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城壁都市リーヴェンス攻防記 ~新編・破壊の天使~  作者: 南風禽種
第6話 禁忌の秘法「魔術」の深淵
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6-7 今に蘇る、いにしえの激戦

七 今に蘇る、いにしえの激戦


 「天煌星(ポリュクス)が中天に来たときに、作戦発動……か」


 荘重な響きをともなったうめき声を洩らしながら、ベンが大儀そうに、最後に床へと座り込んだ。

 壁に寄りかかったりあぐらを掻いたりなど、めいめいの座り方をした男たちだったが、その声と姿に、いっせいに注目する。


 もっとも奥にある客室は上等で、広く間取りもいいのだが、十五、六人が入ると、さすがに手狭さを感じる。もちろん、椅子など足りるはずがない。

 そこでスカート姿のテレサとメル、そしてアンナが椅子やベッドに腰かけることになり、男どもは車座になることとなった。キリエは女性の中で唯一、ベンと向き合う形で床に座を占める。


 そしてベンとキリエの間には、大きな白い布が敷かれている。そこには消し炭を使って、第十七区の大まかな見取り図が描かれていた。


「ニケフォルスのおっさんはそう言っていたけど……。もう、変えられちまったかもしれねえ」


 見聞きしてきたことをありのままに伝えたキリエだったが、当の本人は作戦発動の時間を疑っていた。作戦発動の時間を敵に聞かれた以上、とっくに変更されていてもおかしくはないのである。

 見取り図を挟んでキリエと向かい合うのは、左からイズキール、ベン、そしてクルトの三名。彼らもまた深々とうなずき、異論がないことを示した。


 天煌星は、年間を通して観測できる明るい天体である。夏至に近いこの時期ではちょうど天頂にさしかかることが知られていて、その時点を日付変更と定める国が少なくない。


「それならば、われらも一刻も早く、迎え撃つ準備をするべき……だな」


 開け放たれ、涼しい風が入りこむ窓から星を見上げたベンはそう言って、日付が変わるまでもうあといくばくもないことを見てとった。

 そして自分を取り囲むギルドの長たちをゆっくり、ぐるりと見回したベンは、最後にギルドの元締めでもあるピウスで視線を止めた。


「ピウスの親父さん……。現状、われらが集めうる戦力はどのくらいでしょう……?」


 みごとに禿げあがった頭に月光を反射させ、白くなった顎髭をしごいていた小柄なピウス爺は、じろりと周囲を見渡すと、やや年下であるベンには視線を向けることなく、重々しい口調で答える。


「若いモンが、ほとんどいなくなっちまったしのう……。戦えるのは中年以上ばかり、およそ二、三十……といったところじゃ」


「お、おいおい! 二、三十って……! 敵の半分もいねえじゃんか!」


 ピウスが答えた数字に驚いたキリエが、周りを見回しながら思わず声を上げる。だがギルドの長たちは一様に暗い表情を崩さない。それはすなわち、この数字が現実であることを示していた。


「まあ、そう言うなよ、キリエちゃん……。十年前に市民兵の制度がなくなったせいで、戦闘の訓練を受けた経験があるのはおっさんだけなんだよ」


 後頭部に両手を回したクルトが、かつての市指導部が決定した政策が悪いのだと言わんばかりの口調で、激高するキリエをなだめる。

 それを耳にしたキリエは、なおも何か言いたそうな顔をしたが、無駄だと悟ったのか拳を握りしめ、口をつぐんで憤然と床に座りなおした。


 それを見とどけたベンは、腕を組んだ姿勢のまま横目でクルトを見て、野太い声で問いかけた。


「そうなると……。お前の考える戦法はどうなる? クルト中尉」


 ここぞとばかりにベンは、クルトの帝国時代の階級を出して、その見解を問う。

 その意味するところが分かったらしい数名の男たちがざわめくのを見たクルトは、辟易した顔をしながら後頭部をかきむしりつつ、ぽつりと答えた。


「機動して各個撃破、ッスかね……。放火する魔術師に対しては消火班を差し向けるとして、残りの連中は打って出て、地の利を活かして敵を狭い路地に誘い込み、そこで袋叩きにする……。これしかないでしょう」


「なるほど、網の目のようなこの街区の路地で、迷わせるわけか。まさに市街戦の鉄則、そのものだな」


「そうです。俺たちが有利なのは、地理的な明るさしかないですからね。だからこれ以外に戦法なんて、考えようもないんです」


 ベンの諮問に対し、事もなげにそう結論づけるクルト。彼が説く方針はしごく当然で理路整然としており、この時だけの思いつきで出た戦術ではないことだけは、誰にでもわかる。

 しかし、これを聞いていたキリエは座ったまま勢いよく「バン」と床を叩き、即座にこの作戦に反対を表明した。


 誰にでもわかる戦術など、相手はとっくにお見通しのはずだ。キリエは身振り手振りをまじえて、その不利を懸命に説く。


「ちょっと待ってくれ、クルトおじさん! もし敵がこっちの誘いに乗らなくて、帝国軍みたいに本隊を温存しようとしたらどうするんだよ! やつらはプロの傭兵だ。打って出たところで皆殺しにされるのは、アタシたちの方に違いないよ……!」


「キリエちゃん……」


「やつらだってバカじゃない……。アタシたち守備隊のような無駄死には、もうたくさんなんだ!」


 キリエは城壁の守備戦に参加し、帝国兵の強さと巧妙さをその目で見てきたのである。机上の空論には断固反対であった。

 周到な戦術を用意し、攻め寄せる敵兵と激戦を繰り広げた守備隊だったのだが、いかんせん戦闘経験が乏しく、戦術はことごとく裏目に出て、守備隊は壊滅した。


 その分、敵にも相当の出血を強いたはずなのだが、城壁の戦闘は「オトリ」であった。破城槌(はじょうつい)が出現する頃、守備隊は全滅状態で、戦闘は下火となっていた。

 結果的に、城門を攻める主力には傷ひとつつけられなかったのである。守備隊は城壁の戦闘で壊滅し、生きて帰ってきたのは、この街区ではキリエひとりであった。


「分隊長の兄さん……。アインもトマスも、エドも……。みんな、死んじまいやがった……」


 クルトの戦術に反対を表明したのはいいものの、代案を示すことができないキリエは、全滅の悔しさに打ちひしがれるばかり。死んだ戦友の名前を呼び、車座になった男たちの前でうずくまって、嗚咽をはじめた。


 それを見たクルトは考えを改めたのか、腕を組み、天井を見て再び思考をめぐらせはじめる。

 地の利を活かした迎撃に絶対の自信を持っていたベンも、これには眉間にしわを寄せざるを得なかった。


 ――と、その時。


 床にうずくまっていたキリエは、自分の背中に優しく手を乗せ、傍らにふわりと座る人物の気配を感じた。

 それは一冊の分厚い書物を手にし、長く伸びた薄赤色の髪を舞わせた、メルのものであった。


「きみは……。司祭様の連れか。意見具申、というわけか」


「はい……。わたくしは、魔術研究家のメルと申します。キリエさんの報告で、敵は魔術を使った焼き討ちを行っていることが判明しました。経験上、魔術に対する防衛は一筋縄ではいかないと思います。座長さんはなにか、考えをお持ちですか?」


 柔らかく優しい表情なのだが、ベンの目を直視するメルの瞳が妖しく光る。

 ベンは腕を組み、先ほどから再考するそぶりを見せていたが、即座に代案を出すことができずに苦慮している。そのことはメルにもわかった。


 そこでメルは、持っていた大きな書物を床に置くと、微笑を浮かべてベンに語りかけた。


「——では座長さん。『都市防衛戦の英雄』と呼ばれた方のことを、ご存じではありませんか?」


 キリエを慰めるかのように背中をさすり、山のように座るベンに問いを投げかけるメル。大人の男たちを前に、少しも物怖じしようとしない。

 その堂々とした姿に少し敬服しながらも、ベンは豪快に破顔し、元軍人らしく明瞭に答えた。


「都市防衛戦の英雄といえば、ひとりしかおらん。二百五十年前のヒューリアック統一戦争で、攻め寄せる貴族連合から王都フェロゼアを守り通した名将、アリストメネス伯のことだろう? 連合王国成立の立役者だ。軍人ならば、知らない者はいないな」


 しごく明快な回答を得たからか、メルは満足げににっこりと笑い、大きくうなずいた。そうしてから床に置いていた書物を持ち上げ、その表紙を彼らの眼前にかざす。


「それなら座長さん。この本について、なにか逸話を耳にしたことはございませんか?」


 古ぼけた革張りの薄板に、金箔で文字が刻まれた本。表紙から背表紙にいたるまで革で装幀されているが、ひどく傷んで、金箔もところどころ剥がれている。それでも文字が大きいので、読めなくはない。

 そこに刻まれている文字は外国語であった。老眼のせいで目を細めたベンとクルトが、顔を寄せて判読に挑む。


「なになに……? アド・クアム・フィデリブス・イン・ウルベ・プラエシディオ……って、ええっ? お、お嬢ちゃん、これって!」


「あら、クルトおじさま。さすが本屋さんですわ。この本のこと、ご存じでしたか?」


 書名を知ったクルトが身を乗り出し、驚愕の声を上げるのと、持ち主であるメルがドヤ顔に変わるのとは、ほぼ同時であった。


「ご存じもなにも! アリストメネス伯のただひとつの著書『都市守備の要諦』じゃないか、これ!」


 クルトの声があまりにも大きかったので、ベンはおろかイズキールまでもが眉をひそめた。その隣にいたピウス爺がごく自然にさりげなく、クルトに問いただす。


「なんじゃ、クルト。この本はそんなに、すごいモンなのか?」


「すごいなんてものじゃないッスよ! アリストメネス伯の唯一の本ってだけじゃなく、ただひとりの弟子に贈った写本しかなくて、オリジナルとその写本の二冊しか、世界にないんです! 連合王国の王立図書館で、門外不出になっていてもおかしくないほどの宝物なんスよ!」


「わかった、わかったから、ツバを飛ばすでない……」


 クルトとピウスのそんなやり取りを横目で見つつ、この場の議論を決定する権利を有すると思われるベンに視線を定めたメルは、重い本を床にドンと置くと、慣れた手つきでページをめくりはじめた。


「世界にたった二冊しかないにもかかわらず、世界のどの国の、どの歴史書にも引用されているという、この本ですが……。わたくしはもう何度も読みまして、部分的に暗誦もできますの」


 そう言いながらも器用に、淀みなくページをめくっていくメル。目的となるページもすでにわかっているようで、暗誦できるというのは本当らしかった。


「……当時、敵である貴族連合には、多くの魔術師がいたそうです」


「魔術師……。俺たちと、似たような状況だな」


「はい——。しかしアリストメネス伯爵は決して魔術に屈することなく、神の言葉で守備兵を鼓舞しつつ約三ヵ月間、最前線に立って王都を守り続けました」


 落ち着いた口調でそう言ったメルは、口も手も止めることなくページをめくり続ける。


「その英雄が、後世のためにと書き残したものです。座長さんはこの本に記された伯爵の教えを、お認めになりますかしら?」


 唄うように澄んだ口調ながらも、挑戦的な物言い。この奇妙な少女は、魔術師と闘い、歴史に名を刻んだ名将が遺した唯一の著作を典拠に、この街の防衛方針を一気に結論まで導こうというのである。


 男ばかりの車座にあって、刺すような周囲の視線をものともしない。このメガネの少女が持つ異様な度胸にすっかり圧倒されたベンは、思わず固唾を呑んだ。


「魔術師と闘った、アリストメネス伯の教え……か」


 軍人であったベンはもちろん、アリストメネス伯爵の理論を知っている。

 だがそれは、積極的な迎撃を第一としてきた彼の考え方とは、相いれないものであった。


 しかし今、魔術師という新たな脅威が加わった。それでもおのれの持論を優先するのか、進んで先人の教えに従うべきなのかを、ここで考えよというのである。


 この選択は、街の運命を左右する。ベンは額に汗を浮かべ、腕を組み、沈思黙考する。

 それからしばらく、口を真一文字に結び、考え抜くこと数十秒。


 じっと思いをめぐらせていたベンは、組んだ腕をおもむろに解くやいなや、膝に手をついた。そしていかつい表情だけはいっさい変えることなく、メルに対して深々と頭を下げたのである。


「……認めよう。そしてその教えを受け継ぐ、きみに従おう。魔術師どもに勝つ、そのためならな」


 頭を下げたまま、ベンは作戦の全般をメルに任すとまで言う。メルはその転換の速さに驚きながらも、念を押すことを忘れなかった。


「座長さん……。ありがとうございます。でも、よろしいのですか?」


「ああ。俺は帝都の士官学校で、教官を長くやったんだが……。伯の防衛理論は地味で、血気さかんな候補生には不人気だった。俺も正直、嫌いだが……。魔術師の脅威に対抗するためならば、こだわりを捨てる」


 ベンが低く重々しい声で、メルに対しあらためて支持を表明した瞬間――。

 開かれた本の前で正座していたメルが、にっこりと、人なつこい笑みを浮かべた。


「――さすがですわ、座長さん。ずっと温めていた持論があっても、状況に応じて柔軟に変更することをいとわない。その決断が正しいことを、伯爵の言葉から引用させていただきますわ」


 満足げにうなずいたメルはそう言いつつ、整然と並んだ手書きの文字の最初に、人さし指をあてた。


『……今般作戦において予が(ひそ)かに慚愧(ざんき)せるは、魔術師なる者の出現に際し定論を臨機に翻すことなく拘泥(こうでい)し、(たちま)ち新方針を発起せるに及ばざる事なり。予が妄執に因り、可惜(あたら)、前途有為の俊秀を失ひしは生涯の不覚』


 彼女の口から紡ぎだされたのは、古めかしい言葉の数々。室内に居並んだ者のすべてが、メルの意外な口調に目を見張った。

 言葉が古めかしいのは、本が文語体で書かれているからであった。メルはそれを、当時の言葉で訳したのである。


「…………」


 アリストメネス伯爵による、率直な真情の吐露。メルの口を借りて今によみがえった名将の思いを耳にして、ベンは深くうなずいた。

 歴史書などには絶対に引用されることのないその告白は、同じ立場に陥ったベンを慰撫し、また力づけるのに充分であったらしい。


「——そうか。伯もまた、迷っておられたのだな」


 ベンの様子が変わったことを感じ取ったメルは、にっこり顔で首をかしげると、ベンとクルトに対し、もうひとつの提案をした。


「まだ、若干の時間がありますわ。これからのわたくしたちがどうするべきかを占う、示唆に富んだこの本……。主要部分の内容を、お知りになりたくありませんか?」


 本来であれば目にすること自体、非常にまれな本である。一も二もなくうなずいたクルトはともかく、車座の男たちも興味深げに目を輝かせている。

 一応、窓から天煌星の位置を確認したベンは、メルの方を見てゆっくりとうなずいた。


「……ではこれから、王都フェロゼア攻防戦の概要を、かいつまんで訳します」


 そう言い、ベンの姿を横目に見ながら車座の中心に座を占め、次のページをめくったメルは、アリストメネス伯爵による回想を、訳しながらゆっくりと読み上げていく。


『――攻防百余日、王都は堅城の全きを得たれども、敵が擁せし大魔術師「煉獄の王」ドミヌス・プルガトリイなる者、不可思議なる術を用ひ余を悩ます。然れども、(いにしへ)の魔導戦争を()た惹起せんとする()の者の企図を阻止せる事は、余の(いささ)か悦びとせる(ところ)なりと(いえど)も、余が股肱(ここう)の臣アロゲネス、忠実なる(しもべ)セツ、加之(しかのみならず)、将来我国を担ふ()数多(あまた)の若人を失ふ。祖国に対し申訳無き事にて、是は未だ忘れ得ぬ痛恨事なり』


 このページに記されていたのは、今でも説話や絵本などに登場する、煉獄の王ドミヌス・プルガトリイとの戦いの経緯であった。アリストメネス伯爵は、その当事者だったのである。


煉獄の王ドミヌス・プルガトリイだって……?」

「今の俺たちと、マジで同じような状態じゃないか」

「教会で習ったときには、敵のことなんて何も言ってなかったぞ?」


 前のめりになって聞いていた男たちも、その名前が不意に登場した瞬間、互いに顔を見合わせ、思い思いにざわつきを始めた。

 意外な人物名の登場に、騒然となる室内。メルはここでいったん、朗読を止める。


「…………!」


 それまでずっとベッドの端に座り、緊張の面持ちで朗読に耳をかたむけていたアンナだったが、その名前を聞いた瞬間、膝に置いていた両手をさらに握りしめ、ぎゅっと身を固くした。


煉獄の王ドミヌス・プルガトリイ……。あの、森の中で私に謝っていた、男の人……)


 そのときアンナの脳裏に浮かんだのは、幼い頃に何度も見た、森の中の夢だった。


 鬱蒼としながらも清らかな空気に満たされた、迷いの森。

 夢の中の出来事であるはずなのに不思議な現実味があったあの森も、煉獄の王ドミヌス・プルガトリイと思われる中年男性の声も、十四歳になった今、しっかりと覚えている。


 あの悲鳴のような少女の声が途切れ、夢から覚めると、決まって窓から大きな月が見えていた。それもなぜか、はっきりと記憶に残っている。


 月は今夜も、夜空に浮かんでいる。しかも青い月と赤い月の両方が、競って光を放っている。だが、アンナがいる客室からは見ることができなかった。

 今夜は方角的に、廊下の窓からしか月を望めないのである。


(月……。見ておきたいな……)


 帝国による攻撃の開始予告時間が、間近に迫っている。もしかしたらもう、あの美しい月を二度と目にすることができなくなるかもしれない。

 そう思い立ったアンナが、メルの朗読を邪魔しないようにそっと、ベッドから立とうとしたときだった。


「メル、少しいいですか。しばらく、廊下に出ています」


 朗読を続けようとするメルに対し手を挙げ、そう声をかけたイズキールが、周囲に配慮しながらも大儀そうに立ち上がり、額に手を当てながらゆっくりと客室を出て行く。

 どこからどう見ても、イズキールの様子は尋常ではなかった。頭でも痛むのかその顔色は蒼白であり、ふらついていて、足取りもどことなくおぼつかない。


(司祭様……? いったい、どうしたのかしら……?)


 客室から出て行ったイズキールをずっと目で追っていたアンナだったが、そう思った次の瞬間には、ベッドから腰を浮かせていた。

 そのときアンナの耳をとらえていたのは、チリンチリンと清らかに転がる鈴の音と、森の奥から聞こえてくるかのようにかすかな、少女の呼び声だった。


「あの子……? あの子が、私を呼んで……?」


 体験の異様さのあまり自分の耳を手で覆いながらも、イズキールの背中を目で追うアンナ。

 そうしているうち、アンナは誰かに操られたかのようにベッドから立ち上がると、イズキールを追って、ふらふらと客室から出ていった。


 母のテレサをはじめ、アンナの行動には誰も気がついていないらしい。ただメルだけが、その気配を感じ取っていた。


「……アンナさん、『女神様』のこと、頼みましたわよ」


 アンナを横目で見たメルは何を思ったのか、アンナに対し小声で謎の声援を送ると、ざわつく男たちの中でじっと腕を組み、無言で考えごとをしているベンの険しい顔に、紫水晶のように輝く瞳を向けなおした。

 この場の総意を掌握するまで、もう一押しである。それを見てとったメルは、数ページをまとめてめくると、次の部分を読み進めていく。


『……或る日、余が認めしは、敵は当初旺盛なる勢を以て我方を攻め立てれども、一週間の後には漸次(ぜんじ)弱化せし事なり。敵、兵站線を軽んじたが故に補給が途絶し、部隊を涵養せざる仕儀に至る事明白なり。(ここ)において余は(たちま)ち方針を転換。将卒をして突出するを厳禁し、堅忍持久に指向せんとす』


 二百五十年前に書かれた古めかしい言葉だが、その裏にうかがえるのは、臨機応変に戦法を転換したアリストメネス伯爵の決意。

 ざわついていた男たちもいつしか引き込まれ、無言でごくりと生唾を飲み込みながら、メルの朗読にじっと聞き入っている。


『……喰ふに糧なく、呑むに清水なし。遂に破れかぶれとなりし敵、魔術師を前面に出し、王城まで一気に吶喊(とっかん)せんと企図せし()、これぞ(まさ)に天佑神助! 斯かる(とき)あらばと温存したる六名の勇士に対し、余は(ただ)ちに出撃を下令せり』


 神から授けられたという剣や槍、弓などの武具を手にし、わずか六名で煉獄の王ドミヌス・プルガトリイに立ち向かったという伝説の勇者たち。

 絵本や説話などでもたびたび描かれ、今や聖人としても知られている六人の英雄の登場は、ピウスをはじめこの場に居並んだ男たちの興奮度を、嫌が応でも増していく。


 しかし、ここでページをめくったメルは、一転して声の調子を落とした。決死の任務につこうとする勇士たちとの、別れの場面にさしかかったのである。


『勇者達を纏めしは、年端も行かぬ乙女なり。娘は神剣を余に示し、真に魔術師と相対(あいたい)する事(あた)ふは是等が神器のみ、此処は誓つて死守せむと云ふ。更に娘、仮令(たとい)我等帰らぬ時、亡国の已む無しとなる前に城を捨て、民を率ひ、落ち延びられよと進言す。余は落涙を禁じ得ず』


 英雄たちは六人まとめて扱われたためか、それぞれの個人名が伝わっていない。

 その中で剣を持つ少女は、六人の中のリーダー格だったのだろう。彼女は伯爵に悲壮な決意を述べ、魔術師たちとの戦いにのぞんだのである。


 室内が、水を打ったように静かになった。それを見たメルは、胸いっぱいに大きく息を吸い込んだかと思うと、ページをめくって細かい部分を一気に飛ばし、元のように勇壮な声の調子で、この章の最後を読み上げていく。


『——されど苦渋の隠忍自重、今此処に(ようや)く奏功す! 而して神より破邪の武具を授けられし六名の勇者、蝟集(いしゅう)する魔術師と対戦し是を(ことごと)く打ち破る。遠大なる理想に燃え、精強を謳はれたる貴族連合も最早烏合の衆。算を乱して潰走するや、城門附近で渋滞を惹起。圧死せる者夥多(かた)に及ぶ』


 最終局面の描写に聞き入り、知らず知らずのうちにメルの朗読に入りこんでいく周囲の男たち。メルの朗読が熱を帯びるにつれ、誰もが手に汗を握り、全身に力が入っていく。


『——かくて宮闕(きゅうけつ)は、(すんで)の所にて護られたり! 是を以て余等は、王都の防衛を完遂せるものと認む』


 独特の節回しを駆使し、最後にこの部分を読み上げたメルは、短距離走を終えた走者のように背中を弾ませて大きく息を吸い、「ぷはぁっ」と大きな息を吐いた。

 そして朗読に集中していた男たちも、メルから数秒遅れる形で、いっせいに全身の力を抜いたのだった。


「……ふう。勢いあまって、最後まで読んでしまいました」


 達成感と興奮で顔を紅潮させたメルは、ずれたメガネを直すといたずらっぽく微笑み、ベンとクルトの方に目を向けた。

 ベンは目を閉じ、腕を組んだまま沈思黙考を続けているが、あぐらを掻いて座っていたクルトは膝を支えに頬杖をつくと、苦笑いをしながら、正座するメルと目を合わせた。


 そしてクルトは両手を差し上げ、せいせいした顔で首を振った。降参だ、という意思表示である。


「少佐……いや、座長が決めたことだ。俺も、アリストメネス伯の戦術に従うさ。それにしてもお嬢ちゃんの度胸には、度肝を抜かれたよ」


「ふふ……。わたくしも正直、針のむしろに座る思いでした」


 それを見たメルも謙遜して微笑んだが、クルトは再び膝に頬杖をつくと途端に笑顔を消し、意味ありげな表情になって、ゆっくり口を開いた。


「で、お嬢ちゃんは俺に、誰の役割を演じろって言うんだい? アロゲネス老師? それとも、少年執事セツの方かい?」


 クルトが挙げた両名は、回想にも登場したアリストメネス伯爵の配下である。老軍師アロゲネスは全体の作戦立案を、少年執事セツは伯爵の身辺の世話と、護衛を務めた人物であった。

 そして両名とも、貴族連合の侵攻を食い止めるためみずから出撃した。二人は奮戦し、伯爵の危機を救ったが、戦場において従容と散華したのである。


 クルトが何を言おうとしているのか、メルには手に取るようにわかった。刹那の間に、二人の視線が交錯する。

 問われて一瞬、言葉に詰まり、クルトの視線を真っ向から受け止めるメル。居並ぶ男たちの空気が、一瞬のうちに凍りついた。


 しかし、メルは注目される中で、ゆっくりとかぶりを振った。


「……いいえ。その、どちらでもありません」


 メルはそう言い、クルトの顔を直視したまま柔らかく微笑むと、ついでみずからの考えを言葉に表した。


「クルトおじさまには、全般指揮を——。アリストメネス伯爵の役割をお願いいたします」


「伯爵の役割……。座長じゃなくて、俺がそれをやるのかい?」


「部下を思い、上官の期待に応え、情勢の変化に対応し数多くの戦闘を勝利に導いたという『灌木林の黒豹』——。その卓越した指揮能力を、いま一度おじさまに発揮していただきたいのです」


 そう言ったメルは、臣下の礼をとるかのように胸の前に右腕を当て、クルトの前でうやうやしく頭を下げた。それはまさに司令官に対し参謀が行う、臣従の仕草であった。

 責任の重大さを知ったクルトは真顔に戻り、固唾をのんで神妙にうなずくしかなかった。


「クルトが指揮官か……わかった。まさに適材適所だな。それで俺たちは何をすればいい? 若き軍師殿」


 腕を組んだままずっと動かなかったベンが、おもむろに目を開け、重々しい口調でメルに呼びかけてきた。

 軍師という呼称を受け、顔を上げたメルは、正座の姿勢のままベンと目を合わせると、そのまま向きを変え、車座になって取り囲む男たちひとりひとりと、流れるように視線を交わしていく。


「座長さんや皆さまにも、それぞれの役割を演じていただきます。しかし、アロゲネス老師やセツ執事のような犠牲を、皆さんに求めるつもりはありません」


 意志がこもった口調でそう宣言したメルは、最後に、自分の胸に手を当てた。


「——もちろん、魔術研究家であるわたくしも、魔術師と一戦まじえる覚悟です。亡きアロゲネス老師が、そうしたように」

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[一言] お久しぶりです&更新心待ちにしておりました! やはり市街戦という特殊なシチュエーションは調べ物が大変だったのでしょうか? その成果は読み応えに現れていたと思います!  実のところ歴史書を読ん…
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