婚約破棄と新たな旅立ち
「リーナ様、エリオット様がお呼びです」
使用人の言葉に、リーナ・リヴィエは静かに頷いた。クライド公爵家の屋敷は慣れ親しんだ場所だったが、今日はなぜか足取りが重い。
応接室へ向かう途中、書斎のドアが僅かに開いているのに気づく。
中から聞こえてくる、甘い吐息と笑い声。
「もうっ、まだ昼間よ?」
「ミランダ、君は良いね。リーナなんて、抱きしめても反応しないんだ。まるで人形みたいで」
「エリオット様、可哀想……。でも今は私がいるから大丈夫でしょ?」
甲高い女性の声。ミランダ・バローズ。
衣擦れの音、口づけの音。
リーナの手が、ドアノブで止まる。
「あいつ、処女のくせにいつもすました顔が腹立つんだ」
「三年も婚約してたのに、手を繋ぐだけで真っ赤になって」
「君みたいに積極的な女性の方がずっといい」
エリオットの声が続く。
「それに、リーナの実家はもう落ち目だ。ミランダの方が魅力的だよ」
リーナは静かにその場を離れた。
足音を立てないよう、そっと応接室へ向かう。
胸の奥が、氷のように冷たかった。
* * *
「待たせたね、リーナ」
30分後、エリオット・クライドが応接室に現れた時、彼の髪は僅かに乱れ、シャツのボタンが一つ外れていた。
リーナは紅茶のカップを静かに置いた。
陶磁器がソーサーに触れる、か細い音だけが応接室に響く。
「……僕はね、運命の恋をしてしまったんだ」
エリオットは、まるで詩人にでもなったつもりなのか、芝居がかった声でそう言った。
その目は遠くを見つめ、恍惚とした笑みまで浮かべている。
「そうですか」
リーナの声は、驚くほど平静だった。
「君は理解してくれると思っていた。君なら、僕の気持ちを――」
リーナは顔を伏せたまま、微動だにしなかった。
「理解いたします」
「ミランダといると心が解き放たれるんだ。君といると息が詰まってしまう」
エリオットの声には、まるで自分の言葉に酔いしれているような響きがあった。
「笑わない、怒らない、泣かない。君は人形と一緒にいるみたいで、男としてつまらないんだ」
(……そうね。確かに、つまらないかもしれない)
リーナは自分でも、時々そう思うことがあった。
感情の起伏が少なく、人と深く関わることを避けがち。
それが、エリオットには物足りなかったのだろう。
「そもそも君、僕に抱きしめられても何も感じないだろう?石みたいに冷たくて」
その言葉で、リーナの中で何かがぷつりと切れた。
「……確かに。あなたに抱きしめられても、心は少しも動きませんでした」
むしろ冷たく凍るばかりで、とリーナは思ったが、それは口にはしなかった。
今度は、エリオットの方が驚いたような顔をした。
「特に、今日みたいに他の女性と戯れた後では」
「え……?」
「『処女のくせにいつもすました顔が腹立つ』――でしたよね?」
柔らかく笑ったリーナの声は、氷のように冷たかった。
エリオットの顔が青ざめる。
「それは――」
「もういいんです。お話は分かりました。お幸せに」
リーナはそっと立ち上がった。
「リーナ、君は本当に理解のある女性だ。きっと君にも、素晴らしい出会いが――」
「そういう偽善的な言葉も、もう結構です」
そう残して、リーナは踵を返した。
背後で、ミランダの甲高い笑い声が響く。
まるで勝利を祝うかのような、嫌な響きだった。
廊下に出ると、使用人たちの視線が痛いほど感じられる。
すでに噂は屋敷中に広まっているのだろう。
部屋に戻ると、リーナは鏡台の前に座った。
鏡に映る自分を見つめる。
黒髪に青い瞳。
決して華やかではないが、整った顔立ち。
エリオットが「つまらない」と言った女の顔。
でも、それが悪いことなのだろうか?
(少なくとも、人を裏切ったりはしない)
その時、頭の奥がずきんと痛んだ。
ほんの一瞬、脳裏をよぎったのは、見知らぬ場所でお皿に料理を盛り付けている、自分の手だった。
そして、誰かの温かい笑い声。
――これは……何の記憶?
* * *
翌朝。
「お前は家の恥だ!」
父親であるリヴィエ伯爵の怒声が書斎に響いた。
「エリオット殿を逃がすとは、何たる失態だ。クライド家との縁談がなくなれば、我が家への援助も断たれる。お前のせいで我が家は破滅だ!」
「あの子には最初から期待していませんでした」
母親の冷たい声が追い打ちをかける。
「やはり跡取りは息子でなければ。娘など、所詮は他家に嫁ぐまでの置物でしかないわ」
「勘当だ!出ていけ!我が家の娘ではない!」
リーナは黙って聞いていた。
怒りも悲しみも、不思議と湧いてこない。
ただ、妙な解放感だけが胸の奥に広がっていく。
(ああ、これで終わりなのね)
朝霧に包まれたリヴィエ伯爵家の庭園は、どこか他人の屋敷のように感じられた。
小さな鞄ひとつだけを手に、リーナは屋敷の玄関に立っていた。
鞄の中身は、最低限の着替えと身の回りの品、そして僅かな所持金だけ。
使用人たちは遠巻きに彼女を見るだけで、誰も近寄ってこない。
昨日まで「お嬢様」と呼んでいた彼らは、もう他人のような顔をしていた。
(まあ、当然よね)
追放された令嬢に、わざわざ声をかけようとする者などいないのだから。
「……これで、本当におしまい」
静かに呟いた言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
リーナは深く息を吸い込むと、踵を返して門へと歩いた。
朝の市場に向かう荷馬車が、隣国への便を出しているという話を聞いていた。
貴族の馬車ではないが、背に腹は代えられない。
「隣国への便に乗せていただけますか?」
御者は汚れた帽子の下から、リーナを値踏みするような目で見た。
しかし、彼女が差し出した銀貨を見ると、無言で頷き馬車の扉を開ける。
足を踏み出すとき、ふと後ろを振り返る。
見慣れた屋敷、育った庭園――そのすべてが、もう自分の居場所ではなかった。
「ありがとう、今まで」
小さく呟いて、リーナは馬車へ足を踏み入れる。
背を向けたその瞬間、もう二度と振り返らないと心に決めた。
* * *
向かいの席には、初老の男女が穏やかな表情で座っていた。
「お嬢さんも、この便に?」
優しげな声で話しかけてきたのは、白髪交じりの口髭をたくわえた老人だった。
質素だが清潔な服装で、職人風の雰囲気を漂わせている。
「ええ……リーナと申します」
「それはそれは。わしはマルク、こっちは妻のアンナじゃ」
その隣で、ふくよかな女性がにこやかに頷く。
アンナと呼ばれた女性は、母親のような温かさを感じさせた。
「若いお嬢さんが一人旅なんて、心細くはないかい?」
「……ええ。でも、なんとかなる気がしています」
「それならいいんだよ。世の中、意外と捨てたもんじゃないからね」
アンナの言葉に、リーナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
誰かに優しくされるのは、久しぶりだった。
話すうちに、自然と緊張もほどけていく。
マルクとアンナは、隣国で小さな食堂を営んでいるのだという。
「もう30年になるかね。『アンナの食卓』って小さな店なんじゃが、お客さんには愛されとるよ」
マルクが誇らしげに語ると、アンナが少し照れたように笑った。
「そんな大げさな。でも、お客さんが『美味しい』って言ってくれるのは、本当に嬉しいものよ」
「『美味しい』……」
リーナがその言葉を繰り返すと、また頭の奥がずきんと痛んだ。
古い厨房。油の跳ねる音。白いエプロン。
「いらっしゃい!今日も美味しく作ってるよ!」
笑っていたのは、自分だった。
でも、今の自分ではない。もっと年上の、別の人生を歩んでいた自分。
(……これは、一体?)
「お嬢さん、料理はお得意かい? こっちの国でも、きっと役に立つと思うよ」
そう言ってアンナは、小さな包みを差し出した。
中には、手作りの素朴な焼き菓子が入っていた。
「これも、うちの店の人気メニューなの。旅の間に少しでも元気が出るようにって思ってね」
優しさが、胸に染みる。
リーナはそれを受け取りながら、涙が出そうになるのをこらえた。
(……こういう温かさ、忘れていたかもしれない)
屋敷では、何もかもが形式的だった。
誰かの笑顔も、ねぎらいの言葉も、どこか義務のようで心が伴っていなかった。
ここでようやく、リーナは本物の優しさに触れた気がした。
馬車は石畳を揺らしながら、ゆっくりと王都を離れていく。
窓の外に流れる風景は、見慣れた街並みから次第に田園地帯へと変わっていく。
麦畑や牧草地、小さな村々。リーナにとっては、すべてが新鮮だった。
(新しい人生の、始まり)
胸の奥に、小さな希望の灯がともった気がした。
昼を過ぎると、馬車は森林地帯に入った。
夕暮れが近づくにつれ、馬車の周囲の空気が変わっていく。
林の中に入ると、風の音さえもどこか張り詰めて聞こえた。
「……この辺り、昔は魔物が出たことがあるんじゃ」
マルクが、何気なく呟いた。
「今は安全って聞いてるけど、用心に越したことはないな」
リーナは窓の外を見つめた。
深い緑に覆われた森の奥に、何かがいるような、ざわついた気配。
背筋が、すっと冷たくなる。
鞄の中の護身用ナイフに、そっと手を添える。
それは、屋敷を出る前に密かに持ち出した、父の書斎にあった小さな短剣だった。
なぜか、マルクとアンナの前に立ち、何かあれば自分が盾になる――そんな覚悟が、自然と胸に芽生えていた。
(不思議ね……今まで、こんなふうに誰かを守りたいと思ったことなんて、なかったのに)
その時、馬車が急に止まった。
「どうした?」
マルクが心配そうに、御者に声をかける。
「……道に木が倒れております。少し時間をいただければ、どかしますが……」
御者の声に、妙な緊張が混じっているのを、リーナは敏感に察知した。
森の中に響く、不自然な静寂。
鳥の声も、虫の羽音も聞こえない。
リーナの胸に、不安がじわりと広がっていく。
そして同時に、体の奥から湧き上がる、言葉にできない感覚。
(この感覚……これは、何かが――)
それが、彼女の運命を大きく変えていくことになるとは、まだ誰も知らなかった。