美醂酒
朝の厨房。包丁を握る手は動いているのに、意識はずっと昨日の光景に囚われていた。
薬草店で目にした、あの琥珀色の液体――ミリンシュ。
鑑定魔法が示した『東方由来』『調理』という文字。あの薬酒は調理にも使えるはずなんだ。
ザク、と包丁が止まる。
まな板の上には、切り揃えられたキャベツ。淡い緑の断面が、朝の光を受けて瑞々しく輝いていた。けれど、その美しさすら今のリーナの目に入らない。
***
「東方交易商会」と掲げられた看板の下に立ち、木の扉を押す。カラン、と澄んだ鈴の音。
中は外よりひんやりとしていて、味噌や醤の香りが広がった。磨かれた床には光が映り込み、樽や甕がきちんと並んでいる。奥には米俵が積まれ、無駄のないすっきりとした空間だった。
「いらっしゃいませ」
現れたのは見慣れたエドワード。仕立ての良い服に、穏やかな笑み。リーナの姿を認めると、口元がほころび、目尻が下がった。
「これはリーナさん。ようこそ。どのようなご用件で?」
「こんにちは、エドワードさん。実は……お聞きしたいことがあって。急にすみません」
「とんでもない。貴女の訪問なら、いつだって歓迎しますよ。ちょうど、面白い茶葉が入ったんです。奥へどうぞ」
案内された応接のテーブルには、白磁の小ぶりな湯呑。注がれた茶は、紅茶よりもずっと淡い、透き通った黄金色をしていた。
「これは……?」
湯気と共に広がる香ばしい香りに、リーナの手が止まった。
「お気づきになりましたか」
エドワードが嬉しそうに笑う。
「先日の買い付けで手に入れたんです。リーナさんなら、きっと喜んでいただけるかと思いまして」
両手で湯呑を包むと、心地よい熱がじんわりと伝わってくる。口に含む。まず舌の上に穏やかな渋みが広がり、すぐその奥から、鼻に抜けるような香ばしい風味が花開いた。後味は驚くほどすっきりとしている。
「……ウーロン茶」
「ウーロン茶? こちら東方では『青茶』と呼ばれております。この国ではまだ珍しいものですよ」
満足げに頷くエドワード。リーナを喜ばせることに成功した、という表情。
「やっぱり……! これ買えますか? 買えるなら、ぜひお願いしたいです!」
「承知しました。少しでよろしければお分けしますね」
礼を述べ、リーナは本題を切り出した。
「実は、ミリンシュという薬酒についてお聞きしたくて」
「ああ、最近王都で話題の薬酒ですね。美容や健康に良いということで、特に女性の間で人気だとか」
「そうなんです。でも私は薬酒として興味があるわけではなくて……料理に使えないかと思いまして」
「料理に、ですか?」
「ええ。昨日薬草店で実物を見たのですが、あの甘みは調味料として使えそうな気がして。でも、ハーブの香りが強くて……」
リーナの言葉を聞きながら、エドワードの表情がだんだんと興味深そうなものに変わっていく。そして、何かを思い出したように手を打った。
「実は、先日の買い付けで少し困ったことがありまして」
エドワードが立ち上がり、店の奥へ向かった。しばらくして、小さな木箱を抱えて戻ってくる。
「ミリンシュを仕入れたのですが、輸送中に一部が……薬草を漬ける前の状態のものが混ざってしまったんです」
木箱をテーブルに置き、エドワードはリーナを見た。口元に、わずかな笑みを浮かべている。
「薬酒として売ることはできないので、廃棄しようかと思ったんですが――」
ガタッ、と椅子が鳴る。リーナは身を乗り出し、危うくテーブルの上の木箱を鷲掴みにするところだった。
「す、捨てないでください! それ、譲っていただけませんか!?」
「……これを、ですか? 薬効などありませんよ」
「薬効なんてなくていいんです! むしろ、ない方がいいんです!」
必死な形相のリーナに、エドワードが目を丸くし、やがてくっくと喉を鳴らして笑った。
「開けてみてください」
木箱を開けると、中から小さな瓶が現れる。薬草店で見たものよりも澄んでいて、純粋な琥珀色の輝きを放っている。
「こちらが、ハーブを漬ける前のミリンシュです」
瓶を受け取る。ずっしりとした重みが手のひらに伝わった。栓を抜くと、上品な甘い香り。
「少し味見をしてみますか?」
小さなカップに注がれた液体は、光を受けてとろりと揺れる、濃い琥珀色。口に含む。まず、角の取れたまろやかな甘みが舌を包み込み、次いで米由来の豊かな旨みがじんわりと広がる。最後に喉の奥に、ほんのわずかなアルコールの熱を残して消えていった。
リーナは瓶に意識を集中させた。淡い光と共に、文字が浮かび上がる。
『美醂酒』
『品質:上級』
『特性:米を原料とした醸造酒。まろやかな甘みと深いコク。東方由来』
『用途:調理用調味料、飲用』
『効果:料理の甘味付け、照り出し、臭み消し』
(やっぱり、美醂酒はみりんだったんだ!)
前世で何度も料理に使った、あの懐かしい調味料。照り焼きの甘辛いタレ、煮物の上品なコク、お菓子作りの隠し味。
記憶の中で、祖母がみりんの瓶を傾けて、煮物を炊く光景が蘇る。「みりんはね、縁の下の力持ちなんだよ。料理に奥行きをくれるんだよ」という優しい声まで聞こえてくる。
「リーナさん?」
エドワードの声。顔を上げると、彼は穏やかに微笑んでいた。
「お気に召しましたか?」
「最高です……。エドワードさん、これを廃棄しようだなんてもったいなさすぎます」
リーナは瓶を、まるで宝石のように両手で包み込んだ。
興奮で、早口になるのを止められない。
「これがあれば、料理の世界が変わるんです。ただ甘くするだけじゃない。お肉を煮込めば繊維が解けて柔らかくなるし、魚に使えば生臭さを消して旨味だけを残してくれる。醤油……いえ、醤と合わせれば、砂糖では絶対に出せない美しい『照り』と『コク』が出るんです!」
「……照りと、コク」
「はい! 例えば、鶏肉をこれで焼けば、飴色のタレが絡んで、冷めても美味しい最高のおかずになります。お菓子に使えば、蜂蜜よりも上品な甘さに仕上がる。これは、魔法の調味料なんです!」
一気にまくし立ててから、はっと我に返る。
エドワードは口元に手を当て、真剣な眼差しでリーナを見ていた。
「素晴らしい。王都では薬酒としてしか認識されていませんが、こんなにもハーブを漬けていないものに価値があるとは」
「あ……その、すみません」
「なぜ謝るのですか、そんな沢山の情報を頂けるなんてこちらが感謝しなくてはいけません」
エドワードが手帳を取り出し、サラサラとペンを走らせる
「料理酒としてのミリンシュ……。薬酒として売るより用途が広く、消費も早い。何より、『美味しい』という欲求は、健康への欲求よりも強く、永続的です」
パタリ、と手帳が閉じられる。
エドワードは瓶を指し、ニヤリと口角を上げた。
「リーナさん、こちら次回から大量に仕入れさせていただきます」
「え?」
「貴方が仕入れてほしいとおっしゃった。……それなら確実に次のブームになる商品です」
「エドワードさん……!」
「料理用のミリンシュ、きっとアードベルでも話題になりますよ。リーナさんのお料理を通して、新しい食文化が広がっていくかもしれません」
渡された瓶の重みは、そのまま未来への期待の重さだった。
「ありがとうございます! 私、絶対に美味しいものを作ってみせますから!」
「ええ。期待しています。……ああ、量はどうします? とりあえず、その瓶一本で?」
「いえ!」
リーナは食い気味に叫んだ。
「あるだけ全部! 試作したい料理が山ほどあるんです!」
***
帰り道、頭の中はすでに「照り焼き」のことで埋め尽くされていた。 醤と美醂酒が焦げる匂い。鶏肉に絡みつく飴色のタレ。想像するだけで、喉が鳴る。
(……早く帰って、これを試したい!)
足早になるどころか、リーナは石畳を駆け出していた。




