1-4 薄赤色の髪の少女
四 薄赤色の髪の少女
――しかし、それはそれ、これはこれである。
アンナには感謝している。だが、無断で持ち場を離れたことは咎めなくてはならない。キリエもそうやって、大人の社会を経験してきたのだ。
間違ったことは指摘するべきだ。ここが戦場であれば、なおさらだ。
キリエはすぐさま酒場の屋根に飛び移り、周囲を警戒すると、まるで平らな地面を歩くかのようにつかつかと、踏ん張って立っているアンナのそばに歩み寄った。そこで、開口一番。
「……でもなあ、アンナ。いくら何でも、屋根の上は危ないだろう?」
おもむろに腰に手を当て、出来の悪い後輩に教えるような、姉貴分の口調に変わるキリエ。
一度は褒めてくれたのに、やっぱり叱られるのかという神妙な顔で見上げてくるアンナ。その頭にポンと手を置くと、キリエは訥々と語りはじめた。
「あの時は……その、一緒に戦うとは言ったけどな。だけどさすがにその格好で、お前が屋根に登るのはだな、無茶が過ぎ――」
アンナの笑顔にドキッとしてしまった手前、口ごもり気味になったキリエが敢えて苦言を口にしかけたとき……。
あたかも鈴の音が響くような清冽な高音が、どこからともなくアンナとキリエの耳に届いた。
「――ちょっとお待ちなさい、キリエさん? それは聞き捨てなりませんわね」
聞こえてきたのは、少女の声。その声が聞こえると同時に、先ほどアンナが出てきたと思われる天窓が内側から押し開けられ、白い服を着た人影が姿を現した。
口調はまさに、貴族のお嬢様。だがこんな貧民街に、果たしてお嬢様など存在するのだろうか。
そこへ姿を現したのは、やはりお嬢様などではなかった。むしろ、その真逆の姿だった。
薄赤色の長い髪に丸いメガネ。フリルがあしらわれた袖なしの白いワンピース。それはこんなところに身を置いていていいのかと思うほどの、可愛らしい服装を身につけた少女だった。
ところが、羽織ったマントはよれよれの男物。使い古しの革ブーツはくしゃくしゃで、大きくて古い革の袋を背負っているのは奇妙である。可愛らしいのは服装だけで、それ以外の装備はまさに旅の商人か、漂泊の詩人のようでもある。
そんな珍妙な姿をした少女は、薄赤色の髪をなびかせ、キリエの前まで危なっかしい足取りで進んでくると、ことさらクールさを装いつつメガネを直してから、にわかに口を開いた。
「無茶なのはお互いさまですわ、キリエさん。貴女ともあろう方が、敵に狙われるだなんて」
すましたお嬢様口調だが、丸顔で童顔。だがその口調だけはお嬢様以上にお淑やかで、かつ洗練されたもの。どう見てもお嬢様姿ではない彼女が、どうしてお嬢様口調なのだろうか。キリエはいつも思う。
「う、うるせえ。ちゃんと気づいてたよ! でもそれとこれとは、別の問題だ。アタシは心配なんだよ。もしこいつが、足を滑らせて屋根から落っこちでもしたら……」
キリエはどうにか反論しようとするが、薄赤色の髪をなびかせた少女はフフンと鼻であしらうと、ワンピースを翻しながら、キリエの鼻っ面をビシッと指さした。
「周りに心配をかけているのは、あなたもですわよ! いいですかキリエさ――」
その時。一陣の風が屋根の上を吹き抜けた。
突如として強風にあおられる、ひらひらのワンピース。
「――は、はわわっ?」
飾りがふんだんについた白いワンピースだが、ひらひらしている上に、スカートがすこぶる短いのが欠点である。
風で途端にあらわになったのは、彼女にとっての恥ずかしい部分。
「ちょ、ちょっと、み、見ないでくださいいいっ!」
もはやクールに反論するどころではなかった。少女は風でめくれようとするワンピースを必死に手で押さえ、屋根の上でうずくまって、風が過ぎ去るまで耐えしのぐほかなかった。
目の前にいるのは二人とも同性だが、たとえ同性であろうと、見られて恥ずかしいことには変わりがないようだ。
「う、ううっ……。もう、お嫁に行けなあい……」
颯爽と登場し、ビシッと決めようとしたのだろうが、もはや台無しである。その場にへたり込み、涙目になる少女の顔は、羞恥のために髪の色よりも真っ赤に染まったのだった。
どうも惜しいというべきか残念と表現すべきか、この少女の行動には計画性がありそうでそうでもなく、どこか間が抜けたところがあるらしい。キリエもアンナも唖然として言葉がなかった。
「そ、それはともかく……ですわ!」
だが、それはいつものことらしい。数秒で気を取り直した少女は、不安定な屋根の上で不器用に立ち上がると、ずれかかったメガネを几帳面そうに直し、赤い顔のままコホンと咳払いをすると、これだけは言いたかったのか、再びキリエを指さした。
「キリエさん、今回こそはアンナさんに助けられましたわね。アンナさんが『野を打つ暴風』を使ってくれなければ、貴女も今ごろ、どうなっていたか――」
風になびく長い髪は、後頭部でリボンに結ばれている。それでいてこの少女は不思議と背が高い。そばかすだらけの童顔なのに、理知的に見えるのはメガネのおかげだろう。
知識は豊富らしく、キリエが知らない専門的な用語が、会話の中でどんどん出てくる。要するに、オタクなのである。
顎をしゃくって、勝ち誇ったような表情の少女。それでいて、緋色のマントを背になびかせながら、風ではためくワンピースのスカートがめくれないよう、押さえる手を離せず前かがみの姿勢をやめられないのだった。
(油断したのはどっちだよ。こんな風の強い街で、そんな服を着るんじゃねえ)
――と、キリエは心の中で呟いたが、言うと面倒くさいので口には出さないでおく。
(……って、こんなところで油を売っているわけにはいかねえんだった。あのキザ野郎を早く)
そう、こんなところで無駄な時間を取られているわけにはいかないのだ。憎いあいつを追いかけなければならない。
さすがに焦りを覚えたキリエは、負けを素直に認めることで半ば強引に、話題を切り替えることにした。
「ああ、わかった、わかったよ。アタシが悪かった。それで……座長や司祭様たちは無事なのか?」
「――えっ? ああ、はい」
キリエが弓を掲げたまま手を振って話を変えたので、少女の小うるさい苦言はうまい具合に封じ込められてしまった。
薄赤色の髪の少女は、なおも何か言いたそうな顔つきだったが、機先を制された途端にすっかり切り替え、微笑した。こういうところは単純なのである。
「ご心配なく。皆さん無事ですわ」
そう答えた薄赤色の髪の少女は、暗い金色の髪が可憐なアンナの後ろに回り、背後から優しく両手を回し、まるで包み込むように優しく抱きしめてやりながら、続いて神妙な面持ちで首をかしげた。
「でも、いいのかしら? 早く追いかけないと、意中の男に逃げられてしまいますわよ?」
「なっ――! 惚れたわけじゃねえよ! ロン毛のキザ野郎なんかに!」
「あら? そうなのですか?」
脊髄反射の速度で、すかさず突っ込むキリエ。薄赤色の髪の少女が口元に意地悪そうな笑みを浮かべ、しらばっくれたような返事をすることにも、なおさらムカつく。
確かにあの帝国の弓使いは、キリエにとって大切な人の名誉を傷つけた、許せない相手である。
だがその時のことを思い出すと、ふっと、心の中にうごめく感情を覚えるのだ。
「――あなたもあの、『蒼い悪魔』の仲間なのかい?」
茶色の長髪がキザったらしい、あの帝国のキザ男から投げかけられたこの言葉が、今でもキリエの心の中にわだかまっている。それがどうしてなのか、彼女自身にもわからない。
だから、その言葉に登場する「蒼い悪魔」が本当に、彼女が大切に思う人のことなのか、何としても問いただす必要があるのだと感じていた。
だが、もしその呼び名が本当だったとしても、帝国の弓使いが言う「蒼い悪魔」は、決して悪の権化のような存在ではないと信じている。
その「蒼い悪魔」は、迫り来る脅威にさらされたとき、葛藤と戦いながらも秘められた力を発揮し、奇跡的な能力を行使して街のみんなを守ってくれたからだ。
あの時、迫り来る敵を前に、身を挺して立ちはだかった彼の背中は、城壁のように広く、頼もしかった。
(――あの時、司祭様が守ってくれなければ、アタシたちは今ごろ……)
キリエは心の中で呟く。守ってもらったあの時、彼女は決意を新たにしたのだ。
帝国による悪評は必ず改めさせ、教会による迫害からも守る。今度は自分たち街の住民が、迫り来る脅威から彼を守ってやる番なのだと。
キリエはその気持ちを新たにすると、心にわだかまった思いを振り払うかのように「ぱぁん」と、自分の両頬を叩いて活を入れ直した。
「――キリエさん?」
いきなり自分で自分の頬を叩いたキリエを見て、薄赤色の髪の少女は思わず、いぶかしげな顔で首をかしげた。
その表情と仕草に気づいたキリエは、無言で弓を高々と掲げ、口元にニンマリと自信ありげな笑みを浮かべ、そのまま走り出す体勢になった。
これが、狩人でもあるキリエの、不器用な決意表明であった。
「それじゃあな! アタシはあのキザ野郎との決着をつけに行ってくるからよ! お前も無理するんじゃねえぞ……メル! 生きて、また酒場で会おうぜ!」
キリエは自分を鼓舞するかのような台詞と、メルと呼ばれた薄赤色の髪の少女、そしておっかなびっくり屋根の上でバランスを取っているアンナを気づかう言葉とを残し、一気に屋根の上から身を躍らせた。
「アタシが行くまで待ってろよ、チャラ男野郎!」
そう叫ぶと、キリエは驚異的な跳躍力を発揮し、別の建物の屋根へと身軽に飛び移っていく。
大柄かつ豊満な体つきにもかかわらず、鍛え抜いた筋力が実現させた、驚嘆すべき身のこなしだった。
「……貴女も、死んではいけませんわよ」
薄赤色の髪をなびかせた少女メルは、丸いメガネの奥で、いとおしそうに紫色の瞳を細めた。