7-5 夕闇に輝く聖なる盾
五 夕闇に輝く聖なる盾
『……汝ら、いったい何をしておる?』
ファシラダスの身体を借りた神メルキセデクは、風向きを読むかのように周囲の気配を探っていたが、意識朦朧となったツォストリアノスを介抱するケードゥスとサイクスを一瞥すると、重々しく言った。
『精霊どもの動きを封じた以上、認められた者など恐るるに足らぬ。残りの一名も魔力欠乏の状態であろう。汝らはここで一気に、畳みかけるべきではないのか?』
いら立ちを少し含んだその声は、古代の神でありながらもどこか人間くさい。だがそれを聞いたケードゥスとサイクスは、困惑した顔を見合わせた。
それから二人はしばらく「お前が言えよ」「おじさんが言ってよ」などと目で語り合っていたが、自分が年長者であることに気づいたケードゥスがため息をつき、後頭部を掻きながら、面倒くさそうにその役目を引き受けるのだった。
「神様だから知らないわけはないと思うが……。『認められた者』に寄り添う魔術師がいた場合、それが無尽蔵の魔力を持った『敵対者』である可能性があるわけだ」
『それが、どうしたというのか?』
「つまり、だな。この一帯の魔術を使えなくしたのはいいが、敵はまだ魔力を温存しているかもしれないわけだ。前やったときもそんな感じで、結局、最後は殴り合いになっただろう?」
『……フン、何かと思えば。そのようなことか』
そう問いかけられた神メルキセデクは、少しの間をおくと、顎をしゃくるような仕草とともにケードゥスの懸念を一蹴してみせた。
『刮目するがいい。あの娘が敵対者である確率は万が一にもあり得ぬ。魔力の欠乏をきたし、まっすぐ立てぬほど疲労困憊しているのが、一目瞭然であろうが』
お前たちの目は節穴かとでも言わんばかりに神メルキセデクは断定したが、菱形の魔石を右手に握ったサイクスが口をとがらせ、間髪入れずに反論した。
「いや、あのお姉さんのことだ……。魔力がなくなった振りだ。そうに違いねえ!」
『……ふむ、汝はなぜ、そう思うのか?』
「あのお姉さん、何を考えているのかちっとも予測できないんだ……。油断してうっかり攻撃でもしてみろ、『ほーっほっほ! 引っかかりましたわね!』なんつって反撃してくると思うぜ! いや、絶対そうに決まってら!」
『…………』
一方的に主張をまくし立てるサイクスを見た神メルキセデクだが、表情ひとつ変えることがない。サイクスの方にじっと耳をかたむけ、手伝いもせずに立っている。
むしろそれを横で聞いていたケードゥスの方は、いろいろと思うことがあった。
(サイクスはそもそも、他人を恐れたり、物怖じしたりしない奴なんだが……。そのあいつを、ほんの少し会話しただけでこれほど恐れさせるとは……。あの姉ちゃん、一体何者だ?)
人知れず戦慄したケードゥスが、ふと視線を向けた先——。
そこには、剣を杖にたたずむメルと、アンナの治療を受けるクリストフ、そしてそれを見守るピウスの姿があった。
そこではアンナが焦りの表情を浮かべ、必死に魔術の再発動を試みようとしていた。
手をかざしたクリストフの傷口は見違えるほどふさがっているが、出血はまだ止まっていないのだ。
「今まであんなにたくさん、私の周りを包んでくれていたのに……。精霊さんたち……。いったいどこへ行っちゃったの……?」
精霊の気配を感じなくなったアンナは、寂しさと焦りで取り乱している。
そんなアンナを目にしたメルは胸が締めつけられ、厳しい表情で下唇を噛みしめた。
(……「認められた者」であるアンナさんにとって、精霊は幼い頃から一心同体のような存在だったはず。混乱するのも、無理がないことですわね)
物心つくころから常に精霊の気配に包まれていたアンナは、ずっと薄気味悪さを感じとおしてきたことだろうと思う。
だが今は違う。その正体が精霊と呼ばれるものだと知った今日を境に、アンナにとって精霊の気配は、何よりも心強くいとおしい、味方だと感じられるようになっていたはずだ。
それが、突如として消えてしまったのだ。初めての経験だろうし、狼狽するのも無理はない。どう声をかけて良いものか、メルは慎重に言葉を選ぼうとする。
だが意外なことに、先に声をかけたのは、アンナの方だった。
「メルお姉さま……。あの……」
「えっ……?」
「魔力は……。その、お身体は、大丈夫なのですか?」
唐突に機先を制されたメルは、驚きのあまり頭の中が真っ白になってしまい、しばらく返答ができなかった。
アンナは泣きたいほど心細いはずなのに、相手の体調を心配する。アンナのそんな心根の優しさに心を撃ち抜かれたメルは、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られた。
「……え、ええ、大丈夫ですわ。心配かけてごめんなさいね、アンナさん」
それでもその衝動を必死に抑え、どうにかしてにこやかな笑顔を作ったメルは、アンナの心情に寄り添ってやろうと、そっと、彼女の肩に右手を置いた。
ところがそうした途端、メルの右手に驚くべき現象が発生した。
(こっ、これは! アンナさんの、魔力が……!)
肩に置いた右手が送水管になったかのように、アンナの魔力が右腕を伝い、メルの方へ流れ込んできたのである。
メルが首にかけたペンダント『いと高き龍王の紋章』は、ときに猛毒にもなる他人の魔力から、身につけた者を守ってくれるはず。その効果がなぜか、発動しないのだ。
(まさか、そんなっ……! 魔導具が効果を現さないなんてっ……!)
認められた者が持つ魔力と想念の巨大さは、いまだ解明されていない。普通の魔術師に耐えきれるはずもなく、脳が破壊された魔術師がいたという言い伝えもある。
もはや万事休す。アンナの肩に右手を置いたまま、メルはぎゅっと目を閉じた。
「……って、あら?」
ところがいつまで経っても、巨大な魔力の塊を感じない。そればかりか、流れてくるアンナの魔力はごく少なく調整されており、想念や記憶といったものもまったく流れてこない。思いがけない展開に、メルは首をかしげた。
優しく、暖かいお湯のような魔力だけが、右手を通じてじんわりと伝わってくる。その流れは、失われ枯渇したメルの魔力をもわずかに満たしてくれた。
「……メル、お姉さま?」
その一方でアンナは、自分の肩に手を置いたメルが、そのままの姿勢で動かなくなったことが気になっていた。
もしや、お姉さまの身に何かあったのかと、勇気を出し、振り向きざまに声をかけたのだ。それに気づいたメルは、ようやく気を取りなおした。
「え、ああ、ごめんなさ……」
そうして返答しようとしたメルだったが、アンナと目が合った瞬間、息が止まるほど驚いた。精霊が封じ込められたはずなのに、アンナの瞳の色が、赤茶色に変色していたのだ。
「ア、アンナさん……。あなたの、瞳の色……っ!」
目をまるく見開いたメルは、左手を口に当ててまで驚きを隠せないでいる。だがその反応を見たアンナは、首をかしげざるをえなかった。瞳の色でメルが驚くのは、これが二度目だったからである。
「瞳の色……ですか? でもさっき廊下で、能力を使うと目が赤くなるのは精霊さんのせいだって、お姉さまが私に説明してくれましたよね……?」
それはその通りである。深呼吸したメルは神妙な顔で何度もうなずき、それを認めた。
そして自分の胸に手を当てたメルはアンナから手を離し、深く息を吐いた後、人さし指を立てて説明を始めた。
「いいですか、アンナさん。先ほど帝国軍の魔術師たちが発動させたのは、この周辺にいる精霊の霊気を、完全に封じてしまうものなのです」
アンナにとっても自分事である。真剣な眼差しで姿勢を正し、理解しようと努力する。
「精霊さんたちの、霊気を……。だから、精霊さんたちがいなくなったのですか?」
「いなくなったのではありません。結界で封じ込められてしまい、魔力を発揮することができないのです」
「け、結界……初めて聞きました。でも、そのせいで、精霊さんたちが力を出せないのですね」
「そう、ですね……。だから本来、『敵対者』のみが使える魔術『満ちゆく天界の力』も、効力を発揮できないはずなのですが……」
インテリそうな仕草でメガネを直したメルはそこまで言ったが、魔力の供給はありがたい。
後方にいる帝国の魔術師たちからは見えないように、そっとアンナの肩に手を置いた。
「ともかく、これで少しは、足しになりそうですわね……」
そう言いつつも警戒を怠らないメルだったが、対面で正座していた赤い目のアンナが急に、斜め下へ視線をそらした。
そしてメルが杖代わりにしていた剣の方を指さし、眉根を寄せて話を止めた。
「すみません……お姉さま。お話の途中なのですが」
「……? 何かしら?」
「その剣……。赤く光っていませんか?」
視線を変えたアンナが、メルが携えた剣を不思議そうに見つめてきている。
アンナの言葉でそれに気がついたメルは、何となく剣の方に目を向けたが、次の瞬間、驚きのあまり息が止まりそうになった。
メルが杖代わりにしていた片手剣「正義なる裁きの女神」が、新調した白い鞘を透かすかのような、赤い光を放っていたのである。
「この、光は……。まるでアンナさんの瞳の色と同じ……。そして……」
そう言いながらメルが見つめたその光は、アンナの瞳はもちろん、天にかかる月ヴァルトールにも似た、見る者に毒々しい印象を与えるほど暗く、赤い色をしている。
これらの赤い光には、何らかの関連がある——。メルの脳裏に、ある考えが浮かんだ。
(アンナさんの瞳と、ヴァルトール、そしてこの剣。なるほど、もしかしたら精霊は……)
顎に手を当てたメルは、アンナの赤い瞳と空にかかるヴァルトールとを数秒間見比べたあと、深くうなずいた。彼女の中で、考えがまとまったようだ。
「……ピウスさん、クリストフさん。少し、よろしいですか」
向こうで動きを見せる帝国の魔術師たちに注意を払いながら、メルはピウスとクリストフの二人に声をかけた。
二人もそれに気づいてこちらに顔を寄せたので、メルは改めて彼らの方に向き直った。
「ピウスさん、事情があって、ここではクリストフさんの手当てを継続できなくなりました。申し訳ないのですが、ここはクリストフさんを連れて、いったん宿酒場に下がってもらえませんか?」
あの不思議な現象があってからというもの、メルやアンナの表情を見れば、状況が不利に傾いたことくらい二人にもわかる。出血多量で顔色が悪いクリストフは悔しそうに顔を伏せ、神妙にうなずいた。
一方、ピウスは眉間にしわを寄せてうなずきながらも、白い髭をしごきながら難しい顔で、メルの瞳をまっすぐに見つめてきた。
「退避するのは構わぬが……。おぬしらは、どうするつもりじゃ」
「わたくしに、いささかの勝算がありますの。アンナさんと力を合わせれば、敵の魔術師たちを追い払うくらいはできましょう。どうか、お任せくださいませ」
「ふむ……。しかし敵に白兵戦の覚えのある者がいる以上、護衛が必要なのではないか?」
危険な局面に至ってもなお老躯をいとわず、助太刀を申し出るピウス。
その頼もしい顔を直視したメルは、一瞬嬉しそうに微笑んだが、それでも首を左右に振った。
「ありがとうございます。しかしここから先は恐ろしい世界です。魔力を防御できない人間にとっては、耐えがたい戦場になるでしょう」
目を閉じたまま首を振ったメルは、首にかけたペンダントの鎖をつかんで服の中から取り出し、手のひらに乗せてピウスに見せた。
「この道具があれば大丈夫なのですが……。でもこの道具は、アンナさんとわたくしの分しか、用意がありませんの」
その横では、緊張に顔をこわばらせたアンナが胸に手を合わせ、ペンダントと対になったブローチを握ってこちらを見ている。
アンナの思いつめたような顔を横目で見たピウスは、あきらめの表情で息を吐いた。
「……そうか、わかった。行くぞ、兄ちゃん」
そう言ったピウスは、持っていた戦斧を背中に装着し、出血多量で動けないクリストフに肩を貸し、高齢者とは思えないほどの力強さを発揮して再び立ち上がった。
そして、それを見上げるメルとアンナの方を振り向くと、柔和な笑みを浮かべた。
「どんな策があるのかは知らんが……。命だけは、粗末にするのではないぞ」
今生の別れででもあるかのようなその言葉に、神妙な表情のアンナはこくりとうなずく。
メルは、立ち去ろうとする二人の前で剣を杖にして立ち上がり、笑顔で右手を差し出した。
「ピウスさん、そしてクリストフさん。あなた方がいてくださったおかげで、帝国の魔術師たちとここまで渡り合うことができました。感謝いたしますわ」
メルは疲れきった笑顔で言い、ピウスとクリストフの順に、がっちりと固い握手を交わした。
戦火の薄明かりを通し、少し離れた場所からそれを眺めていたケードゥスが、いかにも面白そうなものを見た顔で、後頭部に手を回して呟いた。
「——これで敵の方は、野郎どもが舞台から退場、というわけか」
ツォストリアノスが戦力として使い物にならなくなり、サイクスもまた魔力の回復を待っている。魔術が封じられている間は、事実上の膠着状態。これで対等である。
そんな状況をいいことにツォストリアノスの介抱をしていたケードゥスが、のんびりした口調で言う。
「これが腕っぷしのケンカなら、勝ったも同然なんだがなぁ」
……などとケードゥスは、劇場の桟敷席から眺めてでもいるかのような感想を述べる。
石畳の上に仰向けに寝ころんで聞き耳を立てていたサイクスは、その言葉を耳にすると、不満そうに口をとがらせた。
「勝てっこないよ。あいつら、次に何をしてくるかわからないし」
「あの爺さん、マジで強かったよなあ。撤退してくれただけでも、俺たちに有利だと思いたいよ。お前の魔術が使えれば、きっと楽勝だぜ?」
「ちぇ。言っておくけどまだ俺の魔力は、半分くらいしか戻っていないよ? ヘロヘロのお姉さんはともかく、『認められた者』のガキには、今の俺じゃ勝てそうもない」
夜空に向けて億劫そうにそう言い放つサイクスの手には、ぼうっと薄緑色に光る、菱形の魔石がいまだに握られている。
魔力と体力は連動しているため、休むことで両方を回復させることができる。だがそれが望めない場合、魔道具を使えば、魔力の回復だけを早めることができる。
サイクスが人目をはばからず寝ころがっているのは、身体を休めることでさらに魔力の回復が早まることを、経験で知っているからだった。
「ちくしょう、早く回復してくれよ、俺の魔力……」
サイクスがいまいましげに呟くうちに、さらに膠着状態が続く。
そろそろ、月に次いで明るい「天煌星」が中天に差しかかる時分だ。「ヒューリアック解放戦線」の隊長ニケフォルスが、当初、作戦開始の合図と定めていた時刻である。
もう真夜中なのだが、街のあちこちからは戦闘を開始した、仲間の傭兵たちが喚く声が聞こえてくる。特に本隊がいる宿酒場前の広場からは、大集団の喊声が届いてきた。
本隊は隊長ニケフォルスが直接、指揮を執っている。そちらでも戦いが始まったらしい。
『——汝らも、行動すべき時なのではないか? 結界の効力に刻限が迫っておるのだぞ』
ファシラダスに憑依した神メルキセデクが、立って腕組みをしたまま上空の「天煌星」を見上げつつ、重々しく口を開いた。
その催促に対しては、寝ころがっていたサイクスが、唐突に上半身を起こして答えた。
「立ち回りなら負けねえ。だけどあのガキ、あれほどの魔術をぶっ放しているのに、魔力が減るどころか、どんどん大きくなっていやがるんだ。これは、罠なんじゃねえか?」
『ほう……?』
その状況分析に、メルキセデクはいたく感心したらしい。
腕組みは崩さないままだが、石畳に座り込むサイクスを一瞥して呟いた。
『以前出会った折は、ただの血気さかんで生意気な小僧だと思っておったが……。寿命に限りあるがゆえか、人の子というのはかくも成長が速いものか』
「……ん? なんだ、今、何か言ったか?」
その呟きは、サイクスやケードゥスらの耳には届かなかった。それでもメルキセデクは、憑依しているファシラダスの顔に、ほのかな笑みを浮かばせた。
神たる存在を前にして敬意のかけらも感じられない彼らの言動も、メルキセデクにとっては春風のようなものであったのだろう。
『——よい、忘れよ。ときに儂の憑依時間が、もはや残りわずかであるゆえ……汝らとは、間もなく別れねばならぬ』
「おー、そうかぁ。まあ、気をつけてなぁ」
視線を向けることもせず、サイクスは棒読みでそう言うだけだった。腐れ縁とでも言おうか、またすぐ会える友人のような、そんな気がしたのである。
メルキセデクもそれは咎めず、向こうの集団に聞こえないよう、少し声をひそめた。
『——餞別代わりと申しては何であるが、汝らに朗報を与えて進ぜよう』
「朗報……?」
それを聞いて身を起こしたサイクスと、うさん臭いものを見るような目でメルキセデクを見上げたケードゥスが、ほとんど同時に異口同音で反応した。
そんな彼らの反応すらも想定済みなのか、メルキセデクは平然として続ける。
『思い出すがよい。この男が身を賭して放った魔術『精霊の介在なき、清浄なる空間』の効力によって、精霊魔術師のみによって構成された敵方の戦力が今や、無に等しくなったということを』
「無に等しいって……。そんなに都合よく、この周辺の精霊を封じられるのか?」
ケードゥスが思わず聞き返したが、メルキセデクはその問いに鼻息で応じた。
『ふむ、人間どもが弄する現代語の術であれば、そうであろう。だがこれなる古代語魔術は、威力が桁違いであるゆえ……。精霊どもは今や、動くことすらままならぬ』
「まあ、その力は認めるけどよ。俺たちだってもれなく、精霊の影響下にあるんだ。精霊の魔力を介さないと魔術は発動しない。地上じゃ常識だぜ?」
半信半疑のケードゥスが皮肉をこめた顔つきで反論し、自慢げに顎をしゃくり上げるメルキセデクを牽制した。
精霊が精霊魔術師の力の源泉であることは間違いないのだが、同時に、精霊は地上における魔力の供給源でもある。精霊の力を必要としないのが呪術魔術師の利点だが、魔力が封じられたという状況の影響はまぬがれ得ない。
メルキセデクは天上の神であるだけに、そのことを知らないのではないか——。ケードゥスはそれを疑ったのである。
だが、メルキセデクはまったく動じない。それどころか、その発言を鼻息で一蹴した。
『フン……。この儂が、その程度の事情を了知せぬと思うたか。おい、サイクスと申したか。些少なもので構わぬゆえ、汝の魔力で、手のひらに火の玉を浮かせてみせよ』
「ええ……? そんなことしても、精霊が押さえこまれているから無理なんじゃ……」
話の流れから魔術を試すよう命じられたサイクスだったが、魔力はいまだ回復途上である。反撃のときまで温存したい彼は、やんわり断ろうとした。
だがその途端、ファシラダスの目を借りたメルキセデクの眼光が、夕闇に鋭く閃いた。
『案ずるに及ばず。神々の加護ありし汝らに、精霊どもの力は不要。疾く発動せよ』
「そ、そんなこと、俺が信じるとでも……」
『——時が惜しい。天上の神たる儂が命じる。拒む権利は、汝にはない』
「…………!」
普段は生真面目で部下思いのファシラダスなのだが、憑依されているとはいえそんな彼の目から発せられた「凄み」を前にしては、さすがの強気なサイクスも頬を引きつらせた。
だが、その時ケードゥスは、ファシラダスの全身がほんのりと光を帯びており、光る煙のようなものを漂わせているのも目にしていた。
この状態は、神の霊力が限界に達した兆候である。以前ともに行動したときと同じだった。
「もう、帰っちまうのか。勝負の決着は、まだついていないぜ?」
『……精霊どもを抑止せんがために降りし、儂の役目は終わった。禁呪の結界は有限である。此奴ら主従の思いを、無駄にするなかれ……』
「そうかい。せっかくだから最後まで見ていけばいいのに、と思っただけさ」
『——ククク、案ずるな。続きは天界にて楽しむとしよう。では、さらばだ』
メルキセデクがそう別れの言葉を口にした途端、彼が憑依していたファシラダスの身体は操り人形の糸が切れたかのように支える力を失い、その場に崩れ落ちた。
それを認めたケードゥスは、すでに意識のないツォストリアノスを石畳に寝かせると、今度はファシラダスを介抱しに向かう。
それを見ていたサイクスはのろのろと起き上がり、右手を空中にかざした。
「——やってやるよ。俺の魔力がどこまで戻ってきたか、確認したい気もしていたんだ」
メルキセデクの眼光に屈したとは認めたくないので、無理に理由をとりつくろう。それに気づいて苦笑するケードゥスを尻目に、サイクスはかざした右手に力をこめた。
指先に、ほのかな温かみを感じる。失われた魔力は、ほぼ最大まで回復しているようだ。
「それに、帰っちまった爺さんの頼みなんだ。今は俺しかできねえ……」
おのれに言い聞かせるかのように呟いたサイクスは、目を閉じて手のひらを空に向け、幾度となく唱え慣れ親しんだ呪術魔法の術式を、ゆっくり口ずさみはじめた。
「いと高き天に在りし、全能の神々よ……」
サイクスの右手が、じんわりと赤い光を帯びる。そしてその光の強さに比例して、魔力の規模がどんどん大きくなっていく。
いつもとは違う感覚に、サイクスは心の底から興奮に打ち震えた。
(マジかよ、精霊の気配がないはずなのに、魔術が使えるなんてッ……?)
精霊の気配を感じないのに魔術を使えるという新鮮さに加え、あの菱形の石のおかげで枯渇する寸前だった魔力が回復したという嬉しさもあった。
もはや止める者のないサイクスの魔力が、加速度的に増大していく。
「その力をもって……。眼前の敵を貫く魔弾を……」
詠唱式が完成に向かうに従い、サイクスの顔が嗜虐的な愉悦にゆがんでいく。
そんなサイクスの姿を少し離れた場所から見ていたメルは、出会ったときよりもさらに巨大に膨れあがった、粗削りな魔力の波を感じて唇を噛みしめた。
自分よりも少し華奢なアンナをかばい、石畳に膝をついたメルの右手には、依然として赤い光を帯びた片手剣「正義なる裁きの女神」が握られている。
「やはりあの菱形の魔道具には、失った魔力を回復させる力があったようですわね……」
「め、メルお姉さまぁ……」
恐怖のあまり、アンナも思わず心細い声を上げた。この状況では無理もない。
メルは左手でアンナの肩を強く引き寄せ、彼女の顔を自分の胸に押し当てた。
こちらは精霊の力が封じられてアンナの魔術が発動しない。メルの魔力も枯渇している。
その一方で帝国軍の魔術師に対しては精霊封じの影響がないらしく、加えて魔力も回復している状況。このままでは絶体絶命——。
ところがアンナの耳には、メルの優しげで、かつ力強い声が届いた。
「ピウスさんとクリストフさんを帰したのは、わたくしが魔術師だということを知られたくないから……。大丈夫、精霊がいなくても、魔術の行使は可能です」
その言葉に目を丸くしたアンナは、精いっぱい手を伸ばし、メルの胸に震える身を預けた。
「お姉さま……。信じて、いいのですか?」
「……ええ。わたくしは神様と、魔術を教えてくれた母に、感謝すべきですわね」
褐色の瞳を潤ませて見上げてくるアンナを、メルはいとおしげに抱きしめた。
引き続いて目を閉じ、ふうっと息を吐いて、精神を練り上げはじめる。
その途端——。
メルの身体から魔力があふれ出し、後光のように輝いて全身を覆った。
足腰も立たないほど枯渇していたはずのメルの魔力が、いつの間にか本調子といえるほどまで回復していたのである。
目を閉じて金色の後光を身にまとったメルが、サイクスに遅れて呪文の詠唱を開始する。
「天と地の主よ、われは求めたり……」
神に祈りを捧げるように表情を消したメルの口からすらすらと紡ぎ出されたのは、ケードゥスもサイクスも聞いたことのない詠唱式だった。歌っているかのように響く独特なその節回しは、教会での礼拝を思わせる。
その詠唱が進むに従って、メルの魔力がどんどん膨れあがっていく。
対するサイクスの詠唱式は、メルよりもひと足先に完成へと近づいていた。相手が何を企んでいようが、今さら止めることはできない。
詠唱の最後、まなじりを決したサイクスが絶叫し、魔法名を一気に解放する。
「——我に示せ! 『霊体を射落とす魔炎の矢』ッ!」
サイクスの絶叫と同時に、足もとの石畳が、鮮烈な赤色の魔法陣で一瞬のうちに彩られた。
そして天に向けたサイクスの右の手のひらに、燃えさかる棒状の炎が発生。まるでそれ自体が意志を持つかのように回転し、メルとアンナの方へと向きを変えていく。
そこへメルの歌うような詠唱が淀みなく追いつき、サイクスにやや遅れて完成した。
「何者をも拒む、聖なる盾をもって……。迫り来る脅威を、排除させたまえ!」
やや語気を強め、メルが詠唱を結んだ次の瞬間——。
通常は足もとに出現するはずの魔法陣が、なぜかメルとアンナの頭上に現れた。
その魔法陣はまさに、芸術作品のように細密な線の集合体。礼拝堂の天井から垂れ下がり陽の光を受けた天蓋とその覆いのように、夕闇を排除し白く輝いている。
原始の壁画を模したような精霊魔法のものとも、血で描かれた呪いの絵にも例えられる呪術魔法のものとも違う、まさに荘厳な雰囲気をもった魔法陣であった。
帝国の魔術師にとってこのような術式は、見るのも聞くのも初めてである。
思わぬ展開に不気味さを感じつつも、サイクスが手のひらに浮かべた炎の矢を二人に向けた。
「——くそッ! 行け、炎の矢!」
今回も通用しないのではないか。そんな疑念を振り払うかのように、サイクスが叫ぶ。
その絶叫に呼応した炎の矢は、次の一瞬でひときわ大きな炎を身にまとわせるや否や、意志を持つもののように一直線を描いて、メルとアンナめがけて発射された。
当たれば最後、目標物を貫通するだけでなく、一瞬で燃え上がらせる炎の矢——。
メルに守られながらも、炎の矢を見たアンナは恐怖のあまり、目をぎゅっと強く閉じた。
ところが炎の矢は、メルとアンナを刺し貫くことも、焼きつくすこともできなかった。
途中でいきなり透明な壁に衝突したかと思うと、青白い電光と稲妻のような破裂音を発し、跡形もなく消滅してしまったのである。
「……聖なる神霊の盾」
突然の出来事に目をぱちくりさせるアンナを抱きしめながら、勝ち誇るでもなく淡々とした口調で、メルが術式の最後に魔法名を解放する。
天蓋のような魔法陣が薄れて消え、後にはやや円錐形をした、薄青色の透明な膜が残った。
「な、何だよそれ……。見たこともないぞ、そんな術……」
残る魔力のありったけを込めた炎の矢が消滅するのを目の当たりにしたサイクスは、がっくりと石畳に尻をつき、メルの姿を茫然と仰いだ。
精霊の気配を封じてもなおこの結果となった今、帝国軍の魔術師たちにはもはや、為すすべは何も残っていない。意識不明の二人を抱えたケードゥスも、あきらめ顔で首を振った。
この状況を見てとったメルは、アンナを自分の胸から離すと、ようやく微笑んだ。
「神聖魔法のひとつ、神の威光による防御魔術ですわ。精霊の影響は受けませんの」
「はぁ? 神聖魔法……? お姉さんって精霊魔術師だろ? 精霊魔法しか使えないはずじゃなかったの……?」
「ふふ、おあいにく様。わたくしは、自分が精霊魔術師だと思ったことは一度もありません」
アンナの両手を取って立ち上がらせた後、メルは、サイクスの力なき問いに答えた。
ふらつきもなく力強く立つその姿は、魔力が枯渇して足腰が立たなかったさっきまでのメルと、同一人物だとは到底思えなかった。
それを見たケードゥスは、意識のないツォストリアノスとファシラダスを介抱しながらも、いぶかしげに眉をひそめざるを得なかった。魔力の枯渇に関していえば、菱形の魔石を持つサイクスとは違い、メルの方はより深刻だったはずだ。
「あのさあ姉ちゃん、ひとつ、質問いいかい……?」
鞘におさめた剣を離れた場所に置き、石畳にあぐらを掻いて逃げも隠れもしないことを態度で示しつつも、のんびりした口調のケードゥスが右手を挙げ、尋ねてきた。
「姉ちゃんの魔力だって、こいつと同じですっからかんになったはずだろう? どうしていつの間にか、ピンピンに回復しちゃってるわけ?」
この問いは予測していたのだろう。さすがのメルも得意げになり、右手に持っていた片手剣「正義なる裁きの女神」を水平に持つと、ケードゥスの眼前に勢いよく突き出した。
「……この剣が、わたくしに魔力を分けてくれたのです」
顎をしゃくり、メガネを光らせるメルに握られた「正義なる裁きの女神」は、ほんのりと赤銅色に染まり、空にかかる赤い月と同じように光っている。
「この剣に宿っている高位の精霊は、認められた者だったとされる魔術師、煉獄の王を抑えるために生み出された敵対者、テミス・クーリアだと言われています」
有名な剣とテミスにまつわる話は、魔術を研究する以上知らない者はいない。だがその話と、魔力の回復がどう結びつくのか。皆目見当がつかないケードゥスは首をかしげた。
「……つまり?」
「この剣に封じこめられたテミスさんは、自然界の精霊とは別個の、より高位な存在……。そんな彼女の意思が、剣身に『満ちゆく天界の力』という、魔力を回復させる魔術を宿らせていたのです。それを、利用させてもらいました」
それを聞いたケードゥスとサイクスは、今度こそがっくりと肩を落とした。
「マジかよ……。せっかく精霊を封じたと思ったのに、結局これか……」
「くそっ……。何だよそれ。そんなの、反則もいいところだぜ……」
この状況では帝国軍の魔術師たちも、これ以上の抵抗を断念するよりほかなかった。
あらかじめ用意しておいたのか、メルは棒状の魔道具を二本、ポケットから取り出し、小さな声で命令を与えた。
すると、棒状だったものは薄く発光し、たちまち柔らかくなって縄状になると、ひとりでに飛んでサイクスとケードゥスの両手首に巻きついた。
「——ふう。危ないところでしたが、どうやら勝負あったようですわね」
メルが左腕で額の汗をぬぐいながら、勝利を宣言する。機転を利かせたアンナはすかさず立ち上がり、ケードゥスの剣を持ち上げ、自分の胸に抱え込んだ。
「意識のないお二人は、わたくしが何とかしましょう。あなた方はご自分の足で、拠点まで行っていただきます」
捕虜となった者は身の安全を保証されるが、その代わり尋問に応じなければならない。はるか昔に設けられた、各国間の取り決めである。
潔く立ち上がったケードゥスがサイクスの手を引きながら、最後に質問した。
「……ここの住民にとって、俺たちは悪魔のような存在だろうな。拷問でもするつもりかい?」
「いいえ。ここの座長さんはお人柄が優れていますし、もともと帝国の軍人ですから、差し飲みで語り合えると思いますわ」
「へえ……? そりゃあ楽しみだ。おいサイクス、行くぞ」
そう言って去っていくケードゥスとサイクスの後ろ姿を見送っていると、剣を強く抱きしめたアンナが、メルの背後からおそるおそる尋ねてきた。
「お姉さま、その……。魔力が回復できたのは、この剣の力だけではなく、私の隠れた特徴のせい……なんですよね?」
気弱なアンナが勇気を振りしぼっている様が妹のように愛おしく、思わず優しげな目つきで聞いていたメルだったが、微笑みはどうしても隠しきれなかった。
「ふふ、さすがですね、アンナさん。そう、わたくしが魔力を回復できた大きな理由は、あなたが無意識に発していた魔術でした」
「私の、無意識の魔術……? 精霊さんが、封じられているのに……?」
「ほかの魔術は無理なのですが、『満ちゆく天界の力』の由来となる精霊はこの周辺ではなく、赤い月に棲む精霊なのです」
「赤い月の精霊……。だから、影響がなかったのですね」
「そう、だから例外的にあの術でも封じられなかった……。何より、アンナさんのわたくしに対する思いが、無意識に魔術となって、結実したのです」
「メルお姉さまに対する、私の思い……」
「ふふふ、でもあの二人にはまだ、あなたが敵対者を同時に有していることは、伏せておきたかった……。だから剣の功労にしたのです」
精霊に対する結界は徐々に解除されていくらしく、メルがそう回答する間にも、周囲に精霊たちの気配が戻ってきていた。
その雰囲気を感じて安堵するアンナの頭を撫でなから、メルは身体をひと伸びさせた。
「さあ、そろそろイズキール様が、剣を返せと言ってくる頃ですわね。さあアンナさん、宿酒場に戻る準備をしますわよ」
にこやかにそう言ったメルは、紫色の耳飾りを取り出すと、器用に右耳へ着けるのだった。