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夜空には細長い月が浮かんでいた。偽のブレーメンの体だが夜目が効くので月明かりだけでも十分に遠くを見渡せた。
暗闇でソラの瞳が黄色に光る。2振りの剣を腰に下げ、背中にはアーシャを背負い荷物も両手に持っている。獣人化したアーシャの脚力には劣るが、剣がブレーメンの力を無限に増幅してくれるので一切の疲れも空腹も感じなかった。
「むぅ、ソラ、無理しなくていい。わたし、元気になった」
「次の廃墟か岩場まで、って約束でしょ。大丈夫。ブレーメンの力のお陰で僕もぜんぜん、疲れ知らずだから」
向こう見ずに砂漠を走っているわけではない。右手には線路が見えている。付かず離れず、1度だけ黒煙を吹き上げるディーゼル機関車が現れたときだけは窪地に伏せて身を隠した。アーシャの言う通り、列車というよりも軍の装甲列車で、自動小銃を持った兵士が屋根からあたりを警備していた。小一時間続いた列車の大行列は、錆びたコンテナやバラ積みの鉱石や鉄鋼があった。そして最後尾に申し訳程度の客車が続き中には工員と思われる薄汚い格好の男たちが押し込められていた。
走っている間は、余計なことを考えずに済むので、むしろ楽だった。偽物の体でもブレーメンの力を発揮できるし純粋に楽しかった。
「交! 代!」
アーシャに後ろ頭をぺしぺしと叩かれた。確かに足首ほどの高さに黒い砂に埋れた電柱が生えていた。廃墟とは言えない。でも約束は約束だった。
アーシャは荷物から携帯食料を取り出すとポポと一緒にかじった。ビスケット状の固形食で1本で半日分の栄養とカロリーを摂取できる。味も悪くない。
「ほら、ソラも。食べる」
「僕はいいよ。お腹が空いていない。それにアーシャは今から走るんだし、たくさん食べてよ」
「む、だめ。そう言って昨日も水しか飲んでない。剣に触ってごまかしてるだけ」おもむろにアーシャはソラの顔面を両側から抑えると、「食べないなら口移しでも食べさせる」
「わかった、わかったから! というか力が強い」
「愛の力」
そんな力があってたまるか。
ソラはしぶしぶ固形食を一本、噛んで飲み込むと水で胃に流し込んだ。腹が満たされると急に空腹を感じた。空腹は感じていなかっただけらしい。水もさらに一口だけ飲んだ。ブレーメンの剣を握っても元気になれるが、それとは別の力が湧いてくるようだった。ポリタンクの水はもう半分以下だった。ヒトなら1日と持たないが、炯素の体と藍色の肌の2人ならまだ大丈夫。
作られた体だったが、ヤワじゃなかった。その点は財団に感謝しなければならない。食料も水もほとんど必要ない。浮いた分をアーシャに分けてあげられる。
「ワング=ジャイに着いたらどうする?」
ソラが口を開いた。
「家族のうちに行く。親孝行したい」
「親孝行、ね」
親の存在、というのは実感ができなかった。ニセの記憶であれその存在は無かった。この炯素の体の遺伝子提供者の少年には家族がいたはずだがその記憶は残っていない。
「何言ってるの。ソラも行くよ。わたしの旦那だから」
「いやでも、僕、追われてるんだよ。どちらからも。というかアーシャも軍を脱走したんだから警戒しないと」
「むぅ、大丈夫」
今後の逃亡についてかなり重要な案件だが、あっさり短い言葉で片付けられてしまった。
「肌の色も。なるべく外套を羽織って隠すけど、藍色じゃないから目立つ」
アーシャは難しそうに顔をしかめたが、すぐにポンと手を打った。
「ときどきそういう肌のヒトがいる。藍色の肌は祝福だけれど、そうじゃない肌は、テムさんは『先祖返り』って言ってた。遺伝子のセンセーだったけ? わたし達の先祖はもともと連邦のヒトたちと変わりなかったんだって」
遺伝子のセンセー……暗記した理科の教科書から似た発音の言葉を探したが、たぶん潜性か。
アーシャの言う先祖というのも皇の娘のカミュと侍従長のネネから聞かされていた。国家という彼らも元々は急進派の軍人たちが率いた東部軍閥/第4師団で、ヒトと変わりなかった。それがいつからか藍色の肌に巨獣への変身能力がある種族に変わってしまった。進化、と呼んでいいのだろうか。
「それじゃあ、案外目立たない?」
「でも、そーゆー人たちは子どものうちに体調が悪くなって死んでしまうの」
「それは、どうして?」
「知らない。わたしは兵士。お医者さんじゃない」
「それは仕方がないか……って、それ僕も体調が悪くなるかもしれないってことじゃない? あ、でもブレーメンを模した炯素の体だから問題がないってことかな」
独り合点がいったが、アーシャはぽかんとしたまま。
「あっ、そこまで考えてなかった」
どこか胸に詰まるものがあったが、事は順調に運んでいる。追求しないでおこう。
「話を変えよう。ご家族は、元気にしてる?」
「うん。きっと元気」
家族について話すときのアーシャはどこか嬉しそうだった。
「わたしが入営してから、えっと何年だっけ。12年だ。全然会ってない。でも手紙は出したよ」手紙──と聞いてパルのメッセージ送信ではなく紙の手紙だと気づくのに少し時間がかかった──「わたし、一番上のお姉さんなんだけど、手紙で妹が生まれたって聞いた。それにわたしの給金で街中に引っ越すことができたんだって。それまでは地下の遺跡で暮らしてて家の中に川が流れてるの」
「川?」
「すっごい久しぶりだから、むぅ、わくわくする。家族に会ったら、いっぱいお話して、家の掃除もして、いっしょに晩ごはんを作るの」
「うちの場所はわかるの?」
「うん、住所は覚えてる。大丈夫。任せて。あと1日でワング=ジャイが見えてくると思う」
アーシャはおもむろに来ていたTシャツを両手をクロスさせてめくり上げた。豊かなお椀型の下乳があらわになる。ついソラは目を背け、ポポが興味深そうに見上げた。
「慣れてる。僕はもう慣れた。でもね、じろじろ見ないのがマナーなんだ」
ポポに語りかけてみた。緑色の軟体生物は、目らしき2つの黒い点をパチクリしばたたかせた。背後では布がこすれ合う音が聞こえ、それらがまとめて乱雑にダッフルバッグにしまわれた。
「むぅ、ポポ、いくよ」
ポポは体を揺らし、砂地に跡を残して移動する。にわかに背後から暖かい風が吹き抜け、振り返ると膝立ちになったアーシャ/獣人がいた。赤い瞳にソラの姿が映っている。
ソラは両手にダッフルバッグを提げ、獣人の巨大な両手に乗って背中の毛を掴んだ。
アーシャは月光の下、風を切って砂漠を邁進した。