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婚約指輪、投げ捨てます

作者: 立草岩央

「まさか、君がそのような人だとは思わなかったよ、セレナ」

「え……?」


侯爵家・クレセント家の屋敷で、そう告げられる。

突然の事に思考が定まらず、セレナは呆然と呟くしかなかった。

唐突に告げられた婚約破棄の四文字。

そしてこちらを見下すような視線。

何から何まで、セレナには心当たりがなかった。

だが婚約者であるハロルド・クレセントは、続けて言った。

セレナが義母、ハロルドの母に度重なる嫌がらせをしているという事を。

意味が分からず、彼女は反射的に否定した。


「お待ち下さい! 私は決して、そのような事は……!」

「言い訳など必要ない! 君が僕の母を嫌悪し、虐めのような行為を働いていたことは明白だ!」

「そんな……どうして……」

「母から相談されたよ。君は日頃から、僕の母を苦しめていたそうじゃないか」


自信満々にハロルドは言うが、セレナには当然の如く身に覚えがなかった。

寧ろ逆。

セレナこそ、義母であるレイニーから嫌がらせを受けていたのだ。

理由など分からない。

彼との婚約が気に入らなかったのかもしれない。

子爵令嬢のクセに図々しい。

令嬢として正しく振舞っていた筈だが、屋敷にいる間は、毎度の如く陰口を言われ続けた。

誰も見ていない所で、上手くバレないように小言を並べ立てられた。

嫁ぐ身分、そして明確に上である侯爵家の奥方に、面と向かって発言できる訳もない。

両家のためにも、セレナは押し黙るしかなかった。


しかし、その先に待っていたモノはこれだけだった。

ハロルドも自分の母親を疑う様子すらない。

恐らくレイニーは、元から息子とセレナの婚約破棄を狙っていたのだろう。

貴方は自分の息子に相応しくない。

以前はそうも言っていたので、動機は分かり切っている。

虐めを受けていると嘘の報告を息子と夫に伝え、彼女を屋敷から追い出そうとしたのだ。

察したセレナの考えなど露ほども知らず、ハロルドは大きく溜め息を吐いた。


「子爵令嬢ともあろう君が、そのような真似をするとは、失望したよ。婚約破棄の理由など、これだけで十分だ」

「私を、信じて頂けないのですか……?」

「信じる? 一体、君の何を信じろと言うんだ? 全く、今では僕の目利きの無さを嘆くばかりだ」


最早、彼の考えが変わることなどない。

事実確認をする必要もない。

母の言葉が真実である。

そう言わんばかりの姿勢に、セレナは絶句するしかない。

するとそんな彼女を嘲笑うかのように、嫌という程に見てきた女性が現れた。


「貴方が悲しむ必要なんてないわよぉ」

「母上!」

「ハロルドちゃんは、私の言葉を信じてくれた。それだけでもう、十分だわぁ」


猫撫で声でハロルドに近づくのは、彼の母・レイニーだった。

いつも飛ばしてくる冷徹な声とは真逆のそれに、セレナは背筋すら凍りそうになる。

そして彼はそんな母を自慢げに受け入れる。

まるでセレナに向けて、仲の良さを見せつけているかのようだった。


「レイニー様……」

「フン、気安く名前を呼ばないでもらえるかしら。もう貴方とは、何の関係もないんだから」


端から興味などなかったというのに。

レイニーは邪魔者をあしらうように鼻で笑う。

彼女は元からこういう人間だったのだろう。

人を地位や立場でしか判断せず、自分の御眼鏡に適う人物ならば手のひらを返したように性格を変える。

極度な二面性。

愛する息子のため、自分の望むもの以外は絶対に認めない強固な姿勢。

そしてそれはハロルドにしっかりと受け継がれていた。

カエルの子はカエルでしかなかったのだろう。

そうしてハロルドは片手を挙げて、セレナに宣告する。


「セレナ・ヴィズバーク、即刻この屋敷から出ていけ」

「さようなら~」


挑発する声を浴び、セレナは屋敷から追い出される。

押し込められる形で馬車に乗せられ、実家へと送還される。

その間、セレナは呆然としたままだった。

涙すら出ない。

意味の分からない状況に立たされ、現実を受け入れるだけで精一杯だった。

そうして気が付けば、実家であるヴィズバーク家に辿り着いていた。

事態を耳にした女中達も驚きながら駆け寄ってくるが、今は何も話す気になれない。


「お嬢様!? 一体これはどういう……!」

「分からないわ……私には何も……」


力なく首を振る様子を見て、彼女達もそれ以上は追及できなかった。

ただ憔悴する令嬢を迎え入れ、自室に案内する。

既に陽は落ち、部屋の中は明かりが灯っていたが、何も口にする気にはなれなかった。

空腹すら感じない。

全くの無。

自室の扉を閉めたセレナは、そのまま扉に寄りかかる形で座り込んだ。


「私は一体……何のために、今まで耐えて……」


自分は何のためにハロルドと婚約をしたのか。

一体何のために、義母・レイニーの小言に耐え続けてきたのか。

結局彼は、自分の事など信じていなかったのだろう。

何を言った所で、どんなに弁明した所で、彼にとって大事なのは愛する母親だけだったのだ。


やっていられない。

ふと両手を見ると、左手の薬指に指輪が付けられている事に気付く。

それは紛れもなくハロルドとの婚約指輪、愛の絆の証だった。

しかし、もうそんなモノに意味などない。

向こうから蹴落とすように破棄されたのだから。

セレナは先程の状況を思い出し、激情に駆られて指から指輪を抜いた。


「こんなモノっ……!」


感情の赴くまま、セレナは部屋の窓を開け放つ。

そして以前、女神様へ互いに誓い合った愛を永遠のものとするため交わした婚約指輪を、思い切り投げ捨てた。

未練を吹き飛ばすように。

そんなものは存在しなかったように。

思い出したくもない思い出として、闇の中へと放り込んだ。

指輪は一瞬だけ光ったように見えた後、暗闇に包まれ消えてった。







そうして数か月が経った。

セレナは婚約当時の事を全て忘れ、元の子爵令嬢として収まった。

侯爵家の奥方を虐めたという噂も当然立ったが、それはセレナの両親が対処したようで、それ以上の情報は入って来なかった。

両親だけでなく、お付きの女中も、彼女がそのような人間ではないと信じていたからだろう。

それだけでセレナは十分だった。

加えて煩わしい小言に悩まされる必要も、悪夢を見る必要もなくなった。

逆に言えば、拘束から解放された気分。

澄み渡る青空すら、心の中に染み込んでいくような感覚。

今の自分ならば何でもできる様な気持ちが、彼女を満たしていった。

するとそこへ。


「セレナ! 僕達を助けてくれ!」

「は……?」


突然屋敷の玄関にハロルドが現れ、セレナに向かってそう言った。

一瞬誰か分からなかった。

記憶から忘却していたのもあったが、彼は酷く落ちぶれていた。

貴族然とした昔の姿はなく、表情は痩せこけ、やつれ切っていた。

目の隈も酷く、まるで亡霊のようだった。

屋敷の衛兵が彼をキッチリとガードしていたが、事情は聞かずとも、向こうが勝手に話していった。


セレナと婚約破棄をして数日後。

彼の領地で大きな地震が起きたようだった。

しかも非常に局所的な地震だったらしく、それによって領主のクレセント侯爵家の屋敷のみ倒壊。

死者も怪我人も1人として出ない、奇妙過ぎる自然災害だったという。

誰もが疑問を覚える中、屋敷は再建されていくのだが。

再び、地震が起きて崩壊。

そう。

建てようとすればクレセント侯爵家だけを狙うように地震が起き、何度でも倒壊していったのだ。

そして死者も怪我人も、不思議な程に全く出ない。

何かの力が作用しているかのように、建て掛けの屋敷だけが崩れていく。

ようやく人々は、彼ら領主一家に天罰が下ったのだと恐れ始めた。


婚約破棄の原因も、嘘だったのではないかという噂に切り替わる。

加えて天罰を持つ彼らに近づこうとする者も現れなくなった。

同じ貴族からも遠ざけられ、領民は天罰を恐れて領地から逃げ出す始末。

最近では地震も鳴りを潜めたようだが、ハロルドのやつれ切った表情は、これが原因なのだろう。

セレナは両親によって、その辺りの情報は殆ど聞かされていなかったし、知ろうともしなかったので、そんな事が起きていたとは分からなかったのだ。

全てを話し終え、彼は叫ぶ。


「僕達は女神様の怒りを受けてしまったんだ! そして、いつまた罰が降りるか分からない! お蔭で母上はショックのあまり寝込んでしまった! なのに、君には何の罰も下っていない! おかしいじゃないか! 兎に角、僕と一緒に領地まで来てくれ!」


不意に、女神様へ互いの愛を誓った婚約指輪を投げ捨てた事を思い出す。

まさか、アレが原因なのだろうか。

とは言え、行っても自分に出来る事など何もない。

それにこんな状況になってまで、頼りに来るのは流石に虫が良すぎるのではないか。

もう言い淀む必要もない。

セレナは無表情のまま、彼に言った。


「あの、もう私達はそのような関係ではありませんよね?」

「えっ」

「ハロルド様は、私との婚約を破棄したではありませんか。私が貴方の領地に赴く理由がありません」


婚約破棄はとうの昔に行われた。

全て終わった話だ。

今さら無関係の彼らを助けに行く理由が見当たらない。

そう言うと、ハロルドは呆気に取られた表情をした。

まさか断られると思っていなかったのか。

やけに長い沈黙の後、彼は我に返って続けた。


「そんな! 婚約を破棄しようとも、君は君だろう!? 僕達を見捨てる気か!?」


思わず眩暈が起きそうな言葉だった。

先に見捨てたのはそちらだと言うのに。

どういう思考をしていれば、そんな責任を押し付ける考えに至れるのか。

傍らの女中や衛兵ですら、素で引き始める中、セレナは額を手で抑えながら憮然と突き返す。


「ですから、婚約を破棄しましたよね? 婚約の、破棄です。意味は分かりますよね? お互いの関係は、そこで終わったんです。破棄したんです。私には、何の関係もありません」

「無茶苦茶だ! だって君は今、此処にいるじゃないか! 他でもない、君自身が! 関係など消えていない! 幾らでもやり直せるッ!!」


無茶苦茶なのはどっちなのか。

あれだけ手酷い別れ方をして、まだやり直せると思っている。

厚かましいにも程がある。

あの時、自分がどれだけ苦しんでいたか、知ろうともしなかったのに。

封印していたあの頃の記憶が蘇り、セレナは一瞬だけ吐き気すら感じ取った。

それでも負けてはならないと、最後まで態度を崩さない。


「貴方の知る私は、此処にはいません。消えました。今の私は、貴方の事など知りません。気にも留めません。新しい関係を作る気もありません。そしてこれも全て、貴方と貴方のお母様が原因なのでは?」

「じゃあ……じゃあ、僕はどうすれば良いんだ!?」


ハロルドは声を震わせる。

まだ、分かっていなかったのか。

溜め息を抑えながらも、セレナは止めと言わんばかりに突き付ける。


「甘やかしてくれる母親ばかり見ていた依存癖を、治せば良かったのではないですか?」

「……!?」

「どうぞ、お引き取りを。大好きなお母様と末永くお幸せに」


もう、話し合う必要はない。

視界に入れる意味もない。

少しだけ仕返しをするつもりで嫌味を言ったセレナは、踵を返して玄関から立ち去る。

すると後方で嗚咽のような声が微かに聞こえ、続いてハロルドの声が響く。


「待ってくれ! 嫌だッ! まだ、帰りたくないッ!! 帰っても何もないッ!! 皆から白い目で見られるだけなんだッ!!」

「ハロルド殿! 幾ら元・婚約者とは言え、これ以上の無礼には私共も、実力行使に出ますよ!?」

「や、やめろッ! 放せッ! 僕はまだッ……!!」


ズルズルと引き摺られる音が聞こえる。

衛兵が彼を屋敷から追い出したのだろう。

それでも尚、彼は何かを言っていたようだが、声は徐々に小さくなり要領を得なくなる。


「セレナああああッッ!! 待ってくれええええッッ!!」


そうして情けない言葉を最後に、バタンと遮る形で扉が閉まる。

まさかこんな事になっているとは思わなかった。

一時でも婚約を結んでいた男が、あそこまで変わってしまうとは。

いや、元々の本性が現れた結果なのかもしれない。

ようやく溜息を吐くと、お付きの女中が気に掛けてくる。


「お嬢様、お疲れさまでした」

「はぁ……本当に疲れたわ……。此処まで来ると、呆れを通り越して笑えて来ちゃう……」

「ご安心下さい。今後は何があっても、あの者を屋敷に、敷地内に通すことはありませんので」


彼女らも同じ気持ちのようだ。

ハロルドがいかに自分本位で滅茶苦茶な暴論を振りかざしていたのか。

最早、彼らが目の前に現れる事はない。

それだけは確信でき、セレナは胸を撫で下ろした。


「でも、本当に女神様の天罰なのね。いえ、そんな事よりも大事なのは……あの場で誰よりも、女神様は私の事を理解して下さった……」


彼女は投げ捨てた婚約指輪を思い浮かべる。

女神という存在は勿論知っていたが、偶像崇拝のような認識だった。

そうであれば、指輪を放棄した自分にも同じ天罰が下っていてもおかしくはない。

だが、天罰は起きなかった。

それは女神なる者が、セレナの受けていた仕打ちを理解していたからだろう。

両家の立場に挟まれ、耐える事しか出来なかった自分を女神様は見ていたのだ。

ならば、今の自分に出来る事は何なのか。

セレナは一つの道を見出し、頷く。


「よし、決めた」

「と、仰いますと?」

「私、神官になる!」


唐突に彼女はそう言った。

聞いていた女中は、当然の如く慌て始める。


「お、お嬢様、何を!? お気を確かに!」

「大丈夫、気は確かよ。ただ私は、女神様に感謝の気持ちを伝えたいの。クレセントの領地で私が耐えてきた事を、女神様は気付いていらしたのだから」


女神様は彼らに天罰を下した。

だがその行いに対して、セレナは何一つ返せていない。

受けた恩をそのままにして、何食わぬ顔で過ごせるほど器用ではなかった。

無神論者では話にならない。

ならば神官或いは信徒となり、自らの感謝を届けなければならない。


更に言えば、あのしつこさ故、ハロルド達にはまだ付け狙われるかもしれない。

屋敷にいる以上、彼が無理に押し通ってくる可能性もある。

いつまでも閉じこもってばかりでは駄目だと思っていたのだ。

これも一つの転機、頃合いだろう。

セレナは女中に、久しぶりの笑みを見せた。


「さぁ! そうと分かれば決行よ! 先ずは教会に話を通さなくちゃ!」

「あわわわわ! お嬢様が、ご、ご乱心……!」


それから暫く経って、彼女は両親と話し合って秘密裏に神官となる。

女神に仕える一信徒として、教会に出入りするようになる。

令嬢との兼任だったのでやるべき事は多かったが、今まで鬱憤溜まっていた思いが、良い方向で発散されたようだ。

レイニーから受けていた嫌がらせに比べれば、何てことはない。

全く淀みなく、全ての職務を遂行し、女神様に祈りを捧げる。

そうしていく内に、彼女に自覚できる事実が浮かび上がった。


元々セレナには女神の寵愛があったらしく、神官として活動を始めてから、その力が覚醒したのだ。

癒しに特化した、治癒の祈り手。

傷を負い、病に伏せる人々を、例外なく癒す万物の奇跡。

まさかそのような力があるとは思いもよらず、セレナは驚くばかりだったが、一つだけ納得がいった。

成程、寵愛を受けし者であるにも関わらず、女神様は彼女の意志を尊重し、聖女としてではなくハロルドの婚約者として、目一杯祝福したのだろう。

しかし理由もなくレイニーから酷い仕打ちをされて、折角授けた指輪も捨てられ、相当腹に据えかねたに違いない。

所謂、ブチギレである。

本当に申し訳ない事をしてしまった、と彼女は後悔したのだった。

祈りを捧げても尚、女神様の神託は一切聞こえないが、それが自分に課せられた義務。

この力を以って人々を癒し、機嫌を損なわれた女神様に成果を献上するのが、今行うべき役目なのだ。

自覚したセレナはそれからというもの、人々の傷や病を献身的に癒していく。

神官として、貴族の令嬢として、分け隔てなく手を差し伸べる。

そこに苦などない。

かつての自分が婚約破棄によって解き放たれたように、人の苦しみを癒すことは、セレナにとっても喜びに繋がっていた。

そうしていつしか彼女は、国中に名を轟かせる聖女と呼ばれるようになるのだが、それはもう少し、先の話である。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 嫌がらせを受け続け婚約破棄されるまで女神様は何をしてたんでしょうか。 マッチポンプでお気に入りの神官ゲットしてやったぜって感じ?(邪推)
[気になる点] 「工面」の使い方に違和感があります。主に金銭関係で使われる言葉のように思います。 処置とか手回しとか対処とかの方が、噂に対する行動としてはしっくりくるような気がします。 [一言] 面…
[一言] 聖女になったらあほな義母や元夫が聖女なら助けろ!何て言いそう。 まぁ、そんなとこいったら闇に消されそうだけど、、、
2020/12/17 10:33 退会済み
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