照り焼きの黄金比
朝日が東の窓から差し込む厨房で、リーナは昨日エドワードから手に入れた美醂酒の小瓶を両手で大切そうに抱えていた。
「前世で使っていたみりんと、どのくらい違うのかしら」
そっと栓を抜くと、ふわっと上品な甘い香りが立ち上る。前世の記憶にあるみりんよりも、明らかに濃厚だ。指先に琥珀色の一滴を垂らして舐めれば、舌の上でとろけるような円やかな甘み。その奥から顔を出す深いコクと、鼻腔を抜けていくふくよかな米の旨味。
「ふふ、何作ろうかなあ」
胸が高鳴る。思い出すのは、惣菜屋で何度も作った照り焼き。醤油とみりんを合わせた甘辛いタレで肉を焼いたときの、あの香ばしくて食欲をそそる匂い。ジュワッと弾ける音と、照りが浮かんだ美しい焼き色。
「でも、まずは普通に営業しよう。試作は後のお楽しみにしよっと」
美醂酒の瓶を大切に棚へしまい、リーナはうきうきと昼営業の準備を始めた。
***
「リーナちゃん、今日の野菜炒めも最高だよ!」
昼過ぎ、トムが満足げにフォークを置いた。
隣ではソフィアが同じく炒め物を頬張り、幸せそうに目を細めている。
「ありがとうございます。でも、もっと美味しいものが作れるようになりたいんです」
思わぬ言葉に、トムが目を丸くする。
「これ以上美味しくなったら……俺たち、もうリーナちゃんの飯しか食べられなくなっちまうな」
「休業日になったら、皆さん困っちゃいますよ?」
軽く笑いながら返すと、ソフィアが吹き出し、店の空気が和やかに揺れた。
――けれど胸の奥では、次の一歩を試したいという熱が静かに燃え続けていた。
最後のお客様を見送り、「準備中」の看板を掛ける。
リーナは食器を洗い、皿やカトラリー、フライパンを丁寧に片付けていった。
洗い終えた厨房は、ようやく本来の落ち着きを取り戻していた。
***
「さて、まずはフェングリフ肉を切ろう」
冷蔵庫から取り出した肉は淡いピンク色で、刃を入れるとすっと沈み、瑞々しい断面が現れる。
思い浮かぶのは前世の基本――醤と美醂酒を1:1、そこに酒と砂糖を少し。
器に醤1:美醂酒1を合わせる。混ぜた瞬間、甘い香りが立ち上り、鼻腔を包み込んだ。
「うん、まずはこれで」
フライパンに油を敷き、肉を並べる。ジュッと弾ける音が広がり、香ばしい匂いが立つ。裏返して焼き色を付け、タレを流し込むと、ぶわっと立ちのぼる蒸気が甘ったるいほど強烈だった。
慌てて揺すりながらタレを絡めるが、すでに肉には蜜のような香りがまとわりついている。一口味わい、リーナは小さく首を振った。
「美醂酒の個性が、あまりに前に出過ぎちゃってる……。本来なら肉と醤の旨味を『引き立てる』はずの甘みが、逆に素材の良さを覆い隠してる。これだと主役がタレになっちゃう」
諦めず、二度目の挑戦。今度は醤2:美醂酒1。香りはすっきりしたが、味わってみるとタレが肉の表面を滑るだけで一体感がない。
「これだと醤の塩気と肉の旨味、その二つをつなぐ橋渡しの役割が弱いかも」
***
三度目の挑戦。醤2:美醂酒1.5。そこに酒とほんの少しの砂糖を加える。
再びフライパンへ。焼ける音がはじけ、タレを加えると立ち上る香りは甘すぎず、しかし物足りなくもない。濃い醤の香ばしさに、ふくよかな甘みが重なった。
タレがとろりと煮詰まり、肉を艶やかに覆う。光を受けて飴色に輝く照りは、見ているだけで食欲をかき立てる。箸で持ち上げれば、タレが糸のように滴り落ちた。
――幾度かの試行錯誤を経て、ようやくリーナにとっての黄金比が見つかった。
口に運ぶとまずガツンと来るのは醤の香ばしさと塩気。しかしその角を、美醂酒の上品な甘みが優しく包み込む。噛みしめるほどに、閉じ込められていたフェングリフの肉汁が溢れ出し、甘辛いタレと渾然一体となって舌の上でとろけていく。
前世のそれを超えた、より気高く、奥深い味わい。胸が弾むような達成感に、思わず笑みがこぼれた。
***
「今日は新しいメニューがあるんです」
夜営業が始まって間もなく、いつもの騎士団の顔ぶれが揃った。ジュード、ガレス、アデライン、そして今夜はバルトロメオ団長も一緒だ。
「新メニューって、また面白いのか?」
ジュードが興味深そうに身を乗り出す。
「フェングリフの照り焼きです。甘辛い味付けで、きっと気に入っていただけると思います」
リーナが説明すると、アデラインが眉を上げた。
「照り焼き?初めて聞くわね」
「どんな味なんだ?」
ガレスの質問に、リーナは答えた。
「醤の塩気と美醂酒の甘みが合わさった、上品な甘辛味です。肉の旨味をぐっと引き立ててくれます」
「ミリンシュ?薬酒じゃないのか」
団長が驚いたように口を挟む。
「はい、薬草を漬けていないものを調味料に使ったんです。料理にすると、驚くほど良いコクが出るんですよ」
厨房に戻り、黄金比で仕上げたタレを使って照り焼きを完成させる。ジュッという音と共に立ち上る香ばしい匂いが、店の空気を一変させた。
「うわあ、いい匂いだな!」
ジュードが声を上げた。
皿に盛り付け、白ごまを散らして緑のインゲンを添える。艶やかな肉がテーブルに並ぶと、団員たちの視線が一斉に集まった。
「綺麗だな」
「この照り、たまらないわ」
バルトロメオがフォークを取り、一口食べる。噛み締め、静かに味わった後で微笑んだ。
「……これは見事だ。醤の塩気、美醂酒の甘み、そして肉の旨味。三者が互いを打ち消すことなく、手を取り合って一つの高みへと昇っている」
「美醂酒の力です。米の甘みから生まれるコクなんです」
リーナが答えると、他の団員たちも次々に箸を伸ばす。
「うめぇ!」
ガレスが豪快に笑い、ジュードも感嘆の息を漏らす。
「すげーな、これ。甘いのにくどくなくて、肉の味がぐっと引き立ってる」
「お酒にも合うわ」
アデラインはエールをひと口含み、満足そうにうなずいた。
***
その夜、照り焼きはあっという間に完売した。
食器を片付けながら、リーナは満ち足りた気持ちで小瓶に視線をやる。
「明日は分量を工夫して、少しでも多くのお客様に楽しんでもらえるようにしましょう」
美醂酒の瓶が、奥の棚で静かに光っていた。煮物にも菓子にも使えるはず。試してみたい料理はまだまだある。
「エドワードさんが次に来るのが楽しみだわ」
残暑の夜風が、涼やかに頬を撫でていった。




