新しい客
「着きましたよ、お客さん」
御者の声に、ハルトは窓の外へ視線を向けた。石造りの家々が穏やかに並び、通りを行く人々の足取りにも慌ただしさがない。
馬車を降り、軽く礼を返す。宿の看板には麦の穂が彫り込まれ、「金の麦穂亭」とある。
カウンターでは茶色の髪を三つ編みにした少女が帳簿を整理していた。顔を上げ、にこやかに宿泊の手続きを促してくる。
差し出された宿帳に「ハルト・ミュラー」と記す。この国ではありふれた名前だ。
「この街には何をされに?」
「雑貨商なんです。面白い品を探して各地を回ってて。この街は素晴らしい職人が多いって聞きまして」
「まぁ! そういうことでしたら、絶対に気に入りますよ。期待以上です! 工房も多いですけど、食事なら絶対に外せないお店がありますから」
少女はこの街がよほど好きなのだろう。自慢げに言う。ハルトは相槌を打ちながら、さりげなく尋ねた。
「へえ。ちなみに、お嬢さんのおすすめの店は?」
「『アンナの食卓』です! 友だちがやってるお店なんですけどね、本当にすごいんです! リーナっていうんですけど、食べた人がみんな驚くような新しい料理を次々に考え出しちゃって。街のみんな、彼女の料理に夢中なんですよ」
「アンナの食卓」「リーナ」側近が報告してきた名前と一致した。間違いない。ハルトは笑顔を保ったまま、軽く頷いた。
部屋に荷を置くと、ハルトはさっそく街を歩いてみた。
市場は威勢のいい声と人であふれ、工房からは規則的な金槌の音が響く。路地を駆ける子供たちの笑い声も混ざり、街全体に活気があるのが伝わってくる。
「——また新しい料理を……」 「……絶品だったわ。あの照りのある……」 「……私も早く食べたいけど、いつも混んでて……」
ハルトは歩調を変えず、耳だけをそばだてる。話題の中心は、やはりその店か。東方からの珍しい調味料。王都で流行りの薬酒、ミリンシュ。
(ミリンシュ——ああ、あれか。王都で流行ってるやつ。あれは味醂だったのか)
「でもさ、リーナちゃんの手にかかれば何でも美味しいものに変わっちゃうんだから」
「この前はフェングリフの照り焼きって料理だったわ。ビックリするぐらい美味しかったわよ。絶対あなたも驚くわよ」
照り焼き――その言葉に、ハルトの足が止まった。疑いは消えた。彼女は自分と同じ、転生者だ。
市場を抜け、目的の店を探す。しばらく歩くと見つかった。
こぢんまりとしているが、温かみのある外観。手書きの看板には素朴さと丁寧さがにじむ。扉の隙間からは嗅ぎ慣れない香りが漂い、足を止めずにはいられない。焦げた醤油と砂糖が混じり合う、甘辛く香ばしい匂い。この世界に来てからは一度も嗅ぐことのなかった、故郷の定食屋を思い出させる香りだった。
今すぐ中に入りたい衝動を、ハルトはぐっと飲み込んだ。ここはアッシュ公爵領だ。勝手に動いて余計な波風を立てるわけにはいかない。まずは公爵に報告し、許可を得てから――それが筋だろう。
金の麦穂亭に戻ると、ちょうど夕食の準備が整っていた。
「今晩のお食事はどうされますか?」
カウンターの向こうで、昼間の少女——ローラが声をかける。
「せっかくだし、宿の料理を味わってみようかな。用意してもらっても良い?」
「かしこまりました。今夜は仔牛のソテーです。当宿の自慢なんですよ」
席につき一息ついた頃、皿が運ばれてきた。こんがりと焼かれた仔牛のソテー。ナイフを入れると驚くほど柔らかく、断面から淡いロゼ色が顔をのぞかせる。口に運ぶと、きめ細かな肉がほろりと解け、仔牛特有のミルキーな甘みが広がった。ソースの酸味が絡み、臭みは一切ないことに驚く。
「これは美味しいですね。この街が美食の街と呼ばれ始めている理由がよく分かります」
声が自然に漏れる。お世辞抜きで美味い。ローラは我がことのように嬉しそうに頬をゆるめた。
「この街はにぎやかでいいですね。さっきから料理の噂もよく耳にします。先ほどお話しくださったリーナさんという人は、どんな方なんですか?」
「リーナはとても気さくですよ。料理に関してはこの街の誰よりも情熱的で! 兄が騎士団でお世話になっているんですが、騎士団の方々からも信頼が厚いんです」
「兄さんが騎士なんだ?」
「はい。騎士団の方々も街のみんなにとっても、リーナさんは大切な存在です。お店に行かれたら、きっと気に入ると思いますよ」
「そうですね。楽しみです」
ハルトは笑みを浮かべたまま、ナイフを置いた。騎士団との関係——それも重要な情報だ。明日、店を訪れる前に、もう少し調べておく必要があるかもしれない。
夜更け。
街が静まり返ったころ、ハルトはバルトロメオの屋敷を訪れていた。
人気のない一室に、魔石ランタンの淡い光だけが灯っている。
「レオンハルト殿下」
バルトロメオは恭しく一礼した。その銀髪と鋭い眼光は、夜闇の中でも衰えない威圧感を放っている。
「いやいや、堅苦しいのは勘弁してよ」
レオンハルトは軽く片手を振り、肩をすくめる。
「殿下。ベネット卿に頼んでまでジュードを王都に戻された理由を、お聞かせいただけますか?」
「大げさな話じゃないよ。あいつは有能だからね。近くにいたら俺の正体なんてすぐバレるだろ? それじゃ面白くないし。お忍びだからね、一人の若者としてこの街を体感してみたいんだ。ついでに噂の料理人リーナにも会いたい。王子じゃなく客として、話をしてみたいんだよ」
バルトロメオは静かにうなずいた。
「それで? ジュードがあの店に通っていると聞いたんだけど、リーナとはどういう関係?」
「互いに想いを抱いているようですが――」
バルトロメオの声は淡々としているが、どこか呆れを含んでいるようにも聞こえた。
「極めて分かりやすいのに、まったく進展しない関係、と言えばよろしいでしょうか」
「はぁ? どういうこと?」
「ジュードのリーナへの想いは、騎士団だけでなく街の誰もが知っています。ただ、当人がひどく慎重で」
レオンハルトの内心で、盛大なツッコミが炸裂した。
(慎重? いやヘタレだろ。笑っちゃうくらいヘタレ)
「一方のリーナも彼を嫌ってはいません。むしろ好意を抱いているように見えます。ただ……彼女の頭は、新しい料理のことでいっぱいでして。ジュードの想いに気づいているのかどうか」
バルトロメオは言葉を切り、真っ直ぐに殿下を見据えた。
「互いに悪感情はありません。ですが恋仲と呼ぶには、あまりに穏やかすぎる。それが現状です」
「なるほど」
レオンハルトは指先で椅子の肘掛けを軽く叩いた。ジュードがここまでとは、想像以上だ。
「リーナは非常に優秀な料理人です。魔物肉の効能を明らかにし、東方の調味料や技法を独自に取り入れている。街の発展には欠かせない人材となっております」
「だからこそ、彼女の力をもっと活かせる環境を作りたいんだ。王都でも通用する才能だろ?」
「殿下」
バルトロメオの声音がわずかに強まる。
「もし何かを提案されるなら、彼女の気持ちを第一に考えていただきたい」
公爵の牽制に、レオンハルトは口角を上げた。悪い気はしない。良い領主だ。
「分かってるさ。人の幸せを壊すつもりはない。最終的に決めるのは彼女自身だ」
宿に戻ったレオンハルトは、窓辺に腰を下ろした。夜のアードベルは静かだ。遠くから、酒場の笑い声が風に乗って届く。
明日は、彼女に会いに行こう。
(これだけ我慢したんだ。明日はめいっぱい堪能させてもらう)
ベッドに横になると、すぐに眠りに落ちた。




