前世の記憶
昼営業も終わりに近づいた頃、リーナは店内を見回し、胸の奥で小さく満足を覚えていた。今日の定食はボアカツ。
「リーナちゃん、このカツ美味しいねぇ」
常連のベラが、最後の一切れを大事そうに口へ運ぶ。その顔には心底幸せそうな色が浮かんでいた。
「ありがとうございます」
「脂っぽいかなって思ったけどね。キャベツが一緒だと食べやすいわ」
空いた皿を下げながら、リーナは微笑んだ。最後まできれいに食べてもらえる。それが一番の喜びだ。
厨房で洗い物をしながら、昨日のことを思い出す。旅の商人ハルト。料理を本当に美味しそうに食べてくれる人だ。今日も来てくれるだろうか。洗い桶の水面に、期待のような淡い光が揺らめいた。
ちょうどその時、入口のベルが軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
振り返ると、思い描いたばかりの人物がそこにいた。
「こんにちは、リーナさん」
「あ、ハルトさん。いらっしゃいませ」
昼営業もほぼ終わり、店内に客はもういない。ベラも先ほど帰ったばかりだった。ハルトは店を見渡し、誰もいないことを確認したようだった。その目が、一瞬だけ鋭く光る。
「昨日は本当に美味しい料理をありがとうございました」
爽やかな笑みの奥に、どこか硬い緊張が張り詰めている。彼はそっと椅子の背もたれに触れた。その指先がわずかに震えている。
「いいえ、こちらこそ。材料を持ってきてくださって助かりました。それで、今日のお昼はどうされますか?」
「実は……」
ハルトはテーブルの木目をじっと見つめる。そして、リーナの目をまっすぐ見据えた。
「リーナさん、少しお時間いただけますか? 大事な話があるんです」
布巾を持つ手が止まる。急に改まった様子に戸惑う。
「はい、大丈夫ですけど……何かお困りのことでも?」
「困っているわけじゃないんです。ただ――」
息を吸い込む音が、静かな店内に響く。リーナの鼓動が早くなる。心臓がドクン、ドクンと耳元で鳴り出した。
「突然で驚かれるかもしれませんが……。リーナさんは、もしかして……別の世界の記憶がありますか?」
布巾が手から滑り落ち、乾いた音を立てた。
頭の中が真っ白になる。なぜ、この人がそんなことを――。
「え……? どうして、そんなこと……」
声が震える。喉の奥が固まって、息をするのも苦しい。
ハルトはその反応を見て、小さくうなずいた。優しく見守るような、安心させるような眼差しで。
「トンカツ、ポン酢、お好み焼き……」
ぽつりと口にする。
「この世界には存在しない言葉ですよね」
その瞬間、リーナの顔から血の気が引いた。全身から熱が奪われ、急に寒気を感じる。そんな言葉で気づかれてしまうなんて。
「俺と同じだから」
「……同じ?」
言葉の意味がすぐに飲み込めない。次の瞬間、ハルトの顔がぱっと明るくなる。張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
「俺も前の世界の記憶を持っています」
リーナは息を呑んだ。信じられない、という思いが胸に広がる。
「……本当に?」
「ええ。日本っていう国で生きた記憶があります」
その一言に、リーナの目が大きく見開かれた。周りの人たちはみんな優しくて恵まれているのに、「どうしてこんな料理を思いつくの?」と聞かれるたび、本当のことは言えずにいた。言っても信じてもらえないだろうし、気味悪がられるかもしれない。でも今、初めて同じ境遇の人に出会えた。
「まさか……」
「俺も驚いてます。同じ境遇の人がいるなんて思わなくて。でも今日、リーナさんに話せて、ようやく……」
ハルトは言葉を切り、そして微笑んだ。安堵したような、嬉しそうな表情だった。
リーナは安堵したように微笑む。
「……こんなこと、あるんですね」
「もう少し時間をいただけますか?もっとお話ししたいんです」
その静かな声に、リーナは嬉しそうに頷いた。