過去に戻ったので姉をヤンデレから守ったら、代わりに妹の私が監禁されたのですが
(普段の作風と少し違います。あらすじとタグを先にご確認くださいませ!)
【コミカライズ】
一迅社 ZERO-SUMコミックス様『死に戻り令嬢は、完璧な幸せを手に入れた アンソロジーコミック 3巻』に収録 漫画/瓜田ノヒト先生
知らない部屋で、クレアはハッと目を覚ました。
揺らめくロウソクの灯火に浮かび上がる室内は廃墟同然。破れた壁紙にはシミが浮き、床は所々ひび割れている。
「なに、ここ……?」
ドアはひとつ。広い部屋の隅には無造作に積まれた数脚の椅子。
破れたカーテンがかった窓の向こうは鎧戸で閉ざされており、外の様子は分からない。
「わたし、どうなって……痛っ!」
起き上がろうとして、ズキンと頭が痛む。額を押さえてまた倒れ込むと、ふわりと柔らかな枕に埋もれた。
荒んだ部屋に似つかわしくない極上の肌触りだが、今はそれどころではなく記憶を辿る。
(――たしか、店を出たところで後ろから……)
帰宅途中、突然羽交締めにされ、薬を染みこませた布で鼻と口を塞がれた。
そして意識を取り戻したらこの状態……つまり自分は何者かに攫われて、ここに閉じ込められたのだろう。
(え、本当に?)
不安に煩く打ち始めた鼓動を落ち着かせようと胸を押さえつつ、身を検める。着ている服に乱れはない。ゆるゆるなコルセットもそのままだ。
頭痛が治まってくればほかに不調も怪我もなく、乱暴はされていないことに少しだけほっとした。
しかし、もう一度起き上がろうとして身じろぎをしたクレアの足元からジャラリと金属の音がする。
(なに今の……しかも、左足が重いんですけど。まさか……?)
嫌な予感に恐る恐る視線を向けると、足首に金色の輪が嵌まっている。そこから延びる鎖は、クレアがいる天蓋付き寝台の支柱にしっかりと繋がっていた。
ひっ、と声にならない叫びが出る。
「う、嘘でしょ!?」
震える手で鎖を持つと、冷たい重さが現実だと主張する。外れないかと引っ張るが、細いくせに金具も支柱もやたら丈夫でびくともしない。
クレアの顔から、ざあっと血の気が引く。
「これって……わたしが監禁されてる……?」
――聞いていない。
死に戻った今世では、拉致されるのが姉ではなく、妹の自分だったなんて。
* * *
クレアには前世がある。正確には前世と言えるか分からないが、今の生は途中からやり直した二度目の人生だ。
忘れもしない大雨の晩。
家族と幼なじみが眠る墓地で、クレアは雷に打たれた。ああ、これで皆と同じところに逝ける――と思ったら、天国ではなく一年前の過去に戻っていたのだ。
一度目の生でクレアが家族と幼なじみを相次いで亡くしたのは、一人の男が原因だ。
ヘクター・ガザード。
サラサラ金髪に理知的な薄茶色の瞳、鼻筋の通ったいわゆる美形で、二十七歳独身。国内でも指折りの大商会であるガザード商会の御曹司なのに、本人は万事控えめで人当たりがいいという、一見、非の打ち所がない人物だ。
女性には不自由しないはずの此奴が、クレアの姉ルーシーに邪な思いを抱いたのが、一連の不幸の元凶だ。
クレアの家は城下で食堂「黒猫亭」を営んでいる。
父は調理、母は経理と仕入れ、姉のルーシーは接客、そしてクレアは調理補助とメニュー開発といった役割分担だ。
黒猫亭があるのは、王都のメイン通りからは少し離れているが、騎士団や文官の宿舎が集まる一角。ボリューミーかつバラエティに富んだメニュー構成で彼らの胃袋をガッツリ掴み、狭いながらもなかなかの繁盛店である。
騎士団員や職員以外にも常連は多い。ヘクターはそのひとりであった。
ヘクターは、何期も商会長を務めているやり手の父親には似ていない。気を張る商談や華やかな場は苦手だと、下町庶民の味を気に入って黒猫亭をよく訪れていた。
騎士団員が多く騒がしい店内で、物静かな一人客は目立たない。
だから、ルーシーを見るヘクターの目に浮かぶ昏い愉悦の光に、前世では誰も気づかなかった――唐突にルーシーが攫われ、無理心中という凶行が発覚するまで。
悲しみにくれるクレアたちのもとに、ガザード商会の顧問弁護士が見舞金という名の口止め料を持って現れた。
誘拐殺人という事実を隠蔽し、二人が亡くなったのは不幸な事故だったとする先方の言い分はとても認められない。
クレアたちが金を受け取らないと知ると、嫌がらせが始まった。
ヘクターの父は国全体に影響を持つ大商会のトップである。しかも貴族社交界にも顔が利く。睨まれた取引先が次々と黒猫亭との付き合いを自粛し、まず最初に店の仕入れが滞った。
食材の不足から営業がままならなくなると、客足が鈍る。
その隙を埋めるように、店の内外にはガラの悪い連中がたむろするようになった。酔った勢いとやらで椅子や壁を壊しても弁償もせず、修繕費を用立てようとしても銀行は金を貸し渋る。
ヘクターの残忍な裏の顔は完璧に隠されていたため、「ルーシーがヘクターを誘惑した」と噂を流し、自らは被害者であると世論を誘導してクレアたちを追い詰めた。
味方がいなかったわけではない。
騎士団では団長のゴドフリーや幼なじみのレイ、ほかにも常連客だった団員や職員が、徹底的に追求すると息巻いていた。
だが、捜査を指揮していたゴドフリーが突然地方への短期転任を命ぜられたのを皮切りに、主立ったメンバーが次々と降格や所属替えとなった。
最後に残ったレイも、証拠を見つけたと連絡があってすぐに不慮の死を遂げた。
結局、ヘクターは起訴すらされなかった。
店も立ちゆかなくなり、心身を病んだ両親はクレアの十八歳の誕生日に自ら命を絶った。
埋葬が終わって雨が降り出しても墓地に立ち尽くしたまま家に戻らなかったのは、後を追おうと思ったわけではない。
ただ、絶望とやるせなさがないまぜになって動けなかったのだ。
最後に聞いたのは雷鳴、見たのは眩しすぎるほどの光。
――気づけば「皆がいる」黒猫亭にクレアはいた。まるで何事もなかったかのように。
過去に戻ったのだと理解したとき、絶対に未来を変えてみせると誓ったのだった。
恐ろしい未来も、クレアが二度目をやり直していることも、とても家族に伝えられない。
自分ひとりで行動するしかなかった。
真っ先に取り組んだのは、姉とヘクターを引き離すことだ。
店に来るヘクターを注意して窺うと、すでにあの男はルーシーへ粘着質な視線を向けていた。
相手は逆上するとなにをしでかすか分からない。直接刺激をするのは逆効果だと考え、ヘクターの視界にルーシーが入らないようにする、という消極的な方法から始めた。
奴が店に来たときは無理にでも用を作って姉を厨房に引っ込ませ、愛想のないクレアや父が配膳に立つようにした。
最初のうちは、ルーシーが客席に戻るまでしぶとく注文をせずに待ったり、厨房内を覗くような仕草が見られたが、徐々にそれもなくなった。
店への来店頻度が減ることはなかったが、姉への執着は薄れていったようなのでそれで良しとした。
同時に進めた策のもうひとつは、姉の守りを強固にすることだ。
近所の男の子に混ざって棒を振り回していたクレアと違って、姉のルーシーは幼いころから穏やかで優しい性格だ。
虫も殺せない姉は、正当防衛でも誰かを殴ったりなどできないだろう。
前世で、姉の亡骸に取りすがって泣いたのは家族だけではなかった。
騎士団長のゴドフリーが密かにルーシーに想いを寄せていたのだ。
傭兵上がりのゴドフリーは「闘犬」の二つ名を持つ筋骨隆々な偉丈夫で、闘技大会では連続優勝もした猛者である。
恐ろしく強いだけでなく顔面の迫力もなかなかで、裏家業の人間ですら彼に睨まれたら震え上がると評判だ。
そんなゴドフリーは姉に純情片思いだったが、実は姉のほうでも憎からず思っていた。おっとりほっこりなルーシーには、実は格闘技観戦という意外な趣味がある。
以前は「団長様って素敵よね」と頬を染めて言われても頷けなかったクレアだが、今世は違う。
前のめりで同意して、じれったい二人の背中を押しまくり、なかば強引に仲を取り持った。
結果めでたく両思いとなり、婚約期間もおかず披露宴も後回しにスピード婚が成立。愛娘のあっという間の結婚に父は泣いたが、クレアは大満足である。
だって、頼りになるのはゴドフリー本人だけではない。騎士団長の住まいは王城の敷地内にあるのだ。どんなところよりも安全ではないか。
(……レイには悪かったな)
クレアと同じ歳で幼なじみの、レイの顔を思い浮かべる。
優しくて世話焼きのルーシーに、レイは小さいころから憧れて、懐いていた。
負けん気の強いクレアとはケンカばかりしていたが、ルーシーの前でだけはいつもおとなしく、騎士団員になってからもちょいちょい顔を赤らめていたのだ。
レイが同期の中で一番の出世頭なのは、早く一人前になってプロポーズしたい女性がいるからだ、と仲の良い騎士団員のトビーからこっそり聞いたことがある。
それがルーシーだということは疑いようがない。告白前に玉砕するのは不本意だったろう。
ルーシーが電撃結婚、しかも相手が上司と分かって、レイは鳩が豆鉄砲を食った顔をしていた。
自分がルーシーの隣に立てなかったことよりも驚きのほうが勝ったその表情に、クレアの胸がチクリと痛んだ。
だって、前世でレイは「絶対にルーシーの敵を討つ」とクレアに宣言して、あと一歩のところまで追い詰めて――
「ばかレイ。自分が死んじゃったら意味ないのに」
命をかけるほどルーシーが好きだったのだ。
今世で姉とレイを、と考えなかったわけではない。
それでもゴドフリーとの仲を取り持ったのは、姉はレイを弟としてしか見ていなかったから。身長だけは伸びたものの、幼いころの三歳という年の差はずっと響くのだ。
でも、それだけではなく……本当はクレア自身がレイを好きだったと、手遅れになってから気がついたのだ。
ケンカ相手の幼なじみはいつしか、自分にとって特別な異性になっていた。
レイがクレアを揶揄うから、クレアもレイの硬い黒髪や青の瞳をきれいすぎると冷やかしたけれど、それも含めてずっと好きだった。
起こりうる未来を阻止するためとはいえ、クレアの行為は非難されて当然だ。
せめてもの罪滅ぼしに、レイへの恋心は誰にも言わず、それこそ墓場まで持って行こうと誓った。
姉の死はショックだった。
両親の死で世界が崩れた。
レイが死んで、自分の生きている意味が分からなくなった。
あんな思いは、もうこりごりだ。
神の御業でも悪魔の所業でも構わない。誰か、どうか――クレアが絶望の淵で抱いた願いは、過去に戻るという最も非常識な方法で叶えられた。
この機会を絶対に逃すわけにはいかなかった。
愛ある安全地帯を得た姉に、ヘクターの魔手が伸びることはない。
クレアは心の底から安堵して、幸せいっぱいの新郎新婦が短い新婚旅行に出かけるのを見送った。
そんなわけで、姉がいない親子三人で初めて店を切り盛りした本日の営業後、クレアは店に残って新メニューの試作をしていた。
達成感と解放感で浮かれていたのだろう。それだけではなく、レイへの罪悪感を誤魔化したかったのかもしれない。
なんにせよ、うっかり時間を忘れて没頭してしまい、後片付けを終えると深夜だった。
自宅はすぐ近所である。大通りに出れば夜通し開いている店は多く、若いクレアが一人で歩いて帰るのにもそこまで不安はない。
しかし、店から大通りまでの僅かな間に背後から襲われて今ココである。
「さてはアイツ、お姉ちゃんのこと諦めてなかったな?」
二人の結婚を知っているのは、まだクレアたち家族と騎士団員だけだ。
ヘクターはルーシーが新婚旅行で留守だなんて知らない。ということは、姉と自分を間違えたに違いない。
ルーシーとクレアは似ていない姉妹だ。
だが、茶色の髪とグレーの瞳といった色合いと、背格好は瓜二つ。後ろ姿なら、しかも夜なら、見分けることは困難だろう。
それだけでなく、今夜のクレアはルーシーの店用エプロンを身につけていた。
試作の途中で手が滑って派手にソースをぶちまけてしまい、ほかに着替えがなかったのだ。
「あー、昨日のうちに自分のコックコート洗濯して、ボタンも付け直しておけばよかった! 私のばか!」
自分のずぼらさを後悔しながら、憤りを溜息に乗せて大きく吐き出す。
どのくらい長くクレアが気を失っていたかは分からないが、ロウソクの減り具合から見て、そこまで時間は経っていないはずだ。
「ここって……あの廃屋敷よね」
郊外に、酔狂な金持ちが贅を尽くして建てたが、住む人もなく朽ちるに任せられている肝試しの定番スポットがある。
ルーシーとヘクターの遺体はそこで発見された。きっと今世でも同じ場所を使ったのだろう。
クレアが寝せられていたのは、天蓋付きベッドの上である。
百年前で時間が止まったかのような部屋のなかで、このベッドだけが本体も敷布も枕もなにもかも新しい。蕩けるような感触のベッドリネンはシルクだろうか。かなりの贅沢品だ。
わざわざこんなものを用意する、その意味が分からないほど幼くはない。
「……最っ悪」
ヘクターは人違いでクレアを攫ってしまったことに気がついているはず。それなのに解放も口封じもせずこうして拘束しているということは、クレアを人質にルーシーをおびき出そうとしているのだろう。
ますます不愉快だ。
足を動かす度に嫌な音を立てる鎖に、クレアは顔を顰める。
これを前世では姉に使ったのかと思うと虫唾が走る。前世も今世も、奴には絶許の二文字しかない。
クレアは閉店後に作業をすることが多いため、両親はいつも娘の帰宅を待たずに寝ている。クレアの不在に気づくのは、早くて朝だ。
(それまで生きていられるかな……)
ヘクターがいかに望もうと、姉はいない。怒りの矛先が向かうのは人質であるクレアだ。
物騒な考えに、そわりと鳥肌が立つ。
むざむざやられるつもりはないが、相手は成人男性。それに加えて動きを制限されている自分は絶対に不利である。
はあぁ、とまた大きい溜息が口をついて出たとき、ガチャリと唯一のドアが開いた。
「ああ、目が覚めたんだね」
「……ガザードさん」
現れたのは、やはりヘクターだった。
高級そうな黒いスーツに白ネクタイで、ヘアスタイルもビシッと決めている。
この場所と状況に合わないフォーマルな装いと大仰な笑顔が、クレアには余計に気味が悪く感じられた。
「少し顔色が悪いかな。もしかして寝心地がよくなかった?」
「……これはどういうことですか」
「どうって、君が望んだんだよ」
(は? なにを言って――ちょっと!?)
困惑に眉を寄せるクレアに構わず、笑みを浮かべたヘクターは躊躇せずにベッドに乗り上がる。
ギシリと寝台を沈ませながら距離を詰めるヘクターに、クレアは必死で後退った。
「僕と二人っきりになりたいって、いつもそう思ってくれていたよね」
「や、ちょ、ちょっと、ガ、ガザードさん!」
「他人行儀だなあ。ヘクターって呼んでよ、クレア」
「!?」
(ク、クレアって言った!?)
たっぷりと甘さを含んだ声で名を呼ばれ、クレアは混乱した。
ヘクターの妄執は、姉のルーシーに向かっていたはず。
だからクレアは全力で二人の接点を消滅させ、関わらせないようにしたのだ。
滅多に客席に立たない自分が代わりに給仕をしたり――でも。
(……もしかして、お姉ちゃんからわたしに乗り換えた?)
クレアの行為はフラグを折ったのではなく、矢印の向きを変えたのか。
ずん、と頭の奥が重くなる。
まさかそんな、と否定しようにも、ヘクターは嬉しげに迫ってくる。足の鎖がピンと張って、これ以上は下がれない。
「う、うそ……!」
「嘘なんかじゃないよ、クレア。今夜は僕と君の結婚式だ。君にもドレスを用意してあげたかったんだけど、きれいに着飾ったクレアが僕以外の人間の目に映るなんて、考えただけでも業腹だからね」
ふふ、と口角を上げたヘクターのとろりと甘く濁った眼差しは、間違いなく自分に向けられている。
美しい顔がすぐ近くに迫って、仰け反ったクレアの頬を形のいい指が撫でる。ぞわっと背中が震え、嫌な汗が伝い落ちた。
「それにドレスは今夜、いらないだろう?」
(!!?? なに言ってんの!?)
エプロンの肩紐に指を掛けられて、反射的にその手を叩き落とす。
パシンと鳴った音が信じられないようで、ヘクターは少し赤くなった手を呆然と眺めた。
(やっ、やっちゃった!)
激昂するとなにをするか分からない相手だというのに、生理的嫌悪に抗えなかった。
「あ、あの……っ」
「ふふ、クレアは照れ屋さんだなあ。店でもいつも素っ気なくて……もう、そんな気を遣わなくていいんだよ」
にんまりと怪しく嗤ったヘクターは、クレアに叩かれた手の甲をペロリと舌でなぞる。まるでクリームを舐めるような仕草に怖気が立った。
(ひいぃっ!)
美しい顔からは狂気と色気があふれ出て、クレアの胸は嫌な音で大きく鳴りっぱなしである。
この鼓動は生死に関わる恐怖に対する最大級の警戒音であって、恋のトキメキなどでは絶対にない。
「い、嫌……」
「大丈夫、優しくするから。それに、もう一種類の薬もそろそろ効いてくるかな」
「くす、り?」
カタカタと小さく震えだしたクレアの冷えた手をうやうやしく持ち上げて、ヘクターは愛おしげにキスをする。
形のいい薄い唇が手の甲に、指先に、手のひらに落とされて――おかしい。
されている行為は見えているのに、触られているという感覚がやけに曖昧で、力が入らない。
「や、やだ」
この時になって、喉の奥が痺れるように固まって呂律が回らなくなっていることに気がついた。
(まさか薬を!? 最っ低!!!)
「意識を失ったりはしないよ。感覚を少し鈍くしてくれるだけだから」
「あっ」
クレアの両手をまとめて持つと、ヘクターはびっくりするほど色っぽい仕草でするりとネクタイを外し、頭上で手首を縛る。
そのまま、逃げ場のないクレアを押し倒した。
(やだやだやだ! ばか!! 離せっ!!)
「つっ、痛いなあ、クレア」
どうにか動かせる右足で思いっきり蹴るが、たいして効いていない。ちくしょうだ。
「ふふ、恥ずかしいからって暴れたらダメだよ、クレア。もっと縛らなきゃいけなくなっちゃう……ん? それもいいかな? どんな色のロープがクレアに似合うかなあ」
「~~~!!」
むしろ、余計な扉を開いた気がする。
暴れたことで捲り上がったスカートの裾から、ヘクターの固い手が入ってきた。
ねっとりとまとわりつく視線から逃げるように、せめて顔を背けた。吐き気がする。ぜったいにゆるさない。
「愛しているよ、クレア」
(や、やだ……レイ!!)
息が触れるほどに唇が近づいたとき、鈍い打撃音が響き、喉の奥で詰まった声を漏らしたヘクターがクレアの上に覆い被さった――というか、落ちてきた。
「クレアから離れろ、ヘクター!」
(この声……!)
怒鳴り声は何度も聞いたことがある。けれど、こんなに殺気を孕んだ声音は初めてだ。
ぴくりとも動かなくなったヘクターに押しつぶされながら、クレアは安堵に目を見開く。
「レイ、飛ばしすぎ。あーあ、ドアまで破っちゃって」
「トビー、うるせえ! おい、ヘクター。いつまでそうしてやがる。どけって!」
クレアの上にうつ伏せに伸びているヘクターをベリッと音がしそうに引き剥がすと、そのままドサリと床に投げ落とす。
重しが取れて軽くなった胸でようやく大きく息を吸うと、思い切り噎せてしまった。
「クレア! 大丈夫かっ?」
「……レ、イ」
手首を縛るネクタイを忌々しそうにナイフで切ってクレアを起こすと、気遣わしげに背をさすってくれる。
ケホケホと咳込んだ息が整ってくると、じわりと涙が浮かんだ。
「あー、泣くな……っつーのもこの状況で無理だよな。ごめん、遅くなった。怖かっただろ。おい、トビー。そいつ鍵持ってないか?」
「コイツ死んでない? あ、なんだ大丈夫だ。もー、レイってば思いっきり殴るんだから」
レイと同期のトビーが床に横たわるヘクターを足で小突きつつ、足輪の鍵を見つけてくれた。
「ど、して、ここに……?」
「……怪我してるじゃねーか」
まだうまく舌が回らない。
外した拘束具の下では肌が擦れて血が滲んでいた。それを痛ましそうに見て、レイは顔を上げる。
「クレア。俺もだ」
「な、に?」
「俺も二回目だ」
(……!?)
「詳しい話は後で。クレア、前は俺が先に死んじまって悪かった。あれは笑えない失敗だった」
言葉なく見上げるクレアを安心させるように肩にぽんと手を置くと、レイは絶対零度の視線を床のヘクターに向けた。
「ヘクター・ガザード、気絶しながら聞け! 拉致監禁、薬物強要、暴行及び強制わいせつ等致傷、住居侵入その他の罪で逮捕する!」
「あ、これは証拠に押収したお前の日記ね。それと、親父さんの会社の不正カルテルも一緒に摘発したんで、よろしくー」
罪状読み上げに合わせて、トビーが用意した手錠をヘクターに掛けた。
夢の中の出来事のように感じながら、クレアはそのすべてを瞳に映して……。
(二回目? もしかして、過去に戻ったのはわたしだけじゃないってこと? でも、レイはそんなことこれっぽっちも……)
分からない。分からないけれど――助かった。それに、誰も死んでない。
(……よかったぁ……)
「あ、おい、クレア!」
すっかりキャパオーバーになっていたクレアは、そのまま意識を手放した。
後日。開店前の黒猫亭で、クレアはレイと差し向かいで座っていた。
姉はまだ新婚旅行から帰っておらず、両親は仕入れに行って留守である。
「――じゃあ、レイも過去に戻ったの?」
「ああ」
前の生でヘクターを探ったときに、レイはガザート商会の不正を見つけた。彼が殺されたのは、むしろそちらの隠蔽が目的だったらしい。
過去に戻ったと分かったレイは、クレアと同じに未来を変えようとした。
「でも、クレアは前と色々違うし……お前も『やり直してる』って確信できるまで、どんだけ気を揉んだか」
「わたしが違った?」
たしかに同じ行動ではなかった。でも中身は同じクレア本人だ。
小首を傾げると、言いにくそうにレイは言葉を続ける。
「だって今世のお前って、どう見ても団長が好きだったじゃないか」
「はあ?」
たしかに団長を呼び出して叱ったり、こっそりお膳立てしたりした。
姉のことで背中を蹴っ飛ばしていたクレアのそういった行動を、レイは誤解したらしい。
「仕方ないだろ、そう見えたんだって!」
「レイこそ、前も今もお姉ちゃんのことが好きでしょ」
「そっちこそ、なんでそうなる?」
「お姉ちゃんの前でいっつも赤くなってたし」
「あ、あれは……お前のことを揶揄われてたんだ。いつ告白するんだ、って」
「えっ?」
ガシガシと短い黒髪をかき回すレイの顔は、すっかり染まっている。
気合いを入れるようにやや乱暴に両手を膝に置くと、レイはキッと顔を上げた。
「お、俺は! お前のことが好きだ!」
驚きに目を見開くクレアの瞳に、まっすぐ自分を見るレイが映る。
「死んでも諦められなかったんだ。直接フラれないと無理だ」
「レイ……」
「言わないまま死んで後悔するのはもう、まっぴらなんだよ。お前は俺のこと、なんとも思ってないって知ってるけどさ」
拗ねたように言ってそっぽを向いたレイを、クレアは穴が空くほど見つめた。
――どうしよう。うれしい。
胸にあいた大きな深い穴が、急速に満たされていく。
「ええとね、レイ」
「同情はいいから、さっさと振ってくれ」
「わたしもレイのこと、好きだよ」
「……は?」
今なら言える。
いつものように文句も冗談も交えたりしないで、正直に、素直に。
「クレア?」
「もしこれが死後の世界でも嬉しい」
「やめろ、死んだことにするな。今の言葉、嘘じゃないな?」
「本当だよ。前も今も、レイが好き」
二人の間にはテーブルがあったはずなのに、気づいたらレイの腕の中だった。
随分前に背を追い越されたのは分かっていたけど、こんなに身体ががっしりしてたなんて今まで知らなかった。
負けたようで悔しい。でもムカつきはしない。逆になんだか照れくさい。
赤くなっているだろう頬を隠すように硬い胸元にさらに顔を埋めると、勘弁してくれとか刺激が強いとか言ううめき声が頭の上からくぐもって聞こえた。
「……俺、まだ下っ端だから、け、結婚とかその、すぐにでもしたいけど」
「お姉ちゃんが結婚したばっかりだから、お父さんがまた泣いちゃうよ。それよりレイ、ひとつだけ約束して」
「おう、なんだって守るぞ」
真面目くさって即答するから、くすりと笑ってしまった。
あのね、と言おうとして、あの晩の雨を思い出して胸が詰まった。
冷たかった。痛いほどの強い雨粒に濡れた服の重さで地面に沈みそうだった。
「……もう、死なないで。一緒に生きて」
未来は変わった。これからのことは分からない。一難が去っただけでまた一難あるかもしれない。
けれど――雨はきっと晴れるし、なんなら二人で傘をさして歩こう。
「……当たり前だ。ぜってー死なない」
「ふふ、ありがと」
口約束でもいい。ようやくクレアの中で前の生に区切りが付いた気がした。
翌年、姉夫婦の間に子供が生まれて黒猫亭はますます賑やかになった。
さらに翌々年。第二子の誕生祝いは、クレアとレイの結婚披露と合わせて盛大に行われたのだった。