1-3 少女が持つ不思議な力
三 少女が持つ不思議な力
しかし――その時だった。
海辺の街の空気を切り裂くように、甲高い少女の叫び声がこだましたのは。
「――風の精霊さん! キリエお姉ちゃんを守ってぇ!」
その声が響いた次の瞬間、突如として、一陣の風が巻き起こった。
海からでも、陸からでもない。何もない空間が歪み、そこが一瞬震えたかと思った刹那、どこからともなく突風が発生したのだ。
いきなり発生した突風は、透明な衝撃波を伴いながら長い尾を引き、煙突の陰に隠れた弓兵へと一直線に突進する。
その姿はまるで、透き通った渦をその身にまとった、空気でできた弾丸のようでもあった。
「なっ……何いっ?」
矢をつがえ、キリエの背中を狙っていた帝国軍の弓兵は、突然襲ってきた突風をまともに受け、なすすべもなくあおられたかと思うと、一気に屋根の上から放り出された。
そこは二階建ての大きな家。下はごつごつの石畳。墜落すればただでは済まない。
「うわっ! うわわわッ……!」
空中に放り出された帝国の弓兵。驚愕しつつも手足をばたつかせて叫ぶ――。
だが、いつまで手足をばたつかせても、地面に激突する気配がない。
弓兵を空中に放り出した風は、まるで意志を持っているかのごとくいつの間にか旋回し、彼を地面に激突させることなく、ふわりと抱き込んで空中にとどめていた。地面からわずか数センチの高さで。
「なッ――?」
われに返った弓兵は、苦もなく石畳に着地すると、取り落とした弓すら拾わずに舌打ちをし、慌てて逃走していった。
「あ、あれは……?」
はるか向こうで、突然起こった出来事。キリエは眉をひそめながらも、一部始終を目撃していた。すでに矢を一本つがえた大弓を、その腕でいっぱいに引き絞りながら。
キリエはすでに、弓兵の行動を感知し、返す矢で反撃しようとしていたのだ。
気配を察知されずに後ろを取ったと弓兵が思ったのは、まったくの錯覚。キリエはわずかな気配と物音をすでに察知し、相手が狙撃のために煙突から身を乗り出すところを狙おうとしていた。
そのもくろみは実行されなかったが、突風の発生源が酒場の屋根の上であることに気づいたのは、弓をつがえて狙いを定めた後だった。
この街で最大の建物である、宿酒場の大きな屋根の上――。
目をこらしてよく見ると、その屋根の天窓近くに立って両腕を突き出し、暗い金色の髪をなびかせながら、ひとりの少女が泣きそうな顔でこちらを見ているのが、キリエの目に入った。
突如として巻き起こった突風は、この少女が不思議な力で呼び起こしたものだったのだ。
背中まで伸びた暗い色の金髪に、可愛らしい赤色のカチューシャ。人形のように整った美しい顔立ちながらも、汚れた薄青色の服に粗末な革の上着という、町娘にしてはアンバランスないでたちの少女が、そこに立っていた。
少女の胸には、その粗末な服装に不釣り合いともいえるブローチが光っている。豪華な宝石で縁取られたその丸いブローチは、一見しただけで高価なものとわかる。とても町娘が身につけられるものではない。それが強い日射しを受けて、ひときわ金色に輝いて見えた。
「ア、アンナ、なのか……?」
「はあ、はあっ……。キリエ、お姉ちゃん……」
傘のように開いた彼女の長いスカートが、火事の旋風にあおられてバタバタとはためく。厨房で使う革のエプロンが、まるで旗のようになびいた。
屋根の上という環境に、およそ似合いそうもない少女の姿。その証拠に少女の足は、恐怖のあまりガクガクと震えていた。
それどころか、その少女はありったけの勇気を振りしぼって突風を呼び出したものらしく、今にも泣き出しそうな表情で、両手を突き出したまま固まっている。
今までに登ったこともない不安定な屋根の上で、緊張し一歩も動けないでいるらしい。
「よ、よかっ……た……」
それでもキリエが無事だとわかると、アンナと呼ばれた少女はホッとしたように肩の力を抜き、脱力したように微笑しながら、目尻に溜まった涙をぬぐい、こちらを見て儚げに微笑んだ。
その瞳は、まるでウォーターサファイアのように透き通った、明るい青緑色の光をたたえていた。
それを目の当たりにしたキリエは、かろうじて弓を背中の革袋に収めたものの、驚きのあまり開いた口がふさがらずにいた。
「お、お前のその力……。そんなに強かった、っけか……?」
「わ、わからない……。でも、私、必死で」
キリエにそう言われたアンナは、戸惑った様子で、自分の両手を交互に見比べている。
近くに住むこのアンナという少女が、不思議な力をもっていることは前から知っていた。
だがこうして目にするのは久しぶりだったし、引き起こす現象も、小さな火をおこしたりそよ風を吹かせたりする程度だと、昨日まではそう思い込んでいた。
それなのに、強い突風を呼び出すことができるようになっている。さらにそれを制御し、敵兵を地面すれすれで抱きとめることまでしたのだ。
力の強さが、昨夜を境に、ケタ違いに成長している。そのことに、キリエは正直に驚いたのだ。
しかし、結果はどうあれ助けられたのは事実だ。ようやくわれに返ったキリエは、顔を赤くして後頭部を掻きながら、ぼそぼそとした口調で礼を言った。
「あ、ああ……ありがとよ、アンナ。た、助かったよ……」
そんな風に感謝の言葉を贈ったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
でも、戦場では素直にならなければならない。それは仲間と協力して行う狩りと一緒である。
普段この少女は口数が少なく、しっかり者のようでいてどこかぼっとしたところがあり、放っておくと何をしでかすかわからないような、頼りない子だと思っていた。
キリエにとってアンナは、むしろ守ってやらなければならない部類の人間だったが、まさか逆に守ってもらうことになるとは思わなかった。もちろん今まで、この少女に守ってもらったことは一度もなかった。
しかし、ここは普段の原野ではなく、戦場である。守らなければならない大切なものは、数えきれないほどある。死んでしまったらすべてが終わりなのだ。
だからキリエは、羞恥心を押し隠しながらも率直に、この少女に礼を言ったのだ。
「えっ……?」
一方、それを耳にしたアンナは、一瞬驚いた顔をした。無断で屋根の上に出たことを、姉貴分であるキリエに叱られると思っていたからだ。
だがキリエから礼を言われたことがわかると、すぐに「にぱっ」と明るく笑顔をほころばせ、輝かんばかりの愛くるしい表情に変わった。
「――うんっ! キリエお姉ちゃんが無事でよかったわ♪」
「……うえっ?」
屈託のないアンナの笑顔に、同性でありながら思わずドキッとしてしまったキリエは、気まずそうな顔でそっぽを向き、頭を掻いてその反応を受け取るしかなかった。
(こいつ、たった一日で、こんな顔をするようになったんだな……)
アンナがこれほど変わったのは、昨夜、いろいろな経験をしたからなのだろう。キリエはそう思った。