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本編の始まり
メイペスは、周章狼狽した。
心臓が、これでもかと激しく動いている。
まるで、その存在を主張するみたいに。
身体中の体温が信じられないくらい上がって、顔に集まっている。
なのに、指先は冷たく身動ぎも出来なくて。
当たり前にしていたはずの呼吸は、そのやり方さえ思い出せず、息が詰まってただ苦しい。
静かな騒音が、耳の奥で響き渡る。
視界は全てが掻消えて、ただ一点に光が差す。
こんなことは、知らない。
こんなことは、生まれて初めてだ。
お日様のような赤い、金の髪。
硝子玉のような青い、紫の瞳。
たわわに実った麦の穂みたいな髪が、さらさらと揺れて。
澄み切った朝焼けの空みたいな瞳が、きらきらと覗いて。
…………あれ?
おかしいな?
紫色の硝子玉に、わたしが映っている。
どうしたことだろう。
わたしはただ、硝子玉のわたしから目が離せない。
麦の穂が硝子玉に落ち、紫色のわたしを隠す。
なんでだろう?
寂しいな。
とても、きれいだったのに。
…………
……はっ!
彼の人は、わたしに頭を下げているではないか!
「ランデフェリコのアンスタウトです」
夜に咲く花の香り漂うような柔和な顔。
薄い唇から発せられた、低く落ち着いた声が甘く耳を擽る。
差し出された白く真っ直ぐな手は、無駄のない優雅さで、わたしに確信を抱くかのように伸びている。
差し出された手を見つめ、とうに働くことを止めていた思考は、次の動作まで数秒かかる。
無理に呼吸をするも、喉はからからに渇いていて、言葉を知らない赤子のように狼狽える。
目の前には、風にそよぐ麦の穂と、輝くばかりの朝焼けをした、儚くも柔らかい笑顔。
ああ、握手を返さねばと、自分の手を合わせ、愈々握手に至る。
けれど。
気の効いた挨拶は、何一つ紡げなくて。
「…………メイペスです…………」
そう吐き出すのが精一杯だった。
◆
メイペスが十八になった年、彼女はパートロから【把握する者】の役目を受け継いだ。
これは、ここエデノの地の農作物や住民の状態を把握し、また時折、外からある新来者の対応に当たる。
それらを一年を掛けて、丁寧に引き継いだ。
【把握する者】は、外の国では、領主や長などと呼ばれているようだ。
領主や長という地位を示す名称は、新来者に説明する際に都合が良いから使用するが、知識として知っているだけで、このエデノではその名称は意味を持たない。
エデノの地では、地位は平等に反することから厭われるからだ。
お伽噺のように伝えられている、最初の旅人がある。
彼らの血を引いている者の一人が、この【把握する者】の役目を担う。
最初の旅人だけが、心胆に望まれた存在ということだ。
【把握する者】には、対となる【整合する者】があり、ランデフェリコからの使者が行う。
【把握する者】の作成する資料を元に、作物の取高を調整し、必需品を補填して、本国であるランデフェリコとの融通を行う。
【整合する者】は、二十年でその任期を終え、本国に帰る。
とはいえ、メイペスたちエデノに住む者はランデフェリコの恩恵には預かっているものの、その実態を知る余地はない。
【整合する者】だけがランデフェリコとの繋がりだ。
【把握する者】は【把握】と、【整合する者】は【整合】と短く呼ばれることが常である。
元【把握】のパートロの対である【整合】のヴレノシュも、後数日でその任期を終える。
パートロは皆と同じ生産者になり、ヴレノシュはランデフェリコへ戻る。
その後任がアンスタウトで、メイペスとは許婚ということになる。
「ねえ、パートロ。わたしね、アンスタウトを見たときから、心臓が酷く動いているのだけど、病気ではないかしらと思うの」
「メイペス。心臓は動いていない方が病気だから、至って健康だよ」
パートロはメイペスを揶揄いながら、優しく頭を撫で、話を続ける。
「まあ、オレもヴレノシュを見た時は、そんな感じだったよ。一週間は震えて、ろくろく眠れなかった。オレの前の【把握】もそんなだったって、言ってたから、きっと【把握】は、【整合】に否応なしに惹かれるもんなんだよ」
「ふうん、無神経なパートロでもそうなんだ。なら、わたしは健康ね」
「メイペス。どういう意味だ?」
軽口を叩き合える、気の置けない関係。
メイペスは思う。
なら、【整合】は、【把握】に対してどういう感情を抱いているのだろう。
……二十年すれば、ランデフェリコへ帰ってしまう。
未練は、無いのだろうか?
「メイペス、ここにいたんだね。建物の案内をお願いしてもいいかな」
何の前ぶれもなくやって来たアンスタウトに、メイペスは驚いて顔を上げた。
先ほどの話の今で、心臓がまた少し速く打ち始めるのを感じる。それでも仕事だ。今はそのことに集中しなければ。
「あ、勿論です。何処に行かれます?」
彼の視線が、メイペスを見ている。
彼の目は優しく、それでいて何もかも見透かされてもいるようだ。
わたしたちは許婚だから、子作りしなきゃいけないことも、ちゃんと教えて貰っている。
…………そんなこと、出来るんだろうか?こんな綺麗な人の前で?と、一瞬頭を過りもしたが、今は仕事よ、無理して笑ってみる。
「新来者のところにお願いします。いらしたのは、五日前でしたか?」
「そうです。お二人で。お一方は軽傷でしたけど、もうお一人が意識が無くて。そろそろお目覚めかと思います」
「紛争からの被災者でしたよね」
「ええ。じゃあ、参りましょうか。ついでにお食事を用意して行きます」
メイペスはそれだけ言うと、食堂へ歩き始める。
心臓が少しだけ落ち着いて、二人分の食事を用意して…
アンスタウトを案内するはずだったのに先に行かせて、慌てて後を追った。
◆
アンスタウトとメイペスが扉の前に立ち、ノックをする。
がちゃりと鍵が外れ、薄く扉が開く。
常々、メイペスが新来者に対して不思議に思うことに、施錠がある。
面倒なだけなのに、と思う。
確認するように、扉を開ける様子も苦手だ。
用があるから来訪してるのよ、早く開けなさいよ、こちらは今、あなたたちの食事で手が塞がっているのよ、と思う。
我ながら、自分本意ではあるけれど。
他者からの干渉を疎む意味が分からない。
苛立ちを隠せていないメイペスに気付いたアンスタウトが「さて、中にいれていただきましょうか」と、書類を抱えていた手に、メイペスから食事の乗ったトレイを取りあげて言った。
「ワゴンにすれば良かったですね」と、アンスタウトが屈託ない表情を見せるので、メイペスは代わりに書類を受け取った。
施錠しなければいいだけなのにとか、早く開ければいいだけなのにとか、口に出そうになるが、それこそ自分本意だ。
もやっとする感情を押さえながら、部屋に入ると、ベッドに腰を掛けている人物が目に入った。
「目を覚まされたのですね。食事をお二人分用意してきて良かったです」
メイペスは、打って変わって満面の笑みを見せる。
怪我人の回復は、至福の喜びだ。
改めて見ると、彼は灰色の髪で浅黒い肌をした、でっかい牛みたいな人だな、と思った。
牛と相性が良さそうだ、ん、牛のお世話係。決定事項ね、と一人ほくそ笑む。
対して、もう一人の彼は、華奢で小さい。
染めが剥げた、黒と橙の斑の髪が、何だか痛々しい。
この人があの人を背負って来た時は、牛が宙に浮いてるみたいで、第一発見者は腰を抜かしていた。
「取り敢えず、お名前だけは頂いて宜しいですか?」
アンスタウトが事務的に話す。
わたしの仕事ではないか、とメイペスは慌てて書類を広げる。
灰色牛は「グラスコ・グレコ」と短く言った。
華奢な方は、一度灰色牛に目を合わせた後、「……レイ……レイ・グレコ」と戸惑いながら答えた。
メイペスは書類に名前を記載して「あなた方は、このエデノに永住を希望されますか?」と、提携文の質問する。
「分からん。だいたい、ここが何処なのかも分からんのに、決められる訳がないだろう?」と、灰……グラスコ・グレコは苦虫を噛み潰している。
ふう、とメイペスは大袈裟に溜息をつく。
「当然です。即答は求めていません。ただ、念頭には置いてほしいということです。永住か、否か。ここには、対価さえ頂ければいくら居てくださっても構いません」
「勝手に治療しておいて、金を取る気か?」と、グラスコ・グレコは怪訝な顔をする。
「……勝手って……」メイペスは呆れる。
「細かい事情はさて置き。レイ・グレコさんはその華奢な体で。グラスコ・グレコさん、あなたの意識の無い、巨体を背負って、険しい崖を登ってきたのですよ。それだけで尋常でないことだけは分かります。それに、ここでは金は対価に当たりません。労働で返してください」要点を強調した語意でグラスコ・グレコに諭す。
それからメイペスは一息置き、顔を和らげから「それと、これはこちらの落ち度ですが、まずお食事を召し上がってください。折角の暖かいスープが冷めては勿体無いです」と食事を差し出す。
「この状況で、飯?」
グラスコ・グレコが呆気にとられ、レイ・グレコが依然訝しげな表情を崩さない。
「食事は大事です。毒は入ってません。大事な食事ですから」
念を押し、少々乱暴に食器を置き、大真面目にメイペスが答える。
アンスタウトが只管に笑いを堪え
ている。
◆
「失敗しました」
新来者の部屋を出ると、メイペスは、あからさまに顔面蒼白で悄気ている。
「面白かったですよ。伝えるべきことはきちんと伝えたので、後は彼ら次第です」
とは言うものの、アンスタウトは正直なところ、何故、彼女が気を落としているのかまでは分からなかった。
「お話は、絶対に感情的にならずに、冷静に且つ端的にしろと、パートロに口酸っぱく、何度も何度も何度も、注意されたのに」
成程、幾度ともなく指摘されていたのか。
余程、強く念を押されていたのだろう。
アンスタウトは漸く、納得がいった。
「あなたは、あなたですよ」
恐らく、パートロとは生まれた時から一緒にいるのだから、会ったばかりのアンスタウトが何を言ったところで響かないだろう。
と、思っていたのも束の間。
メイペスは明るい表情を見せる。
「そうですよね。やっちゃったことは仕方ないですよね。後は野となれ花となれ、です。後悔は先に立たないのですっ!」
何て切り換えの早い娘なんだ、落ち込みが嘘のようだとアンスタウトは少々、面喰らう。
なので、ほんのちょっとだけ、お灸を据えて、ご機嫌を伺う。
「まあ、無責任に放り出せないのが難点ですが。とはいえ、鬱憤を吐き出したいのではないですか?この場ではなんですから、部屋に戻ってお茶でもいかがですか?お訊きしますよ」と言うアンスタウトの提案に、
「はいっ!」と、元気良く答えるメイペス。
「くっ、は…あははっ」
破顔一笑。
堰を切ったようにアンスタウトが声を出して笑っている。
「……笑いすぎではないですか」
メイペスは、火照った頬を押さえアンスタウトを睨む。
でも、何だろう。
自分の対となる彼が、こんな無邪気な笑顔を見せてくれる人で良かった、と思った。
「では、参りましょうか」
アンスタウトは、目頭を拭ってから、優雅に手を差しのべた。
その上品な仕草に目を奪われたメイペスは、精一杯の照れ隠しも兼ねて
「美味しいお菓子も所望致しますわよ」
と、わざと鯱張りながら、彼の手を取る。
「何でしたら、ヴレノシュに聞いたパートロの失敗談もお付けしましょうか?」
「まあ、それは素敵ですわね」
そんな遣り取りが、再びアンスタウトの笑いのツボに触れ、メイペスも釣られるように笑い出した。
お茶会は結局、メイペスがお菓子に夢中になって終わり、せめてパートロの失敗談は聞いておけば良かった、と思ったが後の祭りだった。
◆
「パートロ、ここにいたの?今日はヴレノシュの……て、そうか、昨日帰ったのか」
「そう言うことです。なので、今日はパートロ先生だ。懐かしいだろ、メイペス」
建物の一室。
学教室と呼ばれるこの部屋で、エデノの子供は、独り部屋に移る十二歳までの三年間利用し、文字や計算、作物の育成や昔話について知る。
「わたしもここで、パートロやヴレノシュたちに教えてもらったなあ…………昔話だけを信じていた頃が、懐かしい」メイペスは、ほんの数年前の事だというのに、遠い目で思い返している。
エデノの昔話は、理想郷を求めた十五人の旅人がこの地に辿り着き、苦心して礎を築いた、というものでエデノに住む者であれば、誰もが知っている。
ここで、改めて聞かされるが、エデノの最も一般的な読み物でもある。
そこまでは。
【把握】が代替わりする時、【初めの旅人の血を引く者】は真実を聞く。
口伝でのみ伝えられる物語。
理由さえ曖昧な争いが続く国の片隅に、貧しい村があった。
捨鉢な兵士の行軍は、村の微々たる作物を強奪し、人々を蹂躙した。
そんな村を救ったのは敵国だった。
しかし、「敵」兵に救われたはずの人々は、丸腰だった兵士を「敵」だからと襲撃した。
忘恩の行為に恐怖した者が、同じ想いの幼馴染と共に、逃げ出した。
肌の色が違うと、喋れもしない幼い時から賎民として虐げられた少年がいた。
家畜のような扱いを受け、家畜のように繁殖を強いられた。
新たな家畜に隷従を与えるためだけに。
生まれた落ちた子供たちに、自分と同じ轍を踏ませることに不憫に思った彼は、成り行きとは云え、命を預かった女と子供たちを連れ出し、逃げ出した。
聖職者として真摯な男性が、新たな世界の見方を信じたために裏切り者と見なされ異端の烙印を押された。
主に背いた罰として、まず両手両足の爪を剥がされ、子を成す術を奪われた。
冤罪の僅かな相違は、彼に確固たる理念を与え、静かに信念を説き続けた。
けれど、度重なる拷問と追従に限界は耐えかねて、逃げ出した。
為政者の敷いた悪政に、些細な忠告をした政治家の男性は、報復を向けられ、詰まらない怒りと見せしめの為に、妻と娘を公然で甚振られる悲劇を見せつけられた。
勝ち誇ったように嘲笑う為政者と、悪政に甘んじる民に悲憤慷慨し、救出した妻娘と共に逃げ出した。
堅実で慈悲深い領主の娘は、器量の良さも相まって、両親に慈しまれ、使用人や領民に慕われ、また彼女も同じように返した。
しかし目先の欲に眩んだ、嘗て恵愛した者たちに狡猾怜悧に貶められ、優しい従者の手引きで逃げ出した。
逃げ出した先で彼らは運命的に出会い、意気投合し、理想郷を求める旅に出た。
幾年月の後、彼らはこのエデノの地に辿り着いた。
根を下ろすまでの道程で、家族の構成は形を変えたが、それは些末事でしかない。
その話を聞き、知らない言葉の一つ一つが紐解かれた時、【初めの旅人の血を引く者】は多分に漏れず涙する。
自分達に流れる血に、理想と希望をかけた途方もない想いを知る。
「パートロは、旅人の話で泣いた?」
「…………あれは、辛いよなあ」
「見えないものに振り回されて、人を傷つけたり、ましてや殺めたりする世界があるなんて、知りたくなかった」
「だよなあ。今だによくわからん」
エデノの決まりごとにおける最優先事項は「争わないこと」。
これを基に、争いの火種となる差別や身分、宗教、権力、組織の概念を取り払い、平等を掲げ、独占を禁じている。
概念そのものを排除するため、「独り占めをしないこと」と具体的にし、「空と大地に感謝すること」「約束を守ること」と加えられている。
エデノに生活するものは全員、建物に共に暮らす。
個別に家を持たず、家族を組織しないために、家名はない。
十二歳から一人前と扱われ、一人部屋を与えられる。
【初めの旅人の血を引く者】は『独り占めをしないこと』という決まり事の、単純でいて、底知れない深い本当の願いが込められていることを心に刻む。
それは、自分達が【初めの旅人の血を引く者】ということは知っていても、誰の血を受け継いでいるか知らないことにも関係しているのだと思った。
「新来者は折角エデノに辿り着いても、怪我が癒えれば、争いのある外に戻るのだから、本当に理解できないわ」メイペスは溜め息をつく。
「だよなあ……」パートロは上の空で繰り返す。
新来者にしてみれば、エデノの決まり事は歪でしかない。
最初こそ、平和な理想郷だなんだと喜ぶが、暮らしが落ち着くと、社会の組織として家族という枠さえ良しとしない、エデノの考え方は、馴染めないらしい。
「ねえ、パートロ。ヴレノシュが帰って、寂しい?」
「まあね。二十年、共に暮らしたからね」
「もう、二度と会えないのよね」
「でも、メイペス。君を残してくれたんだ」
「お父さん、て言うのよね。外では。だけど、家族って、そんなに大事なのかな。皆を大事にしてれば済むことじゃない」
エデノでは、人は皆、平等に扱われる。
本人の意思を最優先し、無理強いをすることはない。
外からの新来者に対しても、暮らすも去るも強いることはない。
けれど、エデノを出ると二度と戻ってくることは出来なくなる。
◆
「そういえば、今日は、グラスコ・グレコが来ていたぞ。永住は決めかねているが、ここがどういうところか知っておきたいんだと」
パートロの言葉にメイペスは、ぱあっと顔を輝かせる。
「グラスコ・グレコは、エデノの暮らしに興味を持ってくれた、ということかしら?彼は牛のお世話にもってこいだと思うのよ」
「こら、短慮はメイペスの悪い癖だぞ。人の仕事の割り振りを他人はしてはいけない。本人の希望が優先だ」
「それはそうなんだけど」
「と、いうより何でそう牛に拘るんだ?」
「彼を一目みた時から、牛以外に見えないとか、そんなことでは……」口籠りながら、メイペスの瞳が宙を泳いでいる。
不意に、メイペスの視界に影が落ちた。
「誰が、牛だって?」
振り返って見上げるとグラスコ・グレコが不服そうに立っている。
臆することなく、「あなたが」と、メイペスはグラスコ・グレコを指差し答える。
彼は大きく溜め息をつくと
「これでも、一応、逆転の獅子とか言われていたんだけどな」
「しし?」グラスコ・グレコの言葉に、メイペスは、口をぽかんとしている。
グラスコ・グレコもパートロも、メイペスの扱いに困って、黙ってしまっている。
その時、大人しやかな声が響く。
「エデノには、牛と鶏しかいないんですよ」
「アンスタウト。どうしたの?」
「あなたがパートロに会いに行ったまま戻らないので探しに来たんですよ」
「あ!そうだ。ごめんなさい……で、ししって何?」メイペスは興味深く聞くがアンスタウトは「人でない、動物の種類です」とだけ答える。
「……牛や鶏と違うの?」メイペスは子供のようにきょとんとしている。
アンスタウトは言葉を探しているようだか、グラスコ・グレコが「そもそもなんで、牛と鶏しかいないんだ?」と尋ねる。
「暮らすのに必要ないからよ」メイペスは何で分からないのとでも続けたいような顔をしている。
「メイペス」パートロに名前を呼ばれ、自分が感情的になりそうな事に気が付き「ごめんなさい。…………で、ししって?牛より大きいのかしら?何をするの?」
「獅子や何かするってことはないが、強い動物の喩えだな。見た方が早いだろ。こんなやつだ」
グラスコ・グレコは、左腕に巻いたものを弄り、指輪を回すと、掌に映像が浮かび上がる。
「魔法?」
「いや、ただの科学技術だ。情報端末からの映像投影。これが獅子だ。」
「……技術」メイペスは呟き、パートロの顔色を伺った。少し固まってはいるが、いたって冷静でメイペスの視線に気がつくと、了承するかのように頷く。次にアンスタウトに視線を移すと、いつもの淡々としたままだ。
その様子をグラスコ・グレコもまた、冷静に観察する。
「まあ、でっかい猫みたいなもんだな」
「ねこ?」
「猫もいないのか」とグラスコ・グレコは呟き、再び左腕を弄り、映像を切り替えた。
意外にもメイペスは、映像機具には興味を示さず、映し出された猫を指差す。「で、このねこは何の仕事をするの?」と、更なる疑問をぶつけてくる。
「猫に仕事はない。強いて言えば、家族の一員……癒しかな」と続けた。
メイペスは目を丸くして「これも仕事をしないの?家族って、外の人はこれを生むの?癒しって何?」矢継早の質問攻めに、グラスコ・グレコは映像を一旦切りメイペスに答える。
「疲れたとき、こいつが家に居たら可愛いだろ。気持ちを落ち着かせてくれる。あと、猫は人からは生まれない」
グラスコ・グレコは答えながら、メイペスの表情を見ていた。彼女は顰めっ面で納得がいかない顔をしている。
「疲れる?肉体が疲れたなら、お風呂に入ればいいわ。それでも疲れてるなら休めばいい。家族って、生まれた子供ではないの?気持ちが穏やかにならないなら、何故家族に拘るの?」再びのメイペスからの質問責め。
「家族にも、言えないことくらいあるだろう?」グラスコ・グレコは紋切りに答える。
「エデノで生まれた者は、家族では暮らさないけれど、共に助け合うわ」
メイペスは推し測るように、グラスコ・グレコを見入る。
引くつもりはないようだ。
沈黙の中、ぱんっと音が響く。
音の出所は、アンスタウトで手を叩いたようだ。
「このままでは押し問答が続くだけなので、一旦ここで終わりましょう。グラスコ・グレコはぼくと来てください。メイペスはパートロと反省会です」
そう言うと、アンスタウトはグラスコ・グレコを連れ立って、部屋から出ていってしまった。
「さて、メイペス。反省すべき点はお分かりかな?」パートロは、俯いて悄気ているメイペスに、至って穏便に話し始めた。
「……くっ、感情的になりました。私の考え方がまるで唯一無二かのように、他人に話しました」メイペスは唇を噛んで、泣くのを堪えているようにも見える。
「だな。分かってるじゃないか。エデノは平和な地だけど、外より無いものが多い。それは、【最初の旅人】が、自分たちの人生を鑑みた上で、最初から知らなければ争いの種を生まない、不要と判断して、排除したからだ。」パートロは淡々と、無感情に話し続ける。
「争いの種を、なぜ持ち続けるの……」メイペスは、パートロに答えを求める。
「俺たちみたいに分けられた訳じゃないからな。エデノには三千人しか暮らしていないが外はずっと多くの人が暮らしている。いっぺんにみんなが知らないことにはならないだろう」
パートロは、言葉を選びながら諭してくれている。
「だいたい、メイペスがいい例じゃないか。人の考えは、そう簡単に変わらないよ」
宥めるように、頭を撫でるパートロ。
「そっかあ……」すとんと、その言葉はメイペスの中に落ちた。