ジュードの帰郷
便箋が、いつもより粗い。母の字は丁寧だが、ところどころインクが滲んでいる。
『お父様の体調が芳しくなく、一度顔を見せに戻ってもらえないだろうか』
わずか一行。いつもなら庭の花や屋敷の様子を書き連ねる母が、これだけしか書いていない。
母がわざわざ便りをよこすほどには、何かあったのだろう。
ジュードは手紙を握りしめ、バルトロメオ団長の執務室へ向かった。
扉を叩き、中からの返事を待って入室する。執務机に向かっていたバルトロメオ団長が顔を上げた。
「どうした、難しい顔をしているな」
「実家からです。……父の具合が良くないらしく、一度帰郷を」
「そうか。家族のことなら当然だ。しばらく休暇を取って帰るといい」
団長はジュードから手紙を受け取ると、そこに記された数行に静かに目を通した。やがて、ふう、と一つ大きなため息が漏れる。許可の言葉とともに手紙を返しながら、団長はふと視線を窓の外へ移した。その口元が、ごくわずかに動く。
「……ベネット卿も、骨が折れるな。あの方の『お願い』とあっては、無下にもできんだろう」
ジュードの耳には届かない、ほとんど吐息のようなつぶやき。その目には、呆れと、どこか部下を案じるような複雑な色が浮かんでいた。
「準備が整い次第、出発して良いぞ。道中、気をつけろ」
「はい」
再びジュードに向けられた声は、いつもの厳格な団長のものに戻っていた。
王都へ戻らねばならない。父のことが頭から離れない。こんなときに、彼女に会いたいと願うのは不謹慎だろうか。――いや、違う。こんなときだからこそ、会いたいんだ。あの屈託のない笑顔を見れば、きっと大丈夫だと、そう思える気がする。
休業日の「アンナの食卓」は、看板を下ろして静まり返っている。ジュードは扉の前で一度足を止めた。
父のことを考えれば、こんなことをしている場合じゃない。でも——今日を逃したら、しばらく会えなくなる。
深呼吸をして、無理やり口角を持ち上げた。不安な顔を見せて心配させるわけにはいかない。
***
仕込みの音も鍋の湯気もなく、静かな厨房でリーナは小さな茶器に湯を注ぐ。青茶の葉がほぐれ、香ばしさが鼻先をくすぐった。窓から差し込む風は夏の熱気を含みながらも、どこか秋の匂いを運んでくる。
コンコン、と扉を叩く音。
首をかしげながら扉を開くと——。
「おはよう、リーナ。今日、休み……だよな?」
そこに立っていたのはジュードだった。いつもの軽い笑顔なのに、どこか無理をしているように見える。声の調子が、ほんの少しだけ上ずっている。
「え? おはよう、ジュード! ええ、休みよ」
何があったのかは分からない。でも、今は何も聞かない方がいい気がした。リーナはエプロンの紐を解く。
「よかった。最近、街にすごく美味いスイーツの店ができたって聞いてさ。一緒に行かないか?」
「スイーツの店? なにそれ!」
「プリン専門店らしい」
「プリン……! 絶対行きたい。少し待ってて、すぐ用意するから」
リーナが髪をまとめ直し、小さなバッグを手に取って戸口へ戻ると、ジュードが自然に扉を押さえた。二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑む。
「行こう」
リーナとジュードは肩を並べ、アードベルのざわめきの中を歩いていく。ジュードが何か話しかけようとして、口を開きかける。でも結局、何も言わずに視線を前に戻した。その横顔を、リーナはちらりと見る。
街角を曲がると、見慣れない建物が目に入った。黄色い看板に洒落た文字——『プリルミエール』。
扉を押すと、カラン、と軽やかな鐘の音が鳴った。カラメルのほろ苦さと卵の甘い香りが鼻先を満たす。
「いらっしゃいませ」
迎えた店主の顔がぱっと明るくなる。
「あ……もしかして、アンナの食卓の?」
「はい、リーナです」
「やっぱり! あなたの開発したプリンの虜になっちゃいまして……ついには店開いてしまいました」
店主が嬉しそうに言う。リーナは目を瞬いた。自分の蒔いた種が、アードベルで芽吹いている。
二人は席につき、やがて陶器の皿が運ばれてきた。スプーンを入れると、ぷるりと身を揺らし、カラメルが薄く広がる。リーナが口に含む。
「あ、美味しい! 基本は私のレシピね。でも、カラメルの苦みを抑えて、クリーム部分に甘みを足してる?」
「そうなんです! ここの人は甘めが好きで」
店主とリーナが話し込んでいる間、ジュードは自分のプリンをスプーンですくった。口に入れる。
「……美味しい……な」
その声に、リーナは顔を上げた。ジュードがプリンを見つめている。でも、その目は何も見ていないように見える。スプーンを持つ手が、テーブルの上で止まったまま動かない。
(どうしたんだろう、ジュード。心ここにあらずって感じね)
何かあったのだろうか。今日会った時から、どこかいつもと違う気がしていた。でも——今は聞かない方がいいのだろう。そんな気がした。
リーナは店主に向き直り、また笑顔で話を続けた。ひんやりとしたスプーンが歯に当たる感触が心地よい。自分の料理が誰かに届き、別の形で広がっていく。その喜びを、今はしっかりと味わいたかった。
二人は店を出て、小さな広場へとたどり着いた。木陰のベンチに腰を下ろし、遠くの屋根が夕日に染まっていくのを並んで眺める。日中の熱気がすうっと引き、肌寒いほどの風が吹き抜けた。
隣でジュードが、小さく息を吐いた。
***
ひとときの静寂。
「実は……」
ジュードが口を開いた。その声は、いつもより少しだけ低い。
「実家から連絡があってさ。父の体調が良くないから、一度戻らなきゃいけないんだ」
リーナの手が、膝の上で止まった。
「え……大丈夫なの?」
「多分、そこまで深刻じゃないと思う。でも一応、明日には出発するよ」
リーナの表情が曇る。ジュードは視線を地面に落とした。
「……お父様、早く元気になるといいね」
「ありがとう」
何かを決するように息を吸う。
「それとさ……俺の家、実は宮廷伯爵家なんだ」
リーナが息を呑む気配がした。宮廷伯——王宮に仕える高位の貴族。夕陽の最後の光が、ジュードの手元に影を落とす。
「次男だから比較的自由にしてきたけど……正直、王都は息が詰まる。色んな人たちに値踏みされるしな。だから誰にも本心を見せないように、わざと軽薄な態度を取ったりしてきたんだ」
「出会った当初のジュードだね?」
「そう。……でもリーナも、アードベルの人たちも、最初から俺を『ジュード』として見てくれた。宮廷伯次男じゃなくさ……驚いたよ」
風が二人の間をさぁっと抜けていく。
「……わかるわ」
リーナの声が、ゆっくりと返ってきた。
「私も、ここにいられて、本当によかったって思うから」
ジュードは顔を上げた。リーナの横顔が、夕陽に照らされて柔らかく見える。
「家族のことは大事にして欲しい。きっとお父様もすぐ元気になるわ。そしたらさ、すぐにアードベルに……あなたの居場所に、帰ってきて」
「……必ず、戻ってくる」
「約束ね」
夕闇が空を覆い始める。二人はもう何も言わず、ただそこに並んで座っていた。
***
帰り道。二人の間に言葉はなかった。
どちらからともなく歩調が緩やかになり、肩が触れ合いそうな距離を保ったまま、石畳の道をゆっくりと進む。
「アンナの食卓」の前で立ち止まると、ジュードが振り返る。
「今日はありがとう。……なんか、重い話しちゃったな」
「ん? 全然。話してくれてありがとう、ジュード」
「俺が戻ってくる頃には、きっとリーナはもっと美味しい料理を作ってるんだろうな」
「そうなるように頑張るよ!」
二人は笑い合う。約束が一つ増えた瞬間だった。
「それじゃあ、行ってくる」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
ジュードはもう一度手を振り、夕暮れの街に姿を消した。
リーナはその背中が見えなくなるまで立ち尽くし、やがて冷えた扉の取っ手に手をかけて店に戻る。シンと静まり返った厨房に、自分の息だけが響いた。
口の中に、ふとあのプリンの甘さが甦る。
(次に会うときは、何を作ろうかな。ジュードの笑顔があふれるものが良い)




