22.レイチェルの日記①
ノックの音で、カルスは顔を上げた。
マジン族が記したという古の魔導書を閉じる。
急かすように、もう一度、ノック。
「どうぞ」
カルスの言葉と同時に、ルインが部屋に飛び込んできた。
波打つ金髪。
長いまつげに整った鼻筋。長身で引き締まった体つき。
ルインは、レイチェルの見込み通り、見目麗しい少年へと成長していた。
レイチェルが旅立ってから一年半。
すでに十六歳になっている。
「今日は客が来るみたいだぜ」
「客? また君のファンじゃないのか?」
「違うっつうの。珍しい客みたいなんだ」
「君の『予知』は当てにならないからな」
「とにかく、そういうことだから、外に行くなよ」
言うと、ルインは部屋を出ていった。
カルスは机に戻ると、また魔導書を開いた。
こちらもルイン同様に、美形少年へと成長をとげている。
身長は、ルインよりも少し低いが、それでも男性の平均よりは、ずいぶん高い。
黒絹の髪。眼鏡の奥の切れ長の目は、知的で怜悧。
レイチェルの見立て通り、クールな秀才然とした眼鏡の似合う美形になった。
ルインもカルスも、まだ冒険者デビューをしていない。
金は、レイチェルとの修業時代に、十分すぎるほどたまっているし、二人とも強くなるのに必死で、そんな暇がなかった。
なによりも、レイチェルに許可を得なくてはならない、と考えていた。
彼らの師は、必ず戻ってくるのだから。
冒険者登録はしていないものの、異界迷宮攻略は、修行がてら、ちょくちょく行っている。
もはや、Aランクの異界迷宮ですら、物足りなくなってきたほどだ。
ルインは、日がな一日素振りをしている日もあれば、反対に瞑想を続けていることもある。
感覚的な彼らしく、自分を高めるために、様々な方法を試していた。
一方のカルスは、魔導書を読み漁り、知識を身に着けていた。
魔導書は、魔法使いギルドから借りている。
本来は、ギルドの人間でなければ貸し出せないのだが、そこはレイチェルの名前がものを言った。
レイチェルの弟子として認知されているカルスには、特別にギルドの書庫への出入りと、貸し出しを許可してくれたのだ。
ルインもカルスも、そうして自分が得た成果を、共有し合っている。
ルインは、カルスが覚えた魔法を教えてもらったし、カルスも、ルインから新たに身に着けた技術を、教えてもらった。
そこには、確かに友情もあったが、切磋琢磨するべき相手が、自分と同レベルでなくてはならない、という思いがあった。
それが強くなるための近道なのだ。
来たかな。
カルスは席を立った。
屋敷の門を、何者かがくぐる気配を感じた。
ルインの言っていた客だろう。
カルスは、魔力の光で体を覆った。
呪文で魔法陣を描くための、呪文姿勢である。
高速で呪文を詠唱。
体からあふれた光が、幾筋もの光線となって宙に魔法陣を描く。
かなり簡略化しているので、三十秒ほどで魔法陣が完成した。
「短距離転移」
カルスの言葉で、宙の魔法陣が弾け、閃光となった。
そのあとに、半透明のドアが現れる。
カルスはドアを開けた。
景色がガラリと代わり、屋敷の玄関扉の前に出た。
ちょうど、門のところで、ルインが客人らしき人物の相手をしているのが、見えた。
肩口で切りそろえた銀色の髪。透き通るような白い肌。
尖った耳を見ればエルフだとわかる。
カルスは走った。
見覚えのある相手だ。そして、カルスが待っていた相手でもある。
ソレルは前回の甲冑姿ではなかった。
さっぱりとした上着にスカート、というかっこう。そうしていると、二十歳前後にしか見えない。
「カル、この人……」
「ソレルさん、師匠は、師匠はどこに。戻ってきているんですか?」
カルスは、ルインを無視して言った。
ソレルは微笑んだ。
カルスは、その笑みに、なにか凄みを感じた。
「もったいぶっても仕方がありませんから、はっきりと言いますよ。レイチェルは死にました。魔王とともに冥府に落ちたのです」
あまりにも、さらりと、平然として言った。
だから、カルスは、ソレルが言った言葉を、理解できなかった。
どうやらルインも同様だったようで、キョトンとした顔をしている。
「日記を読んで欲しい。最後にレイチェルは、あなたたちにそう伝えてくれと言い残しました。だから、私がここへ来ました」
「ちょ、ちょっと待ってよ。師匠が死んだ? そう言ったのかい?」
ルインが、半笑いのような顔で言った。
「一度言った言葉を繰り返すことはしませんよ。確かに伝えましたからね。あとは、悼むなり、嘆くなり、好きになさい」
それだけ言うと、ソレルは二人に背を向けた。
立ち尽くす二人を置いて、立ち去ろうとする。
と、その足を止めた。
「そうそう、あの子は、あなたたちのことを頼むとも言っていましたね。本来ならば、男の世話などごめんなのですが、弟子の遺言です。望むのであれば、鍛えてあげましょう」
当面、冒険者ギルドにいるから、その気があったら訪ねるように、と言い残し、ソレルは去っていった。
「なんだよ、いったいさ。師匠が死んだ? そんなことあるわけねえじゃん」
ルインが言った。
「なあ、カル」
言葉とは裏腹に、その顔は青ざめていた。
カルスは、それには答えなった。
ソレルが言った言葉を、一字一句、頭の中で繰り返す。
レイチェルは死んだ。
魔王と一緒に冥府に落ちた。
日記を読んで欲しい。最後にそう伝えてくれと言っていた。
あまりにも端的で、誤解しようのない言葉たち。
「死んだ。師匠が……」
口に出すと、それはもはや逃れようのない事実として、カルスの前に立ち塞がった。
「おい、やめろよ。あんなわけのわかんねえ、姉ちゃんの言うことを信じるのかよ」
「ソレルさんが嘘をつくとは思えない。ああいう人は、そんな面倒なことはしないんだよ、きっと」
「じゃあ、お前は信じるのかよ。師匠が。あの師匠が、死んじまったってさ」
ルインが、カルスの胸倉をつかむ。
ガチガチと彼の奥歯が鳴っている。震えているのだ。
「日記を読もう。そうすれば、はっきりする。『自動日記』は、本人が生きている限り書かれるんだ。もし、日記が終わっていたら、それは……」
「……だけどさ」
ルインの葛藤が表情に現れる。
信じたくない気持ち。
否定したい気持ちと、事実を受け入れなくてはならない、という気持ちが、せめぎ合っているのだ。
「だけど……。そうだ、異界迷宮と外じゃあ、時間の流れ方が違うんだろ。『自動日記』も意味ないんじゃないか?」
「忘れたのかい? 僕も『自動日記』を持ってるんだ。異界迷宮の中にいた場合、例えば、そこが外よりも三倍時間が遅く流れる場所だったら、三日に一度、一日分が書かれるんだ。つまり、本人の時間が適用される。人間の時間は止まらないし、時間が流れ続ける限り、日記は書かれ続ける。死んでしまわない限りね」
ルインが頭をかきまわした。
なんとか反論しようとしている。なんとか、レイチェルの死を受け入れずに済まそうとしている。
ふいに、ルインが手を打った。
「死んだなら生き返らせたらいいじゃないか。異界迷宮の中だったんだろ。いつもみたいに骨を拾ってさ」
「だから、冥府に落ちたんだよ。君もいい加減に覚悟を決めろよ。日記を読むんだ。そうすれば、わかる。師匠が言ったんだろ。日記を読んでくれって。だったら、読むんだよ」
ルインがうつむいた。そのまま崩れてしまいそうだった。
「俺は信じない。だけど、日記は読むよ。師匠が言ったんなら、読むよ」
二人は屋敷に入った。
玄関扉を開けると、奥の壁に飾られた絵画が目に入る。
大きな絵だ。
レイチェルが、満面の笑顔で、ルインとカルスの頭をかきまわしている。
照れくさそうなルインと、少し不満顔のカルス。
ルイーザから、絵が完成したから取りに来い、と言われたのは、レイチェルが旅立ってから三ヵ月後のことだった。
「気に入るかは知らないけど、いい絵だよ」
ルイーザは言った。
初めて、その絵をアトリエで見たとき、ルインもカルスも、レイチェルが、ルイーザを天才だと言っていた意味がわかった。
絵の中のレイチェルは、まるで生きているかのように、生命の輝きを放っている。
ルインもカルスも、しばらく絵の中のレイチェルから、目を放すことができなかった。
二人とも、レイチェルの寝室に入るのは、初めてだった。
一緒に暮らしていても、それくらいの配慮はある。
大きな天蓋付きのベッド。簡素な机に、本の詰まった大きな本棚。
本の大半は小説だったが、一番、上の段は、黒い背表紙の本で埋まっていた。『自動日記』だ。
本棚に入っていたのは『レイチェル・サンダーワンドの日記⑭』までだった。
その最後のページを見ると、日付は、レイチェルが旅立つ前だった。
ちょうど、レイチェルの誕生日の次の日。
――――――
十一月十二日
わたくしにとって昨日は、とても特別な日となりました。二十八歳の誕生日。
両親が他界してから、誰かに誕生日を祝ってもらうなどということは、ありませんでしたから(あのソレルが祝うわけがありませんわ)。
目を覚ましたら、真っ先に左腕を確認しました。カルス君の贈ってくれた腕輪。
ぶふふっ、と妙な声で笑ってしまいました。
続いて、道具箱を開いて、ルイン君の贈ってくれた髪飾りを取り出しました。
カルス君の腕輪と一緒に、つけておきたかったのですが、壊したり失くしたりしてしまっては一大事ですから。
鏡の前で、ここがいいでしょうか、いえ、こちらの方が決まっていますわ、と髪飾りをつけたり外したり。
そんなことをしていたせいで、いつもよりも遅い時間に、朝稽古を始めることになりました。
ルイン君とカルス君が、起きてくる前に済ませてしまわなくては、と日課のトレーニング。
トレーニング中は、全くの無心です。もう、長い年月そうやってきたので、何も考えず、ただ行います。
けれど、トレーニングを終えたとたん、昨日のルイン君とカルス君の顔が、言葉が蘇ってきて、なんだかもう、たまらなくなってしまいました。
来月で、二人と出会ってから、丸二年です。こうなったら、記念日を盛大に祝わなくてはなりません。
レイチェル・サンダーワンドは、本気を出しますわ。
覚悟なさってくださいまし、わたくしの可愛い弟子たち。
スキップしながら二人を起こしに行ったら、もう目を覚ましていました。
寝顔をじっくり見たかったのに、残念です。
ルイン君もカルス君も、わたくしが身に着けたプレゼントを見て、嬉しそうな顔。
まったくもう、わたくしの心をどこまでとろけさせるのですか。
――――――
つい、読んでしまったルインは、カルスの視線に気づいて、頬に手を当てた。
顔が赤らんでいるのが、自分でもわかる。
カルスは、別の『自動日記』を持っていた。表紙には『レイチェル・サンダーワンドの日記⑮』と題打たれている。
「机の引き出しに入ってたよ。これが最新刊だった」
カルスが言った。感情が感じられない冷淡な声。
ルインの背中を、冷たい汗が流れた。
カルスは、結果を知ってしまったのだろう。
「もう読んじまったのかよ」
「最後のページだけだけだ。僕はしばらく一人になりたい。ゆっくり読むといいよ」
カルスは、ルインに『自動日記』を手渡すと、そのまま部屋を出ていった。
ルインは、机で『レイチェル・サンダーワンドの日記⑮』を広げた。
本を読みなれたカルスと違って、ルインは読むのに時間がかかる。
最後の日記帳は、前巻の続き、十一月十三日から始まった。
ルインは、ときに照れ臭くなったり、居心地の悪い思いをしながらも、一日ずつ読み進めていった。
レイチェルがどれほど、自分たちのことを想っていたのか。
どれほど、記念日を楽しみにしていたのか。痛いほど伝わってきた。
そして、とうとう、レイチェルが旅立っていった日に、たどり着いた。
記念日の前日。十二月十九日。
――――――
十二月十九日
「別れというのは、多くが突然来るものです。そしてそれは、とても理不尽なものなのです」
かつてそんな言葉を、幼いわたくしに投げた人物がいました。彼女はわたくしにとって理不尽の象徴。
ソレル・メルル・レぺ。
伯爵令嬢レイチェル・サンダーワンドの養育係であり、冒険者レイチェル・サンダーワンドの師。
朝から、フワフワとしたような、地に足がつかない心地でした。
明日はいよいよ、わたくしたちの記念日なのです。準備は万端。もはや、今日が終わるのを待つばかり。
楽しみにしていてくださいね、などと、何度二人に言ったことでしょう。
ルイン君もカルス君も、師匠が一番楽しみなんじゃない、なんて返してきます。
当り前ですわ。
わたくしは、ルイン君とカルス君の喜ぶ顔を、早く見たいのです。
プレゼントを受け取った後、ありがとう師匠、なんて頬にキスをしてくれたら、わたくしは、きっとスライムのようにべチャット床に広がってしまいます。
いけませんね。
そんな想像をしては。キスをしてくれなかったら、物足りなく感じてしまうかもしれません。
このひと月あまり、今度はわたくしが頬にキスをされたい、というようなことを全力で匂わせてきたつもりですが、伝わっていない可能性の方が高いのですから。
フワフワしていたせいでしょう。
立ち合い稽古で、ルイン君に、一本取られてしまいました。
わたくしの不覚です。
不覚ですが、ルイン君が、それだけ成長したということでもあります。
本当に強くなりました。
わたくしがそれを言うと、ルイン君は首を横に振りました。
「いや、今のは、どう考えても師匠が調子悪かっただけだよ」
なんて謙虚なのでしょう、わたくしのルイン君は。
断言します、この子はきっと、最強の冒険者になります。
「僕も、師匠は、今日はこれくらいにした方が良いと思います。なんだか危なっかしいですよ」とカルス君。
「あとは、僕とルインでやります」
なんて優しくて、思いやりのある子なんでしょうか。
二人とも、わたくしには過ぎた弟子です。
わたくしは、彼らに大丈夫だと伝えようとしました。明日が楽しみ過ぎて、フワフワしているだけだ、と。
その時です。
背中に、ぞぞぞっと、悪寒が走りました。
これはあれです。
奴の気配です。
できれば、もう二度と会いたくなかった、奴の気配ですわ。
門の方を振り返ると、サンダーワンド家の敷地内に入ろうとする、五つの人影。
その前列二人は、旧知の人物。
一人は、トリストの冒険者ギルド長、リフレッサ様。
その隣にいる黒甲冑を着たエルフの戦士。
奴です。
ソレルです。
わたくしに恋人ができない元凶ともいうべき、ソレル・メルル・レぺです。
「久しぶりですね。お嬢様、いえ、我が弟子レイチェル。ずいぶんと破廉恥な恰好をしていますが、新たな性癖に目覚めましたか?」
開口一番これです。
ぶっ殺しても良いでしょうか?
あまりにも腹が立ちすぎて、地が出てしまいました。
伯爵令嬢レイチェル・サンダーワンドモードで、二度と会うつもりはなかったんだけど、なんのようだ、貴様の存在が猥褻なんだよ、さっさと帰れ、みたいなことを言いました。
もちろん、思いっきり睨みつけたのは、言うまでもありません。
ソレルは、人の心を逆なでする笑い声をあげて、わたくしに弟子の存在を思いださせました。
ルイン君とカルス君が、わたくしを呆然と見ていました。
いけません。わたくしのイメージが、ぶち壊しです。
わたくしは、もう伯爵令嬢ではありません。わたくしは、ただのレイチェル・サンダーワンドなのです。
言葉遣いをあらためて、要件を訪ねると、リフレッサ様が、急用だから一緒に来い、とおっしゃいました。
もちろん、わたくしは、即座に否と答えましたわ。
ほかの日ならばいざ知らず、大切な記念日を控えた今日の日に、仕事など無粋で野暮で、うんちです。
リフレッサ様が食い下がってきました。自分も嫌々行くんだから、お前も来てくれよ、という感じです。
最後に、ソレルと同行するのは、ものすごく嫌だ、というようなことをおっしゃったので、ソレルにボディーブローをされていました。
その直後です。
ソレルが、信じられない言葉を放ちました。
「魔王が復活しました」
魔王デベルドアス。千年に渡り世界を恐怖に落として入れた悪の権化。
デベルドアス率いる魔物の軍勢により、九種存在していた人類は、現在の三人種に減ってしまいました。
五百年前に英雄レオニスと仲間たちが封印。現在に至ります。
そういえば、以前、リフレッサ様の『上級鑑定』で、魔王を復活させようとしている者がいることがわかりました。
その者の仕業でしょうか。
「今ならば、まだ魔王の軍勢も少ないでしょう。時間が経てば経つほど、敵は強大になっていきます。殺るならば今なのです」
魔王は、全ての魔物を従える恩恵能力を、持っていたそうです。
その力により、魔物を組織し、軍隊にしたてて、幾多の国々を滅ぼしたと言われています。
神々は、魔王を死者の国である冥府へと落としましたが、魔王はそこから舞い戻ったと言われています。
ソレルもリフレッサ様も、それ以上、言葉を発しませんでした。
わたくしに、考える時間を与えているのでしょう。
わたくしは、弟子たちを見ました。
ルイン君は、両手をギュッと握って、唇を噛んでいます。
カルス君は、下を向いて、なにかを耐えています。
二人の気持ちが、伝わってきます。
わたくしに行って欲しくない。
行かないで、と言いたい。それを必死で抑えている。
わたくしだって、行きたくありませんわ。
ルイン君と、カルス君と、一緒に過ごしたいに決まっています。
大好きなあなたたちと、ずっと過ごしたいに決まっています。
わたくしは、全身全霊を込めて、意志の力を総動員して、返事を返しました。
「わかりました。魔王を倒します」
仕方がないでしょう。
魔王が魔物を率いたら、もう個々の冒険者では、太刀打ちできなくなるのです。
ルイン君とカルス君が、せっかく冒険者になれても、魔王軍と戦う兵士として駆り出されることでしょう。
そんな未来にしてはいけないのです。
わたくしが、そんな未来にさせません。
――――――




