと交わした就職活動の愚痴。それがどうして、こんな場所に。三歳の子どもの体で。
視界がぐらりと揺れた。
立っているのがやっとだった。
「あ、レオンハルト殿下」
振り返ると、茶色の三つ編みを揺らす若い女性が立っていた。分厚いビン底眼鏡をかけていて、レンズが光って表情がよく見えない。カレン。この体の記憶が、その名を教える。僕の専属侍女。
「お手洗い、お一人でできたのですか? とっても偉い殿下ですねー」
異常にテンションが高い。
「て……てを、あらいたい」
大学生の思考が、三歳児の舌を必死に動かす。今すぐ、あの蛇口と石鹸が欲しい。その渇望だけを、かろうじて言葉にした。
「はいはーい、承知いたしました!井戸からお水を汲んでまいりますね。少しだけお待ちくださいませー」
にこにこ満面の笑みで、カレンはぺたぺたと軽い足取りで廊下の向こうへ消えていく。
残された僕は、彼女の言葉を反すうする。
……いど?
――井戸?聞き間違いじゃないよな?僕の耳はまだ三歳児クオリティだが、それくらいは聞き取れるぞ!
手を洗うためだけに、外の井戸まで?
この王宮に、水道管の一本も通っていないというのか。
床にぺたりと座り込む。陶器の鉢から漂うかすかな臭気と、廊下の冷たさが、現実を突きつけてくる。
やがて戻ってきたカレンは、木の桶を抱えていた。なみなみと注がれた水が、窓から差し込む光を鈍く反射している。やけに嬉しそうな様子が伝わってくる。
「お待たせいたしました!どうぞどうぞ!」
水に指を浸す。突き刺すような冷たさに、思わず肩が震えた。
「石鹸もお持ちしました。油と灰で作ったものですから、あまり使いすぎると御手が荒れちゃいます」
差し出された茶色の塊は、ごわごわと固い。
――これ、石鹸っていうより泥団子だろ。泡、どこいった?
泡立ちは悪く、汚れが落ちた気はまるでしなかった。それでも、やらないよりはいい。
「……ありがとう、カレン」
「いえいえー!このあとはお昼寝の時間でございますよ」
桶を抱え、カレンは相変わらずの満面の笑みで去っていく。
一人きりになった静寂の中で、僕は改めて悟る。清潔も、便利も、快適も、ここにはない。僕は、なにもかもが違う世界に放り込まれたのだ。
この世界の、父上、母上、兄上たち。そして乳母のヘレナ、乳兄弟のジュード。
記憶の中のみんなは僕を愛してくれている。
でも、この秘密は誰にも言えない。
前世の記憶があることも、現代の知識があることも。
たとえ家族にも、乳兄弟にも。嫌われるのが怖い。
「……ねむい……」
強烈な眠気が、混乱した思考を溶かしていく。
とりあえず、この不便な世界を、どうにかしてやる。でも今は、ただ眠い。
それが、転生者レオンハルトとしての、第一歩だった。
ここからしばらくはレオンハルトの過去をお届けします。
彼がどんな道を歩んできたのか、ぜひ見守っていただけると嬉しいです。