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17/24

17.入浴と旅行と眼鏡

 えっ、とレイチェルは目を見開いて、それを見た。

 えっ、なんですか、これは、一体、なにが起こったのです。


 裸のカルスが、真っ赤な顔で、股間を隠している。


「す、すみません。ぼ、僕は、その……」

 泣きそうな顔である。


「し、師匠。しょうがないんだよ。男だから。男はこうなんだよ」

 泡だらけのルインが、カルスを守るように立ち塞がる。


「男は、こう……。男は、こう……」

 ブツブツとつぶやくレイチェル。ルインの泡に包まれた股間を見る。


「とにかく、もう、これからは師匠に洗ってもらうのはなし。ほら、出てって、出ってって」


 ルインに押されて、レイチェルは浴室から追い出された。


「男は、こう……なのですか」

 廊下でつぶやく。


 考えてみれば、レイチェルは、男のまたぐらにぶら下がっているアレが、どういった機能を持っているのか知らなかった。


 彼女の男女の知識の元となっている母の蔵書には、具体的な描写はなかった。

 男女がキスをして、一緒にベッドに入って、そうして甘美な時間が流れた、とか、二人は情熱のままに愛し合った、とか、そういう感じで省略されるのだ。


 とにかく、アレがあんなふうになって、カルスは、とても恥ずかしがっていた。

 弟子に恥をかかせてはいけませんわ、とレイチェルは、二度と、こんなことがないようにしようと決意した。


 すると、ため息が出た。

 日々、大きくたくましくなっていく二人の弟子たち。

 その体を洗うのが楽しみだった。

 くすぐったそうにしたり、照れ臭そうにするところが、可愛くて仕方なかった。

 それも終わり……。


 はあ、とまたため息をついた。



 夕食時。

 カルスは、バツが悪そうな顔をしていた。


 レイチェルは、気にしていない、というような態度を装ったが、それが正しいのか自信がなかった。


 二人の空気を察してか、ルインがよく話した。

 主に冒険者ギルドについてである。

 最近、ルインは、自由時間のたびに、冒険者ギルドに顔を出している。


 受付嬢や冒険者たちと話をしたりして、過ごすのだ。

 誰もが、レイチェルの弟子ということで、一目置いてくれるので、居心地は良かった。

 

 ただ楽しみで、そうしていうわけではなかった。

 話したり、眺めたりしながら、相手の力量を観察している。

 どのような戦い方をするのか。リスク管理はどの程度のものか。武具の消耗具合はどうか。


 そんなことを続けていると、次第に、ああ、この人は変な癖があるな、とか、武器が合ってないな、とか、もう少し魔法の支援を受ければいいのに、とか、そういった感想が浮かんでくる。


 受付嬢に、その感想をこっそりと言ってみると、やっぱりそうですよね、と同意してくれることが多い。


 それらは、自分の鍛錬にも生きていた。自身の戦い方や能力を、客観的に把握することができるようになってきたのだ。

 ルインの戦闘技術が、ここのところ急速に成長しているのは、そのおかげである。


「それでさ、ルディアさんたちの話が長いんだ。女って、なんで話が終わらないんだろうな」とルイン。


 Dランク冒険者のルディア、マリア、ニーアの三人組『花の刃』に、誘われて、カフェでケーキを食べたという話である。


「あと、いつ、冒険者登録するんだって、何度も聞かれたよ。登録したら、一緒にやってもいいって」


「そうですか。ただ、彼女たちはあまり有能ではありません。パーティに入るのはやめた方が良いです」

 レイチェルの声が冷たい。 


 ルインは、レイチェルが、なにか不機嫌になっているように感じた。ひょっとしたら、『花の刃』が嫌いなのかもしれない。


「ルディアさんたち、師匠のことべた褒めだったよ」とフォローを入れる。


 ふん、とレイチェルが鼻を鳴らした。

「媚びるのは、男に対してだけではないのですね」


「師匠、ルディアさんたち嫌いなの?」


「そんなことはありません。彼女たちが、男パーティと和気あいあいとしているところを目にして、そんな暇があったら鍛錬をしたらどうでしょう、などと思うこともありますが」


 もう『花の刃』の話題はやめた方がいいな、とルインは思った。


「そろそろ、僕たちも冒険者登録したいのですが」と、今まで黙っていたカルスが言った。

 まだ、正面からレイチェルの顔が見れず、うつむきながら。


「そうそう。俺もそう思う。俺もカルスももう十三歳なんだから」


 つい先日、ルインが十三歳の誕生日を迎えた。

 冒険者ギルドは十三歳以上でなくては、登録できないのだ。


「師匠も十三歳で冒険者デビューしたんだろ? だったら、俺たちもさ」


 レイチェルが、困ったような顔になった。

「冒険者登録をして、依頼を受けたいのですか?」


「まあ、そうかな」


「それが金銭を得るためだとすれば、今よりも効率は落ちますよ」


 なにしろ、レイチェルは、ちょくちょく二人を異界迷宮ダンジョンに連れ出し、攻略させている。


 その甲斐もあり、今やBランク異界迷宮ダンジョンすら、二人は危うげなく攻略できるようになっていた。


 冒険者ギルドに登録し、Fランクから依頼を受けていけば、得られ金銭は格段に減るだろう。


「いや、そうだろうけどさ。でも、なんつうか、そろそろ自分たちの力だけで、やってみたいっていうか」


 ルインはそこまで言って、レイチェルが寂しそうな顔になったので、慌てて付け足した。


「違うんだよ。師匠にもっと教えてもらいたいし。鍛えてもらうつもりだよ。でも、それとは別にさ。なんていうか。なあ……」

 カルスを見る。


「当面、半日、依頼を受けて、半日鍛錬をするといような形にしたら、どうかと思うんです。自分たちに足りない部分が、見えてくると思うんです」


「そうそう。自分がどれくらい強いのか、試したいってのもあるしさ」


 レイチェルが、ため息をついた。

「今日は、寂しくなることが多いです」

 ボソリとつぶやく。


 沈黙が訪れた。

 ルインとカルスは、顔を見合わせて、どうする? どうしよう? と困惑する。


「わかりました」

 ついに、レイチェルは言った。


 本心を言えば、このままずっと二人を鍛えていたい。

 冒険者ギルドになど登録させないで、ずっと手元に置いておきたい。だが、それではいけないのだ。


「あと一年だけです。あと一年だけ、登録は待ってください」


「い、一年」


「ぜんぜん、妥協してないぞ」


「一年経ったら、カルス君の言う通り、半日鍛え、半日依頼を受ける、というような体制に移行しましょう。私にも心の準備が必要ですから」


「別に、登録したからって、ここに住むし、なんにも変わらないと思うんだけどなあ」


「気持ちの問題です」


 日々は、薄氷一枚の上を、歩いているようなもの。

 いつだって変化は突然に、そして一気に起こるのだ。


 レイチェルは、これまでの人生から、そのことを思い知らされていた。

 だからこそ、今のこの幸せな時間を、もう少しだけ味わいたかった。

 あと一年だけ……。 


 だが、レイチェルのそんな願いは、結局、果たされることはなかった。




◇◇◇




「旅行をしましょう」


 レイチェルの言葉に、ルインとカルスは、すぐに言葉がでなかった。


「旅行ですか?」

 やっと、カルスが言った。


「はい。思えば、君たちを異界迷宮ダンジョン以外に、連れ出したとがありません。君たちを預かる身として、とても不甲斐ありません」


「だけど、俺たち、師匠に弟子入りしたわけだし。別に、旅行とかそういうのは、さ」


「少年には想い出が必要です」

 レイチェルが、ピシャリと言った。


 こうなると、もはや自分たちがなにを言っても、聞きはしないだろう。

 カルスは、レイチェルの思い付きを、受け入れることにした。


「それで、どこへ行くんですか?」


「海です。この時期にはマンイータークラブや、デビルシャークといった、とても美味しい魔物が出現します」


「海? 海っていうと、あれだろ。でっかい池みたいな。水がいっぱいある」

 ルインは、今一つイメージがつかないままに、言った。


「はい。水は塩辛く飲めません。波があって面白いですよ」


 思い立ったら即行動。

 レイチェルは、その日の稽古を中止にして、『転移ワープ』した。

 青い光の輪に包まれた次の瞬間には、もう到着している。


 眼前には、広大な海。視界一杯に、水平線が広がっている。

 波の音と海鳥の鳴き声。潮の匂いのする風。


 五月の海は、空の色とあいまって、サファイヤの宝石のように輝いていた。


 ルインもカルスも圧倒されて、おおっ、と感嘆するばかり。


「まだ泳ぐには寒い季節ですが」と言いながら、レイチェルは露出狂鎧ビキニアーマーを脱いだ。真っ裸になる。


 それに先に気づいたのはカルス。

「し、師匠。な、なんで裸に……」

 声が裏返った。


「泳ぎますから。君たちも服を脱いでください。せっかくなので、泳ぎを覚えましょう」


 レイチェルの露出狂鎧ビキニアーマーは、『自動洗浄オートクリーン』が魔法付与エンチャントされているし、ミスリル製なので錆びることはない。それでも、海につけるのは好ましくない。


「だ、だけど。は、裸、裸」


 ルインが混乱している。

 目は、レイチェルの文句のつけようのない女性的な肉体に、釘付けになっている。


「そ、そうですよ。裸は、まずいですよ」

 カルスも、言った。

 もちろん、彼の目も、レイチェルの裸体に釘付けだ。


「よくわかりませんが、とにかく脱いでください。今更、恥ずかしがることはないと思います」


「無理、無理無理。今は無理。とにかく、師匠、裸はまずいって」


「せめて、水の中に入ってください。お願いです」


 レイチェルは、首をかしげた。

 未だに、男性の生理現象に対して、理解が及んでいないのだ。


 レイチェルとしては、春先に二人を洗うのをやめて以来、二人の成長具合が、気になって仕方がなかった。

 それを確認する意味でも、海に連れてきたのだ。


「よくわかりませんが、わかりました。先に海に入っています。君たちも、きちんと服を脱いでください。溺れます」


 レイチェルが水の中に入ったので、ようやく二人は、服を脱ぐことができた。


「師匠は、もう少し男のことを知るべきだと思う」とカルスが、ため息をついた。


「いや、今のままでいいよ」とルイン。「師匠が男に目覚めたら困る」


 全裸になった二人は、恐る恐る海へと入った。

 レイチェルは、その間、波に洗われながら、顔だけ浮かべて二人を見ていた。


『レイチェル泳法』の講習が始まった。

 レイチェルも、誰かに泳ぎ方を教わったわけではない。独学である。

 きもは、やはり魔力。

 戦闘時と同じように、魔力を全身に行き渡らせる。


 さらに、あらかじめ『水中呼吸アンダーウォーターブレス』の魔法を使っておく。これで息継ぎが不要になる。


 さらに、水中移動の際は無詠唱魔法で、弱い『衝撃波ショックウェイブ』を使用して推進する。


 二人は、すぐにそれを習得した。

 今まで、さんざん師から無茶な稽古をさせられてきたので、適応が早い。

 三人で、スイスイと水中を泳ぎ回る。


光虫ライトバグ』をいくつも作って、

周囲に浮かべているため、深い水の中でも良く見える。


 色とりどりの魚たちが自由に動き回り、鮮やかなサンゴが海底を飾っている様子は、あまりにも美しく、ルインもカルスも楽園のようだと思った。


 裸体で、魚とたわむれるように泳ぐ三人を見る者があったら、彼らこそ海の妖精か、と誤解したことだろう。


 二メートルほどもある大きな魚とじゃれあうレイチェルを、ルインはうっとりと眺めた。

 本当に綺麗だった。

 

 レイチェルが、ふいに振り返った。

 笑顔で下を指さす。


 海底を見ると、黒っぽい虫のような生き物がいる。

 ルインは、蟹を見たことがないので、海にはあんな生き物もいるんだな、と感心した。

 それにしても、でかい。五メートル近くありそうだ。


 レイチェルがもぐる。

 両足から『衝撃波ショックウェイブ』を出して、投げられた銛のように水を切って進む。

 ルインとカルスも後に続いた。

 

 マンイータークラブが、レイチェルを『水刃ウォーターブレード』で迎撃する。

 もちろん、水中では、地上での『風刃ウィンドブレード』同様に不可視である。


 だが、レイチェルは、体に張り付くような極小の『物理結界バリア』を張っているために、それらを弾く。


 挟もうと振るわれる大きなハサミを、くぐり抜け、甲羅を殴る。

 甲羅に無数のひびが入り、マンイータークラブは動かなくなった。

 道具箱アイテムボックスの中に、魔物の死骸を放り込む。


 レイチェルは、弟子たちを振り返った。

 満面の笑顔が、厳しくなる。

 弟子たちを狙って接近する魚影に、気づいたのだ。


 金属光沢のようなピカピカと光る真っ赤な鮫。デビルシャークだ。顔の先に長く鋭い角が生えている。


 レイチェルは、二人を守るために強力な『衝撃波ショックウェイブ』で、一気に推進した。

 だが、それよりも早く、ルインとカルスは動いていた。


 ルインが赤い光線を連射し、カルスが敵を逃がさじ、と同じく『魔法矢マジックアロー』でけん制しながら、退路を断つ。


 レイチェルが手を出す前に、デビルシャークは倒されてしまった。

 これでもBランクの魔物である。


 二人とも、本当にたくましくなりましたわ。

 レイチェルは、赤い大魚の死骸をつかむ弟子たちを眺めながら、思った。

 誇らしさと一緒に、寂しさを感じた。



 せっかくだから、と浜辺でデビルシャークと、マンイータークラブを調理した。


 とはいえ、どちらも体が大きく、三人では、とても食べきれない。

 さばいたあとに、大鍋ででるが、そのでたものも、大幅にあまりそうだ。


 三人は大いに食べた。

 調理したのは、主にルインである。

 半年ほど前から、屋敷でも彼が料理をするようになった。


 もともと、家族と暮らしていた頃から、食事の手伝いをしていたのだ。

 野草を採ってきたり、鳥やウサギを獲ってきたりして、なんとか食料を確保していた。


 ルインが料理をするようになって、三人の外食の機会は、めっきり減った。

 それほど、ルインの料理は、満足できるものだったのだ。


「魔法に比べれば簡単だよ」とルイン。


 コミュニケーション能力の高さを発揮して、様々な人から料理のレシピを聞き出して、自分なりに手を加えている。


 三人は、浜辺にテーブルを出して、そこででた蟹や、焼いた鮫を食べた。


 レイチェルも、弟子たちも、服を着ている。とはいっても、レイチェルは、いつもの露出狂鎧ビキニアーマーだが。


「海の先には、なにがあるのかな?」

 ルインが、水平線を眺めながら言った。


「ずっと先に、別の大陸があります。ロマリア大陸と言います」

 レイチェルが言った。

「とても遠いですが」

 

「ロマリア大陸に行ったことがあるんですか?」


「二回ほど。あちらは肌をさらすことに抵抗があるようで、このかっこうで行くと怒られます。とても面倒くさいです」


「いい加減に、その鎧はやめたらいいんじゃないか。そんなの着てなくても、師匠は十分……」

 赤くなって、その先が言えないルインだった。


露出狂鎧ビキニアーマーは、一度着たらやめられません」


「せめて、マントを羽織った方が、いいと思うんですが」


「それは無粋というものです」


「そうかなあ」


 浜辺にいるのは、三人だけ。

 波の音と海鳥の鳴き声が聞こえるだけの、穏やかな昼下がりだった。




◇◇◇




 カルスが、眼鏡を掛け始めたのは、十四歳の夏のことである。

 きっかけは、些細なものだった。


 料理屋で夕食を取っている時に、レイチェルの視線が、眼鏡をかけた青年と自分に、何度かいったりきたりしていることに、気づいた。


 今では、ほとんどなくなったが、ルインとカルスが弟子入りした当初は、レイチェルは美形青年がいると、そちらばかり見ていた。

 酷い時など、話しかけても、まったくの上の空ということもあった。


 よっぽど好みなのかな、とカルスは思った。

 胸の奥で、嫉妬の炎が起こる。

 それを表に出さないように平静をよそおって、レイチェルに聞いた。


「あちらの人が、どうかしたんですか?」


「カルス君があんな眼鏡をかけたら、とても似合うかと思って見ていました」


 言ってから、レイチェルは慌てて、手の平を振った。振りすぎて、テーブルが大きく揺れた。


 ルインがすかさず、グラスを押さえる。


「カルス君に眼鏡をかけて欲しい、というわけではありません。ただ、似合いそうだと思っただけです」


「師匠は、眼鏡をかけた男が好きなのか?」

 ルインが言った。


「いえ、眼鏡をかけた男性も魅力的だということです。肉には肉の、パンにはパンの美味しさがある、というようなことであって、どちらが好きだというようなものではありません」


「だけど、眼鏡って目の悪い人がかけるもんだろ。俺もカルスも、別に目が悪いわけじゃないしなあ」


「ですから、他意はありません。ただ、似合いそうだと思っただけです」


「俺はどうなの?」


「ルイン君は、そのままがいいです」


「俺は似合わないのか。なんか、寂しいな」


「ですから、別に大した意味はないのです」


 ルインとレイチェルのそんな会話を聞きながら、カルスは、その眼鏡の美形青年を盗み見ていた。

 いかにも、知的な雰囲気が漂っている。


 師匠は、ああいうのが好きなのか。


 さっそく、次の自由時間に、カルスは眼鏡を作りに行った。


 行きつけの魔法道具屋に相談し、度は入れないが、代わりにいくつかの魔法付与エンチャントをした眼鏡の作成を、依頼する。


 オーダーメイド、しかも魔法道具の依頼である。値は張った。


 ルインもカルスも、すでに下手な貴族よりも貯金がある。

 二人とも散財するような趣味もないので、ここぞ、というときには、遠慮なく使うようにしている。


 カルスにとって眼鏡の作成は、まさに、ここぞという時であった。

 なにしろ、レイチェルが似合いそうだ、と言ったのだから。

 


 数日後、出来上がった眼鏡をかけて屋敷に戻った。


 レイチェルは、庭の枯れた噴水のふちに座って、ぼんやりとしていた。


 傾き始めた日差しが、長い影を落としている。

 まるで時が止まったように、身動きせず、一人座る美女。


 カルスは、駆け出して、レイチェルを抱きしめたくなる衝動を押さえた。


 レイチェルが、カルスに微笑みを向ける。


 カルスは、激しく高鳴る鼓動を少しでも静めようと、ゆっくりと歩み寄った。


「とてもお似合い。素敵です」

 レイチェルが言った。


「良かった。似合ってなかったら、どうしようと思いました」

 カルスは言った。


 褒められたのに、なぜだか心がチクリと痛んだ。


「なぜ、眼鏡を? 目は悪くないでしょう?」

 不思議そうな顔。


 あなたが、似合いそうだと言ったからですよ、という言葉を、カルスは飲み込んだ。


魔法付与エンチャントをかけてあるんです。『簡易鑑定シンプルエキスパートオピニオン』と『画像保管ピクチャーストレージ』です」


「なるほど。とても良い選択です」


 レイチェルが、立ち上がった。

 側に立つカルスの顔に、そっと手を伸ばす。


 カルスの心臓が、破裂してしまいそうなほど強い鼓動を刻む。

 呼吸が乱れるのを、なんとかかんとか押さえる。


 レイチェルの手が、カルスの眼鏡を外す。


「ミスリルに、ロードクリスタル。素材も文句なしですね。まだ魔力付与エンチャントの余地はありそうです。あとで、『自動洗浄オートクリーン』と『自動修復オートリカバリー』の魔法付与エンチャントもしましょう。せっかくですから、一緒にやってみましょうか」


 魔法付与エンチャントは、高度な技術と魔法に対する深い知識が、必要である。

 専業の魔法使いでもないのに、軽々と魔法付与エンチャントができるレイチェルは、確かに異常である。


 ふふふっ、とレイチェルが笑った。

「やっぱりとても似合ってます。魅力的ですよ、カルス君」


 体が勝手に動いていた。

 カルスは、レイチェルを抱きしめていた。

 背は、いつのまにか、同じくらいになっている。もう、子供と大人には見えない。


「どうかしましたか?」

 レイチェルが、背中を撫でる。


 カルスは、言葉が出なかった。

 腕の中の最強の戦士は、華奢で、思ったよりも、ずっと軽かった。


 カルスの心臓は、もはやどうにもならないほど、激しく動き、息は切れて、汗がとめどなく流れてくる。


「大丈夫ですか? なんだかとても大変そう」

 カルスを気づかう目。


 カルスは、レイチェルを離した。


 先ほど感じた痛みの意味が分かった。

 レイチェルに、異性として意識してもらえなかったからだ。


 カルスはレイチェルに背を向けた。


「……僕も、あと二年もすれば、大人になったと言えるんじゃないでしょうか」


「十六歳なら、十分大人ですね」


「背ももっと伸びると思います」


「きっとそうでしょう。カルス君は背が高くなりそうです」


「その時、もう一度、抱きしめてもいいですか?」


「別に、いつでも何度でも、抱きしめてくれていいですよ」


「いや、ええと……」


 結局、カルスは、それ以上言えなかった。



 その夜、寝室で、ルインが本を読むカルスの頭を叩いた。

「抜け駆け」


「そっちだって、このあいだ、花束をあげてたじゃないか」


「あ、あれは知り合いの花屋に頼まれて、付き合いで買ったんだよ」


 二人とも、互いがレイチェルに恋心を抱いていることを、知っている。

 ちゃんとした冒険者になるまでは、このままで、と約束していたのだ。


「師匠には、子供にしか見えないみたいだよ。僕はさ」


「それは俺も同じ。早く大人になりたいなあ」


「同感」

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