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「むぅ、ソラ、これ?」
「ちがう。それは配電盤。その1寸右の、赤と緑の配線が生えているの」
「あった」
「オーケー。じゃ、工具箱の中から6番の……」
しかし皆まで言い終わる前に、アーシャは力任せに敵味方識別装置を床下から引き剥がした。これで現在位置を追跡されなくて済む。
「むぅ、戦いのあとだから滾ってる。ムラムラ」
アーシャは、ハッチの外へ敵味方識別装置を放り投げた。
「ソラ、敵が来てる。巡空艦」
「どこの?」
「第3師団。“62”って書いてある」
「それはまずい。空中強襲旅団だ」
5隻の巡空艦が青空に一筋の雲を残して東へ飛んでいく。
「強い?」
「強いよ。一般兵の中では一番の精鋭部隊。僕らじゃなくて奇襲攻撃に向かっていると思うんだけど」
しかし、巡空艦のうち1隻が進路を変えた。行く手を遮るように飛行している。そして後部の格納庫から可変戦闘車が投下された。1個小隊、5両のジャガーが空中で落下傘を開き、反重力機構の青い光で黒い砂漠へ軟着地した。
「くそ、また追手だ」
「むぅ。わたし、さっきのじゃ不完全燃焼。ヤルよ」
「だめだよ。戦っていちゃ燃料が持たない。ワング=ジャイまでまだ距離があるんだろ?」
「むう」
進路を修正=砂丘を避け追撃部隊を避ける。ワング=ジャイへはこの方角であっている。
プラスチックのカバーの、その下の重いレバーを引いて空の増槽タンクを切り離す。少しだけ速度が増し、砂丘の谷底を疾走する。
「ソラ、来てる! 数3、4時方向」
アーシャがペリスコープを覗きながら言った。砂丘の陰でちらりと見え隠れする。敵味方識別装置を外してあるので、ここから先は火器管制AIの照準に捉えられてしまう。
「ソラ、もっと速度」
「わかった!」
速力のスロットルを上げた。推進機が轟轟と唸る。しかし黒砂を吸い込み、出力に谷が生まれた。ぐぐっと前のめりに重力を感じる。
そういえば──3機だけ? 残り2機は?
単機での索敵能力には限界がある。あたりは見上げるほどの砂丘がそびえ、有視界ではカメラで捉えにくい。強襲旅団も機体を黒と白の塗装で覆って、砂漠の黒砂と反射光にまぎれてしまっている。
「彼らの戦術がわからないけど、1体の敵を追い込むなら、3機が進路を遮って誘導して──」
「攻撃役が稜線を超えて突撃してくる。むぅ、演習で追われる側をやったことがある」
「ということは、左か!」
ソラは操縦桿を引き抜いて格闘姿勢に/迫撃砲を左に向けつつそのままの進路を取った。
ここで戦えば、装備した武器をすべて使い切ってしまう。燃料も残りが心もとない。
「私がやる!」
「まってアーシャ!」
アーシャがハッチに手をかけた瞬間、機体の周りで機関砲の砲弾が弾けた。装甲に穴が空くが、大半は回避できた。
「待って、囲まれてる。さすがに分が悪い」
アーシャは不満げに頬を膨らませた。揺れる狭い車内で器用に移動してソラの膝の上に立ってペリスコープで外をうかがった。体から染み出るように分離したポポも、ペリスコープを一緒に覗いている。
「北、このまままっすぐ。錆びた鉄塔のところまで」
「え、どうして?」
「むぅ、なんとかなるかも。なんとかならなかったら、わたしがなんとかする」
「わかった。アーシャを信じる」
格闘姿勢から走行姿勢へ以降/間近に砲弾が落ちても気にすることなく前進した。
砂丘の落とす真っ黒な陰を抜けた。わずかながら丘になっていて周囲の砂丘はジャガーの車高よりも低くなる。追撃部隊は左右に3-2で別れ、並走する。
無理に攻撃してこない。こちらの燃料切れを狙っているのか? 強襲部隊は車重が軽くその分燃費がいい。
アーシャの示した鉄塔が見えてきた。風で錆びた電線がグラグラと揺れている。黒い砂と青い空の世界で、この赤錆だらけの鉄塔についつい目が惹かれてしまう。
鉄塔を過ぎ去ろうとした矢先だった/目の前の砂が弾け飛んだ。羽扉が砂の中から跳ね上げられた。
「巨獣!」
左右の推進機の推力を調整し、速度を維持して転倒しないよう回避する。
地中の罠から、手に斧や幅広な剣、そして自動榴弾砲まで抱えて巨獣の1小隊がまるまる這い出てくる。
「気にしないで! まっすぐ」
アーシャが叫ぶ。背後に敵を残したまま、背中がむずがゆくなるがソラは前だけを見た。
「いったい、さっきのは?」
後方の索敵カメラで確認すると、追撃部隊5両がテウヘルたちとやり合っている。ジャガーのほうがずっと優勢だったが、十分に逃げ切れるだけの余裕があった。
「馬鹿な兵団」
「それは、えっとどちらが」
「むぅ。連邦の言葉。馬鹿な兵団。獣人化すると凶暴になって手がつけられない兵士は、ああやって地下にずっと潜ってる。この退屈な砂漠じゃ、ヒトは建物に自然に吸い寄せられる。だからそこを襲う。そういう兵団。ずっとまえにテムさんに教えてもらった」
「なるほど」
「でも運が良かった。むぅ、彼らがいるかどうか賭けだった。さぼって陣地を抜け出していたり、とっくにやられているかもしれないから。よかったね、ソラ」
後席からアーシャが長い腕をソラの身体に回す。細い指先がこそばゆい。
「運、か。これからは運も頼りにしなきゃならないのか」
「わたし、強運」
「そうだね」
ちょっとだけ笑えた気がした。きっと1人だけだったらここまで来れなかった。推進力を下げ推力を巡航モードに。たぶん、日没までは燃料が持つはず。
「位置観測機と通信ができないから現在位置が正確にわからない。でもたぶん、ワング=ジャイまでは行けない。まあ、ジャガーで街に乗り込むわけにも行かないからどのみち歩くのは覚悟してたけど」
「んっと、この先に線路がある。工場村とワング=ジャイを結ぶ線路。あとは線路に沿って歩けばいい」
なるほど。たのもしい水先案内人だ。
昼を過ぎたが空腹を感じなかった。少しだけ水筒の水で口を濡らした。ポポはビスケットのかけらをあげたら喜んでもぐもぐと食べていた。心が落ち着くと今朝からの出来事が順繰りに頭に浮かんできて、そしてまた振り出しに戻ってしまう。炯素義体と偽物の記憶、財団の実験体、仲間たちとの突然の別れ。信じていたものすべてがぶち壊されて未来の見えない岐路に立たされた。
未来は少しだけ考えるようになっていた。高校が終わればソリドンブルグ市内の大学へ進む。軍務は、楽しいから続ける。そのあとは一般人みたいに仕事をするのでもいいし、士官学校に入るという選択肢もある。戦いは好きだ。極限の状況で自分を高められる。
こんな惨めな逃避行でも、心躍る自分がにくい。ブレーメンの習性かはたまた作られた体のせいなのか。操縦桿をぎゅっと握っている手が痛い。
「大丈夫。落ち着いて。わたしがついてる」
アーシャが手を被せてきた。冷たいひんやりした手だ。細い指先が、ソラの指と指の間を沿って動いてこそばゆい。
「僕はもう、何をすべきかわからないよ。何も残ってない」
「むぅ、残ってる。わたしの夫で旦那で、わたしの男」
「この体、生き物じゃないんだよ。炯素、聞いたことある? このジャガーの人工筋肉と同じ素材。500年前は僕と同じ、炯素でできた人造人間が兵士として戦っていた」
ニケ翁から聞かされた強化兵のことが思い出された。体は炯素だが人格ある1人の人間なんだ、と。なんとも慈愛に満ちた言葉だと思った。実際、ニケ翁は厳しい師匠だが、その実 物言いは合理主義的だった。しかしいざ自分がその炯素の人造人間と明かされると、作られた体でも人格は備わっているという意味が嫌と言うほどわかった。無いのは過去の記憶と経歴と、それと家族。
「難しいことはわからないけど。でもわたしの目にはちゃんとした生き物にみえるよ。ここ、脇腹のお肉がぷにぷにしてる。おいしそ」
「そうじゃなくて。はぁなんて言えばいいだろう。記憶は偽物でこの体も作り物で、試験管の中で生まれた実験動物だった。しかもまだ4歳だなんて」
「ちいさい子、好き」
「そうじゃなくてさ!」
「ソラの過去は気にしない。でもソラに出会ってから今までのこと、わたしが覚えてる。どれも本当のこと。わたしがソラを好きになったのは過去じゃない、今のソラを見たから。強いけど優しくて、優柔不断で弱々しいから守ってあげたい。そんなソラ」
「そう言われても、困る」
照れてしまう。火照った頬に、冷たいアーシャの頬が重なる。
「街の名前、ワング=ジャイ。意味を知ってる?」
「聞いたことがないけど、でもなんとなく懐かしい響きがする。ブレーメンの古語でしょ」
「正解。“希望の都”なんだって。もともともはブレーメンの大きな石造りの街があって、その後獣人たちがその上に都市を築いた。そのあとヒトがさらにその上に街を作った」
「倒した敵の街に、さらに街を作った、と」
悪趣味だなぁ。その点はヒトも獣人も大差ない。
「むぅ。そうじゃない。希望。獣人もわたしの先祖も、希望のためにここまでやってきた。ソラもきっと希望が見つかる」
「その、他に街はないの? ヒトが多いと敵に見つかるかも。肌の色だってぜんぜん違うのに。敵……もはや誰が敵なんだろう。わかんなくなってきた」
「無い。工場とか鉱山とか“油の湖”とか少しだけヒトが住んでるけど。ワング=ジャイはとても大きい。大きいから見つからない」
「油の湖?」
む、とアーシャが索敵画面の1つを指さした。超望遠で、久しぶりに砂漠以外の景色が映っている。黒い湖面は黒い砂の砂漠の低地を満たしている。あれが湖、と指摘されなければたぶん、気づかなかった。
「あそこから油を取って燃料を作る」
「んー原油?」
原油って、ああやって湧き出るものなのか。暗記してしまった地理の教科書のページをめくる。たしか、陸上の油田は大体が採掘し尽くしてしまい、今は北海の海底油田を掘っているんだったか。可変戦闘車の推進剤として躊躇なく燃やすが、いざ自分で車や暖房の燃料を買おうと思うと決して安くない。そのせいか、人々は都市に住み集中冷房と集中暖房に身を寄せている。
原油の湖を過ぎてからは、また殺風景な黒い砂漠と青い空だけになってしまった。その青い空が満天の星空になったころ、推進剤の残量表示が底をつきかけていた。
「あった。あそこ。9時の方向。廃墟がある。だれもいないと思う」
「その言葉を信じるよ」
砂漠に埋もれるようにして、レンガ造りの建物があった。壁の白い漆喰が大方剥がれ落ちていて、下にレンガが見えている。遠目でみたら岩山だが、一列に並ぶ窓枠で人工物であることがわかる。ぐるりと周囲をめぐり巨獣兵の罠ではないことを確認してから、崩れた壁から内側へ入った。三方を壁に囲まれているので外からは見えづらい。
「ちょうど燃料切れだ。電源も、あと数時間持てばいいほうだ」
ソラは投影バイザーを外して、操縦用のグローブも外した。そしてハッチからぬるりと外へ出た。後にアーシャとポポも続いた。
外は気温がぐっと低かった。黒い砂もすでに熱気を失って冷めてしまっている。廃墟の壁で満天の星空が四角く切り取られている。ジャガーの機体は熱気で表面の空気が揺らいでいる。カチンカチンと金属が冷える音が唯一、聞こえた。
「静かだね。さてこれからどうしようか。携帯食料は2人で3日分、ある。でも水は多くは運べない。それと着替えと救急キット、武器も一応持っていこうか」
「むぅ、大丈夫。わたしとポポで運ぶ。夜の間なら見つかりにくい。昼はどこかで休めばいい」
「ワング=ジャイに着くのは?」
「わからない。でも4,5日あれば着くと思う。じゃあ、荷物を準備して」
アーシャはおもむろに服を脱ぎ始めた。そしてポポが溶け合うようにひとつになった。ソラが可変戦闘車に戻って2振りの剣と荷物と食料、水のポリタンク、そして自衛用の自動小銃を1丁 持って出てくる頃には、廃墟の横で膝立ちに佇む巨獣がいた。
逆三角形の剛い上半身は、しかし逆に下半身はほっそりしている。馬のように座る部分がないので、どう登ろうかと思案したが、アーシャは背中に手を回してソラが落ちないように支えてくれた。
最後に一度だけ、可変戦闘車を振り返った。あちこち凹みや穴だらけでスクラップ同然だった。消えずにかすかに残っている、胡蝶蘭と黒豹のノーズアートは今ではけっこうお気に入りだった。自分だけの、唯一の機体。
アーシャは5間(15m)という巨体ながら、その足取りは軽く、飛ぶように砂漠を駆けた。短い黒い体毛の下から暖かな体温を感じる。ちくちくとこそばゆいが砂漠の夜の冷気を感じずに住む。
東の地平線に太陽が登る頃、鉄道のレールが見えてきた。錆は見えず定期的にここを通る列車があるらしい。線路にほど近い岩山の日陰で、アーシャはソラを地面に下ろして変身を解いた。
全裸の藍色の肌が朝日に照らされる。贅肉のない引き締まった体には筋肉が浮き出て、丸い尻には丸い陰影が映る。
「ふゎあ。疲れた。疲れたから寝る」
「その前に、ほら、服を着て」
「暑いから嫌」
「服を着たほうが暑さが和らぐよ」
アーシャはしぶしぶパンツを履き、駐屯地の売店で買った地味なTシャツに袖を通す。日陰の砂地に横になると直ぐに目を閉じた。
「疲れたんだね。ありがとう。おかげで助かったよ。僕は、そうだな、しばらく見張るよ。列車が来たら飛び乗れるかもしれない」
「やめといた方がいい。警備兵がいるから、無賃乗車は撃たれる。夜、また私が走るから。安心して、ソラは私が守るから。おやすみ」
すぐに寝息が聞こえてきた。アーシャの首元からポポが染み出した。寄り添うように2人は寝息を立てた。
ソラは一口だけ携帯食料を食べて、水を飲んだ。炯素義体でも腹は空くんだな、と自嘲気味に笑う。
休むつもりで横になってみた。黒い砂は案外柔らかかった。しかし何度寝返りを打っても寝付けない。太陽が天高く登る前でも気温は高い。たまに吹く乾いた風が心地よい。それでも思考が堂々巡りしてしまい目が冴えてしまう。
ソラはムクりと起き上がった。アーシャは、額に汗をかいているが静かに夢の中だった。
ダッフルバッグから2振りの剣を取り出すと、岩場から外へ出た。頭上から強い光が降り注いでいる。ここならアーシャに声が聞こえない。
「先生。ニケ先生。聞こえますか」
剣を持つとブレーメンの力が増幅される。凝り固まった思考がクリアになり疲れも全く感じない。
「聞こえているのでしょう! 出てきてくださいよ!」
叫んでみた。ほんの少しだけ。こんなに大きな声を出したのは久しぶりだ。ひねり出した声も砂漠を吹く乾風にかき消されてしまう。
思念世界に行ければ楽だったが、そういうわけもなく岩棚に腰掛けているニケ翁が現れた。色彩が薄く透き通っていて、幽霊のような不気味な姿が浮かび上がる。髭を蓄えた老人だったが背筋は伸びて若草色の瞳が輝いている。
「久しいな、ソラ。さて稽古の時間か。してここはどこだ?」
「とぼけないでください、先生」
「ほう、ただならぬ心境を感じる。なにか辛いことでもあったか」ニケ翁は砂地を歩くと「ここはテウヘルの支配領域だな。黒い砂と青い空。変わらぬな。生前、一度だけ訪れたことがある。巡空艦でほんの少しだけ降り立った。当時、黒い砂漠は“壁”よりはるか内側だけだった。が今やどこもこの景色なのだな。キエは侵食弾頭の危険性を青ざめた顔で語っていたが、今になって彼女の言葉が理解できた。『未来永劫、草木の生えぬ土地』とは言葉のあやと思っていた。8発の侵食弾頭は街を破壊するに飽き足らず、よもやこんな光景を作るとは。草木が生えぬ不毛の土地、という表現もヌルい。虚無というほかない」
ニケ翁は、ソラの方を一度も見ずにぽつぽつと語った。
「僕が、炯素で作られた偽物のブレーメンって気づいていたんじゃないですか」
やっと振り返ってくれたと思ったら、眉を少しだけ動かしてまた地平線の彼方へ視線を戻した。
「そうだったのか」
「とぼけないで! どうして僕が偽物だって、炯素の作り物だって言ってくれなかったんですか」
「では聞くが、ソラ。炭素の生き物と炯素の義体と、その違いはどこにある」
「そんなの僕が知ってるわけないでしょ!」
怒りに任せて声を張り上げたせいで喉が痛い。胸もつっかえ苦しい。どんな怒号も幻影の老人の体をすり抜けて、だだっ広い平野に薄まって消えた。
「強化兵、炯素の体の人造兵士についてはよく知っている。儂の初めての仕事は強化兵培養工場の警備だったし、彼らと一緒に戦った。最後の製造ロットの出荷と施設の破壊にも立ち会った。電子的な圧縮知育と短い寿命は、しかし当の本人たちからすれば『かわいそう』と言うこと自体が侮辱なんだそうだ。ソラ、君は実験のため誰にも愛されずに生まれてきた。その点には同情する。だが、かわいそうだ、とは思わない。肝要なのはどう生まれたかではない。これからどう生きるかだ。そして君は愛を知っている。全幅の信頼が置ける伴侶だ」
ニケ翁の視線の先で、まだアーシャは静かに寝ていた。浅い意識で汗を拭うとまた寝返りを打つ。そのせいで起こされたポポと少しだけ目が合ったが、またすぐに黒い2つの点が眠るように小さくなった。
「リンの話は、もうしただろうか」
「ニケ先生の、仲間、ですよね。強化兵の」
「ああ。彼女は戦いの中で死ぬために造られた。本人もそれを疑っていなかった。だが彼女の7年という短い人生の中で、確実に生きる意味とその目的を見つけた。たとえ彼女の体が炯素でできた、遺伝子を転写しただけの体だったとしても、残した足跡は大きかった。彼女の記憶は歴代の皇にも引き継がれ、儂もまた、永遠に現し世に自我が囚われたまま忘れることがない」
「僕は、まだわかりません。生きる目的だって、あったんですよ。でも昨日それが全部ぶち壊されて、今や砂漠で逃亡生活です」
ちがう、話がそれている。先生は、この体が偽物だ、と知っていたはずだ。じぃっとニケ翁の若草色の瞳を見ると、やっと返事が帰ってきた。
「確かに、儂はとある少年に剣技を教えた。たくさんの人が死んでいる、戦い方を教えてくれ、と。現実世界では数秒の間に、思念世界で10年分の稽古をつけた。その後、どうなったかは知らん。ソラ、君が現れたとき、その少年と同一人物だと言う確証は得られなんだ。過去の記憶はあるが、魂の“紋”は異なっていた。それにブレーメンにしては体力が低く闘争心に欠けている。それでも、だ。君は前向いて生きようとしていた。ブレーメンの形質のその輪郭だけをたずさえながらもブレーメンのアイデンティティを捨てなかった。儂はそれに賭けたかった」
「ふざけないで! あなたも、やっぱり僕を騙そうとしていた」
「そうではない。騙すつもりはなかった。だが全てを知ったから幸せというわけでもない」
「クソっ、こんなの!」
ソラは2振りの剣を振りかぶった。風が渦巻いている流砂へ投げ込めば、もう2度と剣を見ることもないしニケ翁に会わなくて済む。
「今ここで、儂は投げ捨てられても構わない。だが、この先その剣が必要になると思うがな。君次第だ。聡明なブレーメン」
ニケ翁は一方的に言うと幻影が風の中に消えた。
「僕は、ブレーメンじゃない」
物語tips:侵食弾頭
既存のいかなる兵器とも異なる、エントロピーの法則を無視した兵器。1500年前 惑星に移民してきた旧人類の遺した技術の一つ。
第1次テウヘル戦役以前は開発が難航していたが、戦役の勃発と前後して基礎理論が完成した。そして皇の支援を背景にとある将校と科学者が秘密裏に兵器転用を進めた。旧人類の記憶を引き継ぐ皇ならびに科学者は「無から有を生み出す侵食弾頭は取り返しのつかない被害を生む」とその使用に消極的だったものの、テウヘルを恨む将校によって攻撃が強行される。結果、獣人たち100億人が8つの街とともに大陸から蒸発した。