美醂酒
朝の陽射しが差し込む厨房で、リーナは昨日の光景を思い返していた。
薬草店で目にした、あの琥珀色の液体――ミリンシュ。
包丁がまな板を叩くたび、トン、トン、と刻んでいた軽快なリズムが、ザク、ザクッ、という心地よい音色に変わる。陽の光を浴びた葉が、絹糸のように細く断ち切られていく。淡い緑の光。切り口から立ち上る、みずみずしく青い香り。薄切りにしたキャベツが重なり合い、ふわりと空気をはらんで山のように積み上がっていく。
けれど手は止まらずとも、意識はずっと琥珀色の瓶に向かっていた。
(あの甘い香り……でも、ハーブが強すぎる。もし漬ける前の酒があるなら――)
鑑定で一瞬見えた「東方由来」「調理……」の文字。あの途切れた表示が、何かを隠しているようで気になって仕方ない。
包丁を置き、手を拭きながら決心する。東方の食材に詳しいのは、やはりエドワードさんだ。彼なら何か知っているかもしれない。
外では鳥がさえずり、石畳を行き交う人々の声が混じり始める。新しい一日の始まりに、特別な予感があった。
***
昼下がり。
「東方交易商会」と掲げられた看板の下に立ち、木の扉を押す。カラン、と澄んだ鈴の音。
中は外よりひんやりとしていて、味噌や醤の香りがふわりと広がった。磨かれた床には光が映り込み、樽や甕がきちんと並んでいる。奥には米俵が積まれ、無駄のないすっきりとした空間だった。
「いらっしゃいませ」
現れたのは見慣れたエドワード。仕立ての良い服に、穏やかな笑み。リーナを見ると、さらに柔らかな表情になった。
「これはリーナさん。ようこそ。どのようなご用件で?」
「こんにちは、エドワードさん。実は……お聞きしたいことがあって」
「どうぞ奥へ。お茶でもいかがですか」
案内された応接のテーブルには、白磁の小ぶりな湯呑。注がれた茶は、紅茶よりもずっと淡い、透き通った黄金色をしていた。湯気と共に広がる香ばしい香りに、リーナは思わず瞬きをした。
(……紅茶じゃない!?)
両手で湯呑を包むと、心地よい熱がじんわりと伝わってくる。恐る恐る口に含むと、まず舌の上に穏やかな渋みが広がり、すぐその奥から、鼻に抜けるような香ばしい風味が花開いた。後味は驚くほどすっきりとしている。
「……まさか、ウーロン茶?」
思わず口からこぼれる。
エドワードが目を丸くした。
「ウーロン茶? こちら、東方では『青茶』と呼ばれております。この国ではまだ珍しいものですよ」
「やっぱり……! これ買えますか?買えるなら、ぜひお願いしたいです!」
「承知しました。少しでよろしければお分けしますね」
満足げにうなずくエドワードに礼を述べ、リーナは本題を切り出した。
「実は、ミリンシュという薬酒についてお聞きしたくて」
「ああ、最近王都で話題の薬酒ですね。美容や健康に良いということで、特に女性の間で人気だとか」
「そうなんです。でも私は薬酒として興味があるわけではなくて……料理に使えないかと思いまして」
「料理に、ですか?」
「ええ。昨日薬草店で実物を見たのですが、あの甘みは調味料として使えそうな気がして。でも、ハーブの香りが強くて……」
リーナの言葉を聞きながら、エドワードの表情がだんだんと興味深そうなものに変わっていく。そして、何かを思い出したように手を打った。
「そうそう、実は面白い話があるんです」
エドワードは立ち上がり、店の奥から小さな木箱を取り出してきた。
「東方では、ミリンシュが調味料としても使われているんです。薬草を漬ける前の、純粋な状態のもので」
リーナの心臓が早鐘を打った。まさに自分が探していたもの。
「実は、先日の買い付けの際に、ミリンシュも少し仕入れてきたんです。リーナさんなら、きっとこちらの方に興味を持たれるのではないかと思いまして」
木箱を開けると、中から小さな瓶が現れる。薬草店で見たものよりも澄んでいて、純粋な琥珀色の輝きを放っている。
「こちらがハーブを漬ける前の、ミリンシュです」
瓶を受け取ると、ずっしりとした重みが手のひらに伝わった。栓を抜くと、純粋で上品な甘い香りがそっと立ちのぼる。薬草店で嗅いだものとは全く違う、澄んだ香りだった。
「少し味見をしてみてください」
小さなカップに注がれた液体は、光を受けてとろりと揺れる、濃い琥珀色。恐る恐る口に含む。まず、角の取れたまろやかな甘みが舌を包み込み、次いで米由来の豊かな旨みがじんわりと広がる。最後に喉の奥に、ほんのわずかなアルコールの熱を残して消えていった。
リーナは瓶に意識を集中させた。淡い光と共に、文字が浮かび上がる。
『美醂酒』
『品質:上級』
『特性:米を原料とした醸造酒。まろやかな甘みと深いコク。東方由来』
『用途:調理用調味料、飲用』
『効果:料理の甘味付け、照り出し、臭み消し』
その瞬間、リーナの世界が止まった。美醂酒――みりん。前世で何度も料理に使った、あの懐かしい調味料。照り焼きの甘辛いタレ、煮物の上品なコク、お菓子作りの隠し味。
記憶の中で、祖母の手がみりんの瓶を傾ける光景が蘇る。「みりんはね、料理に奥行きを与えてくれるのよ」という優しい声まで聞こえてくるようだった。
「リーナさん? お気に召しましたか?」
エドワードの声で我に返る。気がつくと、自分の手が小刻みに震えていた。
「あ、すみません。とても……とても興味深いお酒ですね」
落ち着こうとして深呼吸する。でも、胸の高鳴りは止まらない。これは間違いない。あの懐かしい、愛しい調味料そのものだった。
***
「リーナさんは、どのような料理に使われるご予定ですか?」
エドワードの質問に、リーナは瞳を輝かせた。まるで封印されていた記憶の扉が開かれたように、次々と用途が頭に浮かんでくる。
「例えば、肉料理の時に使うと、甘みと照りが出て、とても上品な味になるんです。醤と組み合わせることで、甘辛い、とても美味しいタレができるんです」
身振りを交えながら説明していると、自分でも驚くほど詳しく語っている自分に気づく。これも前世の記憶の賜物だった。
「お魚を煮る時にも、生臭さを消して、コクのある味に仕上がります。それから……」
リーナは少し躊躇したが、続けた。
「お菓子作りにも使えるんです。砂糖だけでは出せない、深みのある甘さを加えることができて……」
エドワードは目を見開いて聞き入っている。商人の彼には、これが新しいビジネスの可能性として映っているに違いない。
「素晴らしい。王都では薬酒としてしか認識されていませんが、こんな使い方があるとは」
「もしよろしければ、このミリンシュを分けていただけませんでしょうか?」
リーナは瓶をそっと胸に抱いた。この小さな瓶の中に、どれほどの可能性が詰まっているだろう。
「もちろんです。むしろ、こちらからお願いしたいくらいです」
エドワードの顔に商人らしい笑みが浮かんだ。新しい市場の可能性を見出した時の、あの輝き。
「料理用のミリンシュ、きっとアードベルでも話題になりますよ。リーナさんのお料理を通して、新しい食文化が広がっていくかもしれません」
その言葉に、リーナの胸は温かくなった。自分の手で、この国に新しい味を伝えていけるかもしれない。それは料理人として、これ以上ない喜びだった。
「今度の買い付けでは、料理用のミリンシュをもう少し多めに仕入れてきましょう。どのくらいの量がご希望ですか?」
「そうですね……」
リーナは少し考えた。まずは色々な料理で試してみたい。そして、うまくいけば常連のお客さまにも紹介したい。
「最初は今回の三倍くらいでお願いします。様子を見ながら、少しずつ増やしていければと思います」
「承知いたしました」
エドワードは手帳に何かを書き込みながらうなずいた。
「それでは、次の買い付けから本格的に仕入れてまいります。楽しみにしていてください」
***
エドワードの店を後にして、リーナは美醂酒の瓶を大切に抱えながら自分の店へと向かった。
午後の陽差しが街並みを黄金色に照らし、人々の足音が石畳に心地よく響く。けれど、リーナの意識は腕に抱えた小瓶の、確かな重みとひんやりとした感触に向いていた。
(ついに見つけた。本当の美醂酒を)
胸の奥に、温かい何かが宿った。それは懐かしさでもあり、期待でもあり、そして深い感謝の気持ちでもあった。
店に戻ると、リーナは真っ直ぐに厨房へ向かった。西陽が差し込む窓辺で、もう一度美醂酒の瓶をかざしてみる。中の液体が、蜂蜜のように輝いていた。
まずは照り焼きを試してみよう。フェングリフの肉に、醤と美醂酒を合わせたタレを絡めて。きっと前世で食べた、あの懐かしい味が再現できるはず。
それから煮物。根菜を美醂酒と醤で煮込めば、上品で奥深い味に仕上がるだろう。お客さまたちの驚く顔が目に浮かぶ。
そしてお菓子。美醂酒を使った甘露煮や、カステラのような焼き菓子。甘さの中に隠れた複雑な味わいで、きっと新しい美味しさを提供できる。
窓の外では夕日が傾き始めている。もうすぐ夜の営業時間。今夜は騎士団の皆さんに、この発見を少しだけ話してみようかしら。
美醂酒という、新しい調味料との出会い。それは、リーナの料理の世界を、また一つ広げてくれるものになりそうだった。




