3
メイペスは五里霧中を漂っていた。
「ねこ……しし……鍵……家族……」
ベッドに腰かけて、今日一日の事を思い出しながら、呪文のように繰り返している。
どうやら、部屋に入ってきたアンスタウトにも気付いていないようだ。
メイペスの隣に腰かけたアンスタウトは、ぶつぶつと霧の中を模索している様子を、微笑ましく眺めている。
「反省文、書く?」
必死に笑うのを押し殺しているのは一目瞭然のアンスタウトに、メイペスは恥ずかしさを隠すためだけに、真っ赤な顔をして迫力なく睨み付ける。
「何枚書きましょうか!」
意固地になって立ち上がるメイペスの手を掴み
「ごめん、ごめん。誂っただけだから。それとも、ホントに書く?」
アンスタウトの言葉に、何処までも本気なのか冗談なのか分からなくて、メイペスに戸惑いが浮かび出した。
「ごめんね。誂いすぎたね。座って」
甘く低い声で、落ち着きを取り戻したメイペスは、アンスタウトの隣に座り直す。
「今の状態で、反省文だけ何枚書いたって、何の解決もしないでしょう?話してごらん」
アンスタウトは笑みだけを残した面持ちで、メイペスを見詰める。
ほら。
アンスタウトの青いガラス玉に私が映っている。
青?
「……アンスタウトの瞳って、青かったんだね?」
「そうだけど、それが聞きたいこと?」
「初めて見た時は、紫に見えたから不思議だなーと思って」
「夕焼け時だったから、光が反射してたのかな?」
少しだけ考えて、アンスタウトが答えた。
「ほぉ……なるほど……」
「で?」
と、アンスタウトに促される。
「アンスタウト、子作りしよう!子作りしなきゃ!」
アンスタウトの両手を握り締めて、メイペスは勢い良く話してくる。
「メイペスは子作りの事は、分かっているの?」
「もちろん、ヴイレノシュに教えて貰ったわよ。整合と、先ずやるべき事!卵子と精子を結びつけて、子供を作る。それぞれが重要な役割を果たしていて、どちらも欠けていては、命は生まれないんだ。それには……」
続けようとするメイペスをアンスタウトは止めた。
メイペスの唇の前に、すっと人差し指を一本立てて。
ふう、と息を付く音がメイペスの耳に届く。
アンスタウトの表情はまるで読めない。
呆れてるのか、それとも茫然としてるのか。
沈黙は、メイペスの思考を掻き乱す。
ああ、やっぱりアンスタウトの瞳は素敵だ。
沈黙に耐えきれなくなったメイペスは、アンスタウトの瞳の中の自分と見つめ合う。
青い、私。
と、私は見えなくなって、額に柔らかいものが当たった。
アンスタウトの顔が近づいていたのだ、と気付いた時には、既に彼は立ち上がっていて
「おやすみ、良い夢を」
と言うと部屋から出ていってしまった。
あれ?アンスタウト、子作りは?
取り残されたメイペス。
暫く途方に暮れていたが
「今日は気分が乗らなかったのねっ」
と、ベッドに潜り込んだ。
一人で。
◆
「アンスタウトが子作りしないのよ」
朝の食堂。
アンスタウトとパートロは兎も角、何故グラスコ・グレコとレイ・グレコも同じテーブルに着いているのかしら?
昨日の、お話し合いで仲良くなったのかな?
それは、何より。
永住してくれたら良いなあ。
その暁には是非、牛と。
と、思いつつもパートロの顔が目に入って、口を出たのが「子作り」だ。
パートロは呆気に取られてるみたいだし、
アンスタウトは既に見馴れた苦笑だし、
グラスコ・グレコは咳き込んでるし、
レイ・グレコはグラスコ・グレコの介抱で、水やら布巾やら取りに走り回ってるし。
変なこと、言ってないよね?
はあっ、と聞えよがしな溜息を漏らしたパートロが
「すいません、グラスコ・グレコさん」
盛大に吹き出したのも、テーブルが汚れたのもグラスコ・グレコがやったことなのに、パートロはレイ・グレコと片付けしてるのよ。
益々、何でだ?
謝るようなこと、言った?
沸々と目の奥が熱くなっていく。
の、だけど。
混乱した頭が一つの可能性を導き出した。
そうよ!
「グラスコ・グレコさん。あなたはまだ知らないでしょうが、人には次の世代を作るための義務があるのよ。それが、男性と女性がそれぞれの役割を……」
「わかったから!少しは慎め!」
グラスコ・グレコが血相を変えて言葉を遮る。
「慎め……って、あなたが知らないと思ったから話しているのに。知らないことを知るのは悪いことじゃないわ」
というメイペスの顔は、明白に不貞腐れて唇を噛んでいる。
分かんない!
解かんない!!
判かんない!!!
わかんない!!!!
ぽんと、頭にパートロの掌が乗っかって
「子作りの事を、不用意に公然で口にするのは、外の人からすれば動揺することなんだよ」
と、先生の時の口調で言われた。
これは、お説教モードに移行する可能性があるわね。
ふと、目に付いたのは、アンスタウトとグラスコ・グレコがこそこそと耳打ちしている姿。
いつの間に、そんなに仲良くなってるのさ。
スプーンでスープの皿を玩ぶ。
食事は大事なのに。
大事な食事なのに。
一向に匙は進まず、ごろごろと転がる野菜たちを眺めてしまった。
すっ、と新たなスープの入った皿をパートロが差し出してきた。
自分が取ってきた分さえ、完食出来かねているのに、何故だろう。
「食べてみ?」
パートロは、先生の時とは又違う、優しい顔をしている。
ずっと前、見た気がする。
「……!何これ?」
スープを口にした瞬間、声が漏れる。
皿は見馴れたお皿なのに、中身は見たことがない。
いつもは、ごろごろの野菜が細かくされ、心なしか匂いも違う。
調味料をかけても、こんな味は知らない。
「レイ・グレコさんがやってくれたんだ。外を知るって、こういうことじゃないか?」
パートロの言いたいことが、何となくわかりかけた。
「御馳走様でした」
メイペスは両手を合わせ、空になった皿に深々と頭を下げる。
美味しゅうございました。
さて。
どうしたものか。
私にはどうやら、まだまだ知らなきゃいけないことが山ほどあるみたいで、何処から手を着けよう。
「では、メイペスは反省文の続きから着手しましょか」
アンスタウトが、涼しげに言う。
反省文は絶対なのね、とは思ったが、きっと考える時間を与えてくれるという配慮なのだろう。
「パートロ、お付き合いしてあげてくださいね」
アンスタウトと詰めなきゃいけない気がするのに、彼はパートロに話を振った。
「いや、今日はおれは玉蜀黍が…………」
と、もごもごと言い訳をしているパートロに
「ね」
と、アンスタウトは静かな圧力かけた。
パートロはメイペスの前任なのだから相談に乗るのは適任だろうけど、任を退いたからには彼は彼の仕事がある、はずだ。
当のメイペスも、仕事を擲ってまで自分に付き合わせるのは居たたまれない。
「一人で、頑張ってみるよ?後で聞いて貰えればいいし」
それまでの得手勝手と裏腹に、神妙にメイペスは答える。
「……わかった、付き合うよメイペス。おれの指導不足もあるしな。その代わり後で玉蜀黍の収穫、手伝えよ」
「えっ。それは勿論だけど、玉蜀黍が先でもいいのに」
問題を先送りたいが故の発言を察したアンスタウトに
「反省文が先です」
と、釘を刺されてしまった。
子作りのが先じゃない?
◆
パートロの後ろについて、とぼとぼと学教室まで来たら、リタフォが今日の当番をしていた。
みんな働いているのにと、むくむくと頭にわき出るが、これが駄目なんだわっ!
気合いを入れるために、自分の両手で頬をぱんっと叩く。
「何やってんだ?」
パートロに冷静に指摘された。
あう、痛い。
「何の音?あら、パートロにメイペスじゃない」
部屋の中からリタフォが顔を出した。
「ああ、リタフォ。すまんが隣貸してくれ。と、今日の……」
「収穫ね。やっとくようにミリタフに言っとくわよ。だから心置きなくメイペスを説教しなさいな」
くすくすと笑いながら、リタフォに誂われて悔しいメイペスは口を尖らせている。
「もう、リタフォ私が子供達みるから、代わってよぉ」
「出来るわけないわよ。把握の代わりなんて」
けんもほろろで、取り付く島も無い。
「諦めろ、メイペス。じゃあ頼んだなリタフォ。ミリタフにも宜しくな」
「ええ、宜しく頼まれたわ。メイペスが駄目なんだろうけど、お説教も程々にねパートロ」
そういうと、リタフォは部屋の中に手を振りながら入っていった。
リタフォは、旅人の末裔の一人でメイペスより十二歳年上の女性だ。
旅人の境遇を一緒に聞いて、二人して抱き合って泣いた。
あれから、一年たつのだな、と思う。
パートロは何でリタフォに【把握】を継がなかったのだろう。
リタフォがミリタフと子作りするのを、止めることだって出来たはずなのに。
そりゃ、ちょっとだけ年嵩かも知れないけど。
子供を生むには十分だ。
ヴイレノシュの任期切れは判っていたはずなのに、どうにも解せない。
「まーた、迷子になってる顔だぞ」
パートロにぽすっと、頭に手を置かれ、取留も無い思考の海から醒める。
「う゛う゛」
言葉にならない声がメイペスから発せられて
パートロは苛めている気分になる。
「メイペスが知りたいって思うことを紙に書いてみろ。待ってるから」
パートロはそう言うと、紙とペンをメイペスの前に置き、窓辺へと移動すると椅子に座って外を眺め出した。
パートロはパートロで、そういやグラスコ・グレコと話すというのも有耶無耶になっていたけど、今朝のアンスタウトとの様子を見るだにアンスタウトが上手いことやってくれたのかな、と思うことにした。
おう、丸投げされたから、丸投げしてやる。
そんなパートロを見たメイペスは、玉蜀黍の収穫をしたいのよね、と明後日の方向に思考を飛ばし、「私、やるわ」と妙なやる気だけを漲らせ、ペンを取った。
兎にも角にも、知りたいことを書き出すのよっ!と、走らせるペンは、先ず【把握】と書き出し、一瞬躊躇してその字を塗り潰した。
違う。これは解ってなきゃいけないことだ。
ねこ、しし、かぎ。
昨夜、アンスタウトに聞きたかったこと。
家族、癒し、子作り、把握。
だから、把握は違うって。
再び、把握の文字を塗り潰す。
ああ、そうだ。
ランデフェリコの技術と似たようなやつ。
グラスコ・グレコはランデフェリコから来たわけではない筈よね?
眼鏡を使わずに見ることが出来る、あれ。
ん。
永住、する、しない。
エデノの外、把握。
無意識に三度、把握と書いて、もしかして実は、私は【把握】の事を一番知りたいのか?と思い、塗り潰した。
「どうだあ?」
どれくらい、紙に向かっていたのだろう。
ぼんやりしたパートロの声で、意識が引き戻される。
「…………パートロ、寝てたでしょ?
目は虚ろだし、何より口!よだれ!」
「まあ、それはそれ。書けたかあ」
睨み付けるメイペスをものともせず、紙を取り上げる。
紙をさっと読んで、塗り潰された【把握】に気が付いたパートロは、
「さあ、一つずつ潰していこうかあ?」
と、いつもと変わらない間延びした、穏やかな口調で言った。
◆
「さて、先ずは……猫と、獅子か」
本来は別物だが、メイペスには取り敢えず人と牛と鶏以外の認識をさせないといけない。
だから、一緒でいい。
パートロはメイペスより先に、自分を納得させる。
メイペスの向かいに席を取り、テーブルの真ん中にメイペスの書いた紙と、白紙を並べる。
「先ずな、外の世界に、動物……生物……動いているものって、どれくらいいると思う?」
パートロは、自分がヴイレノシュに聞いた時はどうだったかを思い起こす。
人と牛と鶏以外に、生きているものがいると云う理から始まる。
「動いているもの?牛と鶏と、昨日聞いた『ねこ』と、『しし』?他にもいるの?三十くらい?」
両手を広げて、両足を上げている。
足は靴で見えないが、恐らく指を広げているのだろうなあ、とパートロは呆れる。
メイペスが思う、最大数て、三十なのか?
おれは、ここから先が、気が重くてしょうがない。
「七百万くらいの種類があるそうだ」
「ななひゃくまん?」
それが何を意味しているのか解らずに、メイペスはただ鸚鵡返しする。
やっぱり、数の単位からだ。
これだから、算数はちゃんとやっとけと言ったのに、後悔先に立たず。
これから一体、溜め息を何回つくことになるのか謎だけど、パートロは記念すべき一回目の特大の溜め息を放った。
まず、万を理解させる。
「…………沢山てこと?」
「もう、それでいい」
「そんなに沢山、覚えていられるの?」
「覚えることはないだろう。メイペスの言葉を借りれば自分に関係あるかどうかだ。それに七百万ってのは、人に見つかっていない、名前がない、ものも入ってる」
「仕事はするの?」
「それなんだけど、メイペスの考える仕事ってなんだ?」
「人が生きるためにすること?」
「だな。そう言う意味では彼らは仕事しない。自分が生きるために仕事をする」
「同じことではないの?」
「メイペスの云う仕事は、『人間のため』だ。けど、それこそ獅子なんかは自分が生きるためだけに働く」
「ななひゃくまんが?」
「大きさが色々ある。牛の何百倍もあるものや、目に見えないくらい小さいものもいる」
ん。メイペスは既に混乱の極致で目を回しそうだ。
ヴイレノシュにも、おれはこんな風に見えてたのかな……いや、違う。
もっと理解できていた筈だ、とパートロは自分に活を入れ直す。
「あ、海で見る、にょきにょきしてるやつや、空を動いてる黒いやつとかも動物?」
「海は、水面から跳ねるのがいるから、そうかも知れないな。空は違うかもしれない。動物もいるが、技術の時もある」
「ランデフェリコの技術みたいな?」
「今日は動物で限定しとこう。技術の話にまでなると、メイペスの頭が破裂するかもしれん」
「ポップコーンみたいに?!」
「あ、そうそう。ぱーんと弾けるぞ」
「ひあ……」
メイペスが、頭を抱えて小さく震える。
いかん、びびらせ過ぎたか?と、その様子に怖じ気づいたパートロは、
「やめとくか?」
と、メイペスの顔色を伺う。
「や。やり遂げてポップコーン食べるんだ」
明後日の方向向いていた着地点は、来年に向かっていたらしい。
うーん、今日の収穫は食用の玉蜀黍だと言いにくいぞ?とパートロは思った。
「次は……鍵、か」
また、難しいな。
パートロは首を捻る。
固有のものを持つことを良しとしないエデノの価値観に、鍵か。
「だって面倒なだけじゃない?外の人が来たときに入る部屋には『かぎ』はあるけれど、永住を決めた人の部屋にはないわ」
メイペスは得意気に云うけれど。
パートロは、それでも永住を決めても、鍵が無い事に納得して貰うまでは、それなりに骨は折れたんだけどな、とは思う。
論点はそこではないのだろうことは分かっている。
分かっているとも。
「先ず、金ってあるだろう?」
「作物とかと交換する謎の物体ね。紙や石と交換するんでしょう?」
やっぱりここからか。
パートロは頭を抱える。
【把握】を引き継ぎ時に、説明はした筈なんだけどな、飲み込めていないらしい。
で、繰り返し教えた筈の金の価値から話す。
作物と金が同価値と納得できず、そこばかりが繰り返される。
「分かったから。メイペスが分からないのは分かったから。ここは、一旦金ってのが持ち運び便利な作物と云うことで納得して貰えないか?」
パートロは自棄っぱちで言うと
「わかった、一旦沢山の持ち運びに小型化した玉蜀黍と思うことにする」
……メイペスの頭は既に玉蜀黍で埋まっているらしい。
今日の玉蜀黍は、爆裂種じゃないといつ言おう。
「で、金。これは玉蜀黍と違って持ち運びが便利なんだよ。なんたって土は付いていない。皮は向かない。それを、独り占めしたくなる人間てのがいるわけだ」
「独り占めは……」
メイペスは、顰めっ面が外れなくなっている。
「ん、独り占めはよくないぞ。でも、外にはそんなやつがいるんだよ。ミリタフが言っていただろう?」
メイペスは、旅人の話を聞いた直後のように泣き被っている。
ミリタフはメイペスが初めて向かえた新来者だ。
尤も、メイペスはあくまでもお手伝いだったのだけど。
ミリタフは懸命働いて貯めたお金を、根こそぎ盗られた。
家庭を作って家族になるために、それは頑張って貯めたお金を、家族になりたかった人に奪われた。
ミリタフが家族になりたいと願った人は、既に怖い家族があったのだ。
その事で国に居られなくなって、逃げ出して、エデノに着いて、リタフォと仲良くなって子供を作った。
やっぱり、家族とか金とかろくなもんじゃない、と言いたそうにしているメイペスを余所目に
「だから、鍵をかけるんだ。独り占めに見えるかもしれないけど。悪い人から、大事なものを盗られないように」
「ミリタフは鍵をかけていなかったの?」
困った。
それはそれで、別問題だった。
そう来たか、とパートロは二回目の溜め息をついた。
「まあ、いいわ。外の人はとにかく、鍵をかけたいものなのよね」
と、考えることを放棄したメイペスが言った。
考えても分からないから、そういうもんだ、と納得する道を選んだらしい。
「それで、いいのか?」
「そのうち、分かればいいことなのかな、と理解した」
我が子がやっと立った気がしたパートロだったが、メイペスが記した紙を改めて見ると、家族、癒しとあり頭を抱えた。
メイペスは、善くも悪くもエデノの子だ。
そうなるように、育てたのはおれ達なのだから、きっと紛れもなく“成功“なのだ。
奇しくも、エデノには無いものが多すぎると口にしたのは、昨日のおれだ。
だから、だけど。
これはアンスタウト、お前の仕事じゃないのか!
少なくともおれは、ヴイレノシュに聞いたぞ!
パートロはここにいないアンスタウトに八つ当たりすることで、気分転換を図った。
「大丈夫?元気ないよ?」
無邪気に顔を覗き込んでくるメイペス。
ん。悪気なんでこれっぽっちもないのだ。
知ってる。
分かってる。
だからこそ、知っていて欲しいし、分かって欲しい。
目に見えない、情ってやつを。
「パートロぉ、収穫に行く?」
メイペスは、考え込んでいるパートロを気遣う風、に見せかけて玉蜀黍にご執心だ。
「いや、続けるよ。家族と癒しは後回しにして、【把握】、いこうか」
パートロがそう言うと、メイペスの顔がさっと曇る。
「え、あ、う、それは、えーと」
誤魔化したいのだろうけど、同じ文字を三回塗り潰していたら、気にならない訳がない。
「ごめんなさい」
メイペスは、俯いて、小さくなって。
その気の強さから涙ぐみもしないが、ぎりぎりなのは見て取れる。
「何をそんなに怯えてるんだ?知る事も、知らない事も何も悪いことじゃない。さあ、何が疑問なんだ?」
パートロは、あくまでも優しく穏やかに、包容するかの口調を意識して言った。
恐る恐る顔を上げたメイペスは、
「何でリタフォじゃなくて、私なの?」
と、彼女らしく真っ直ぐに疑問をぶつけてきた。
そもそも、【把握】と【整合】と対である。
エデノとランデフェリコを繋ぎ、子を成し次世代へ送る。
それだけ。
書類仕事をすることが多くなるが、農作業もある。
エデノで唯一、希望することの出来ない仕事。
初めの旅人の血を引く者の中から、二十年で交代する【整合】に合わせて、子が成せる年齢の者が選ばれる。
該当者が複数人ならば、前任者からの指名だ。
それを一々否定する者はいない。
「メイペス。【把握】をやるのは辛いか?」
「え?それは全然、大丈夫」
パートロはメイペスの即答に、一先ず胸を撫で下ろす。
「それは何よりだ」
パートロの顔に、自然に溢れる綻び。
「で?なんで私だったの?」
……メイペス。お前に期待した、おれが愚かだったのは知ってるさ。
何故と聞かれれば、それは情だ。
おれと、ヴイレノシュの子。
おれが知れた全てを、ヴイレノシュの紡いだ全てを教えたい。
それをメイペスに言えば、素直に納得はするだろう。
でも、言葉を理解して欲しい訳じゃない。
言葉では言い表せない、想い。
何の柵さえなければ、別にリタフォで構わなかった。
まだミリタフもエデノにくる前だったし。
「んー。お前が抜けてたからかな?」
うんと遠回しに、メイペスに答える。
誰よりも従順で、頑ななエデノの子。
「なにそれ」
案の定、メイペスは不貞腐れてやがる。
お前の将来を憂いた『父さん』の情だよ、と外の人ならばそれですむ答えなのに。
知らないと言うのは、なんとまどろっこしいのだろう。
「お前の、知識欲に賭けたんだよ」
何て、綺麗事だけメイペスに伝える。
こう言っとけば、悪い方に突っ走っても、『何か』を掴んでくれるかもしれない、賭け。
思い切り唇を結んで、眉間に皺を寄せて、答えを探しているメイペス。
「取り敢えずパートロは、私でいいと思ってくれたってこと?」
漸くたどり着いた答えは、おれの思惑とは少しずれている感じだか、いっか。
「お前が、いいと思ったんだよ」
どうか、綻びに気付いておくれ。
家族は、時に歴史的悲劇にも発展するけれど。
エデノでは、皆が平等で暮らせるけれど。
独り占めは、時に決して悪いことではないってことに。
「ところで、パートロ。収穫する玉蜀黍は食用でしょ?保存庫に爆裂種はあったかな?」
と、問うてくるメイペスに、パートロは安堵と、怒りと、入り交じった複雑な心境に陥った。
「まず、メイペス。食用玉蜀黍の収穫だと言うことに気付いたのはエラい。褒めてやる」
長いこと皺を寄せていた眉根が綻ぶ。
2、と指を立てたパートロは、怒っている。
メイペスは、きょとんとその顔を眺めて、気がつく。
「あー!」
「そうだ。保管庫に何があるか【把握】するのはお前の仕事だろう!」
「そうです!あります!ポップコーンは作れます!」
若干、食い気味にメイペスが即答する。
「仕事は、してくれよ」
パートロは呆れて、吐き出した。