06.修行開始
翌日。
レイチェルは、日の出の前に目を覚ますと、庭で日課の鍛錬をした。
これは、ばあやのソレルから毎日必ずやるように、と言われていたもので、彼女がいなくなってからも続けている。
習慣になっているので、やらないと気持ちが悪いのだ。
木の枝にぶら下がって、懸垂を三百回やったり。
片手で腕立て伏せを、それぞれ五百回やったり。
三十キロの重りの長く太い鋼鉄の棒を、千回ほど振ったり。
基礎トレーニングの後は、『魔法人形』という魔法道具を使ってのトレーニング。
魔法道具の技術の粋とも言える『魔法人形』は、決められた動きを繰り返す。
もともと、作業用に作られたものだが、あまりにもコストが掛かりすぎるために、普及していない。
レイチェルは、この『魔法人形』を戦闘用に改良したものを5体集め、剣術の鍛錬に使っている。
戦闘のトレーニングが終わったあとは、魔法の練習である。
こちらはいたって地味。
瞑想して魔力の流れを感じたり。
長く複雑な魔法の呪文を詠唱したり。
魔法陣を描いて新しい魔法装置を組み上げたり。
だいたい、そんなことをしていると八時近くになる。
そこから入浴し、朝食を取り、冒険者ギルドへ顔を出すのが日々の流れである。
レイチェルは、Sランク冒険者なので、王国から直々に依頼が来ることも多い。
あるいは、下位ランクの冒険者では手に負えないような魔物が出た場合に、駆けつけることもある。
そういった緊急性、重要性の高い依頼がないか、朝一番に顔を出して確認をするのである。
レイチェルは露出狂鎧を着ていて、『狂乱戦乙女』などという二つ名をいただいているが、至って真面目な人間であった。
トレーニング後の入浴を終え、魔法道具の『髪乾燥器』で頭髪を乾かした後、弟子二人を起こしに行った。
非常に将来有望な(イケメン的な意味で)二人だが、レイチェルにショタコンの気はない。
もちろん、男性への好奇心は、必要以上にあふれている。
昨日、男の子の服を選ぶのはとても楽しかったし、入浴の際に体を洗うのは、勉強になった。
寝る前にベッドで、大人になった二人に、昔、あなたにこんな風に洗ってもらいましたね、とか言われながら、体を洗われる妄想をしたくらいである。
二人はまだ寝ていた。
どちらの寝顔も可愛かったので、しばらく眺めて堪能した後、起こす。
イメージ通りといおうか、カルスはすぐに目を覚まし、ルインは、中々、起きなかった。
だが、ルインが寝ぼけて母親と間違えた時は、ちょっとキュンときた。
二人を着替えさせ、食堂へ。
朝食は、『道具箱』に放り込んでおいたバケットや、作りたてのスープを出して取り分けた。
余計なことばかりレイチェルに教えたソレルだが、結局、料理の一つも教えてくれなかった。
ソレルも『道具箱』を持っていたため、大量に買い置きをして放り込んでおき、それを食べるか、外食であった。
ちなみに『道具箱』の恩恵能力には『大』、『中』、『小』の大きさがあり、さらにその上には、『無限』がある。
レイチェルの『道具箱』は、最上級の『無限』である。
いくらでも、無制限に入り、中での時間も完全に停止する。
Cランク魔物一万体撃破で宿らせることができる『道具箱』は、もっとも低位の『小』である。
「『道具箱』って本当に便利ですね」とカルスが感心。
ルインも、絶対手に入れる、というような顔をしていた。
朝食後、二人を、トレーニング用に買った動きやすいシャツとズボンに着替えさせて、庭に連れていく。
どんなトレーニングが待っているのか、と二人とも緊張した様子だった。
「まずは基礎体力を作ります。体力が無くてはなにもできません」
「剣を教えてくれるんじゃねえの」とすかさずルインがボヤいた。
「ルイン」
カルスが睨む。
「だってよ。こっちは野良仕事で体力なんかあるんだぜ。街育ちの坊ちゃんたちと一緒にするなよな」
両手を頭の後ろで組んで、いかにも不平たらたらです、という態度。
「ついてきてください」
言ってレイチェルが走り出した。
追いかけるルインとカルス。
屋敷の周りを塀に沿って、グルグルと回る。
いくら王都の仮住まいとはいえ、伯爵家の敷地である。十分な広さがある。
最初こそ、なんなくついていった二人だったが、すぐに息が切れてきた。
レイチェルのペースが速すぎるのだ。
もちろん、レイチェルは、かなりゆっくり走っているつもりだった。
だが、なにしろ二人の体力の基準が自分の子供時代である。
当時から、夜な夜なソレルにしごかれていたレイチェルは、十分すぎるほどの身体能力を備えていた。
レイチェルが、これくらいでしょうか、と当たりをつけた弟子たちの体力は、大の大人並みのそれであったのだ。
まずカルスがついてこられなくなり、地面に四肢をついて、おえおえ、とえづきだした。
ルインはしばらく頑張ったが、フラフラとあっちへそれ、こっちへ寄り、ついには転んだ。
なるほど、とレイチェルは戻ってルインを背負い、カルスを抱き上げながら思った。
予想以上に体力がない。
やはり、しばらくは基礎トレーニングを徹底いたしましょう。
レイチェルは二人を下すと、『回復補助』の結界を張った。肉体の回復力を高める範囲魔法で、傷のみならず体力の回復も早める。
『完全回復』を使えば速いのだが、さすがに朝から三分の二を消耗してしまうのは、はばかられた。
直径五メートルほどの赤い光の半球の中で、座り込むルインとカルス。
レイチェルは、その外からおもむろに講義を始めた。
「魔法の発動のさせ方は大きく分けて二つあります。詠唱式と装置式です。詠唱式は、今、私がしたように呪文を唱え、宙に使い捨ての魔法陣を描き、魔法を発動します。装置式は魔法陣を実際に描き、魔法を発動します。理論的には、どちらでも同等の効果は得られますが、魔法によって向き不向きがあります。『火球』などの戦闘魔法は、短時間で発動することが重要となるため、詠唱式の方が適しています。『重量管理』などの付与魔法の場合は、実際に魔法陣を描き装置化しておいた方が便利です」
詰まったり、尻つぼみになったりしながら、淡々と話す。
「詠唱式は魔法陣を宙に描きますよね。あれは、どうやっているのでしょうか?」
魔法の話になり、カルスが一気に元気づいた。さっそく質問する。
「魔力の枝を伸ばして描きます。そのためには、魔力を操作できるようにならなくてはなりません」
「魔力はどうやって手に入れるんですか?」
「誰でも持っています。使い方を学ぶだけで使えるようになります」
「あらかじめ魔力量は決まっているということですか? 増やすことはでいないんですか?」
「できなくはありませんが、あまり意味はないです。魔力は理を書き換えるためのインクのようなもの。人間が備えているインクは十分あります」
「ですが、魔法を使い過ぎると魔力切れというものが起こると聞いたことがあります」
「あれは、インク切れではなく、指が疲れたようなものです。ですから、正確には魔法疲れの方が正しいです。装置式は魔法疲れを起こしにくいので、そういった面でも優れたところがあります」
「装置式は魔力を使わないのですか?」
「魔法陣を描いた後、そちらに注ぎます。複数回に分けて魔力を注ぐことも可能ですから、休み休みできます」
そんな風に魔法の授業を進めているうちに、ルインとカルスの体力も回復した。
また走る。
今度は先ほどよりもゆっくりと走った。
二人がへばったところで、再び『回復補助』の魔法と魔法の講義。
そんなことをしているうちに、昼になった。
昼は庭で食べた。
肉を出し焼いて、パンに挟んで食べる。
『道具箱』を持っているレイチェルは、滅多にしないが、冒険者としてやっていくなら、屋外での料理が必要となる。
食べられる魔物や動物植物の講義も必要ですわね、とレイチェルは思った。
午後は、自身の魔力を感じ取る練習をした。
まずは瞑想し、集中力を鍛える。
さらに目を閉じたまま、感覚を研ぎ澄ます。
レイチェルが、二人の周囲を足音もなく、気配を消して歩き回りながら、魔力を発動したり、消したりする。
ルインもカルスも、何度となく途中で瞑想を解いてしまった。
「瞑想はとても重要です。魔法だけでなく、体をきちんと動かす際にも役立ちます」
日が暮れたら、二人を入浴させ、着替えて夕食を食べに出た。
レイチェルのお気に入りのフルーツパイを作る店である。
久しぶりに食べる甘いものに、ルインが目を輝かせた。
城勤めの下級役人らしい三人組の青年が入ってくると、レイチェルは、彼らを露骨に意識しだした。
ただ、相手方ではレイチェルを知っているらしく、できるだけ関わらないようにしていた。
◇◇◇
三日間目。
レイチェルの元に、冒険者ギルドから副ギルド長が尋ねてきた。
「ここ三日ほどギルドに顔を出されていないのですが、お忙しいのでしょうか?」と副ギルド長のヴァブリス。
口髭の似合う、生真面目な雰囲気の四十男である。
「弟子を取りました」
レイチェルの言葉に、ヴァヴリスが目を丸くする。
「高ランクの魔物が現れましたか?」
「あっ、いえ、ワイバーンの群れが北の国境サブリナ砦の付近で確認されたと報告があったので、様子を見てきていただければ、と」
ワインバーンはBランク魔物である。
単体ならAランク冒険者でも軽く対処できるが、数十体の群れを作る習性がある。そうなると、危険度は相当なもの。
Aランクパーティが三パーティは必要になる。
「分かりました。すぐに向かいます」
『狂乱戦乙女』などと呼ばれているが、馴染みの冒険者ギルドの者たちは、レイチェルが真面目で誠実な人柄であることを知っている。
被害にあった男たちも、レイチェルを口説こうとしたり、ちょっかいをかけようとした者が多かったのだ。
「助かります。ところで、弟子というと……」
「弟子です。まだ年若くて冒険者登録はできませんが、いずれお世話になるかと思います」
「それはまた、心強い」
そんなところへ、走り込みの最中の弟子二人がやってきたので、レイチェルは彼らを紹介した。
ヴァヴリスは、顔立ちの整った二人の男の子を見て、これは人道的に良くないことになっていないか、と疑った。
レイチェルが、常に男を狩ろうと牙を研ぎ澄ませているのは、冒険者ギルドのナンバー2でなくとも知っていることである。
だが、レイチェルの良識を、ギリギリで信じた。
「君たち、良い人に弟子入りしたね。レイ
チェルさんならば必ず君たちを優れた冒険者にしてくれることだろう」
などと半ば、自分に言い聞かせるように言って、ヴァヴリスは、サンダーワンド邸を後にした。
「副ギルド長がなんの用だったんだ?」とルイン。
彼もカルスも、未だにレイチェルをCランク冒険者だと誤解している。
並みの冒険者を、わざわざ副ギルド長が訪ねてくるとは、おかしな話である。
「仕事を依頼されました」
「仕事? それって魔物退治? 俺たちも連れてってくれよ」とルイン。
「邪魔になります。午前中はこのまま走り込み、午後は瞑想をしてください。昼食は食堂に用意しておきます。夕方には戻ってきます」
レイチェルは、否とは言わせない口調で言った。
さすがのカルスもそれ以上食い下がらない。
「では行ってきます」とレイチェルは着の身着のまま、さっさと『転移』してしまった。
◇◇◇
広大な荒野のまん中に、 二本の塔と城壁を備えた要塞、サブリナ砦は建っている。
隣国との国境を守るために建築されたものだが、もう二百年も戦争など起こっていない。
要塞に駐留する兵士たちも、形ばかりの哨戒を行っている。
そんな城壁で見張りをしていた兵士の一人が、突如、荒野に出現した人影を発見した。
驚き、望遠鏡を伸ばして確認する。
露出狂鎧を着た女性だと分かり、さらに驚いた。
上司に報告に走る。
後方の砦でそんなことになっているとはつゆ知らず、レイチェルは目を閉じた。
呼吸に意識を集中し、次に感覚を研ぎ澄ませる。
最後にそれを外へ向けた。
閉じ込めた感覚を、解放するように。
魔物は、魔力が暴走した生き物の総称である。
存在しているだけで、周囲の理を歪めている。
日々、魔力を感知できるように鍛えていれば、魔物の発見は難しくない。
レイチェルは、すぐに、サブリナ砦から三十キロほど離れた山に、強力な魔物の群れを感じとった。
恐らく、これがワイバーンだろう。
レイチェルは、自身の魔力を体外へ向けて広げた。
赤い光が、炎のようにレイチェルの体を覆う。
呪文を唱えた。
二十四種の上級魔法文字と二十一の下級魔法文字からなる、魔法語である。
呪文の詠唱は、発音と音程が重要である。きちんと一つ一つの言葉の意味を理解し、それを正確に発する必要がある。
レイチェルを覆う赤い光から、幾本もの光線が伸びて、宙に魔法陣を描く。
「『月鳥目』」
最後は魔法語ではなく、共通語で声高に叫ぶ。
魔法陣が弾け、赤い閃光になった。
閃光の後には、半透明の大きな筒のようなものが、宙に浮かんでいる。
レイチェルは筒を覗き込んだ。
筒を通して見る視界は、まるで違ったものになっていた。
空からゴツゴツとした岩肌の斜面を見下ろしている。
そこに、青い表皮の、でっぷりとしたトカゲのような生き物が、何十体としがみついている。
枯れ木と比べてみると、そのトカゲが、ゆうに体長三メートルを越えていることがわかる。
トカゲの一体が跳ねた。
でっぷりとした胴体が割れるように、コウモリのような翼を広げる。
やはりコウモリのような二本足。翼の先端部には、前足のようなものもある。
空を飛ぶ姿を見ると、コウモリにトカゲの頭と尻尾を足したような姿形である。
間違いなくワイバーン。
レイチェルは『月鳥目』の魔法から目を離した。
半透明の筒が、溶けるように消えた。
その頃、サブリナ砦の城壁では、見張りの兵士の上司がやってきて、望遠鏡を覗いたところだった。
確かに、報告の通り、露出狂鎧を着た女だった。
だが、上司は見張りと違い、彼女のことを知っていた。
「あれは、『狂乱戦乙女』だ。きっと、ワイバーンを退治にきてくれたのだろう」
言って、見張りの兵士に望遠鏡を返す。
見張りの兵士は、もう一度、望遠鏡の先の女を見た。
赤毛の癖っ毛の女である。
マント一つ羽織らずに、白い肌を惜しげもなくさらしている。
「『狂乱戦乙女』
見張りの兵士がつぶやいた。
彼も噂は聞いたことがある。
ただ一人でSランクまで上り詰めた、最強の女冒険者。
彼女の武勇譚を、すべて挙げたら、夜が明けてしまうと言われている。
と、『狂乱戦乙女』が振り向いた。
まるで兵士が見ているのに気づいたかのように、ふんわりとした微笑みを向ける。
見張りの兵士は、その美貌に心打たれた。
彼は、兵士としての能力はともかく、美形だったので、もしレイチェルが望遠鏡の先ではなく、すぐ側にいたのならば、獲物として狙われたことだろう。
望遠鏡の丸い視覚の中で、レイチェルは宙に光の輪を描くと、姿を消した。
◇
レイチェルが二度目の『転移』をした先は、ワイバーンの群れのどまん中であった。
突如、出現した人間にワイバーンたちが驚き、飛び立つ。
ワイバーンによって青く染まっていた山の斜面が、一気に裸になった。
代わりに、雲に覆われた空に、斑点ができる。
レイチェルの出現に、一度は驚き、飛び立ったワイバーンだったが、すぐに相手は人間、それもたった一人だと思い直したのだろう、今度は一斉に急降下してきた。
だが彼らは、そのたった一人の人間が、どれほど危険か知らなかった。
いびつに歪んだ、黒い岩の斜面に立ったレイチェル。
ワイバーンがそこに殺到。
白い光の弧が、宙に描かれた。
一筋、二筋、三筋。
ワイバーンが割れる。
縦に。横に。
倍になった死骸が、斜面を落ちていった。
空で、ワイバーンたちが、威嚇するように鳴き声をあげる。
数十体もの魔物があげる鳴き声は、轟音となってレイチェルを襲った。
「うるさいですね」
レイチェルは、つぶやくと、左手の中指を立てた。
宙に輪を描く。
その軌跡に、青い光の輪が現れる。
輪は大きく広がり、レイチェルを包み込んだ。
レイチェルが跳んだ。
高い。
二十メートルは跳んだだろう。
さらに、そこで体が静止する。
レイチェルが、左手の中指に宿した恩恵能力『飛翔』である。
自在に空を飛び回ることができる。
レイチェルの体が空を滑る。
その軌道上にいたワイバーンが、次々と割れていく。
レイチェルの太刀筋は、あまりにも高速で、振るっている瞬間は、刃が消えているかのようだ。
レイチェルが、剣を真横に伸ばすように構えると、剣が白い光に包まれた。
その光が、剣の延長線上に、さらに長く伸びていく。
レイチェルの剣『デステニオン』の能力。あらゆるものを切り裂く光の刃を、どこまでも伸ばすことができる。
レイチェルは、空をホバリングして様子を見ているワイバーンの群れに、突入した。
白く光る長大な剣を振り回し、ワイバーンを切り裂く。
もちろん、魔物も、一方的に切り刻まれているわけではない。
獣を思わせる牙で。
翼の先端についたかぎづめで。
猛禽を思わせる両の足で。
レイチェルを引き裂こうと攻撃する。
そのことごとくを、レイチェルはかわした。
白い肌に、かすらせもしない。
五十体近くいたワイバーンは、瞬く間に十体前後まで数を減らした。
これは勝てない、と思ったのだろう、残ったワイバーンが、背を向けて逃げる。
「逃がしません」
レイチェルは剣を鞘に収めると、右手の人差し指で宙に輪を描いた。
青い光の輪が現れ、それがレイチェルの右手を包んだ。
レイチェルの右の手の平が、白く輝く。
その光が、弾となって飛びだした。
発光する球体が、高速でワイバーンを追いかける。
ドンと、一度、轟く爆発音。
大空に、紅蓮の巨大な華が咲いた。
それに巻き込まれたワイバーン達は、灼熱の炎に身を焼かれ、瞬時に灰と化していく。
右手の人差し指に宿した恩恵能力、『炎地獄』である。
空を飛ぶものは、もはやレイチェルだけになった。
一度、そのまま空中で目を閉じて、魔力を探知する。
取りこぼしがないかの確認である。
すると、ワイバーンたちがとまっていた山に、魔力が吹き出す部分があることを、感知した。
どうやら、魔物の魔力によって、異界迷宮ができてしまったようだ。
草木もまばらなハゲ山に戻ると、魔力の異常発生している箇所を特定する。
すぐに見つかった。
大きな岩の影に、ポッカリと穴が開いていた。穴のふちには、赤い光が滲んでいる。異界迷宮の入り口だ。
レイチェルは迷った。
ギルドからの依頼は、ワイバーン退治である。異界迷宮については、無視しても構わない。
ただ、異界迷宮は、放っておくと、どんどん成長していく。
このような辺鄙な場所では、気づいたときには、手に負えなくなっているかもしれない。
さっさと攻略してしまうか。
それとも異界迷宮が発生したことを、ギルドに報告しておくか。
魔力の感じからすると、発生して間もない。せいぜいDランクの異界迷宮だろう。レイチェルなら攻略に半日もかからない。
いつもならば、即座に乗り込んで片付けてしまうのだが、夕暮れまでには帰りたかった。
異界迷宮は、時間の感覚が狂うので、帰るのが遅くなってしまうかもしれない。
ルインとカルスが、腹を空かせて待っている姿を想像すると、哀れで仕方なかった。
今回は、ギルドに報告するだけにしておきましょう、と決める。
大半の冒険者は、そうやっているのだから。
『転移』の恩恵能力を使用しようと、輪を描きかけ、ふいに、良案が思いついた。
レイチェルは一人、うなずくと、王都の冒険者ギルドに『転移』した。