9
どこにでもある日常の光景だった。
指示を受けた通りに旅人に扮し、この村に滞在すること一週間。そろそろ村人に怪しまれるのではないかと危惧しながらも滞在し続けていたある日、村の空気が変わったのを感じて宿の部屋を出た。
「…人の気配がない?」
そのまま戻って隠し持っていたホルスターをはめ、拳銃をいつでも使用できる状態にして再び廊下へ出る。
人の声も生活の音も全てが消えていた。
慎重に階段を降りて食堂へ行けば、いつもはいる夫婦も従業員も誰もいない。ただ、厨房と食堂の床に衣服と共に灰が積もっていた。
「…おいおい、嘘だろう…」
この灰が積もる光景を自分は何度も見たことがある。
そっと衣服を退けて灰を掻き分け目当てのものを探すが、見つからない。衣服をもとに宿内の全ての灰を確認したが、どれからも心臓石は発見できなかった。
宿を出て憲兵の詰所に向かえば、その途中、茫然と佇む医師と遭遇した。
「あんたは無事なのか?」
「…旅の人、だったかな?」
やはり他所者は目立っていたらしい。診療所の世話にはなっていないが、こちらの存在は知られていた。
「そうだ。この状況はどういうことだ?」
「…さて、どういうことか…」
「残っていると思われる人に心当たりは?」
「…憲兵くらいでしょうか」
「そうか。一緒に行くぞ」
「貴方は軍人ですか?」
腰に下げた銃に目をやりながら、問いかけられる。
「軍人に隠したいことでもあるのか?」
「いいえ。逆に、お話しせねばならぬことがあります」
「そうか」
憲兵に会ってから自分の身分を明かせばいい。一言断りを入れてから老医師を背に担ぎ、詰所へと向かった。
憲兵は詰所で呑気に日誌を書いていた。
村の異変には全く気づいていなかったと言う。
見なければ信じられないだろうと憲兵を伴って近くの民家に入れば、案の定、そこにも灰の山ができていた。
「こっ、これは…」
「お前も軍人なら分かるだろう?──吸血鬼の最期だよ」
ごくりと憲兵が唾を飲み込んだ音が耳に届く。
「…吸血鬼…」
やはり心当たりがあるようで、その言葉を舌に乗せる二人の顔は真っ青だった。
「さて、俺にはさっぱり状況が分からん。何がどうなっているんだ?」
「…ただの旅人に話せることではない」
「そうか。俺はとある人から指示を受けて、ここに来ている」
軍服は置いてきても、身分を示す階級章だけは持ってきていた。それを取り出してテーブルに置けば、それを凝視する憲兵は顔を強張らせて微動だにしない。
「罪を問いに来たわけではない。ここで何か重大なことが起きる可能性があり、それを見届けるようにと命令を受けた」
「……本当でありますか?」
「本当だ。お前が過去に何かを隠していたとしても、俺も俺に命令をした人もそこに興味はない」
「……」
「ちなみに、俺にこの命令をした人は、A級シャスールだ」
老医師と二人、弾かれたように顔を上げた。
決定だ。
二人はこの村の真実を知っている。
「話を聞きたいところだが、先に手伝ってほしい。村人の人数は把握できているな?」
「はい」
「全員いるか、数えるぞ。心臓石がないかもな」
「イエス・サー」
吸血鬼に関わったことのある者にとって、やはりA級シャスールというのは神様にも等しいらしい。打って変わって敬礼を綺麗に決めて、きびきびと動き始めた憲兵は表情からして別人だった。
戸籍と村人の名簿が届くまでに老医師に水を渡して詰所で待つようにと伝える。その際、電話に触れることを禁ずることも忘れなかった。
「ジャック・ダフラスだ。階級は中尉」
「イヴェール憲兵隊所属、ダニエル・クリフトンです」
「クリフトンな。よろしく頼む」
村の地図と名簿を照らし合わせながらどこの区画から始めるかを決めて、一緒に動き出した。
だがしかし、最初に入った家もその次の家にも目当てのものは見つからず、人に会うこともないまま名簿に印の入った箇所が増えていくにつれて二人とも口数が減っていく。
「…嘘だろ…」
そして、名簿で残った最後の一人を探して歩けば、その一人は診療所で発見された。
「全員、寄生種かよ…」
揺りかごにも灰が積もっているのを見た瞬間はあまりの悍ましさにぞっとしたが、それでもまさか村人全員だとは思わなかった。
「…あの先生は、人間か?」
「えっ…」
思わず零れた疑問に憲兵が大きく肩を揺らして振り返る。
「…先生が、吸血鬼だと…?」
診療所の中をぐるりと二人で見回して、ここがまさにその疑惑の渦中の人の住居なのだと思い至れば、一刻も早くそこを抜け出したくなった。顔を見合わせて一目散に扉へ向かって走り出し、外へと飛び出した。
「な、なんてな、まさかな…」
「そうですよ。先生はずっとこの村の為に尽力してくださっていたんです。そんな、まさか、吸血鬼だなんて…」
「そうだよな。…とりあえず、遺体が見つかる場所へ連れて行ってくれ。何か印がないか見たい」
「承知しました」
話題を変えても吸血鬼。一生ついていくと決めた上司がA級シャスールである以上、避けられぬことではあるが、それでも得体の知れないものと戦う恐怖は何度経験しても消えることはない。
先導する憲兵がこの村についてどこまで知っていたのかは後で聞くとして、もしも赴任時から知っていたとしたら地獄だなと思う。
「ちゅ、中尉!」
引き攣った声に、あぁやはりまだ災難は終わっていないのかと拳銃を手にして憲兵とは共に側の家の壁に隠れた。
「どうした?」
「人影が!」
「人影?」
憲兵が指をさすのは、山への入り口。
じっと様子を伺えば、小柄な人物が誰かを背負っているようにも見える。
「…ん?」
そのシルエットに見覚えがあった。
「え?うわっ、あの二人か!」
金髪が確認できたところで慌てて身を潜めていた場所から出て駆け寄った。
「大佐!」
「…えっ?」
自分が呼んだ階級に後ろから驚愕の叫び声が聞こえたが、説明している暇はない。
「よぉ、中尉」
顔を上げて笑った彼は、確かに間違いなく上司が後見人をしているあの青年だった。
「どうしたんですか!」
近付けば二人とも顔色が非常に悪いことに気付いた。特に大佐が背負っている中尉は土気色だ。
「瘴気にやられた。先生は?」
「無事です。今は詰所に。代わります」
「頼む」
「クリフトン。詰所に戻って、先生を背負って診療所までお連れしてくれ」
「はっ!…あ、いや、一人でですか?」
「あぁ……大佐。先生が吸血鬼の可能性は?」
「山奥で吸血鬼は倒したから、生き残っているなら先生はただの人間だ」
「だそうだ。早く行け」
「イエッサー」
中尉を背負い、大佐の持つ荷物を見れば、小さいものが一つだけ。
「大尉の銃は全部壊して置いてきた」
こちらの視線に気付いてか、ぼそりと答えてくれる。
「えっ……えぇっ!大尉って、つい先日、最新の銃器を幾つか買い揃えたと…」
「買い揃えたというか、まぁ、申請が通って軍から支給されたものだから…」
「でも、グラスニー大尉が、あれだけの装備は高価すぎてウェールでは買えないと羨ましがっていましたよ」
「なんだお前、俺が悪いって言うのか?」
「いやいや、そうではなく!」
「…仕方がないだろ。あれだけ全部は持てない」
「そんなに持っていったんですか?」
「持っていった。だけど、ほぼ弾倉は空だったから、壊すだけで済んだかな。どっかで回収隊を出すよ」
「そうっすか…」
グラスニー大尉は、追加した装備だけでも大きな屋敷が一つくらいは余裕で建つだろうと推測していた。それらも含めて全て使い物にならないとなると、いくら大佐でも処分は免れないのではなかろうか。
「…大丈夫ですか?」
「余りあるだけの手柄は立てた」
「…そうっすか」
その手柄の内容を聞きたいところだが、上司と相談してからでないと話せないことも多いだろう。
背負う大尉の体は服を通してもとても冷たく、気を逸らさなければ嫌な未来ばかりが脳裏を過る。
「階級章は?」
「こっちにまとめて入ってる。二人分の軍服も」
診療所にはすでに憲兵と医師が到着しており、憲兵から瘴気によるものだと聞いたのか、医師がいくつかの薬品を用意しているところだった。
「先生、瘴気の対応の経験は?」
「父が死んだ原因が吸血鬼だ。知識だけは入っておる」
「分かった。材料を揃えてくれたら調合はこちらでする」
「大佐、何かできることがありましたら、ご指示をお願いします」
「じゃあ、そこの電話で上司に連絡して、15分後に連絡をくれるように言っておいてくれ」
「イエッサー」
大佐という立場を知らなかったのか、医師が驚いたように青年を凝視する。
「先生、ここの番号は?」
「電話の横に置いてあるのがそうだ」
「どれだ?…あぁ、これだな」
服の両袖をハサミで切って剥き出しにされた腕は、壊死しているかのような紫色。憲兵が思わず後退り、恐怖に顔を歪めた。
「そこの憲兵。ここに車は?」
「あ、あります」
「イヴェールまで走ってもらうかもしれない。ここまで持ってきておいてくれ」
「イエス・サー」
そのイヴェールまで行くのはきっと自分なのだろうと思いながらウェール最高司令官室直通の番号にかければ、電話に出た上司の副官である女性からは事の重要度を聞かれた。最優先と告げれば、昨日、爆破事件を起こしたテロリストのアジトが分かり上司は現場に出ているという。
「大佐、どうします?」
「30分は待てないと伝えてくれ」
「はい」
大佐と呼び掛けた声を電話の向こうで拾っていた彼女は、こちらの状況を察してくれた様子。すぐに准将と連絡を取ると約束してくれた。
「…君は、本当に大佐なのか?」
「そうだよ。一応、こんな形でも吸血鬼討伐の特別部隊の隊長で、A級シャスールの資格を持ってる」
「そうか…。頭のいい少年だとは思っていたが」
「少年って年でもないんだけどね」
「だが、大佐という年でもなかろう」
医師は二度三度頷き、納得したのか大佐に向かって深々と頭を下げた。
「父の仇を討ってくれたこと、これからの犠牲者を救ってくれたこと、心より感謝申し上げる」
「いいよ。俺だって理由があって吸血鬼と戦ってるんだ。気にしないでくれ」
大佐が慎重に解毒剤を注射し、大尉の顔色を見ながら量を増やしていく。
「中尉は有給扱い?」
「そうです」
「イヴェールに同期とか知り合いはいる?」
「いますよ。連絡取りましょうか?」
「頼む。今は誰についてるか忘れたけど、ピーター・ゴードン少尉から連絡が欲しい」
「承知です」
きっと第13部隊の隊員の一人なのだろう。
イヴェールに電話をして呼び出してもらえば、同期は運良く司令部内にいた。知人がお世話になったらしくお礼を言付かっていると告げれば、調べて折り返すと約束してくれた。
外に止まった車の音は、恐らく憲兵だろう。念の為に拳銃は手放さずに外へ行き、憲兵を外に待たせて車に発信機などはないか確認をする。
「よし、あとは指示待ちだな」
「…私や先輩方は、本当に罪に問われないのでしょうか?」
「問われないように最大限の努力をする。その為には、一つも予定外のことが起こっちゃ困るんだよ」
医師が電話を使わないように憲兵には無断で詰所の電話線を切っておいたので、外部に連絡を取ることはできない。車にも通信手段はなかった。
「この村のことをイヴェールの誰も知らなかったなんてことはあり得ない。それがこちらの強みだ」
診療所に戻れば少尉からの電話が先だったよう。荷台付きのクルマを一台、極秘に用意するように大佐が指示を出していた。