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ヒーローになるのは大変だ

わたしのヒーロー



ひとりの若い女性が腕時計を気にしながら夕刻の道を走っている。

渡辺香織。20歳の大学生。学校を出るのが遅くなり、電車の発車時刻を気にしている。


「あと7分だわ、急がなくっちゃ。んもう、なんであんなどうでもいい話を長々とするかな」


講義の後に提出したレポートのことで教授に掴まり、普段なら電車の発車時刻まで30分あるのだが、その余裕を失った。ちょっと走れば間に合うと、いま帰路を急いでいる。思い出すと怒りが沸いてくるが、いまはそれよりも電車の時間だ。教授のことはとりあえず後にして足を動かす。

電車の本数が少ないため、逃して1時間待つのは何としても避けたい。そこの角を曲がれば駅前だ。時間を確認するとあと3分あった。間に合った。駅を前にしてホッと気を抜いて足を緩めた。


その時、不意に後ろから腕を掴まれた。


「おい姉ちゃん、危ないだろうが!」


荒く野太い声。痛む右腕。何が起こったのか理解が出来ない。

振り向いて相手のほうを見る。2mはあるかという長身で肩幅も広い大柄の男。日没前の眩しい夕日での逆光により男の姿はシルエットしか見えず、香織には黒い大きな壁のように見えた。

目の前が突然真っ暗になったような錯覚。男性恐怖症であることも拍車をかけてパニックとなった。悲鳴をあげようとするが声にならず、腕を強く振ったが男の手は解けない。そしてさらに掴む力が強くなる。


「...助けて...」


辛うじて出た声。香織の視界は狭まり靄が掛かる。そして暗くなっていく景色。

僅かな視界の中で、脇から伸びる手が男の腕を掴んだ。


「もう大丈夫だ。助けに来た」


男性の声。先程のとは違う、力強くて優しい声。

意識が薄れていく。景色が遠くに離れていくように見える。もみ合っている二人の男性の姿が見える。

耳に残るのは、助けに来たと言う力強い声。目に残っているのは、脇から伸びた腕に腕時計と思われる黒い大きな塊があったこと。そして僅かに見えたその人のシルエット。髪はウェーブのあるショートに見えた。


誰かに背中を支えられた。そして私の顔を覗き込む女性警察官。


「警察です。もう大丈夫ですよ」


そして私は意識を失った。



夢を見た。

泣いている8歳くらいの女の子。子供の頃の私。

大きな怖い人。地面に届きそうなほどの白いマント。

誰かが私の頭を撫でている。私は眩しそうに目を開けた。陰で隠れて顔が見えないけれど、優しい笑顔だ。

子供の私が言う。「お兄ちゃん?」

大きな人の手が近付いてくる。太い腕に黒い色。入れ墨? そしてお兄ちゃんの頭が掴まれた。


「お兄ちゃん!」


私があげた恐怖の声。そして長い静寂。

切り裂くような叫び声。その後に、力強くて優しい声。


「もう大丈夫だ。助けに来た」




目が覚めると交番の簡易ベッドの上だった。震える脚で立ち、明かりのほうに向かう。あの男に掴まれていた右腕が痛い。

明かりの中で女性警官が座っていた。彼女が私を見て、そしてにこりと笑う。


「目が覚めたのですね」

「私は...」

「大丈夫ですよ。時間も10分くらいです。いま救急車を呼んでいますので、待っていてください」

「えっ? あの人に、助けてくれた人に何かあったのですか?」


警官は苦笑する。


「いいえ、あなたです。ほら」


指し示された私の右腕。紫色に大きく鬱血していた。


「折れてはいないと思いますが、念のため病院で見て貰いましょう。助けられてよかったですよ。犯人は能力者でした。意識が混濁していたようで、あのままだったらあなたは殺されていたかも知れません」

「あっ...あの、私を助けてくれた方は?」

「彼なら大丈夫です。ヒーローですから」


偶々通り掛かったヒーローに助けられたということ。瞬く間に男を拘束して、さっきまで此処に居たこと。男を刑事に引き渡して去っていったこと。そして、女性警官からは秘匿義務としてヒーローの名前や特徴を言うことが出来ないこと。


「もし私がその人を見つけたら、その人かどうか見て貰えますか?」

「...まあ、それくらいなら手伝ってもいいですよ」


翌日から私は、学校の帰りにその交番の前で彼を探した。だけど結局、彼を見つけることは出来なかった。





将来は都会の商社マンになりたいと思っていた。だけどあの日から私の目標は変わった。

あのヒーローに会いたい。そしてありがとうと言いたい。その想いが強く、私はこの地に残った。


あれから2年が経って学校を卒業し、あの場所の近くの会社に入社した。

毎日通いながらあの場所を通れば、あの人に会えるかもしれない。そんな淡い気持ちを抱いていた。

それでも全国に支社のある会社を選んだのは、商社マンを目指していた名残だったのかもしれない。



入社した日。配属された部署に着いた。

辺りを見渡す。女性の姿が7人。男性は課長を含めて10人。希望通りに女性の多い部署に就けた。


「渡辺香織です。早く一人前になれるように頑張ります。よろしくお願いします」


全員の拍手。そして課長が言う。


「暫くは田高くんの仕事を手伝いながら業務を覚えて貰うから。田高くん」

「はい。田高です。よろしく」

「はい、お願いします」


田高さん。30歳くらいの少し草臥れている感のある冴えない印象の男性。ショートでウェーブの掛かった髪型。Yシャツの袖から覗く大きな腕時計。メガネを掛けているところが違うけれど、声も似ている気がする。

あの人なのかもしれない。私はとてもウキウキしていた。



ドアの無いリフレッシュルームのテーブルに田高さんと対面で座っている。

新人研修という勉強会の1回目。田高さんが改めて自己紹介をした後、私に頭を下げた。


「渡辺さんが男性恐怖症だということを聞いています。それでも男の俺が教育係であることについて、最初に謝ります。ごめんなさい。...この課には女性社員が7名いますが、今はそれぞれが抱えている仕事に追われていて、教育係をする余裕はないと言われました。だから渡辺さんの希望に沿えることが出来ませんでした。申し訳ない」


田高さんは二たび頭を下げる。

優しい声。誠実な話し方。そして最初に私のことを気遣ってくれた。ドアの無い場所を用意して私を入り口側にする気配りがある人。

田高さんは男性だが、この人なら大丈夫だと直感した。




ある日の仕事帰り、課内の未婚女性4人と食事会に行った。

係長への悪口で盛り上がり、その後、真壁さんがにやにやと笑いながら私のことを聞いてきた。


「渡辺さんは彼氏はいるの?」

「ええっと、まあ、いません」

「またまたー。美人なんだから1人や2人は居るでしょ?」

「その、わたし、男性が怖いんです」

「えっ、そうなの? 聞いてた?」


他のみんながうんうんと頷く。


「なんだー、私だけ知らなかったわよ、ごめんねー。それで、田高くんは大丈夫なの?」

「えっ?」

「だって、田高くんとは普通に話しているよね。どっちかというと...楽しそうに?」


真壁さんがにやにやと笑い私のほうに身を乗り出す。


「ねえねえ、どうなの?」

「ええっと...田高さんのこと、まだあまり知らないけれど、素敵だなって思います」

「あー、そう思っちゃうよねー。面倒見が良いからね。だけど騙されちゃ駄目よー」


そこから田高さんを話題にしてみんなで盛り上がった。

30歳の独身で、母親と二人暮らし。お昼はいつも持参のお弁当。定時で帰るし時々休む。オフに何をしているのか聞いても教えてくれない。


「田高さん、高卒だけど19歳で入社したらしいの」

「高卒なんだー。留年? 1年間なにしてたのかな?」

「別の仕事をしてたみたい。だけど教えてくれなかったって」

「ふーん。田高くん、プライベートのことを喋らないもんね」

「そういえば聞いたことないわね。昔付き合ってた彼女が―とかよく言う人いるじゃん。田高くんは言わないものね」

「それは特定の人でしょ? 渡辺さんはあの人に近づいちゃ駄目よ」

「田高さん女性が苦手なんですって。学生の頃に何かあったらしいですよ」

「そうなの? それであたしが近づくと避けるのかなー?」

「あー」

「なにその、分かるわーみたいな反応。やだやだ」

「胸が大きい女が苦手なのかもよー」

「やぁだ、そんなに大きくないわよー。Eカップ?」

「十分大きいわよ、下品だから揺らすのやめなさい。それに多分胸じゃないわ、ぶりっこが苦手みたい。きゃぴきゃぴーって感じのが」

「なにそれ、だれ情報?」

「ふふふーん。課長に聞いたの。山口さんが迫った時に何が苦手か聞いたんだって」

「結局あたしじゃん」

「あはは、残念だったわね」

「もうっ。狙ってたのにー」

「他の部署には独身がいっぱいいるじゃない? 石川くんとか、畑中くんとか」

「...ジャガイモとカボチャ」

「うわ、ぴったり」

「田高くんみたいに頬がスッとした男が良いなー」

「課長もいいよねー」

「結婚してるじゃん」

「それでも憧れるくらいは良いよね」

「係長はどう?」

「あれはバカ。バカバカバカバカ」

「なにバカバカ言ってるの。何かあった?」

「何もない。だから...だから...」


真壁さんがさめざめと泣きだした。その真壁さんを久保田さんが宥めている。二人は同じ学校の同級生らしい。


「こうなっちゃうともう、長いのよ」


そう言って、久保田さんが肩を竦める。


「それじゃ、お開きにしましょうか。渡辺さんは勘定はいいからね」

「えっ、でも」

「あなたの歓迎会なのよ。だから今日はいいの。...ほら、電車の時間が迫ってるわ。先に帰って」

「久保田さんは?」

「愚痴を聞きながらまだ此処にいるわよ。地元で家が近いし、長いわよー」


久保田さんがまた肩を竦めた。だが嬉しそうだ。久保田さんと真壁さんはいつも仲が良い。

この中では私の次に若い川口さんが手を上げた。


「わたしは帰るわ。渡辺さん、一緒に駅まで行きましょ?」

「おっけ。お疲れ様。また来週ね~」

「あ、はい。お疲れ様でした。あっと、ご馳走様でした」


私は川口さんに手を引かれるながらその場を離れ、駅に向かった。


「みんないい人なの。分かるでしょ?」

「はい、楽しかったです」

「真壁さん、係長のことバカバカ言ってるけど、ふたりは付き合ってるのよ」

「えっ、そうなんですか?」

「それでもっと早く結婚したかったのに30歳になっちゃったんだって。それで悪口を言ってる。可愛いよね」

「うふふ。良いですね、幸せそう」

「ん、だね」


改札を抜け、駅舎に入った。


「あなたは此処ね。わたしはあっち」

「あ、はい」

「あなたのほうが電車が早く出るけど、まだ20分くらいあるわね。もう少しお話ししようよ」

「はい、いいですよ」


ホームに行くと電車が止まっており、川口さんと並んで座席に座る。

川口さんも田高さんが講師で新人教育を受けたと言う。その時のこと。そして勉強会が終わった後のことを話してくれた。


「勉強会が終わるとチームに入るのね。そしたらほんと目が回るほど忙しくて、気が付くと定時になっているの。最初は辛くて、田高さんに何度も相談してね。そしたらどうやって仕事を進めるのか優しく教えてくれたんだ。それでわたし、田高さんを好きになっちゃった」

「ええー、それから?」

「ううん。わたし付き合っている人がいるの。だからその想いは仕舞ってあるんだ。...気になった?」

「...少し」

「ふふっ、少しって顔じゃないぞ。うかうかしてたら私が取っちゃうかもよ。だから頑張って」

「私、そう言うのじゃなくて...」

「ん?」

「誰にも言わないで欲しいのだけど...」

「ん。言わないよ」

「えっと、学生の頃に悪い人に絡まれて、そのときに助けてくれた人が居るんです。顔は見てなくて、ううん、ちらっとしか姿を見てなくて、だけど声は覚えてて。その覚えていることが全部、田高さんと同じ気がして。...それでもし田高さんがその人なら、あのとき助けてくれたことを、ありがとうって言いたいんだ」

「そっか。田高さんがその人だと良いね」

「うん」


発車の時刻が近付き、川口さんが手を振りながら去っていった。

私はほろ酔いで、電車の揺れを心地よく感じながら、田高さんのことを考えていた。





3か月が経ち、最後の勉強会の時間が終わった。

来週からはチームに入る。田高さんと一緒に仕事をするのも今日で終わり。座席も移動するので田高さんの隣ではなくなる。

席替えしても同じ課なので席も近い。だけど何とも言い表せない喪失感。今日でお別れなんだと思ってしまう。


よほど私が寂しそうにしていたのか、そんな私を見て田高さんが言う。


「新入社員への勉強会はこれで終わりだけど、仕事のことで迷ったり悩んだら、気楽に相談してくれていいから。チームに入るのは不安かもしれないけど、大丈夫ですよ」

「はい。では、これからもよろしくお願いします」


私は頭を下げた。優しい声を聞いて不安は和らいだが、たぶん渋い顔をしている。

顔を上げると、ちょっとはにかんだ田高さんがいて、すこし可愛く見えた。


「なにか聞きたいことあるかな? 何でもいいよ」


何でも聞いていいと聞こえた。

ずっと聞きたいと思っている。あの日の事。あの時のあの人は田高さんですか?

何も証拠は無い。あるのは私の勘と記憶だけ。

左腕の黒い大きな腕時計。ウェーブのあるショートの髪型。横顔の頬の輪郭。

憶えていることとすべて一致している。だけどたったこれだけ。

憶えている力強くて優しい声。似ている気がするけど比べられない。普段の声とは状況が違いすぎる。


だけど...もう黙っていられなかった。


「田高さん。2年前に駅前で、大男に絡まれていた女子大生を助けましたか?」

「え?」

「わたし腕を掴まれて、気絶しそうなくらい怖くて。それを助けてくれた男性がいたんです。特徴が田高さんに似ていて...」


田高さんは苦笑いをして首を振る。


「俺ではないよ。別の人だと思う」


私は彼の顔を見る。困ったような顔をしている。

信じたくない気持ち。やっぱり違ったという喪失感。涙が出てくるのを感じた。


「ごめんね」


いつもと同じ優しい声。


私は彼の胸に飛び込んで泣きじゃくった。





あれから4年が経った。


仕事を理由に忙しいと言い続けてきた。実際に忙しい日々を過ごし、そしていつの間にか何年も過ぎていた。

今では黙々と仕事をしてきたことが実り、チームを率いる立場になっている。


田高さんはあのときから変わらない。新人教育とルーティンを担当している。

変わったのは、お母さんが亡くなって、お弁当から外食になったこと。

そして座席が変わり、私の目の前に座っていること。


田高さんと関わることを避けてきた。同じ課なので近くにいるのだが、遠くにいるように感じてきた。

そして今、座席が近付いただけで、とても近くなったような錯覚がする。



その日は久しぶりに穏やかだった。

打ち合わせが無く、客先からの電話も無い。フォローが必要な状況の部下もいない。

のんびりとメールをチェックしながら、なんとなく田高さんを眺めていた。


もうすぐ昼休みになることから昼ごはんに気持ちが向いた。

今日のお弁当はなんだったっけ? いつも自分で作っているお弁当の中身が思い出せない。

あっ、今日はお弁当を作らなかったんだっけ。だったら田高さんを誘ってみようかな。

何故誘おうと思ったのか自覚をしておらず、無意識に慕っていることを自身で気が付いていなかった。


一緒に食べに行きませんかと、心の中で練習する。

なかなか言い出せない。仕事の事なら簡単なのにと思う。

一緒に食べに行きませんか。たった一言いうだけなのに、それが言えない。


昼休みになるチャイムが鳴った。もう猶予は無い。

両手で顔を覆った。目を開けたら言う。そう気合を入れた。


目を開けると田高さんの姿がなく、しまったと思って急いで会社から外に出た。

少し離れたところを歩く田高さんの後ろ姿を見つける。

見つけたは良いが、声を掛ける勇気が無く、その後をついていった。


小さな佇まいの、みよし屋という丼屋さん。

暖簾の下がる引き戸を開けて、田高さんが中に入る。


外食と言えばファミリーレストラン。お洒落なところだと喫茶店。私はそういう店を選んできた。

いま目の前にある店は、昔ながらの佇まいの料理屋。こういう店には入ったことがない。入るのに躊躇った。

だけど今でしょ、今がチャンスよと、脇を締め両手をグーにして胸の前で気合を入れる。


ドアに手を掛けるとガラガラと開く引き戸の入り口。

店の中が見えて素早く見渡す。田高さんが居た。二人掛けのテーブルに一人で座っている。


「いらっしゃい。申し訳ないけど相席でもいい?」

「はい。そちらでいいですか?」


心の中でやったと喜んで田高さんの席を指差す。


「はい、ごめんなさいね。一名様ご案内。すみません相席でお願いします」


店員さんが田高さんにも声を掛ける。

私を見て田高さんが微笑む。私も田高さんに微笑んで彼の前に座る。

小さなテーブル。新人の時の勉強会を思い出す。懐かしい。

さっきまで感じていた躊躇いは無かったかのように霧散した。


「田高さん。ご一緒しますね」

「ああ、渡辺さん。君もここに来るんだ」

「いいえ、わたし初めてで。おすすめはありますか?」

「そうだな。俺はソ―スカツ丼が好きだが、女性にはちょっときついかな。なにしろ量が多いんだ」

「挑戦してみようかな。多かったなら田高さんも手伝ってくれます?」

「ああ、いいよ。ふふふっ、見たらビックリするから」

「うふふ。楽しみですね。...田高さんはこの店によく来るのですか?」

「ん、ああ。大体がここかな」


そうなんだ。

彼の秘密の場所を見つけたかのようなワクワクとする気持ち。嬉しくなって顔がにやける。

その気持ちを見透かされたくなくて、ちらっと彼を見る。彼がそれに気が付いて軽く頷く。

ドキッとした。


「はい、ご注文は?」


間が悪いタイミングで店員さんが注文を聞きに来た。

不意に掛けられた声にわたわたと慌てる。

田高さんは自分の注文と、慌てる私に気を使って私の分も注文してくれた。


「親子丼をお願いします。...それと彼女にはソ―スカツ丼を」

「はい、親子丼とソ―スカツ丼ね」

「あっ、すみません、ソ―スカツ丼のご飯は少なくしてもらえますか」

「はいよ。ソ―スカツ丼の小盛ね」


店員が去っていった。


「すみません」

「いや、いいですよ。...いつもキリリとしているのに、今日はご機嫌ですね。何か良いことありましたか?」


良いこと。

それは今ここに居ること。あなたと何気ない話をしていること。一緒に食事ができること。

そう自覚して顔がポッと熱くなった。


「やっぱり、何か良いことあったんですね」

「...ええ、まあ」

「よかった」

「え?」

「渡辺さん、ずっと無理している感じだったから。チームに入ってからずっと気を張っているんじゃないかな。そんな感じに見えました」

「ええ、まあ、そうですね」


そうだ。あれからずっと仕事に集中してきた。気を抜くと思い出してしまうから。

何を思い出してしまうから? 

田高さんの胸で泣いてしまったこと。

田高さんがあのとき助けてくれた人ではなかったこと。


思い出してしまい逃げ出したい気分になった。

つい今さっきまで優しかった田高さんの顔が、私の中で無機質なものに変わっていく。


「大丈夫?」


田高さんが私に聞く。頭では分かってる。心配してくれているんだ。

だけど心の中では...怖かった。怖いと思ってしまった。もう駄目だと思った。



「はい、お待ちどうさま。親子丼とソースカツ丼の小盛ね」


タイミングよく店員さんが料理を運んできた。

田高さんの前に親子丼。私の前にソ―スカツ丼。それぞれのトレイの上にはお味噌汁とお新香が付いている。


目に入ってくるそのボリュームに驚く。

大きめの器を埋め尽くすように2枚のカツが乗っている。カツの下には千切りのキャベツ。ご飯はその下にあると思われるがその姿は見えない。

田高さんの前にある親子丼にも目を向ける。そこに見えるのは山盛りの鶏の卵とじ。


「なにこれ、ちょっと多過ぎません?」

「ここではこれが普通なんだ。驚くだろ?」

「はい」

「実は普通サイズの小どんぶりもあるんだけどね」

「えっ? それ先に言って欲しかったわ」

「ふふ、君が驚くところが見たかったんだ」

「んもうっ」

「だけど、悩みは何処かに行っちゃっただろ?」

「えっ?...うん」

「さっきとても怖い顔をしていたから。俺が言ったことで思い出しちゃったのだろ? ごめんな」

「...うん、ありがと」

「では、食べようか」

「はい」

「いただきます」

「ふふ。いただきます」


ずっとあった蟠りは驚きにより小さくなり、そして彼の耳障りの良い声がその場所を埋めていく。

食事をしながら色々なことを話してくれた。彼が入社してからの出来事。

彼の声を聞きながらカツを食べると、一切れごとに蟠りが薄れていくように思った。


そして私は...ソースカツを2枚分、全てひとりで食べた。



会社への帰り道。


「うぷ。ちょっと気持ち悪い。食べすぎたかな」

「カツを全部食べるから。食べるの手伝ってと言っていたのに」

「だって、田高さん親子丼をあんなに食べたじゃない。その上カツまで食べたら太っちゃうわよ」

「それを言ったら渡辺さんだって太るよ。それに俺は毎日運動しているから、あれくらいじゃ足りないくらいだぞ」

「そうなんだ。なんの運動をしているの?」

「サイクリングを、毎日だな」

「帰ってから? 何分くらい?」

「2時間くらいかな」

「へー、凄い。家に着くの遅いでしょ? あっ、ちょっと待って、そこで休憩」

「おいおい、大丈夫か?......まあ、家に着いたら夜7時だな」

「その時間から2時間のサイクリング? 道が暗いでしょ、危なくないの?」

「ああ、真っ暗だな。街灯もほとんどない。だけど慣れるとそうでもない」

「楽しい?」

「え?」

「サイクリング」

「ああ。......何事も無く家に着いた時は嬉しいな」

「ん? なにそれ、何かあったみたいじゃない。怪我はしないでね。そしてちゃんと会社に来ること」

「ははは、偉そうだ」

「ふふん。あなたより偉いのよ。先に係長になったんだから」

「ふふ、先を越された。悔しいな」

「...嘘ね。...そろそろ行きましょう。昼休みが終わるわ」



会社に着いて自席に向かう。目の前の席に田高さんが居て、彼を見てから席に座った。

彼はパソコンを見ていて真剣な顔をしている。

さきほどの昼食での彼の笑った顔を思い出した。

ふふっと小さく笑って席に着く。温かい気持ちになっていた。





仕事が順調で、穏やかな日々が続いている。

田高さんとも順調だ。といっても、仕事の合間に雑談をして、昼食を一緒にする程度の関係なのだが。


あのときのことを思い出すことは少なくなった。今は田高さんのことでいっぱいだ。

たぶん私は恋をしている。そう自覚するまでになっていた。


初めての恋。どうしたらいいのか分からない。

結婚している友達に相談した。この後どうすればいいの?

返ってきた言葉は、いつも一緒にいたらいつの間にかそうなっていた。...参考にならない。


田高さんは女性不信だと川口さんが言っていた。だけど私には微笑んでくれる。

その微笑みを思い出して、うふふと一人笑いをする。


良く晴れた土曜日の昼下がり。

ベッドでゴロゴロとしていたが、居ても立っても居られなくなった。


「行こう」


決意をして外出着に着替え始める。行くと決めたのは田高さんの住む町。

住んでいる場所を見てみたい。そしてもしも偶然出会えたなら...。

ふふふーんと鼻歌を歌いながら出掛ける準備を進めた。



2両編成の電車から降りて駅のホームに降りた。

田高さんの家の最寄り駅。地平駅舎の小さな駅だ。

駅から出て辺りを見渡す。田畑が多い。我家(うち)のほうも田舎と思っていたけれど、もっと田舎。

駅前の案内板を見る。1kmほど離れたところに川が流れているようだ。近所の川。近所の神社。彼が漏らした断片的な子供の頃の話。だから川まで行ってみようと思う。

彼がこの町の何処に住んでいるかまでは知らない。だからこの後は適当にぶらぶらとするだけだ。


少し歩くと駅前の集落を抜ける。畑の中の道を歩き、さらに進むと小さな川に着いた。

スマホで地図を見ると川を渡ってすぐのところに神社がある。その神社に向かった。

途中にあった大きな空き地を眺めながら道を進む。そして神社に着いた。


何処となく見覚えがある。


「なんでだろう。知らない場所のはずなのに」


神社の境内に入った。小さな拝殿が見える。その近くにとても大きな御神木。

御神木に興味を引かれた。既視感があり懐かしい感じがする。

なんとなしに御神木を触る。そして感の赴くままに両手の平をつけて、顔を近づけて頬をつけた。

やっぱり懐かしい。もしかするとどこかの御神木に同じことをしたことがあるのかもしれない。



集落の中をぶらぶらと歩いた。

人の姿は見えないが、洗濯物が下がっているため家の中には人が居るのだろう。

猫が居る。屈んで手を出すと寄ってきてゴロゴロとする。人懐っこい猫の頭を撫でた。

集落の中で出会うのは猫ばかりだ。結局、誰にも出会わなかった。


集落を1周して先程の神社に戻った。

御神木の根元に腰を下ろしてスマホで地図を見る。少し戻って川を渡ると別の集落があるようだ。


「こんどはこっちに行こうかな」


境内を渡って先程とは違う道に出る。そして川のほうに向かった。

長い塀が見える。100mはあろうかという長い塀。その塀の向こうに見える大きな瓦屋根。お寺なのかなと思った。神社の隣にお寺って珍しいなと思う。

歩いていくと、塀が途切れている場所に着いた。自動車が通れるほどの大きな門。扉が開けられていて塀の中が覗けた。

門の向こうは自動車が何台も止められるほどの広場。その向こうに花壇と木々が植えられた庭園。さらにその向こうに大きな日本家屋の母屋。その隣に離れと思われる建物。そしてトマトが生っている家庭菜園。

その建物の作りから、お寺ではなく個人の邸宅なのだと認識を改める。


「すごい広い。こんな家に住みたいな」


驚いてその場に立ち留まり、庭園と建物を見ていた。


私の住家はマンションで2LDKの間取り。父と二人暮らしのため広さに余裕はあるが、窮屈さを感じる。また庭は無い。

友達の家は古い日本家屋の一軒家で、行くたびにその高い天井に憧れた。そして庭にある家庭菜園。農家なので田畑もあるが、少し離れているから庭で野菜を育てているの。友達は野菜ばかりでうんざりという態度だったが、私はその家庭菜園に憧れた。採れたての野菜が並ぶサラダはとても美味しい。


かつて都会に出てバリバリと働きたいと思っていた心は既に無く、忙しく働いた4年間の後、今の平穏に安らぎを感じていて、ゆっくりとした暮らしを求めていた。

その私の心は、目の前に広がる光景に憧れを感じていた。



「あの、お客様ですか?」


不意に声を掛けられた。若い女性。私と同じくらいか少し若いように見える。和服を着ていてそれが良く似合っている和服美人。その声は鈴の音のように澄んでいる。


「いま主人は出掛けておりますので...」

「あ、いや、あの、大きなお屋敷だなと目を奪われていました。ただの通りがかりの者です。すみません」

「そうでしたか。あの、なんなら庭を見て行かれますか? 建物も外からならご覧になっていただいても宜しいですよ?」

「あ、はい。お心使いありがとうございます。ですが本当に通りがかっただけなので、もう行きますので失礼します」


ごめんなさいと深く頭を下げた。

目の前の女性も頭を下げる。その振る舞いを綺麗だと思った。


では失礼しますとその場を離れようとした。

そして見てしまった。真新しい表札に書かれた田高信之の文字を。




川辺に腰を下ろして空を見ていた。見渡す限りの田畑。その向こうに山々。山の向こうに沈んでいくお日様。陽が落ちるにしたがって姿を変えていく風景。


「来なければよかった。...もう帰ろう」



帰り道はあまり覚えていない。気が付けば自宅に着いていて、外出着のままでベッドに横になっていた。


表札に田高信之とあった。

新しい表札。お母さんが亡くなられたから差し替えたのだろう。

同姓同名の別人の可能性。同じ町で? そんな偶然がどれだけあるのか。

だからあれは彼の家だ。


あの女性とはどんな関係だろう。主人と言っていた。

お母さんと二人暮らしと聞いていたのに。...だけど聞いてから4年も経っている。

結婚している? 婚約者? 可愛らしい人だった。綺麗な声だった。

彼とあの人が並んだら...似合いそう。


どうしようかな。わたし。


どうしたいのか考えたが、選択肢のひとつも思いつかなかった。





月曜日の朝。いつもと同じ時間に目が覚めたが、何もする気にならなかった。ベッドの上でだらだらと過ごし、時間になり会社に行く準備をした。そして居間に居るお父さんに声を掛ける。


「お父さん、ごめんね。朝ごはんもお弁当も用意できてなくて」

「構わないよ。体調が悪い時はゆっくりするものだ。それで、行くのかい? 休んでもいいんだぞ?」

「行くよ。行かないと治らないんだ。だから行ってくる」

「俺が車で送ろうか?」

「いいよ。お父さん配達が大変なんでしょ? 娘を配達している場合じゃないわ」

「旨いこと言うなぁ」

「全然よ。それに電車で...ううん、何でもない。では行ってきます」


飲み込んだ言葉。田高さんと電車の中で話せるから。

だけど、会って何を話せばいいのか。

いつも通りに別の車両に乗ってやり過ごそうか。だけど会社で会ってしまう。目の前に座っている。

今日のお昼はどうしようかな。何処に食べに行こうかな。独りで食べに行くのかな。


電車を乗り換えるためにホームを移動する。田高さんの姿がある。私は彼の乗った車両とは違う車両に乗った。


電車は山道を走る。会社のある駅までは40分。湖を迂回するように走っている。途中駅がいくつがあるが切り立った崖の上の小さな集落だ。そこで降りたことは無い。いつも窓から見える景色を見ながら通り過ぎるだけ。

降りちゃおうかな。

ふとそう思った。そこに用事は無い。興味があるものもない。期待もしていない。

ただ逃げ出したかっただけ。電車から降りて、そこから見える山や湖を見ると気が晴れるかもしれない。そこに何かあるかもしれない。ただ何かが欲しかった。


「駄目だ、わたし」


涙が出てきた。逃げることしか考えていない。

私は何から逃げているのか。答えは分かっている。彼と話をするだけでいいのにそれが出来ない。

なんで逃げているんだろう。昨日のあの女性に会ってからずっと逃げている。


「あなた、大丈夫?」


隣に座るおばさんが心配そうに聞いて来た。だけどそっとしておいて欲しい。今は誰とも話したくない。たぶん、嫌なことを言ってしまう。

ドアが開いた。何処かの駅に止まったのだ。私は荷物を持って立ち上がる。


「ごめんなさい」


おばさんに言う。そしてドアから出てホームに降りる。何処の駅か分からない。そして、なぜごめんなさいと言ったのかも分からない。


電車が発車する。私は置き去りだ。だけどそれは私が選んだこと。だって、ここで降りたのだから。

電車が走り去り駅の周りが見えるようになった。山の中。いつも眺めていた湖はそこには無かった。あの湖が見たい。そう思った。


駅を出た。湖のほうに向かう一本の道を見つけ、湖が見たくてそこを歩き始める。来た線路を戻る電車を待つことは頭に無かった。そして何も考えずに道を歩いた。

そして湖が見えてくる。どれくらい歩いたか分からないが足が痛い。

見晴らしの好さそうな高台があった。そこに向かって坂を上る。へとへとになりながら頂上に着いた。もう歩けない。そう思いながら外を見る。


いつも眺めていた湖がそこにあった。大きな湖。電車の窓から見えるそれよりもとても大きく見える。水面に陽が当たりキラキラと輝いている。とても綺麗だ。

いつも通り過ぎていた景色。今その景色を展望台のベンチに座ってしっかりと見つめている。


時刻を見た。既に昼の時間。会社に連絡をしていないから無断欠勤になるだろう。

だけどどうでもよかった。あの人に会うために会社に入ったのだから。

そしてあの人に会った。田高さん。私が初めて好きになった男の人。


なんで私は、この湖が気になったのだろう。

なにか理由がある気がする。だけどもういいや。考えるのが煩わしい。

ベンチに横になる。眠い。そういえば昨晩は寝付けなかった。...こんな場所だけど、ちょっとだけ寝ようかな。




目を覚ました。辺りは暗くなっており、空にはたくさんの星が瞬いている。

7月上旬の暖かい日だが、風通しの良い展望台で寝ていたためか体が冷えている。


周りを見渡す。真っ暗だ。星明りはあるが月は出ていない。とても暗くらくて何処なのかも分からない。

座ったままで足元を見る。思った通り、足元が暗くて分からない。


「困った。これでは帰れないわ」


ベンチの脇に置いてあるカバンを手探りで探す。そして取り出したスマホの電池も切れていた。


「本当に困ったわね...お腹空いた」


そういえばずっと何も食べていない。いま何時かも分からない。

お父さん、心配しているかな。田高さんは、少しくらいは心配してくれたかな。

寂しくて星空を見上げた。星たちは静かに瞬いて私を見ている。


声がした。優しい声。


「見つけた。無事か?」


田高さんの声。聞き間違えるはずがない。だけど待ち焦がれたその声を聞いても嬉しくは無かった。

声がしたほうを見た。人影が見えるが暗くて黒い影にしか見えない。


「田高だ。探したよ、渡辺さん」

「なぜ?」

「ん?」

「なぜ探したの?」

「途中で電車を降りたのを見た。だから体調を崩したのかと心配したんだ」

「それで探したの?」

「ああ。見つけられてよかった。怪我は無いか?」

「うん、大丈夫」

「よかった」


ホッと息を吐いたような気配。安心したような声。本当に心配してくれていた。それが分かる。

嬉しくて涙が出てきた。寂しくて人恋しかっただけかもしれない。理由はどうあれ嬉しかった。

潤んだ目で彼を見る。だがその姿はシルエットだけ。表情が見えないのが残念に思った。

おそらく以前のように。すこし苦いように頬を引き締めて、優しい目で微笑んでいるのだ。そのときの彼の顔が見える気がした。

彼の左手が伸びてきて私の頭を撫でた。その感触は嫌ではない。


目に入るその腕に着いた黒い腕時計。星空をバックに見える彼の輪郭。そして少し荒い声で言った声。

ハッとした。あの人と同じだった。


「嘘つき」


ぽつと呟いて彼の胸に飛び込む。彼の背中に腕を回してめいいっぱい抱きしめる。

そして以前とは違う嬉しい気持ちで、彼の胸で泣いた。


やっぱりこの人が、わたしのヒーローだ。





私は足に怪我をしていて、彼が気づいて私を近くの旅館に運んだ。

そのまま旅館に泊まり、私と彼は同じ部屋で一晩を過ごす。

ただ同じ部屋で寝ただけ。男女の関係になった訳ではない。


彼の電話の声を聞いてしまった。電話の向こうは女性の声。帰れないと話したら彼女が拗ねた。そんな感じの会話。

やっぱり付き合っている女性が居るんだと確信する。あの人だろうか、和服を着た可愛らしい人。ほんのちょっとしか会っていないけど、気遣いが出来て礼儀正しい人に見えた。田高さんの隣に立っているのが似合いそうな人。


だけど今日は、今夜だけは私の隣にいて貰う。

勇気を絞り出して、痛む右脚を理由にして、彼に私の体を拭いて貰った。出来るだけ自然な流れで私は彼に全部を見せた。

私の体を拭く彼の手は熱かった。それがお湯で暖められたものだと分かっていても、そのことが嬉しかった。


結局、彼は私に手を出さず、私もそれ以上は無理に望まなかった。


その後、体調を崩した私は入院する。足の傷から入った細菌による炎症と発熱。

2週間入院し、久しぶりに出勤して彼に会った。

私はもう彼のことを諦める決意が出来ていた。





彼と私は会社の同僚。リフレッシュルームで偶々出会えば話をして、時々昼食を一緒に取る。ただそれだけの関係。

私は再び仕事に集中し、課長に昇進の話が来るまでの実績を上げていた。気が付けば30歳になっており、噂に聞く30歳の壁を少しだけ煩わしく感じながらすんなりと越えた。

彼はずっと変わらない。新人教育とルーティンを淡々とこなしている。


彼は休むことが多くなった。月に1度はある。それはヒーローの仕事によるものだ。


世間ではずっとヒーローという職業に疑問の声が上がっている。ヒーローの活動内容が不透明。警察で十分だろう。おかしな連中に税金を使うな。

その対策で、3年前に市役所でヒーローの活動内容を閲覧することが出来るようになった。

私は真っ先に駆けつけて、使い難い画面を何とか操作し、地元のヒーローを検索して彼を見つけた。

ヒーロー名オールフォーザ。大学生だったあのときのことも活動記録に書かれていた。


それから私は毎日、深夜に窓から外を見る。目の前の道路を彼が自転車で走る姿を見るため。そして何度か見かけた。自転車に乗って走る青色と銀色のツートンカラーのスーツ姿。


やっぱり私は彼が好き。まだ恋をしている。





「ねえねえ、調べたんだ、田高さんのこと。知りたい?」


川口さん。私の2コ歳上の同僚の女性。何年か前に結婚して子供を産み、今は仕事に復帰して私の部下として働いている。私の先輩で、結婚した今でも田高さんが好きと公然と言い、だけど不倫はしないよとはっきり明言している。

私と彼女は仲がいい。今日も会社の帰りに2人で居酒屋に来ている。彼女から、相談したいことがあるからと誘われたが、相談ではなく田高さんのことだった。


「...知りたい」


私は答えた。田高さんのことは何でも知りたい。


「ふっふーん。恋している目をしてるもんね。想い続けてもう8年だよ? 何してるのって言いたくなるわー、いつも言ってるけど」


彼女は私が田高さんを好きだと知っている。もう今までに何度も相談をしてきた。


「それで?」

「私の旦那の友達がヒーローなんだ。そこから聞いた話。聞きたい?」

「...聞きたい」

「香織ちゃん、いつもそんなんだよね。仕事だとしゃきしゃきバリバリと働いて、会議でも客先でも堂々としているのに、どうしてこういう話だとそんなにはっきりしないの?」

「だってずっと好きなんだよ」

「それ答えになってないから」

「ずっと相手にされていないんだから」

「そう思ってるのはあなただけよ。周りはなんでこの二人は付き合わないんだろうって思ってる。もしくは付き合っている、かな」

「そうなの? だけどわたし振られたんだ。だからもういいかなって...」

「それって3年も前の話でしょ? んもうっ。...はい、では最新情報です」

「うん」

「お見合いがあるらしい」

「へ?」

「未婚のヒーロー同士、もしくは能力者とお見合いをするんだって。旦那の友達も独り身でお見合いの話があったそうよ。そのリストの中に田高くんが居るんだって」

「えっ、お友達は女の人? 田高さんとお見合いするの?」

「いや、男」

「男同士の見合い?」

「あー。そうじゃなくて、見合い相手を探したい人のリストに名前があったんだって」

「ふーん」

「興味なさそうね」

「まあね。ヒーローと能力者のお見合いでしょ? わたし能力持っていないから関係ないなって思って」

「ははーん。ところが関係があるんだ」

「え?」

「このリストに載るにはヒーロー協会の厳正な審査があって、完全にフリーな人しか載らないんだって。だから今の田高くんは誰とも付き合っていない。それも、協会のお墨付き」

「え?」

「おっ、目が輝いて来たね?」

「それで?」

「いや、それだけ」

「ええーーっ」

「だから、誘ったら? フリーと分かったんだから変に考えないでスパっとさ」

「それが出来たら悩まないよ」

「お昼一緒に食べに行ってるんでしょ? そんな感じで誘ったら?」

「うー。田高さんいつも同じ店にいるから、私がすぐ後に店に入るだけで同じ席になるの」

「...」

「...?」

「ヘタレ」

「...ひどい」

「まさかこれほど奥手だったとは。長く付き合ってきたけど、これほどガッカリしたことは無いわ。もう30歳だよ。そんな乙女なことをまだしているなんて...」

「永遠の20歳よ。私の心は田高さんに助けられたあの時のまま」

「20歳でもしないわ」

「えーっ」

「お子ちゃまよ。精神年齢が10歳くらいなんじゃないの?」

「うーん、私が10歳だと田高さんは18歳ね。...お兄ちゃん?」


ふと脳裏を過ぎる子供の頃の記憶。太い腕に掴まれる男の子。お兄ちゃん!と叫ぶ私。


「...どうしたの?」

「ううん、何でもない。ちょっと子供の頃のことを思い出しただけ」

「どんなこと?」

「んー、よく分からないんだ。大きな人に男の子が掴まれて、それで私が叫ぶの、お兄ちゃんって。憶えてるのはそれだけ。だけど私は一人っ子だから、お兄ちゃんは居ないんだ」

「ふーん」

「あっ、そのとき多分ヒーローが来たんだ。もう大丈夫だ助けに来たって、男の人の声がしたの。レジェンドっていうヒーローの台詞に似てる」

「あー、あれね。もう大丈夫だヒーローが来たってやつ。20年前だとレジェンド人気が高かった時だから、真似する遊びが流行ったらしいわ」

「そうなんだ。みどりちゃん詳しいね」

「ふふふ。旦那がヒーローマニアなんだ。だからいつも聞かされていて、自然に覚えちゃった。そしたら私もヒーローマニアの仲間入りよ」

「うふふ、楽しそう」

「田高さん、レジェンドに憧れているみたいだから、話題にするのいいかもね」

「うん、覚えとく」

「ということで、相手はフリーなんだからどんな手段でもいいからアタックして捕まえちゃいなさい」

「ん、ありがと。頑張るね」





どんな手段でもいい、か。ベッドに転がりながら考えている。

ずっと言おうとして言えなかった”好き”という言葉。躊躇して諦めてを繰り返している。


もう躊躇しない。絶対に言おう。好きって言おう。

どうしたら言える? 逃げ場の無い状況? 場所? そしたら言えるのかな。

駄目だ、もうすでに躊躇している。


期限を決めよう。再来週の出張。出張に行ったらたぶん諦めちゃう。だからそれまでに言う。そうしよう。それまでに好きだと言う。


私だけでは駄目だ。考えられるものを全て使おう。勇気を貰おう。そしたら何とかなるかもしれない。


出張?

出張は仕事のひとつ。仕事なら私は強い。みどりちゃんが言ってた。仕事中の私はしゃきしゃきバリバリで堂々としている。

仕事中のそのままの私が彼に言う。それだ。出張のときに彼に言おう。




あの神社に来ている。そして御神木に額を付けた。


「田高さんに告白します。私に勇気をください」


私は素直にそう言った。




会社にて。


「課長。来週の出張についてお願いがあります」

「なんだ?」

「都合が悪くなってください。課長が」

「ん? どういうことだ」

「田高さんと行かせてください」


課長がにやりと笑う。


「なるほど、それならいいぞ。都合が悪くなるくらい朝飯前だ。だがひとつやって貰いたい。田高くんには君から伝えてくれ」

「はい。田高さんには私から伝えます。絶対にOKと言わせます」

「分かった。任せる。...頑張れよ」

「はい。有難うございます」




昼休み。道を歩いている彼に背中から声を掛けた。


「田高さん、一緒に昼食しません?」




この一言から、ヒーローの彼と私の物語が始まった。




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