婚約破棄と新たな旅立ち
「リーナ様、エリオット様がお呼びです」
使用人の言葉を受け、リーナ・リヴィエは一度だけゆっくりと目を伏せ、それに応えた。クライド公爵家の屋敷は慣れ親しんだ場所だったが、今日はなぜか足取りが重い。
応接室へ向かう途中、書斎のドアが僅かに開いているのに気づく。中から聞こえてくる、甘い吐息と笑い声。
「もうっ、まだ昼間よ?」
「ミランダ、君は良いね。リーナなんて、抱きしめても反応しないんだ。まるで人形みたいで」
「エリオット様、可哀想……。でも今は私がいるから大丈夫でしょ?」
甲高い女性の声。ミランダ・バローズ。衣擦れの音、口づけの音。リーナの指先が、ドアノブで止まる。
「あいつ、処女のくせにいつもすました顔が腹立つんだ」
「三年も婚約してたのに、手を繋ぐだけで真っ赤になって」
「君みたいに積極的な女性の方がずっといい」
エリオットの声が続く。
「それに、リーナの実家はもう落ち目だ。ミランダの方が魅力的だよ」
リーナは音を立てないよう、その場を離れた。足音を殺しながら応接室へ向かう。指先が冷たかった。
三十分後、エリオット・クライドが応接室に現れた時、彼の髪は僅かに乱れ、シャツのボタンが一つ外れていた。リーナは紅茶のカップを置いた。陶磁器がソーサーに触れる、か細い音だけが応接室に響く。
「待たせたね、リーナ」
エリオットは、まるで詩人にでもなったつもりなのか、芝居がかった声でそう告げると、遠くを見つめながら恍惚とした笑みを浮かべた。
「僕はね、運命の恋をしてしまったんだ」
「そうですか」
リーナの声は、驚くほど平静だった。エリオットは安堵したのか、あるいは拍子抜けしたのか、堰を切ったように言葉を続けた。まるで自分の言葉に酔いしれているような響きで、いかに新しい恋が運命的か、そしてリーナとの時間がどれほど息苦しかったかを語り続ける。ミランダといると心が解き放たれ、リーナといると息が詰まる。笑わない、怒らない、泣かない。人形のようで男としてつまらないのだと。
エリオットの言葉は、リーナが時折感じていた自身への評価と皮肉にも重なった。感情の起伏が少なく、人と深く関わることを避けがち。確かに、つまらない女なのかもしれない。エリオットにはそこが物足りなかったのだろう。
「そもそも君、僕に抱きしめられても何も感じないだろう? 石みたいに冷たくて」
その言葉で、リーナの中で何かがぷつりと切れた。
「確かに。あなたに抱きしめられても、心は少しも動きませんでした」
むしろ冷たく凍るばかりだった。今度は、エリオットの方が驚いたような顔をする。
「特に、今日みたいに他の女性と戯れた後では」
「え?」
「『処女のくせにいつもすました顔が腹立つ』でしたよね?」
珍しく笑ったリーナの声は、氷のように冷たかった。エリオットの顔が青ざめる。
「それは……」
「もういいです。お話は分かりました。お幸せに」
リーナは椅子から立ち上がる。
「リーナ、君は本当に理解のある女性だ。きっと君にも、素晴らしい出会いが――」
「そういう偽善的な言葉、もう結構です」
言い捨て、リーナは踵を返した。背後で、勝利を確信したようなミランダの笑い声が聞こえる。廊下に出ると、遠巻きに見守っていた使用人たちの視線が肌に刺さった。噂はもう、屋敷中に広まっているに違いない。
自邸の部屋に戻ると、リーナは鏡台の前に座った。鏡に映る自分を見つめる。黒髪に青い瞳。決して華やかではない顔立ち。エリオットが「つまらない」と言った女の顔。でも、それが悪いことなのだろうか。少なくとも、人を裏切ったりはしない。
そう思った瞬間、こめかみの奥が、ずきりと痛んだ。視界が白く明滅する。脳裏をよぎったのは、見知らぬ台所で、温かい湯気の立つ皿に料理を盛り付けている自分の手。そして、すぐ側で響く、誰かの優しい笑い声。
この光景は、一体何の記憶なのだろうか。
「お前のせいで、全てが終わりだ!」
翌朝。父親であるリヴィエ伯爵の怒声が書斎に響いた
「クライド家からの援助がなければ、領地も屋敷も立ち行かなくなる。お前の弟が継ぐべきこの家が、お前一人の失態で潰れるのだぞ! それが分からんのか!」
自己保身に満ちた言葉が、リーナの鼓膜を滑っていく。
「勘当だ! 出ていけ! こうでもせねば、クライド卿への申し開きができん!」
ああ、なるほど。父が守りたいのは娘ではなく、クライド家との関係なのだ。リーナは黙って聞いていた。怒りも悲しみも、不思議と湧いてこない。ただ、妙な解放感だけが、これで終わるのだという諦念と共に、静かに広がっていった。
父の言葉に、リーナは完璧に美しいカーテシーをした。床に広がるスカートの裾が、冷たい床に触れる。
「承知いたしました。長らくお世話になりました」
早朝。小さな鞄一つを手に、リーナは慣れ親しんだ廊下を歩く。鞄の中身は、最低限の着替えと身の回りの品、そして僅かな所持金だけ。使用人たちは遠巻きに彼女を見るだけで、誰も近寄ってこない。昨日まで「お嬢様」と呼んでいた彼らは、もう他人のような顔をしていた。追放された令嬢に、わざわざ声をかけようとする者などいない。当然のことだった。
玄関ホールへと続く扉の前に母が立っていた。リーナの持つ鞄に目を落とし、安堵とも軽蔑ともつかぬ表情で、そして細い声で囁く。
「お願いだから、早く出ていってちょうだい」
「お母様……」
「あなたがここにいるだけで、クライド公爵家の機嫌を損ねてしまうわ。もし、あの子にまで何か影響があったら困るの。分かるわね?」
激しい怒声よりも、静かな拒絶の言葉の方が、冷たい針のようにリーナに突き刺さった。リーナは何も答えず、母親の横を通り抜けて、重い扉を開いた。
朝の市場に向かう荷馬車が、隣国への便を出しているという話を聞いていた。貴族の馬車ではないが、背に腹は代えられない。
「隣国への便に乗せていただけますか?」
御者は汚れた帽子の下から、リーナを値踏みするような目で見た。しかし、彼女が差し出した銀貨を検分すると、わずかに顎を引き、無言で馬車の扉を開ける。
足を踏み出すとき、ふと後ろを振り返る。見慣れた屋敷、育った庭園。そのすべてが、もう自分の居場所ではなかった。
「ありがとう、今まで」
小さく呟いて、リーナは馬車へ足を踏み入れる。背を向けたその瞬間、もう二度と振り返らないと心に決めた。
向かいの席には、初老の男女が穏やかな表情で座っていた。
「お嬢さんも、この便に?」
優しげな声で話しかけてきたのは、白髪交じりの口髭をたくわえた老人だった。質素だが清潔な服装で、職人風の雰囲気を漂わせている。
「ええ。リーナと申します」
「それはそれは。わしはマルク、こっちは妻のアンナじゃ」
その隣で、ふくよかな女性がにこやかに応える。アンナと呼ばれた女性は、母親のような温かさを感じさせた。
「若いお嬢さんが一人旅なんて、心細くはないかい?」
「ええ。でも、なんとかなる気がしています」
「それならいいんだよ。世の中、意外と捨てたもんじゃないからね」
アンナの言葉に、リーナの目頭がじんわりと温かくなるのを感じた。誰かに優しくされるのは、久しぶりだった。
話すうちに、自然と緊張もほどけていく。マルクとアンナは、隣国で小さな食堂を営んでいるのだという。
「もう三十年になるかね。『アンナの食卓』って小さな店なんじゃが、お客さんには愛されとるよ」
マルクが誇らしげに語ると、アンナが少し照れたように笑った。
「そんな大げさな。でも、お客さんが『美味しい』って言ってくれるのは、本当に嬉しいものよ」
『美味しい』アンナの言葉を繰り返した瞬間、再び、あの鋭い痛みがリーナの頭の奥を貫いた。古い厨房。油の跳ねる音。白いエプロン。「いらっしゃい!今日も美味しく作ってるよ!」笑っていたのは、自分だった。でも、今の自分ではない。もっと年上の、別の人生を歩んでいた自分。
これは、一体何なのだろう。
「お嬢さん、料理はお得意かい? こっちの国でも、きっと役に立つと思うよ」
そう言ってアンナは、小さな包みを差し出した。中には、手作りの素朴な焼き菓子が入っていた。
「これも、うちの店の人気メニューなの。旅の間に少しでも元気が出るようにって思ってね」
優しさが、染みる。リーナはそれを受け取りながら、涙が出そうになるのをこらえた。屋敷では、何もかもが形式的だった。誰かの笑顔も、ねぎらいの言葉も、どこか義務のようで心が伴っていなかった。ここでようやく、リーナは本物の優しさに触れた気がした。
馬車は石畳を揺らしながら、ゆっくりと王都を離れていく。窓の外に流れる風景は、見慣れた街並みから次第に田園地帯へと変わっていく。麦畑や牧草地、小さな村々。リーナにとっては、すべてが新鮮だった。新しい人生の、始まり。小さな希望の灯がともった気がした。
昼を過ぎると、馬車は森林地帯に入った。夕暮れが近づくにつれ、馬車の周囲の空気が変わっていく。林の中に入ると、風の音さえもどこか張りつめて聞こえた。
「この辺り、昔は魔物が出たことがあるんじゃ」
マルクが、何気なく呟いた。
「今は安全って聞いてるけど、用心に越したことはないな」
リーナは窓の外を見つめた。深い緑に覆われた森の奥に、何かがいるような、ざわついた気配。背筋が、すっと冷たくなる。鞄の中の護身用ナイフに、指先が触れる。それは、屋敷を出る前に密かに持ち出した、父の書斎にあった小さな短剣だった。
なぜか、マルクとアンナの前に立ち、何かあれば自分が盾になる。そんな覚悟が、自然と湧き上がってきていた。今まで、こんなふうに誰かを守りたいと思ったことなど、なかったのに。
刹那、馬車が急に止まった。
「どうした?」
マルクが心配そうに、御者に声をかける。
「道に木が倒れております。少し時間をいただければ、どかしますが」
御者の声に、妙な緊張が混じっているのを、リーナは敏感に察知した。森の中に響く、不自然な静寂。鳥の声も、虫の羽音も聞こえない。
リーナの中で、不安が広がっていく。そして同時に、体の奥から湧き上がる、言葉にできない感覚。この感覚は、一体何を意味しているのだろう。
それが、彼女の運命を大きく変えていくことになるとは、まだ誰も知らなかった。




