ジュードの帰郷
朝の光が斜めに差し込み、騎士団宿舎の石造りの壁を白く照らしていた。ひやりと冷たい空気が肌を差す。
机の上に置かれた一枚の羊皮紙を、ジュードは何度も読み返していた。母からの便りはいつも庭の花や屋敷の様子を綴った穏やかなものだったが、今日の文面は違う。
『お父様の体調が芳しくなく、一度顔を見せに戻ってもらえないだろうか』
わずか一行。それだけなのに、指先から血の気が引いていく。父は誰よりも頑健で、無理をしても笑ってやり過ごす人だった。子どものころ、肩車してくれた背の高さ。初めて剣を握らせてくれた掌の、分厚い皮膚の感触。あの頼もしさに影が差すなど考えたこともなかった。
ジュードは手紙を握りしめ、バルトロメオ団長の執務室へ向かった。
扉を叩き、中からの返事を待って入室する。執務机に向かっていたバルトロメオ団長が顔を上げた。逆光に縁取られた逞しい姿は、ただそこにいるだけで威厳を帯びている。
「どうした、難しい顔をしているな」
ジュードは逡巡の後、手紙を差し出した。
「実家からです。……父の具合が良くないらしく、一度帰郷を」
喉が張り付いて、声がうまく出ない。団長はジュードから手紙を受け取ると、そこに記された数行に静かに目を通した。やがて、ふう、と一つ大きなため息が漏れる。
「そうか。家族のことなら当然だ。しばらく休暇を取って帰るといい」
許可の言葉とともに手紙を返しながら、団長はふと視線を窓の外へ移した。その口元が、ごくわずかに動く。
「……ベネット卿も、骨が折れるな。あの方の『お願い』とあっては、無下にもできんだろう」
ジュードの耳には届かない、ほとんど吐息のようなつぶやき。その目には、呆れと、どこか部下を案じるような複雑な色が浮かんでいた。
「準備が整い次第、出発して良いぞ。道中、気をつけろ」
「はい」
再びジュードに向けられた声は、いつもの厳格な団長のものに戻っていた。
詰所を出る。石畳を踏む音がやけに大きく響いた。
王都へ戻らねばならない。父のことが頭から離れない。こんなときに、彼女に会いたいと願うのは不謹慎だろうか。――いや、違う。こんなときだからこそ、会いたいんだ。あの屈託のない笑顔を見れば、きっと大丈夫だと、そう思える気がする。
明日は彼女の休業日だ。ちょうどいい。街で噂の店の話を口実にすればいい。いや、口実なんていらない。ただ、ほんの少しの時間でいい。出発前に、彼女の顔を見たかった。
***
休業日の「アンナの食卓」は、いつもとまるで違う空気に包まれていた。
仕込みの音も鍋の湯気もなく、静かな厨房でリーナは小さな茶器に湯を注ぐ。青茶の葉がほぐれ、ふわりと立ちのぼる香ばしさが鼻先をくすぐった。窓から差し込む風は夏の熱気を含みながらも、どこか秋の匂いを運んでくる。
コンコン、と扉を叩く音。
首をかしげながら戸を開くと――。
「おはよう、リーナ。今日、休み……だよな?」
そこに立っていたのはジュードだった。いつもの軽い笑顔に、どこか迷いが混じる。リーナの表情がぱっと明るくなる。
「おはよう、ジュード! ええ、休みよ」
「よかった。最近、街にすごく美味いスイーツの店ができたって聞いてさ。一緒に行かないか?」
「スイーツの店? なにそれ!」
瞳がきらりと光る。料理人としての好奇心は、眠っている時間でもすぐ目を覚ます。
「プリン専門店らしい」
「プリン……! 絶対行きたい。少し待ってて、すぐ用意するから」
エプロンを外し、髪をまとめ直す。小さなバッグを手に取って戸口へ戻ると、ジュードが自然に扉を押さえた。二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。
「行こう」
***
アードベルの朝はどこを向いても音に満ちていた。
商人が品物を並べる声、果物を切る刃の音、樽を転がす鈍い響き。焼きたてのパンの香りに塩気や魚の匂いが混じり合い、通りを行き交う人々の足取りを速めたり緩めたりしている。
リーナとジュードは肩を並べ、そのざわめきの中を歩いていく。街角を曲がると、見慣れない建物が目に入った。黄色い看板に洒落た文字――『プリルミエール』。
扉を押すと、カラン、と軽やかな鐘の音が鳴った。甘い香りがふわりと鼻腔を満たす。焦がしカラメルのほろ苦さ、卵のやわらかな香り、そしてオーブンから漂う香ばしさ。黒板には手描きのメニューが並んでいた。
「いらっしゃいませ」
迎えた店主の顔がぱっと明るくなる。
「え?まさか……リーナさんですか? アンナの食卓のプリンに感動して、商業ギルドでレシピを購入したんです。ご本人に来ていただけるなんて!」
リーナは驚きで目を瞬いた。カラメル、表面の滑らかさ――確かに自分のレシピをもとにした品だが、そこに確かな工夫が垣間見える。自分の蒔いた種が、見知らぬ土地で芽吹いている。その事実に、胸の奥から温かいものが込み上げてくるのを感じた。
二人は席につき、やがて冷たい陶器の皿が運ばれてきた。スプーンを入れると、ぷるりと身を揺らし、カラメルが薄く広がる。口に含むと、確かに甘さが前に出ていた。
「うん……基本は私のレシピ。でも、カラメルの苦みを抑えて、クリーム部分に甘みを足してるわね。アードベルの人の好みに合わせたのかしら」
「俺には十分美味しいけどな。さすがリーナ、細かいとこまでわかるんだ」
ジュードが感心したように言う。リーナはふっと笑った。ひんやりとしたスプーンが歯に当たる感触が心地よい。自分の料理が誰かに届き、別の形で広がっていく。その喜びが、プリンの甘さと一緒にゆっくりと溶けていった。
***
午後の陽射しが黄金色に変わり、二人は日陰を求めて街を抜け、小さな公園へとたどり着いた。
木陰のベンチに腰を下ろし、遠くの屋根が夕日に染まっていくのを並んで眺める。日中の熱気がすうっと引き、肌寒いほどの風が吹き抜けた。ひとときの静寂。
「実は……」
ジュードが口を開いた。その声は、いつもより少しだけ低い。
「実家から連絡があってさ。父の体調が良くないから、一度戻らなきゃいけないんだ」
「え……大丈夫なの?」
「多分、そこまで深刻じゃないと思う。でも一応、明日には出発するよ」
リーナは言葉を失い、冷たくなった自分の指先を握りしめた。しばらく会えなくなる寂しさと、彼の家族への心配が胸の中で渦を巻く。
「……お父様、早く元気になるといいね」
「ありがとう」
ジュードは地面に視線を落とし、何かを決するように息を吸った。
「それとさ……俺の家、実は宮廷伯爵家なんだ」
空気が、凍った。リーナは思わず彼の横顔を見る。宮廷伯――王宮に仕える高位の貴族。夕陽の最後の光が、彼の横顔に今まで見たことのない影を落としている。
「次男だから比較的自由にしてきたけど……正直、あの環境は息が詰まる。舞踏会じゃ、俺の背後にある家名しか見ない人たちに囲まれて、値踏みされる。だから、わざと軽薄な鎧をまとって、誰にも本心を見せないようにしてきたんだ」
最初に会ったときの軽口が頭をよぎり、リーナは小さく息を呑む。目の前にいる彼の輪郭が、急に変わってしまったように感じた。
「でもリーナも、アードベルの人たちも、最初から俺を『ジュード』として見てくれた。それが、どれだけ救いだったか」
風が二人の間を抜けていく。リーナは言葉を探した。
肩書きや見た目ではなく、その人自身を見てくれることの温かさ。――それは、リーナ自身がこのアードベルに来て、初めて知った宝物だった。
「……わかるわ。私も、ここにいられて、本当によかったって思うから」
ジュードが驚いたように顔を上げる。
「家族のことは大事にして。きっとお父様もすぐ元気になる。そしてまた、すぐにアードベルに……あなたの居場所に、帰ってきて」
「……ああ。必ず、戻ってくる」
「約束ね」
夕闇が空を覆い始める。二人はもう何も言わず、ただそこに並んで座っていた。
***
帰り道。二人の間に言葉はなかった。
どちらからともなく歩調が緩やかになり、肩が触れ合いそうな距離を保ったまま、石畳の道をゆっくりと進む。街灯の光が二人の影を長く引き伸ばしては、また一つに重ねた。
「アンナの食卓」の前で立ち止まると、ジュードが振り返る。その眼差しは、昼間とは違う、少しだけ熱を帯びた真剣さを含んでいた。
「今日はありがとう。すごく楽しかった」
「こちらこそ。素敵な一日をありがとう」
「俺が戻ってくる頃には、きっとリーナはもっと美味しい料理を作ってるんだろうな」
「そうなるように頑張る!」
二人は笑い合う。約束が一つ増えた瞬間だった。
「それじゃあ、行ってくる」
「気をつけてね」
ジュードはもう一度手を振り、夕暮れの街に姿を消した。
リーナはその背中が見えなくなるまで立ち尽くし、やがて冷えた扉の取っ手に手をかけて店に戻る。シンと静まり返った厨房に、自分の息だけが響いた。
口の中に、ふとあのプリンの甘さが甦る。
――次に会うときは、何を作ろう。
自分の居場所はここだ。この場所で、腕を磨きながら彼の帰りを待とう。そんな確信が、胸の奥で静かな炎のように灯っていた。




