【短編】捨ててくれて、大変助かりました。
「婚約破棄……ですか」
「ああ、そうだ。アイリス」
「そうよ、お姉さま」
アイリスは、妹のナタリアと婚約者……たった今元婚約者となったアルフィーと向き合って座っていた。
アルフィーの隣には我が物顔でナタリアが寄り添い、深く頷いていた。
「随分と突然ですね、私は、父や母が死んでもこれだけは変わらないと思っていました」
アイリスは真剣な顔をしてアルフィーに話しかけていた。しかしその言葉を受け取って返したのはナタリアの方だった。
彼女とアイリスは双子の姉妹でいつも一緒だ。
しかし、結婚相手はそうもいかない。父と母に決められて、アイリスは一応姉なので、跡継ぎとして家同士のつながりがあるディラック侯爵家の次男であるアルフィーを婿に取る。
ナタリアの方もすでに嫁入り先が決定しているはずだ。
「っ、そうやってお姉さまはいつも当たり前のような顔をして! お父さまとお母さまに、お姉さまはとっても贔屓されてたんだよ!」
アイリスの疑問に対して、ナタリアは堪えられないとばかりにそう口にした。とても苦しそうに、まるで被害者のように。
「だから、お母さまとお父さまが居なくなったら贔屓もやめにしてほしいって私がアルフィー様にお願いしたの! だって、そうでしょ、この家を継ぐのは私の方がずっとふさわしい」
「……ナタリア」
「アルフィー様だってお姉さまのような女より、私の方がずっといいと言ってくれた!」
アイリスは妹に対して持つべき感情に戸惑った。どう思うのが正解だろう。
たしかに姉妹の中では贔屓はあったし、ナタリアが嫁に行かなければならないことを寂しく思っているのも知っていた。
しかし、これは、まったく一体全体どういう意図だろうか。
「私はとっても努力してる、家を継ぐことが決まってのんびりやってたお姉さまとは違って、外に出て社交をたくさんして!」
「……」
「自分磨きも頑張った。それなのにお父さまもお母さまも私の事を認めてはくれなかったっ」
それではアイリスが何もしてないようではないかと思う。これでもそれなりに努力をしてきた。
父と母の期待に応えるために、アイリスは家の内側の事に対してたくさん対処方法を考えていたのだが、ナタリアは当然のように知らなかったのだろう。
教えなかったという責任もあるのかもしれない。しかし、アイリスたち姉妹は、二人ともこのアルフィーに逆らうことが出来ない。
彼に視線を向けると、彼への視線をさえぎるようにナタリアは、ソファーを立ち上がって、アイリスを睨みつけた。
「そうやってまた、アルフィー様に頼ろうとして! でも駄目! このクランプトン伯爵の地位は私がもらう! お姉さまは、私の代わりに、あの血塗れ公爵のところにお嫁に行って!」
「その件は相手に話を通しているの?」
「ああ、当然話は通している、先方は渋っていたけれど、君の魔力量を聞いたらあっさりだった」
「……なるほど」
補足するように言うアルフィーに、アイリスはぞくりと背筋が寒くなった。血塗れ公爵……それがナタリアの結婚相手だ。
つまりは婚約破棄なんて言っているけれど事実上は婚約者の取り換え。
アイリスとナタリアの立場を取り換えてしまおうという提案なのだろう。
それを企んだのは間違いなくアルフィーだ。父と母がいなくなった今、このクランプトン伯爵家のアイリスとナタリアは彼に逆らうことができない。
侯爵の息子である彼の言葉はそのまま侯爵の言葉だ。
つまり、ナタリアが、アルフィーに選ばれたと言った時点でアイリスは否とは言えないのだ。
……でも、受け入れるしかない、けれどそれではあまりにも……。
アイリスは難しい顔をする。しかし、ナタリアは止まらなかった。彼女は普段から思っていた姉に対する不満をぶつけた。
「お姉さまは……良かったよね。お母さまたちが死んじゃう前にはずっと構ってもらって、この屋敷にずっといていいって言われて……」
「ナタリア……聞いてください」
「聞きたくないよ! だって私の不安はお姉さまにはわからないでしょ?! こうして言い方は悪いけどお母さまたちが死んで、やっと対等になれたんだよ私たち!」
「落ち着いてください、二人で話をしませんか」
「そんな手には乗らない! お姉さまにはすぐ出ていってもらうから、爵位の継承の話は私がもうアルフィー様から受けてるの、だからすぐに出ていって!」
アイリスはいたって冷静にナタリアに状況を伝えるために、話をする。しかし、ナタリアはすぐに出て行けとすら口にする。
父や母の葬儀が終わって間もないこの時期に、そんなことが出来るはずがないだろうと思い、アルフィーを見た彼は、少し微笑んで、アイリスに言った。
「もう先方の準備も終わっている様子だから、このままダンヴァーズ公爵の屋敷に向かってもらう」
「アルフィー様、こう言ってるんだよ! お姉さま、私、ずっとお姉さまには敵わないんだって思ってた。でも、やっと正当に私の事を評価してくれる人に出会えたの、お姉さま、私の姉なら私の為を想って出ていってよ!!」
最後に怒鳴りつけるように言う彼女に、アイリスは、心の奥底で最後に保っていた良心を手放した。
父と母を同時に亡くし、これからの未来にまったく先行きが見えなかった。その気持ちはたしかに実現して、決まっていた未来とは別の方向に物事が進んでいる。
アイリスは、もうこれ以上、ゆく当てなどないほどに迷子なのに、ナタリアはアイリスの道を乗っ取った。
これはきっと父も母も望んでいない。
「…………」
それでも自分の行動というのはいつも、自分の責任になる。アイリスの場合は、父や母を支えると決意したあの時から重たい責任を負っていた。
しかし、ナタリアが望むのならば、その責任を受け渡すことだってできる。
渡してしまっていいものか悩んでいた。しかし、妹の為を思えと言われたらそれはもう仕方がない。
「わかりました。出ていきましょう」
「……やった、ありがとうお姉さま、私、私きっとこの領地をもっともっと繁栄させて見せるから」
「良く決断してくれた、アイリス。君は、とても聡明な女だ」
どちらの言葉もうれしくない。アイリスは、ただ立ち上がって部屋を出る。
先ほどまで姉の婚約者であったアルフィーと熱いキスを交わす妹にもう、振り返らずに部屋を出た。
数日後、ダンヴァーズ公爵家へと向かう馬車が手配されて、アイリスは引っ越しの荷物と共に出立することとなった。
こんな乱暴な嫁入りがあっていいのかという気持ちと、どこかほっとする気持ちがある。
しかし、満面の笑みを浮かべて、姉を見送りに来たナタリアを見て、その迷いは一気に吹き飛んだ。
「お姉さま。公爵様に嫌われないようにきちんと女らしくしないとだめよ?」
「ええ、知ってます」
「お姉さまったらいつも口答えばっかりで可愛くないってアルフィー様も言ってたんだよ、ちゃんと偉ぶらないで、公爵様には尽くすんだよ?」
「……」
そんなことをナタリアに言っていたのかと、少し嫌な気持ちになってアルフィーを見る。
すると流石に彼も気まずかったのか、まだまだアイリスに言いたいことのあるナタリアを引き離して、アイリスに早く馬車に乗るように促した。
「そろそろ出ないと夕暮れまでにつかないから、ナタリアもお姉さまとの別れが寂しいのはわかるけど、引き留めないであげてくれ」
「それは……そうね。お姉さま達者でね。血塗れの公爵様は乱暴者だって聞くから、気をつけるのよ!」
ナタリアは笑みを浮かべてそんな風に言った。これからは多分もう二度と会えない。
物理的な距離もあるし、何よりそんなことは嫁に行ったアイリスには許されないだろう。
そう思うとどんなに呆れていても、長年ともに過ごした妹は可愛くて、まったく同じ顔の彼女にアイリスは微笑みかけて、自分のつけているネックレスを外した。
「……お姉さま?」
「これ、あげます」
「え、いいの? これだって、お母さまの形見のネックレスでしょう?!」
「いいんです。大切に使ってね」
「ええ、もちろんよ!」
「じゃあ、ナタリア……さよなら」
そういってアイリスは馬車に乗り込んだ。父と母の形見は二人で分けたが、その大部分の宝石を借金の返済に充てたことをナタリアは知らない。
手を振る彼女はとても嬉しそうに見えて、馬車の中からアイリスは、二人の事を眺めていた。
扉が閉められ馬車が動く、小さくガタゴトと揺れて、ナタリアとアルフィーは小さくなっていった。
彼らが見えなくなるまでアイリスはじっと窓を見つめていて、見えなくなってから馬車の座面に沈み込んだ。
……結局、最後まで、言う機会がなかった。
ぽつりとそんなことを考える。アイリスが父と母の葬儀を終えてこうして追い出されるまで、ナタリアに真実を伝えることが出来なかった。
しかしそれはもはやアイリスだけの責任ではない。
ナタリアが考え無しだったことと、アルフィーがアイリスを排除しようと考えていたことが原因だ。
もはやこうなってしまえば誰もかれもが咎人で一概に、誰が悪いなどとは言えないだろう。
何なら父も母も悪かったという話なのだから。
それにアイリスだって会った事もない悪い噂のある男の元へと嫁に行く。
仕方のない事だろう。
「……ともかく、誰も救われない、ナタリアも私も所詮は鳥かごの中……でもね、ナタリア、どちらかというと初めから、捨てられていたのは私の方だったんですよ」
アイリスは小さく呟くように独り言を言った。
事の始まりは、父と母がクランプトン伯爵家の領地をより豊かにしてより収益を上げて贅沢をしようと企んだこと。
これがなければもう少しすべてがマシだった。
しかし今更そんなことを言っても遅い。父と母はない頭を振り絞って考えた。どうしたらもっと領地が稼ぎをあげられるのかを、そして隣の大領地であるディラック侯爵に聞いたのだ。
すると、位置的に港のある場所から大きな街道を整備すれば、王都に向かう行商人の宿泊地として繁栄するはずだと言われた。
これ幸いとばかりに、父と母は、ディラック侯爵家に大量の借金をして、街道を作る事業を始めた。
それは森を切り開く一大プロジェクトであり、完成までに相当な期間を要する。その間に借金の利子はどんどんと膨らんで雪だるまのように大きくなった。
しかし、事業は魔獣が出たり、事故が起きたりしてなかなか進まない。このままでは今の世代で借金を返せない。それならば、娘たちを担保にしよう。
父と母はそう思い立った。
クランプトン伯爵の地位は、従順でまじめなアイリスに継がせてどう扱ってもいいし、借金の為に馬車馬のように働かせればいい。
妹のナタリアは、少し可哀想だから、よその家で一番お金を出してくれそうな人に貰ってもらいましょう。
アイリスとナタリアの結婚というのはそういう風に決まったものであり、アイリスは、その話を十歳にもならないときに聞かされて、それからずっと借金で頭がいっぱいだった。
だからこそ勉強した。どんな風に返済しているのか、街道の事業はどのように進めれば効率がいいのか、たくさん考えて、調べて、もう少しで、利子についての契約や彼らの詐欺行為などのディラック侯爵家の罪を暴けるはずだった。
しかし、父と母は、ディラック侯爵家へと赴く途中、馬車の事故でその生涯を終えた。
アイリスはすぐに理解した。すでに囚われて自分たち家族は身動きなど取れやしないのだと思い知った。
ただ蜘蛛の巣に絡まった蝶のようにもがくことしかできない。
そう思って、ただ恐ろしい夫になる人に怯えていた。
彼に違いがない。クランプトン伯爵家に監視のように婚約者としてやってきて、アイリスたちの事を見ていた。
アルフィーは、あんな風に言っていたがナタリアを愛してなんかいないのだ。
ただ、勘のいいアイリスをよそへとやりたかっただけ。
だから、ナタリアは彼に選ばれたのだ。
けれどもう不憫だなんて思わない。要はそれぞれの選択だ、ナタリアは姉の婚約者をとることにまったく躊躇しなかったし、むしろ喜んで認めてもらえたと笑っていた。
アイリスは本当はナタリアがうらやましかった。よそへと逃げたかった、借金の事を考えずにただゆっくり眠る時間が欲しかった。
それを偶然手に入れたアイリスをナタリアが糾弾することは出来ないだろう。
なんせ、お互いに望んだことだ、ナタリアは真実を知らなかったかもしれない、しかし同時に知ろうとすることができたはずだ。
同じ家に住んで同じ、食事をしていた自分たち家族なら、わかろうとすることができたはずだ。それでも甘い妄想に酔いしれて、逃げるための手を逃したのは彼女のミスだろう。
ナタリアの選んだ鳥かごは、とても狭くて暗い場所だ。
アイリスが向かう場所は果たしてどうだろうか、振り回された価値があるすこしは明るい場所だろうか。
そんな風にアイリスは自分たちを鳥に例えて、考えた。どこかとても美しい場所に飛んでいきたい。何も今は背負いたくないのだ。
今だけは肩の荷を下ろして、アイリスはうたた寝をするのだった。
「ハハッやっと行った、あの女、散々苦労させて……せいぜい嫁入り先で苦労するといい」
アルフィーの声を聞いてナタリアは、彼もよっぽど自分と二人きりになりたかったに違いないと考えて満面の笑みを浮かべて振り返った。
「そうね、お姉さまったら頭が固くていっつも頑固だったから居なくなって清々した! ちょっとでもダンヴァーズ公爵家で苦労を知ったらいいのよ!」
ナタリアにとっての姉という存在は、常に目の上のたんこぶのようなものだった。
友人のようにちょっと高い買い物をしようとすれば、すぐに無駄な買い物はしないでと言ったり、流行りのドレスを仕立てようとすれば、今あるものを使いまわせないかと言ってくる。
お父さまもお母さまもそんな風にナタリアには言わないし、お嫁に行く可哀想なナタリアになんでも買ってくれた。
でもきっとアイリスはそれが気にくわなかったのだ。そして自分が継ぐクランプトン伯爵家のお金をよそへ行くナタリアへと渡したくない傲慢な人だったのだ。
……でも、今は違う、私はあんな守銭奴のお姉さまから生家を守ったのよ!
ナタリアは自信満々にそう思った。
だってあんなに流行に疎くて、友人も少なくては貴族として半人前だ。そんな姉が継いだら、このクランプトン伯爵家は没落してしまう。そんなことになっては父も母も可哀想だ。
ここは、ナタリアの生まれた場所だ。ナタリアにも同じように、この場所の恩恵を受ける権利がある。
それを守り切ったのだ。
「……たしかにあの女は頑固だった。能天気で間抜けなナタリアと違って」
ナタリアが達成感に満たされて笑みを浮かべていると、ふと聞きなれた優しいアルフィーの声がおかしな事を言う。
彼がこんな風に人を悪く言ってるとこなんて聞いたことがない。
意味が分からなくて一瞬固まったけれど、ナタリアはすぐに高いプライドを発揮して、アルフィーをきつく睨みつけた。
「なんですって? アルフィー……あなたいくら婚約者だとしても言っていい事と悪いことがあると思うけど?」
ディラック侯爵家出身だといっても彼は次男で爵位を持たない。
一方ナタリアは伯爵の地位を持つのだ。婚約者になったといってもここらで彼にも釘を刺しておかなければならないだろう。
なんせ、ここの場所は姉を追いだしてナタリアの天下になったのだから。
しかし、パシンッと音がして、ナタリアの頬がじんと熱くなった。
「君こそ、もう役目も終わりだ。あの女を追いだした以上は君に利用価値はない、精々魔力を吸い取って、傀儡にするぐらいだろ」
「……え?」
「あーあ。本当なら魔力の多いアイリスを自由にできたら一番良かったんだが、ま、仕方ない。あれは頭が回る。両親と違って目ざとく賢い、この領地を支配するのに不適格だ」
「な、何言って! こ、ここは私の! クランプトン伯━━━━」
ナタリアは必死に彼の豹変ぶりを理解しようとした、しかし、何が起こっているんだかわからない、支配? 傀儡? なんのことだろう。
ここはナタリアの物になったはずだ。
それなのに、周りにいる使用人もナタリアがアルフィーに手をあげられているのを止めようとしない。
また頬をはたかれて、ナタリアは目を見開いたまま静かになった。
「静かにしてくれ。うるさい女だな。顔だけはいいのに頭が悪い。あーでも俺はその馬鹿さ加減が好きだ。そうでなきゃ、お飾りの伯爵にふさわしくないし」
「え……え?」
「せいぜい可愛がってやろう」
そう口にしてアルフィーはナタリアの髪を引っ張って引き倒した。可愛く可憐な箱入り娘であったナタリアは、難なくアルフィーからの暴行を受けた。
結局、苦労を知らずに、のうのうと生きていたのはどちらだったのか、アイリスがいなくなったその日に思い知ったのだった。
「れ、連絡を受けていないんですか。……それは困りました。では私は突然おしかけた形になってしまったという事ですよね」
「あ、いいよ。気にしないで。どうせ近々という話だったからさ。部屋の用意はできていたし、問題ないよ」
アイリスを気遣うように言う彼は、間違いなくダンヴァーズ公爵本人である、レナルドであった。
アイリスは彼の年齢も外見も知らずにダンヴァーズ公爵領地にやってきたので、この年若い公爵を見て、ダンヴァーズ公爵に息子なんて居ただろうかと考えてしまったほどだった。
といっても、アイリスよりは年上だ、むしろ結婚するには丁度いい歳の差ともいえる。
しかし、これがあの血塗れの公爵かとどうしてもいまだに信じられない。
「それにしても、ディラック侯爵家もうっかりしていたんだろうね。懇意にしているクランプトン伯爵と伯爵夫人が亡くなって、これから跡取り令嬢と家を再興していかなければならないから」
適当に理由をつけて納得する彼は、どう見ても人がよさそうだ。柔らかそうな藍色の髪、すこし目じりの下がった瞳、なにより万人に好まれそうな笑みをしている。
「……でもそれにしても嫁入りを急がなくてもよかったと思うけどね。君もご両親を失って気落ちしているだろう? そんなときに新しい家族との新婚生活の事なんて考えられなくないかな」
彼から言われる言葉の中には、思いやりらしきものがたくさん詰まっていて、アイリスは言葉が出ない。
黙ったまま紅茶のカップを持ち上げてゆっくりと飲む、それからソファーにきちんと座り直して背筋を伸ばした。
……に、偽物?
どうしても疑いの目を向けてしまってアイリスは、どこか別人のところに嫁ぎに来てしまったのではないかと思い、馬車が到着した時の事を思いだす。
しかしそこかしこにダンヴァーズ公爵の家紋が見えたし、なによりこんなに大きな館を所有している人間も他にいない。当たり前のように使用人にご主人様と呼ばれる彼が偽物なわけないだろう。
「だからさ、しばらくは心の整理がつくまでゆっくり過ごしていいからね。父と母には君の事情も話してあるし、気兼ねなく心の傷を癒してほしい」
「……」
……それとも何かの罠……?
「俺は、君を金銭で買い取るようなことをした男だけど、結婚するからには幸せにしたいし、なりたいと思ってる……んだけどアイリス、なんだか心ここにあらずって感じだね」
彼の事が信じられずにアイリスが言葉を失っていると、彼はその様子に気がついて、どうかしたのかと訪ねてくる。
そんな彼にアイリスは失礼かもしれないと思いつつも、結局苦しい目に会うかもしれないのならば、無礼でもなんでも働いて、初めからどうするか対策を練りたいと思って口にした。
「……ダンヴァーズ公爵閣下は……レナルド様は……血塗れの公爵ですよね。私はあなたはとても恐ろしい方だと聞いていて……」
「……」
「覚悟をしてきました。ただ、想像と違いすぎて、疑いがぬぐい切れません。私にやさしくすることに何か意味がありますか?」
とても直球な言葉を選んでアイリスはわざと彼のこの態度は嘘っぱちだと決めつけて、言った。
しかし、レナルドは瞳を瞬いてそれから、笑みを消して少し悩んだ。
それからやっぱり困ったみたいな笑顔をして、呟くように「深い意味はないんだけど」と言ってから、切り替えて少し凛々しい顔をする。
「じゃあ、ちょっと説明させて。まず俺がそんな風に呼ばれている理由は知ってる?」
「……いえ、詳しくは、ただ元は男爵家の出身の方が、突如公爵の地位を賜ったという話がとても噂になっていました。そしていつのまにか血塗れの公爵という二つ名を聞くようになったと思います」
「そうだよね。どうせわかることだから、君に言うけど端的に言うと革命を阻止した経緯があったんだ。
その時に多くの貴族を殺してね。でもかん口令が敷かれているから、俺が人を殺して成り上がったっていう経緯だけが残ったんだよ」
「……お強いんですか」
「わ、割と?」
「今の情報、私に言って大丈夫ですか」
「……ちょっとだけ、良くない事かも。でもほら、俺はこうして成り上がったけど大領地の運営の仕方も、統治もまったくの初心者だからね、せめて身内とは協力していかないと……正直、やっていけるかどうか……」
情けなく、眉を落とす彼の言葉に嘘はないような気がした。
それに、そう言った経緯なら納得できる。
しかしかん口令が敷かれるほどの人物が革命を起そうとしていたということはよっぽどの事態だ。国はしばらく騒がしくなるかもしれないが、アイリスにはあまり関係ない。
ともかく、この領地はまだまだ、統治が始まったばかり、悪い噂のあるダンヴァーズ公爵家は外に助けを求めるのも難しい。
そして男爵家で丁度良かった魔力量を次世代から、公爵家の家格にあうように魔力の多い嫁を入れて、調節しなければならない。
だからこそ、アイリスを嫁に入れて家族で結束しようと考えている。
「だからね。君にも協力してもらえるように、俺はその、もちろん優しくするのはお嫁さんをもらう立場として当然だと思うけど、理由をつけるなら、媚びを売ってるというか、友好さを示しているというか……そんなところかな」
「……なるほど。理解しました」
「ほんと? 良かった、これからよろしくね、アイリス、俺の事はレナルドでいいから」
「はい……どうぞよろしくお願いいたします」
彼が差し出した手をアイリスは両手できゅっと握った。
たしかに、結婚相手として彼はとても難しい相手だろう。しかし、アイリスはとても何故だか視界が開けて見えた。
レナルドはアイリスに責任を無理やり背負わせたりしない。一人の人間として協力を求めている。
その象徴がこの握手な気がして、ぐっと強く握る。
「?」
レナルドはアイリスの行動に首をかしげて、キョトンとしていた。
アイリスは婚約者と妹に捨てられたことによって、背負っていたすべてを肩から下ろすことが出来た。それは否応なしに背負わされたアイリスの重荷だった。
しかし今は捨てられたおかげで選択肢がある。新しい鳥かごは日の当たる明るい場所にある気がする。
そう気がついて、やっとアイリスは、ああ、良かったと。思うことが出来た。
捨てられて逃げられて、良かった。
「……」
「え、あ、どうしたの? 大丈夫? 急に悲しくなっちゃった?」
気がついたら涙が頬を伝っていて、レナルドは驚きつつも手を離さないアイリスに混乱してテーブル越しに大慌てだった。
そんな彼を見つつ、アイリスはやっと自分の状況に心の中で決着をつけられたのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。ブクマ、☆、コメントとてもうれしいです。ありがとうございます。
連載版を始めました、下記から飛べますので気になった方は飛んでみてくださいませ。