第一章 第四節 レイとの出会い
石板の間を抜け、広間の奥へと進むアシュランの周囲には、瘴気が濃密に漂っていた。まるで闇そのものが蠢いているかのような、重苦しい気配。その奥から、不気味な詠唱と、か細い少女の喘ぐ声が聞こえる。
「……ここか」
アシュランは剣の柄を握り直し、闇を裂くように一歩踏み込んだ。
広間の奥、複雑な魔法陣の上に数人の黒装束の者たちが立つ。その中心には、黒髪の少女が、手足を鎖で縛られ、膝をつかされていた。
「詠唱を急げ! 瘴気を石板に注ぎ込め!」
「やめろ!」
アシュランの声が響く。
黒装束の一人が振り返り、短剣を抜く。
「侵入者だ! 殺せ!」
三人が詠唱を止め、アシュランに迫る。
その動きは、魔力によって異様に素早く、軌道はまるで常人のものではない。
(動きが速い……)
アシュランは目を閉じ、一歩踏み込む。
(だが、見えなくても“感じる”)
右から迫る刃。気配が胸元に食い込むより早く、アシュランは半歩ずれて斬撃をいなし、剣を振り返らせて背後の敵を斬り裂く。
「ぐっ……!」
一人が呻き倒れる。
鎖につながれた少女は、目を見開いた。
(見えてないはずの攻撃を、読んでいる……?)
残る二人がアシュランを挟み込むように襲いかかる。
アシュランは無駄のない動きで二人の刃を受け流し、一瞬の隙を突いて二人の喉元へ剣を滑らせた。
「囲め! 詠唱を再開しろ!」
別の黒装束たちが詠唱に戻る。
アシュランは、足元に滑り込んでくる兵士の動きを読んで斬り伏せると、左右から迫る兵士二人を背を向けたまま切り払った。
「すごい……」
少女の唇から、無意識に声が漏れる。
最後の兵士が背後から振り下ろす。
アシュランは肩を裂かれつつ、懐へ踏み込み、一閃。
「これで……終わりだ」
詠唱が途切れ、瘴気が霧散していく。
アシュランは肩で息をしながら、少女のもとへと駆け寄った。
「大丈夫か?」
「……はい」
少女は弱々しく頷く。間近で見るその顔は、透き通るような白い肌、艶やかな黒髪、大きな蒼い瞳――思わず見惚れてしまうほどの美貌だった。
アシュランが鎖を外した時、手が少し少女に触れた。
「ありがとうございます……王子様」
「……え?」
アシュランは固まった。
「今、何て?」
「あっ……!」
少女は自分の口を両手で押さえた。
その頬がみるみる紅潮していく。
「ま、間違えた……!」
「いや、間違えたって……どうして、俺が王子だって……」
アシュランが怪訝に眉をひそめる。
少女は逡巡した末、意を決したように口を開いた。
「……実は、さっき、あなたに触れた時、共鳴してしまって……」
「共鳴?」
「ええ。私も感応者なの。『共鳴視エコーサイト』という能力を持ってる。触れた相手や物の“記憶”や“感情”の残滓を、断片的に感じ取ってしまうの」
アシュランは目を見開いた。
「……そんな力が……」
「あなたが私の鎖を外した時、ほんの少しだけ……あなたの記憶が流れ込んできたの。幼い頃の、騎士団の訓練場。女王陛下に剣を教わる姿……私、それで気づいてしまったの。あなたが、アルディナス王国の王子だって」
少女は肩を落とし、俯いた。
「ごめんなさい……勝手に、覗いたわけじゃないの。ただ、力が勝手に……」
アシュランはしばし沈黙した。
だが、すぐに苦笑し、肩をすくめる。
「まぁ……仕方ないな」
少女は驚いたように顔を上げた。
「怒って、ないの……?」
「驚いたけど、怒る理由はない。そもそも、“隠す”つもりもなかったしな」
そう言って、アシュランはふと目を逸らす。
「……ただ、王子様って呼ぶのはやめてくれないか、正直、恥ずかしい」
「……ふふっ」
少女が小さく笑った。
その笑みは、戦闘の緊張が解けたせいか、どこか柔らかかった。
しかし、その時、アシュランは気づいた。
少女の服のあちこちが裂け、薄汚れていることに。
「……その、服……」
少女が自分の姿を見下ろし、はっと顔を赤らめた。
「あっ! やだっ……!」
アシュランは慌てて自分のマントを外し、レイに差し出す。
「これを、羽織っておけ。」
「ありがとう……」
少女は、少し照れたように微笑み、マントを受け取った。
その瞬間――
「アッシュ!」
広間の入口から、レオンハルトとグレンが駆け込んできた。
「大丈夫か!?」
「何があった、ここは……!」
二人は辺りを見渡し、倒れた黒装束と、アシュラン、そしてマントを羽織る少女の姿を確認した。
「アッシュ、その子は……?」
「助けた。詳しいことは、本人から聞こう」
アシュランが促すと、少女は小さく頷いた。
「私は……レイと言います」
震える声で、彼女は続けた。
「私は、この遺跡の異変を感じて来ました。でも、あの人たちに捕まって……」
レイは倒れた黒装束たちを見つめ、声を震わせた。
「彼らは……“暗黒の教団”です。封印を壊し、この世界に“何か”を呼び込もうとしている」
その言葉に、三人は互いに顔を見合わせた。
重苦しい沈黙が広間を包む。
「暗黒の教団……」
レオンハルトが低く呟いた。
眉間に皺を寄せ、倒れた教団兵を見下ろすその視線は鋭い。
「まさか、そんな連中が動き出していたとは……」
「教団って、百年前に壊滅したって聞いたが?」
グレンが腕を組みながら半ば呆れたように言う。
「表向きは、ね」
レイは小さく首を振った。
その瞳には恐怖の余韻と、それ以上に何かを伝えねばという決意が宿っていた。
「彼らはずっと、封印を壊す機会を伺っていたの」
アシュランはレイの横顔を見つめた。
その輪郭はまだ幼さを残す少女のものだが、目の奥には、強い意志の光が宿っている。
「君は……なぜここに?」
問うと、レイはうつむき、そしてゆっくり顔を上げた。
「私、感応者なんです。封印の異変を感じて……ここに来ました」
「感応者……!」
レオンハルトとグレンが声を揃えた。
「アッシュと同じか……」
「ああ」
アシュランは静かに頷く。
その時だった。
遺跡の奥から、空気が震えた。
「……ん?」
グレンが眉をひそめ、耳を澄ませる。
「今の……風か?」
だが風の音ではなかった。
音も、振動も、気配さえない。それなのに、まるで遺跡全体の空気が、一瞬にして重たく、濁ったものへと変わった。
レオンハルトが大剣の柄に手をかけ、鋭い視線を奥へ向ける。
「……瘴気が、増している」
彼の言葉に、アシュランの胸の奥が警鐘を鳴らすように痛んだ。
アシュランは目を閉じ、静かに意識を集中させる。
感応者としての力が、遺跡を満たす魔力の流れを読み取る。
すぐに、その異常が彼の中に押し寄せた。
まるで、地下深くで大きな歪みが生まれたかのような、魔力のうねり。
先ほどまでとは桁違いの、底なしの瘴気が、静かに這い上がってくる。
「これは……封印の、深部だ」
「まさか……」
かすかな声で反応したのは、レイだった。
その瞳は恐怖に見開かれ、微かに青い光が揺れている。
「……わかる……これは、ただの魔物の瘴気じゃない……もっと古くて、暗い、底知れないもの……!」
震える手を胸に当て、レイは息を呑んだ。
「封印が……誰かに壊された」
その声は、確信に満ちていた。
まるで彼女の血が、記憶が、深層の異変を告げているかのように。
「そんな……! あいつらを倒したばかりじゃねぇか! 誰が……!」
グレンが顔をしかめ、辺りを警戒する。
だが、遺跡の奥は、静まり返っていた。
敵の気配も、足音も、何もない。ただ、空気だけが異様に重く、肌を刺すような圧が辺りに満ちている。
レオンハルトが低く呟く。
「……計画されていたな。俺たちが教団の兵を倒す間に、本命が動いていた」
アシュランは拳を握りしめ、唇を噛みしめた。
「……俺たちが……遅れたのか」
悔しさが胸を貫いた。
その時。
レイがそっと、彼の手を取った。
小さな手が、驚くほどあたたかかった。
「あなたのせいじゃないわ。……まだ終わってない。今は、王都に伝えなきゃ。このままだと……手遅れになる」
その瞳には、不安と、それでもなお立ち向かおうとする意志が宿っていた。
アシュランは、その手を握り返す。
「……ああ。今なら、まだ間に合うかもしれない」
彼は振り返り、仲間たちに呼びかけた。
「戻ろう。これ以上、何かが動き出す前に」
レオンハルトが無言で頷き、グレンも肩をすくめた。
まるで、何かが胎動しているかのように。
目に見えない“歪み”が、確実に世界の均衡を蝕み始めている。
だがこの時、彼らはまだ知らない。
この封印の破壊が、誰の手によって行われたのか。
その者が、どれほど深い闇の意図を持ち、この世界を崩壊へ導こうとしているのかを。
すべては、まだ闇の中だった。




