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東部中心都市ウェールにある東方面総司令部に到着すると、シェルシスは真っ直ぐに最高司令官室へ向かった。
早朝だが目的の人物はそこにいるはずだ。
無人の司令室を抜けてまずは執務室のドアの前に立って軽くノック。
「入りたまえ」
声が返れば無言でドアを開ける。声をかければ相手には自分が誰か分かってしまうから。ちょっとした悪戯心だった。
「誰だ……シェリィ!!」
「煩い」
豆鉄砲を喰らったような顔を期待していたのに、弾けるような満面の笑みを向けられてしまった。
「ようやく帰ってきてくれたのかい?二ヶ月振りだな」
「新たに一匹倒したので、その報告に参りました。こちらが報告書です」
道中作成した報告書を手渡せば、処理途中だった書類は脇に追いやられ、すぐに報告書に目を通す。同じシャスールとして、彼もまた興味が先立つらしい。
「純血種か」
「そうです。あまり食事ができていなかった為か、森の周囲は念の為に固めていましたが、一人で十分なほど。そんなに強くはありませんでした」
「怪我は?」
「ありません」
「それはよかった。おかえり」
「ただいま」
ふわりと柔らかくなる空気は終わりの合図。手で示されるまま応接用のソファに座った。
「リア大尉はどうしたんだい?」
「後を頼んできた。明日にはここに着くと思う」
「そうか。倒してから直接ここへ?」
「そう。昨日の昼に出て、車中泊して、今到着。東と南の境だったから時間がかかったな」
「それは大変だったな。疲れただろう。すぐにお茶を用意させよう」
「隣、誰もいなかったけど?」
「近くにはいるだろう」
彼が机の上の鈴を鳴らすとすぐにドアが開き、お盆に紅茶とお菓子を乗せたライア・グラスニー大尉が現れた。
「おや、分かっていたのかい?」
「あれだけ大きな声を出されれば聞こえます。──どうぞ、シェルシス大佐」
「ありがと。リア大尉は明日には着くと思うから」
「そうですか。では姉の部屋も整えておかなくてはいけませんね。その為には…」
「……私が仕事を終わらせ、皆が定時に帰れるようにしなくてはな」
「その通りです。お願いしますね、准将」
「…あぁ」
机の上で山になっている書類を眺め、物憂げに溜息をつく彼を見て、シェルシスはある提案を思い付いた。
「なぁ、准将」
「なんだい?」
「姉さんに会いたいか?」
「会いたいとも!」
「…即答かよ…」
ぐっと身を乗り出す彼に、その分だけ無意識に下がってしまう。
「当然だ。最愛の人にはいつでも会いたいと思うものだ。ましてや、なかなか会えない相手であれば尚更」
「そっか。それじゃあさ、今日中にそれだけ終わらせられれば、姉さんに会わせてやるよ」
「本当か?それならば喜んでやろう。大尉、明日の分も持ってきてくれ」
「承知しました」
「これで明日も休みが取れる」
上司の怠け癖に日々苦労させられている大尉の冷ややかな視線も、彼には無意味らしい。
「それじゃあ、オレは中央へ行って姉さんと交代してくるよ。今回はあんまり有益な情報は得られなかったけど、まぁ、研究を進めることはできるだろうから」
「分かった。彼女はいつ頃、こちらに着くかな?」
「今日の夜だな。ただし、一週間だけだからな。その後はオレとの研究に戻ってもらう」
「一週間も彼女といられるなら最高だとも。ありがとう」
「どういたしまして。それじゃ、オレは中央へ向かうよ。ライアさん、お茶おいしかった。ありがとう」
「よかった。気を付けてね」
「うん」
シェルシスは笑みを返すと、急に活気付いた総司令室を後にした。
日没を僅かに過ぎた頃、閑静な高級住宅街の一角に軍用車が止まった。運転席から後部席を開ける為に出てきたのは軍人で、後部席から姿を現したのもやはり軍人。
「明日は休みだから迎えはいらない」
「分かりました。間違えないようにします」
「絶対に間違えるなよ。ようやく手に入れた至福の時間を邪魔したら…」
「わ、分かりましたって」
「本当に?」
「貴方の剣の試し切りに使われたくありませんからね」
「賢明な判断だ」
「それじゃ、失礼します」
「ご苦労だった」
車を運転してきた部下は上司が家に入るまで敬礼の姿勢で見送り、その姿が消えると大きく溜め息を吐き出す。
「何度見ても慣れねぇなぁ。あの人が一人に決めるなんて天変地位の前触れじゃ……っと。早く帰るか。あの人の地獄耳は怖いしな」
上司の恐ろしい特技を思い出し、慌てて車に乗り込んだ。
「──聞こえているんだがな」
「中尉の声?」
「ラミア!!」
「おかえりなさい、フィル」
「ただいま」
迎えに出てきてくれた恋人を抱き寄せて強く胸に抱く。
「会いたかったよ」
「ふふ、ただいま」
「おかえり」
「ちゃんと仕事は済ませてきた?」
「勿論。その証拠に明日は休みだ」
「よかった。それじゃあ、ライアを困らせることはないわね」
「君との大切な約束だからな」
「貴方とも一緒に過ごせるし、楽しみだわ」
「あぁ。私もだよ」
「それじゃあ、とりあえず食事にしましょうか」
「ありがとう」
フィリアルは恋人の額にキスを一つ贈り、恋人が作ってくれた料理の並ぶダイニングへ向かう。
「また冷蔵庫が空だったわよ?いいかげんにしてちょうだい」
上着を脱いで椅子に掛けようとしたら、皺になると叱られて彼女に奪われた。
「君が市場に行ったのか?」
「シェルシスが行ったの。中央行きの列車まで時間があったから」
「それならいい」
「それで?どんな生活をしたらあんな台所が出来上がるのかしら?」
「……外食続きだったんだ」
「今度はどこの御令嬢?」
「…ラミア…」
「そんな困った声を出しても駄目。言わないと食べさせてあげない」
「……」
「で、誰?」
「……北のミール中将の姪だよ」
「あぁ、彼の」
「そうだ」
仕事とはいえ楽しい時間でもなければ得られるものもなく、ひたすら砂を噛んでいるような食事だったことを思い出し、思わず眉間に力が入る。
「どこまでしてあげたの?」
「その質問は心外だな。食事はしたが、それだけだ」
「そう。よくできました。──はい」
「ありがとう」
温かいスープと、ケールのサラダ、鶏肉の香草焼き。更に二人のお気に入りのパン屋のバゲットが並ぶ。
「明日はどうするの?」
「家で過ごすに決まっている」
「…あぁ、決まっているの…」
「当然だ」
「まぁ、いいわ。それじゃあ、明日は掃除を手伝ってね」
「…できればベッドで過ごしたいのだが」
「あら、嫌よ。そんな不健康なこと」
くすくすと彼女は笑い、その不健康な過ごし方を至福の時だと感じているフィリアルは撫然としていたが、その笑い声を聞くうちにその表情も綻んでいった。
「ラミアと一週間過ごせるのだから、良しとするべきか」
「そうよ。幸せでしょう?」
「あぁ、とても」
向かい合って食事を取ることも滅多にできず、月に一日でも会えればいい方だという恋人との時間。それは何ものにも代え難い、大切な大切なもの。温かな食事を味わいながら顔を上げれば彼女と目が合って、更に温かな気持ちになった。
「ねぇ、フィル」
「ん?」
「キスしてもいい?」
「勿論」
どうやら彼女も同じ気持ちだったらしい。手を伸ばせば触れられる距離──常に心から欲するものが今、目の前にあった。
柔らかな日差しを感じて目を開ければ、眠る時と変わることなく自分は彼の腕の中。すぐ目の前の彼はまだぐっすり眠っていて、カーテンを閉めに動こうとしても動けない。
少しでも動けば彼は目を覚ましてしまうだろうと諦め、仕方がないので彼の胸に顔を埋めて陽を避け、再び目を閉じた。
次に目を開けた時、彼は隣にいなかった。
辺りを見回して、そこでコーヒーの香りがするのに気付く。どうやら朝食を作りに行ってくれているらしい。カーテンはしっかり閉められていて、睡眠を邪魔する陽射しも今はない。もう一度眠ろうかどうしようかと迷っているところにドアが開き、朝食を乗せたトレイを片手で持ってフィリアルが入ってきた。
「おや、起きたのかい?」
「貴方より早く一度起きたわ」
「それはすまなかったね」
銀のトレイの上にはパンとサラダとコーヒー。致命的なまでに料理ができない彼のできる精一杯だ。
「おはよう、ラミア」
「おはよう」
軽い口づけを交わし、放り出されていた彼のシャツを着てベッドを出る。
「朝から誘われているようだな」
「嫌よ。お腹が空いたの」
「………」
「いただきます」
「…いただきます」
ちょこっとだけ不満そうに拗ねている彼の頬に軽くキス。
「ありがとう、フィル」
不意打ちに驚いて目を丸くする彼は、堪らなく可愛かった。
「…まったく…。本当に試されているようだな」
「食べ終えたら、リベンジの機会をあげるわ。とびきりの口説き文句にその気になったら、今日一日は貴方の望むままに」
丁度ちぎったパンを彼に差し出せば、楽しげに目を細める。
「約束だぞ?」
「えぇ」
彼次第だと言いながら、彼の望むままに今日一日が過ぎることは間違いないだろう。
一緒にいられる一週間の内、一日くらいこんな日があってもいい──ひとりで必死に旅をしていた頃の自分からは考えられないことを、今の自分は自然に思うようになっていた。
休み明け、嫌がる彼を宥めて諭して脅して仕事へ行かせてから、ラミアは家の掃除を始めた。
両親と過ごした家をとうの昔に捨てた自分にとって、あの日以来初めて“家”と認識した場所。
掃除には絶好の晴天に感謝して、溜まっていた洗濯物や埃を片付けていく。一段落したところで市場へ行き、食料品と一緒に綺麗な薔薇を買った。テロなど大きな事件がなければ、彼は今日も早く帰ってくる。
夕食の準備も終わったのでソファに体を預けて、のんびり闇へと移り変わる空を眺めていた。
「──ただいま」
「…あら。おかえりなさい」
背後から抱きしめられて、ふと現実に還る。
「玄関で迎えてくれないから、何かあったんじゃないかと心配したよ」
「ごめんなさい。ぼんやりしていたわ」
「構わないよ。君が心を許してくれている証拠だ。むしろ嬉しい」
無邪気に笑いながらキスを求めるから、つい許してしまった。
「聞いてもいいかな?」
「なぁに?」
「何に心を奪われていたんだい?」
「貴方の目と同じ色に変わる空に」
黒い闇の瞳は、優しい色を映して眇められる。
「美しかったわ。夕焼けがとても綺麗で、移り行く空が神秘的だったの」
「そうか」
「故郷を思い出して、つい時間を忘れてしまったわ」
「見たかったな」
「ふふ。…ご飯の支度、するわね」
「後でいいよ」
「どうして?」
問いに答えず隣に座った彼は、ふわりとラミアを抱き上げて、膝に座らせた。
「フィル?」
「ん?」
甘えるように首筋に顔を埋めて、腰に絡まる腕はこちらの自由を奪うほどではないが、やんわり解かせない力で身を囲う。
「明日の夜は外で一緒に食べようか」
「いつも私を見せるのを嫌がるのに、どうしたの?」
「当たり前だ。君は美しいんだから。一万人いたって、全員が君に振り返る」
「大袈裟ね」
「君が知らないだけだよ。たとえ人数が一億になったって変わらない。全員が目を見張って、君に心を奪われるんだ」
「あらあら」
「でも、お店に入るまでサングラスをしてならいいかなと思ったんだが…。不自由で嫌か?」
「いいわよ。私と食事は久し振りだもの。いつもシェルシスが相手じゃない」
弟相手におとなげないが拗ねた口調になってしまって、それに彼はまた破顔する。
「とっておきのお店を予約しておくよ」
「楽しみにしているわ」
約束の印にキスを一つ。満たされたのか腕の力が緩んだので、膝からおりて振り返る。
「ご飯ができるまでに着替えてね。できなかったら、ペナルティーよ?」
あとは温め直して、盛りつけるだけ。慌てて飛び出した彼が可愛くて、笑いが止まらなかった。
決められた休みの最後の日。彼はまたも休暇を取り、最後の最後まで一緒にいたがった。二人で過ごす時間は満たされていて、ここを出たくないと心が軋む。
「もう行ってしまうのか?」
「行くわ。歩みを止めるわけにはいかないもの」
「そうか…」
着替えを終えて振り返れば、彼もまた軍服へと支度を終えていた。
「フィル?」
「駅まで送るよ。早朝だし快晴のようだ。歩いて行こう?」
「そうね。ありがとう」
外は暗く、まだ太陽が昇る前。人目が少ない夜明け直後ならば、この地の有名人である彼と並んで歩いても写真に撮られることはないだろう。
荷物を詰める間に、彼はダフラス中尉に駅に迎えに来るよう連絡をして。昨夜のスープとお気に入りのバゲットで朝食をとってから、連れだって出発した。
「これからの予定は?」
「北の果ての噂を聞いたから、今回の成果にもよるけれど有力なのはそこね」
「北の果てか。帰ってくるのは?」
「最短でも三ヶ月はみておいて」
「……」
「連絡は入れるようにするから」
「シェルシスに早く帰るように言っておいてくれ。さすがに三ヶ月は寂しい」
「そうね。寂しいからといって、浮気したら別れるわよ?」
「しないとも」
「女性と二人きりで出掛けたりしたら、許さないから」
「…勿論だ」
頬がひくりと引き攣ったのを確かに見たが、指摘するのはやめておく。駅はもうすぐ。喧嘩をするなんて、勿体ない。
「──ねぇ、フィル」
「ん?」
「次に会う時まで、必ず生きていてね」
はっとして彼がこちらを見たのが分かったが、目線は前へ向けたまま動かさない。すると、彼の繋ぐ手を握る力が強くなった。
「必ず生き続けるよ。どんな手を使っても、どれだけの命を奪っても、必ず。だから君も同じことを誓ってくれ」
「誓うわ。絶対に、ここへ帰ってくる」
貴方の元へという気持ちを込めて、彼と同じく手をぎゅっと握れば、そのまま手を引かれ、抱きしめられた。
「待っているよ」
「ありがとう」
誓いのキスを交わして離れてから、サングラスを掛ける。中尉がもう駅に着いていたりして顔を見られては、彼の機嫌が急降下してしまう。
「じゃあ、いってきます」
「あぁ。気をつけて。三ヶ月は長いが、君からの連絡を心待ちにしているよ」
「貴方は無理をしないようにね」
「心得た」
狙い通り、始発列車を待つ駅には、駅員と憲兵くらいしかいない。別れを惜しんで自然と交わした口づけは深いものになった。
「旅の安全を、心から祈っているよ」
「ありがとう。──いってきます」
最後に指先に祈りのキスを受けるのは、いつもの儀式。薬指を選ぶのは、ロマンチストな彼らしい。
始発列車が駅に入るベルの音が、別れの合図。
にっこり笑顔で目線を合わせ、くるりと背を向けて歩きだす。突き刺さる気配が消えたことで、彼もまた自らの道へ歩きだしたのを知る。──何度帰ってくると誓っても、これが最後かもと毎回思う。そしてその度に、振り返って彼を追いたい衝動に駆られるのだ。きっと彼も同じ気持ちで、だからこそ自分が列車に乗るのを見届けずに背を向けるのだろう。
「いってきます」
遠くに、彼が迎えの車に乗り込む姿が見えた。
駅を出れば、いつもの場所に車が止まっていた。外で煙草を吹かしていた部下は、こちらの姿を見るとすぐに火を消して敬礼をする。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
大きく開けられたドアから乗り込めば、彼女の乗った列車が出発した。
「浮かない顔ですね」
「最愛の人の出発を、笑顔で送れるわけないだろう」
「かなり別れを惜しんでたじゃないですか」
「見ていたのか?」
「駅に入っていくところを」
「顔は?」
「見てないですよ。独占欲、強すぎじゃないですか?」
「彼女もよく知っているよ」
だから周囲にとやかく言われることではないと示せば、大きな溜息をつく。
「噂の金髪美人な彼女を、心の底から尊敬します」
「お前、来月からしばらく減給だな」
「えっ!?」
「彼女が帰ってくるのが三ヶ月後らしい。それまで我慢するんだな」
「そんな!酷すぎますよ!」
「上司に無礼な口をきくからだ。それより、前を見ろ。私を殺す気か?」
このまま司令部に出勤するには、時間が早過ぎる。
「中尉、朝食は?」
「時間なかったんで、食堂で何か食べさせてもらおうかと」
唐突な話題転換にもついてこられる辺り、頭はしっかり働いているらしい。
「それなら、次の角を右に曲がって、四軒目の前で止めろ」
「イエッサー」
あそこの喫茶店のマスターのいれる珈琲は絶品だ。二日前にも彼女と来たばかりだから、それを思い返せば少しはこの寂しさも薄れるだろう。
「顔色、悪いですよ」
「…気の所為だろう」
車を降りた瞬間に言うから、思わず苦笑が洩れた。有能な部下だが、目敏すぎるのは時に考え物だ。
「互いに、立ち止まるわけにはいかないんだ」
「はぁ、まぁ、ほどほどにしてくださいね」
道を進むことになのか、相手に溺れることになのかは分からないが、部下の忠告はありがたく受け入れておく。
彼女が好きなウィンナーコーヒーを注文すれば、いつもと違う注文にこちらの意図が分かったのか、店主は少し甘い珈琲を作ってくれた。珍しいと、部下が目を丸くしている。
一口飲めば彼女と交わしたキスが脳裏に蘇り、ひっそりと笑みが浮かんだ。──互いに、明日を迎えられるかすら分からない立場だ。目を閉じ、どうか無事でと、心の底から祈りを捧げた。