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新しい客

馬車の車輪が石畳を叩く音が、やがて緩んで止まった。



「着きました」



御者の声が響き、青年は窓の外を見やった。王都の喧噪とは違い、広がるのは落ち着いた街並み。高い建物は少なく、人々の表情にはどこか余裕がある。



「ありがとう」



軽く礼を告げ、青年――今は旅の商人「ハルト」として振る舞う男――は馬車を降りた。宿の看板には麦の穂の模様が彫り込まれ、「金の麦穂亭」とある。



扉を押すと、木が軋む音と共に温かな空気が迎えてくる。カウンターでは少女が帳簿を整えていた。茶色の髪を三つ編みにしており、顔を上げるとにこやかな笑みを見せた。



「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか?」



「ええ。数日ほど滞在できれば助かります」



「分かりました。こちらにお名前を」



差し出された宿帳に「ハルト・ミュラー」と記す。わざとらしくない、ありふれた名前だ。



「この街には何をされに?」



「雑貨商なんです。面白い品を探して各地を回ってて。この街は職人が多いって聞いたので」



「それならきっと気に入りますよ。工房も多いですし、美味しいお店もたくさんあって」



少女は楽しそうに言う。



「なるほど、それは良いですね。ちなみに、おすすめの店は?」



「『アンナの食卓』です。リーナさんという方が素晴らしい料理を作られるんです。新しい料理を次々に考案されて、街のみんな楽しみにしてるんですよ」



「それは期待できそうだ。それだけ美味しいんでしょうね」



「はい!絶対にご満足いただけると思います」



リーナ。その名を聞いた瞬間、ハルトの胸の奥が軽く弾んだ。探していた人物だ。



***



部屋に荷を置くと、ハルトはさっそく街を歩いてみた。



市場は声と人であふれ、工房からは規則的な金槌の音が響く。路地を駆ける子供たちの笑い声も混ざり、街全体が大きく息をしているかのようだ。



目的の店はすぐに見つかった。



こぢんまりとしているが、温かみのある外観。手書きの看板には素朴さと丁寧さがにじむ。扉の隙間からは王都では嗅がない香りが漂い、足を止めずにはいられない。懐かしさを呼び覚ます匂いだった。



通りすがりの女性たちが話している。



「リーナちゃん、また新しい料理を作ってるんですって」



「この前の煮物も美味しかったわよねぇ」



「食べたいけど、あの店はいつも混んでて」



市場の別の一角でも噂が飛び交う。



「東方から珍しい調味料を取り寄せたらしいわよ」



「ミリンシュだっけ?最初は薬酒かと思ったら調味料なんですって」



「リーナちゃんの手にかかれば何でもご馳走になるのよ」



「この前はフェングリフの照り焼きって料理だったわ。驚くほど美味しくて」



(ミリンシュ。あれは味醂だったのか。それに照り焼き、だと?)



確信が固まっていく。間違いない。彼女は自分と同じ、転生者だ。



***



金の麦穂亭に戻ると、ちょうど夕食の準備が整っていた。



「今晩のお食事はどうされますか?」



カウンターの向こうで、昼間の少女――ローラが声をかける。



「せっかくだし、宿の料理を味わってみようかな」



「承知しました。今夜は仔牛のソテーです。当宿の自慢なんですよ」




席で待っていると、香ばしい匂いと共に皿が運ばれてきた。ナイフを入れると柔らかな肉が抵抗なく切れ、ワインとハーブの香りが立ちのぼる。



「これは美味しいですね」



声が自然に漏れる。



「ありがとうございます!料理長の腕は確かなんです」



ローラは胸を張る。



「この街はにぎやかでいいですね。さっきから料理の噂もよく耳にします。そのリーナという人は、どんな方なんですか?」



「リーナさんはとても気さくで、誰にでも分け隔てなく接してくださいます。兄が騎士団でお世話になっているんですが、騎士団の方々からも信頼が厚いんです」



「兄さんが騎士なんだ?」



「はい。騎士団の方々も街のみんなにとっても、リーナさんは大切な存在です。お店に行かれたら、きっと気に入ると思いますよ」



「そうですね。楽しみです」



ハルトの口元に自然と笑みが浮かんだ。



***



夜更け。



街が静まり返ったころ、ハルトはバルトロメオの屋敷を訪れていた。



人気のない一室に、魔石ランタンの淡い光だけが灯っている。



「レオンハルト殿下」



バルトロメオは恭しく一礼した。その背筋には公爵としての威厳があった。



「いやいや、堅苦しいのは勘弁してよ」



レオンハルトは軽く片手を振り、肩をすくめる。



「殿下。ベネット卿に頼んでまでジュードを王都に戻された理由を、お聞かせいただけますか?」



「大げさな話じゃないよ。あいつは有能だからね。近くにいたら俺の正体なんてすぐバレるだろ?それじゃ面白くないし。お忍びだからね、一人の若者としてこの街を体感してみたいんだ。ついでに噂の料理人リーナにも会いたい。王子じゃなく客として、話をしてみたいんだよ」



「なるほど」



バルトロメオは静かにうなずいた。



「それで?ジュードがあの店に通っていると聞いたんだけど、リーナとはどういう関係?」



「互いに想いを抱いているようですが」



バルトロメオの声は淡々としている。



「極めて分かりやすいのに、まったく進展しない関係、と言えばよろしいでしょうか」



「はぁ?どういうこと?」



レオンハルトは眉をひそめる。



「ジュードのリーナへの想いは、騎士団だけでなく街の誰もが知っています。ただ、当人がひどく慎重で」



レオンハルトの内心では突っ込みが止まらない。



(慎重?いやヘタレだろ。笑っちゃうくらいヘタレ)



「一方のリーナも彼を嫌ってはいません。むしろ好意を抱いているように見えます。ただ……彼女の頭は、新しい料理のことでいっぱいでして。ジュードの想いに気づいているのかどうか」



言葉を切ると、バルトロメオは公爵の表情に戻り、真っ直ぐに殿下を見据える。



「互いに悪感情はありません。ですが恋仲と呼ぶには、あまりに穏やかすぎる。それが現状です」



「なるほど」



レオンハルトは軽くうなずいた。ジュードがここまでヘタレとは、想像以上だ。


「リーナは非常に優秀な料理人です。魔物肉の効能を明らかにし、東方の調味料や技法を独自に取り入れている。街の発展には欠かせない人材となっております」



「だからこそ、彼女の力をもっと活かせる環境を作りたいんだ」



「殿下」



バルトロメオの声音がわずかに強まった。



「もし何かを提案されるなら、彼女の気持ちを第一に考えていただきたい」



「分かってるさ。人の幸せを壊すつもりはない。最終的に決めるのは彼女自身だ」



レオンハルトは穏やかに笑った。



***



宿に戻ったレオンハルトは、窓辺に腰を下ろした。



夜のアードベルは静かだ。遠くから、酒場の笑い声が風に乗って届く。



明日は、彼女に会いに行こう。



同じ境遇を持つ者として話せることは多いはずだ。何より、彼女の料理を味わいたい。懐かしい味に、もう一度出会えるかもしれない。



すぐに王都へ連れて帰れるとは思っていない。ジュードとの関係もあるし、彼女がこの街を大事にしていることも伝わってくる。



最高の設備、地位、そして同じ秘密を分かち合える仲間。

それを提示できれば、彼女にとっても悪い話ではないだろう。



ベッドに横になっても、胸の鼓動は収まらず、静かな夜に妙に大きく響いている気がした。

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― 新着の感想 ―
 面白いのでイッキ読み始めました。  「ハルト・ミュラー」?、銀◯伝の「ナイトハ◯ト・ミュラー」提督を思い出しました。  リーナのご飯が食べたかったら、ハルトが引っ越してくればいいんですよ。
更新お疲れ様です。 ハルト=レオンハルトは産まれた時から記憶を引き継いだタイプの転生者っぽい? 王国の殿下という貴人である立場以外にも、自身は地球の知識持ちである…という別方向からも傲慢さがプラスさ…
 いやいや、リーナはここ(アードベル)から離れないよ。『アンナの食卓』の移転なんて考えてないんだから。ジュードがヘタレなのは確かだけども。
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