レシピ公開と新たな挑戦
「申し訳ございません、今日も満席で……」
私は店の前に並ぶお客さんたちに頭を下げた。入り口にはいつものように人だかりができている。
「また明日来るよ。リーナちゃんの料理が食べたくてな」
大工のトムが肩を落としつつも、優しく笑って手を振る。
「ったく、胃袋がリーナちゃんの味に慣れちまったせいで、家の飯が味気なく感じんのよ」
常連のハンスも苦笑まじりに言って、のそのそと帰っていった。
最近、こんな光景が日常になりつつある。
「リーナちゃん、申し訳ないねぇ」
アンナさんが心配そうに私を見つめる。10席しかない小さな店では、とてもみんなの期待に応えきれない。
魔物料理の評判が広まれば広まるほど、入れない人が増えてしまっていた。
「いえ、嬉しい悲鳴ですよ」
そう言って笑ってみせたものの、常連さんに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
* * *
夜の営業が始まると、店にはおなじみの顔ぶれがそろう。この時間帯は、騎士団のいつもの人たちと近所の方だけに開かれた特別な席になっている。
昼間は剣を振るい、夜はこの店で疲れを癒やしていく彼らに、私は温かい料理を出したいと思っていた。
今夜のメニューは、アースボアの赤ワイン煮込み。大きな鍋でことこと煮込まれた肉から立ち上る湯気が、香味野菜の甘い香りを運んでくる。スプーンでそっと押すだけで、ほろほろと崩れるほど柔らかく仕上がった。
「……この煮込み、たまんねぇな……」
ガレスが皿をじっと見つめながら、うっとりとつぶやく。フォークで肉を持ち上げると、とろりとした煮汁がしたたり落ちる。
「やだもう、煮込み料理って最高よねぇ~!お肉がとろっとろで、歯いらないんじゃない?」
アデラインが目を細めて、フォークですくった肉を口に運ぶ。噛むたびに濃厚な旨味が口の中に広がって、満足そうなため息を漏らす。
「……前の角煮も美味かったけど、こっちはまた違うな」
ジュードが一口噛みしめながら、うなずくように言った。
「赤ワインで煮ると、香りとコクが深まるんです。お肉も味が染みやすくなるので、角煮とはまた違った仕上がりになりますよ」
私の説明に、みんながうなずきながらスプーンを進めた。
そのとき、トムがジョッキを置きながらぽつりとつぶやく。
「なあ、リーナちゃん。最近、入れねぇ客、多いだろう」
「……はい。せっかく来てくださったのに、お断りしなきゃいけないのが、心苦しくて」
「今日な、市場で小さい子に声かけられたんだ。『またリーナちゃんのお店、入れなかった……』って。親御さんも困ってたよ」
「…………」
私は何も言えなかった。トムは軽く息を吐いて、続ける。
「そういうの見るとさ、リーナちゃんの料理、もっと広まってほしいって思っちまうんだよ」
そして、まっすぐに私を見て言った。
「だからよ、レシピを教えちまったらどうだ?」
一瞬、取り分け用のスプーンを持つ手が止まる。店内が静まり返った。
「レシピを……?」
「そうじゃよ、リーナちゃん。みんなが家でも作れたら、それだけ幸せが広がるってもんじゃ」
マルクさんが温かくうなずいて、手をぽんと叩く。
「でも、それって……」
私は戸惑った。商売的にはどうなのか。レシピを公開したら、店の価値が下がってしまうのではないか。
「リーナ」
ジュードが、珍しく真剣な顔で口を開いた。
「俺は、すごくいいと思う。リーナの料理が広まれば、この街全体が間違いなく豊かになる」
「そうそう!リーナの料理、私たちだけが独り占めなんてもったいないわ~!」
アデラインも嬉しそうに手を振りながら賛成する。
その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。
前の世界で、小料理屋を営んでいた祖母のそばで育った。
いつか一緒に店に立ちたい、それが私の小さな夢だった。けれどこうして、誰かの食卓にまで笑顔を届けられるなら——それ以上に素敵なことはない。
「……分かりました。やってみましょう」
* * *
翌日の昼営業後、私はカウンターに材料を並べて、店の常連さんたちに声をかけた。
「今日は、皆さんに料理のレシピをご紹介しようと思います」
トムやベラ、アンナさんたちが興味深そうに集まってくる。私はまず、乾燥させたツチタケとウミクサを手に取って見せた。
「これは出汁に使います。一晩水に浸けておくだけで、旨味たっぷりの黄金色のスープが取れるんです」
大きな鉢に水を張り、きのこと海藻をそっと沈める。水面に広がる薄い琥珀色を見て、驚きの声が上がった。
「ほんとにそれだけでいいのかい?」
「もちろん、火にかけてもOKです。弱火でゆっくり煮出せば、香りもぐっと引き立ちますよ」
実際に鍋に火をつけると、ふつふつと小さな泡が踊り始める。やがて、きのこの香ばしさと海藻の磯の香りが混じり合った、食欲をそそる匂いが立ち上った。
「わー、すごくいい匂い!これはすぐ真似したくなるわ」
ベラが身を乗り出して、深く息を吸い込む。
「そして、出汁を取った後の具材も捨てません。ツチタケは細かく刻んで炒め物に、ウミクサは煮物に使えます」
「無駄がないのがいいわねぇ」
アンナさんも感心したようにうなずいた。
続いて、私は卵を割り入れたボウルを取り出した。
「次は、卵と油と酢で作る、魔法みたいな調味料です」
卵をよくかき混ぜ、少しずつ油を垂らしていく。
「ここがちょっと難しいところなんです。勢いよく混ぜすぎると分離しちゃうから、ゆっくり、丁寧に……」
私は少し手を止めて深呼吸した。
「焦らない、焦らない……」
再び、ゆっくりと混ぜ続けると、さらさらだった液体が徐々に白く濁り始める。油と卵が一体となって、とろりと艶のあるクリーム状に変わっていく様子に、みんなが息を呑んで見入った。
「なにこれ……卵がこんな風になるなんて……!」
「ほんとに魔法みたいね!」
ベラやアンナさんが目を丸くして見守る中、私は最後にブドウ酢を少量加えて混ぜ、スプーンですくってみせた。白くて滑らかな調味料が、とろりとスプーンから垂れる。
「これが『マヨネーズ』です」
心の中で前世の記憶を思い出す。確か、マヨネーズはスペインが発祥だったかな。
「野菜につけて食べると、すごくおいしいんですよ」
切った人参とトマトを皿に盛り、マヨネーズを少しつけて差し出す。野菜の鮮やかな色に白いマヨネーズが映えて、見た目にも美味しそうだった。
ベラが恐る恐る口に運ぶ。
「……うっま!なにこれ、野菜がごちそうになってる!」
「これなら野菜嫌いな子どもでも食べられそうだわ」
「ちなみに、卵黄だけで作るともっと濃厚になるけど、全卵なら無駄もないし、失敗しにくいんです」
「リーナちゃん、さすが無駄をしないのね」
アンナさんがうれしそうにうなずいた。
さらに私は、細かく刻んだシロネギを用意する。
「今度はネギダレを作りますね」
シロネギの白い部分と緑の部分を分けて刻み、ボウルに入れる。そこに醤をじゅわっと注ぐと、ねぎの香りがぱっと立ち上った。出汁と香味油を加えてかき混ぜると、ねぎの辛味と醤の香ばしさが合わさった、食欲をそそるタレが完成した。
「これは肉料理によく合います。アースボアの角煮にかけても美味しいですよ」
試しに昨日の煮込みの残りにかけて味見してもらうと、トムが目を見開いた。
「うっわ、これ肉が止まらんやつだわ……」
「それから、これも」
最後に、オリーブオイルにローズマリーの葉を漬け込んだハーブオイルを紹介した。透明なオイルにローズマリーの香りがふわりと移って、淡く緑がかった黄金色のオイルになっている。
「パンや焼き魚にも合います。香りが食欲をそそるんです」
一通り紹介し終えたあと、私は少し緊張しながら口を開いた。
「それで……レシピの値段についてなんですが」
皆が息をのむ中、私は言った。
「家庭で使う場合は銅貨3枚。お店で使う場合は銀貨1枚。……判別は、自己申告制にしようかと思います」
「自己申告って……大丈夫なのかい?」
「私は、この街の人たちを信じたいんです。料理の喜びを、もっと広めたいから」
その言葉に、アンナさんがうるんだ目でうなずく。
「リーナちゃん……ほんと、いい子……」
「俺が最初の客だ!家庭用で銅貨3枚、レシピ全部な!」
「私も!」
「うちもお願い!」
次々と手が挙がり、私は笑顔で頷いた。
* * *
その日の夕方から、続々とお客さんがレシピを求めてやってきた。説明を聞きながら、みんな目を輝かせている。
「本当に水につけるだけでいいの?」
「ええ、一晩つけておけば美味しい出汁になります」
「マヨネーズって言うのね。覚えたわ」
「卵がこんな風になるなんて、魔法みたい」
嬉しそうに帰っていくお客さんたちを見送りながら、私の心は温かい気持ちでいっぱいになった。
窓の外には夕日が差し込み、街の家々にも明かりが灯り始めている。きっと今頃、どこかの家庭では新しいレシピに挑戦している人もいるだろう。
「これで、もっとたくさんの食卓が明るくなりますように」
私は、心の中でそっと願った。料理の力で、この街をもっと素晴らしい場所にしていきたい。
今日から始まる新しい挑戦に、心が躍っている。