4-6 奇妙な魔術研究家・メル
六 奇妙な魔術研究家・メル
魔術師を連れた兵士が、帝国軍の中にいる――。
ベンと商人との会話から漏れだしたこの話が、酒場の避難所でまたたく間に広がっていく。
さらにその話に尾ひれが付き、憶測も含めた噂という形で広間の中にまんべんなく広がるまで、それほど時間を必要としなかった。
「魔術……? この時代に、魔術だって……?」
「帝国は、そんな忘れられたものにまで、手を出したのかしら……?」
最初はこの程度の関心や推測だったものが、ものの数分もしない間に避難民の間で拡散し、急速に悲観論へと変わっていく。
中には絶望のあまり、大声で自暴自棄な発言をする者がいる。その声がさらに人々の恐怖心をあおる。
「もうおしまいだ! 帝国軍は魔術で、この街を消し去ろうとしているんだ!」
「ゆくゆくは魔導戦争か……。そうなったら、ちっぽけな島国なんぞ、消し飛んでしまうわい」
若い男性が少なくなった大広間では、十五年前の「黒衣の魔女」運動を記憶している年配者が多数を占める。あのとき世界に示された「魔術」の驚異的な力は、古代の魔導戦争を容易に連想させるものだったのかもしれない。
時間を追うごとに騒がしくなっていく大広間。だが座長のベンは不在で、騒ぎを収める者がいない。
避難民たちが騒がしくなる中、厨房を出たアンナは、小走りで広間の隅へと向かう。
「……魔術師。むかしむかしの大魔導師……。『煉獄の王』」
水が入った大きめの壺を重そうに抱え、大やけどをした職人のもとへと急ぐアンナは、暗い金色の髪をなびかせながら、小さな声でそう口ずさむ。
――五年ほど前、日曜学校で聞いた「ある魔術師」の話と、その夜の夢を思い出しながら。
今はもう建物が人手に渡ってしまったが、四年ほど前まで、この街区にも一神教の礼拝堂があった。礼拝堂では貧しい家庭の子どもたちを対象に、日曜学校と呼ばれる無償の塾が開かれる。
その頃、礼拝堂を預かっていたのは、読師の叙階にあるという年配の女性だった。「魔導先生」で有名だった前任の助祭は、司祭に昇叙した際に公都へ呼び戻されたのだという。
「いいですか、皆さん。魔法というのは決して架空の絵空事や、絵本の中のおとぎ話のようなものではありません。恐ろしい力なのです」
「えー。だって先生、魔法ってお花を咲かせたり、傷を治したりできる、便利なやつなんじゃないの?」
「そういうこともできます。でも悪い大人たちは、その力を人殺しのために使ったのです」
「魔法で、人殺しなんかさせたの……?」
「そう。魔術は本来、害のないもの。でもそれが戦争に使われたとき、この世は破滅するのです」
昼下がりの礼拝堂に集まった子どもたちは、そんな問答を繰り返しながら、魔術は恐ろしいものだという話を事あるごとに聞かされた。
特に一神教の関係者は、魔術の存在そのものを頭から否定する。無邪気な幼児たちはその話を信じ、魔術に対する恐れを、みずからの深層心理に形成していった。
魔術を敵視するために創作された、数多くのおとぎ話。その中でもアンナが鮮烈に覚えているのは、二百五十年前の人物であり、「煉獄の王」と呼ばれた、ある大魔導師の話だった。
「むかしむかし、『煉獄の王』という魔法使いがいました。とても魔術の力が強い人だったので、今でも伝説の大魔導師だとか、最強の魔術師だとかいわれて、恐がられているんですよ」
掲げた古い絵本のページをめくった先生が、その感想を述べよと幼いアンナを指し示す。
「どみぬ……? 先生……。その人も、わるい魔法つかいだった……の?」
「そうです、ボヴァリーさん。その魔法使いはなんと、魔法で王様を殺そうとしたのです。それをお嘆きになった神様が六人の勇者をお遣わしになり、彼らによって、砂漠の真ん中で滅ぼされてしまいました」
その場面が描かれている絵本のページを指さしながら、読師の先生が丁寧に説明してくれる。アンナを初めとする子どもたちは、六人の勇者たちの戦いを想像し、目を輝かせながら、先生の説明に聞き入った。
だが、その話の最後になったとき、読師の先生は何を思ったかパタンと絵本を閉じると、子どもたちをじいっと見回した。
「でもね。その『煉獄の王』は今でも生きて、山奥に住んでいるのです。皆さんが悪いことをすると、山の奥深くから姿を現して、またこの国を滅ぼそうとするかもしれません」
この話を耳にした途端、顔を見合わせ、ざわつく子どもたち。先生は二百五十年前の大魔導師を、悪事への戒めとして使ったのである。
幼いアンナも当然この話に震え上がり、泣きそうになっては、ほかの女の子たちと手を取り合ったものだった。
だがアンナがよく覚えているのは、日曜学校で魔術の話を聞いてくるたびに見た、その夜の夢である。
昼なお暗い、深い森。出口の方角すらわからない木々の間を、とぼとぼと歩き続けるアンナ。
天をつくほど高い木々、絡みつく灌木、足が埋まるほど深い草。行く先は闇に包まれていて、このまま進んでも出口に至るかどうかはわからない。
それでもアンナは、当てもなく森の中を進む。見えない何かが、彼女の背中を押してくれるのだ。
鬱蒼とした森でありながら、息苦しさなど微塵も感じない。
まるで清らかな空気に包まれたときのような、晴れ晴れとした気分。何かに導かれている気もする。
だがアンナがその夢を見るたび、その森の中をある一定の距離だけ進んだ時点で、誰もいない森の中でありながら、何者かの声が耳に届いてくる。
『――ごめんよ、お嬢ちゃん。俺のせいで……』
ひたすら詫びの言葉を繰り返すだけの、か細い声。父クルトのものとも違う中年男性の声なのだが、街に住んでいる、どの男性の声でもない。
聞いたことのない声――。それなのに、どこか懐かしい雰囲気に包まれた大人の男性の声。
『おじちゃんは、誰なの? どこにいるの……?』
幼いアンナは、夢の中で当てもなく手を伸ばしながら、何度もその声の主に問いかけを試みた。
だが彼女がそうしようとするたび、どこからともなく、悲鳴に似た少女の叫び声が聞こえてくるのである。
その声はまるで、アンナと中年男性の接触を妨げるかのように森の中に響きわたり、たまらずアンナが両耳をふさいでも、なおも続く。
それが前ぶれもなく中断されると、ハッと夢から覚め、同時に朝を迎えるのである。
「でもあの声は、きっと、あの人……だったんだわ」
あの時よく見た夢を思い出したアンナは、小さな声でそう呟いた。
十四歳になったアンナは、当時を思い返すとき、あの夢の中に出てきた中年男性の声は、「煉獄の王」のものなのではないかと思うようになっていた。
先生はおとぎ話として語ってくれたが、あれは実際にあった出来事だったのだ。そして今、一神教会が魔術を敵視するようになっている原因のひとつなのではないだろうかと、アンナは考えている。
「それじゃ、私のこの力は……。魔術……?」
幼い頃に見た、伝説の魔術師の夢。そして生まれつきこの身に宿った、不思議な力。
自分の中で同時に起こった薄気味悪い事実の符合が、この能力を呪われたもののように思わせる。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。ケガ人に水を運ばなければならない。首を振って雑念を振り払ったアンナは、介抱に余念がないスーザンのもとに駆け寄った。
「スーザン! 水を持ってきたわ!」
「あ、壺で持ってきてくれたの? ありがとう!」
アンナが持ってきてくれた水の壺を見て、驚きながらも感謝したスーザンは、さっそく水をコップですくい、シェリルが支えてやっている職人に、献身的に飲ませてやっている。
それを見たアンナは、自分もコップに少しばかりの水をすくうと、疲労しきって身を横たえている若い商人に近づいて、おそるおそるコップを差し出した。
俺に? という目で見返してくる色男の商人に対し、わずかに笑みを見せるアンナ。
だが、アンナがその笑みを浮かべた瞬間――。すぐ近くで若い男の怒鳴り声が上がった。
「――いたぞ、こいつだ! この娘だ!」
いきなり現れた小太りの青年は、周りに聞こえるよう大声を上げるやいなや、コップを持ったアンナの右腕を掴み、力任せにねじり上げてきた。
「……きゃっ! い、痛い!」
突如としてわが身に起こった異変。
その理由も理解できないまま、痛みのあまり悲鳴を上げるアンナ。
その拍子に水が満たされていた木のコップが飛び、しぶきが飛び散った。
アンナの腕をねじり上げた青年の目の色には、明らかに異様な光が見てとれる。恐怖と怯えが最高潮に達したせいで、興奮が押さえきれなくなったのかもしれない。
「俺は……俺はこの娘が、そこで変な術を使ったのを見た! この目でしっかり見たんだ!」
瞳を爛々と光らせ、アンナの腕を吊し上げたまま叫ぶ青年。恐怖感を共有しようというのか、周囲への呼びかけを始めようとしている。非常にまずい。
それに気づいたスーザンが勇気を振りしぼり、思いきり体重をかけて青年を突き飛ばそうとした。
「――ていッ! ……って、わわっ!」
だがその一撃が身軽にかわされ、むなしく床に叩きつけられるスーザン。
しかし、元気だけが取り柄である彼女は、転倒してもすぐに身を起こす。少しもへこたれていない。すかさず青年を見上げて食いかかった。
「ちょっと、あんた! 離しなさいよ! アンナちゃんが一体、何をしたってのよ!」
金物職人の娘でそばかすだらけの顔に、黒髪を三つ編みにした気の強い少女であるスーザンは、相手が男性で年上であろうとも恐れることなく、うずくまった姿勢のまま猛然と突っかかっていく。
意外にも猛烈な反撃に遭遇した青年は、スーザンの剣幕に一瞬たじろいだが、すぐに開き直った。
「う、うるせえ! こいつはいつも、何もないところから火をおこしたり、床掃除するのに空中から水を出したりしているんだ! 俺はちゃんと毎日、陰から見ていたんだからな!」
「陰から見ていたとか……キモい」
その主張をスーザンの陰からジト目で聞いていたシェリルから、口による手痛い反撃。喰らった青年は再びうろたえた。
「やかましい! こ、こいつが変な力を使うのを、前からおかしいと思っていたんだ!」
木工職人の娘で、控えめな性格のシェリルにぼそりと攻撃された青年だったが、口角泡を飛ばしながらもなお力説をやめない。それを聞いた色男の商人が、腕をねじり上げられた状態のアンナの顔を、驚きの表情で見つめてきた。
「そんな力を……。君みたいな子が?」
この街の人間ではないという商人にまで、秘密にしていた能力を知られてしまった。そのことに耐えられなくなったアンナは目に涙を浮かべ、顔を赤くしながら、下唇をかむ。
そうしているうちに、この異変に気づいた周囲の男たちがあちらこちらから集まり、アンナの腕を掴んだままでいる小太りの青年を取り囲んだ。
「おい、てめえは何をやっているんだ? この子がそんなことするわけないだろう」
鍛冶職人をしている中年の男が前に出て立ちはだかり、小太りの青年を睨みつけて言う。だが、後に引けなくなった青年は少しもひるまない。
「うるさい、黙れ! 俺はこの目で見たんだ!」
この青年は昔から、街の中で問題児扱いされていた。働ける年齢になったのに定職を持たず、毎日フラフラと大通りに出ては、通りがかった商人などを恐喝して金を巻き上げている。
その上、体格に恵まれ、粗暴でありながらケンカも強かったため、街の大人たちも反撃を恐れてか、簡単に手出しができない状態になっていた。
「きっとこいつは、魔術師なんだ! 帝国の手先になって、俺たちを殺そうとしているんだ!」
徐々にエスカレートしていく、青年の的外れな主張。それを耳にしたアンナは、腕を掴まれたまま凍りつき、顔面蒼白となった。
自分自身がもっとも認めたくない事実を、あらぬ疑いとともに、問題児の青年に暴露されたからだった。
「そんな……! 私は、魔術師なんかじゃ……」
必死に訴えようとするアンナだが、その声に力はない。彼女自身、自分が魔術師の一種なのではないかという葛藤に苦しんでいるからだった。
青年に組み伏せられるような姿勢になったスーザンとシェリルも、アンナの心の葛藤についてよく知っているだけに、不安そうに見つめることしかできずにいる。
(でもやっぱり、そう……。私のこの力は、魔術だったのかもしれない)
住民をまとめる座長のベンも、父親のクルトもいない。もう誰も止めてくれない。
このままでは、悪の魔術師という汚名を着せられて処刑されるかもしれない。観念したアンナは、腕をねじり上げられたまま無言で目を閉じた。
魔術への恐怖と帝国侵攻への不安に包まれている避難民たちの注目は、この騒ぎにどうしても集中してしまう。そしてその視線を自分への好意だと勘違いした青年は、さらに有頂天になっていく。
「魔術師はみんな悪者だ! そして帝国の手先は皆殺しだ! そうだろうみんな!」
問題児扱いされ、街の誰からも爪はじき者にされてきた小太りの青年が、初めて浴びる熱視線。思いがけず起こったその状況は、彼を狂気の絶叫へと駆り立てる。
だが実のところその注目は、嫌悪と異質感によるものでしかない。しかし、彼にはもうそれがわからない。これこそが崇敬と共感による視線だとしか、感じられなくなっていた。
――そんなときだった。
天井を見上げたまま、共感の反応を待っていた彼の耳に、聞き慣れない少女の声が響いたのは。
「ちょっと、お兄さん? 魔術師がみんな悪の存在だと決めつけるのは、偏見ですわよ?」
すました口調でそう言いながら、当惑する大人たちをかき分けつつ、ひとりの少女が姿を現した。
その声で目を開けたアンナが最初に見たのは、その少女が履く、古い男物のブーツだった。
薄赤色の長い髪をなびかせ、フリルがふんだんにあしらわれた白いワンピースと、大きなマントを着たその少女は、すらりと伸びた脚を軽やかに運びながら、小太りの青年とアンナの前までゆっくりと歩を進める。
体格はそこそこ恵まれているが、そばかすだらけの丸顔は誰が見ても童顔。それなのに、丸くて大きなメガネのせいでどこか理知的に見える。
だが、彼女が羽織ったマントはよれよれの男物で、風雨にさらされて色あせている。履いているブーツも使い古された男物。木製の杖をたずさえているところから見て、旅人であるらしい。
「な、なんだてめぇは――!」
ゆっくり進んできた旅人の少女は、そんな青年の問いには答えず、その場で歩を止めると、そのメガネの奥、紫水晶のような色をたたえた大きな瞳で、臆することなく青年の顔を見上げてきた。
「そのお嬢さんは、何も悪いことはしていません。その汚い手を離してくださるかしら?」
「――あぁ?」
「まったく、無抵抗の女の子に暴力を振るうなんて。男の風上にも置けませんわね」
貴族のお嬢様さながらの口調で、目を細めつつ堂々と、かつ淡々と青年をなじる薄赤色の髪の少女。体格にものを言わせ、青年がいくら凄んでも、まったく意に介することがない。
これまでケンカの強さで不良どもを従えてきた青年は、自分の尺度に合わないこの少女の態度に焦りといら立ちを覚えたのか、右手でねじり上げていたアンナの腕を放すと、今度は薄赤色の髪の少女に矛先を向けてきた。
「てめぇ、いい気になってんじゃねえよ! 女だからって手加減しねえぞコラぁ!」
憎悪と怒りの表情を最大限に発揮し、広間に響きわたるほどの大声で絶叫した青年は、今まで負けたことのない無敵を誇る拳を、身をよじらせるくらいまで振り上げた。
「おらあ――ッ!」
そして、いつでも勝利をもぎ取ってきた、必殺の拳を一気に繰り出す。
「――ッ!」
ところが、首のあたりに冷たい違和感を感じ取った青年は、振り上げた拳を叩きつける寸前で、塑像のようにぴたりと停止した。
いつの間にか身を低くし、膝立ちになっていた薄赤色の髪の少女が、細身の剣を構え、その鋭利な切っ先を、青年の喉元に突きつけていたからである。
「そちらがその気なら、わたくしも手加減しません。この杖には『仕込み』がありますので」
木製の杖を加工し、細く鋭利な両刃の剣を内蔵した「仕込み杖」は、この当時の商人、旅芸人などの間で流行していたもの。軽くて持ちやすいので、存在自体が珍しい女性の旅人にもたびたび用いられた。
「いいですかお兄さん? もしこの子が帝国の魔術師なら、広間はすでに火の海です。その上でもう、軍靴に蹂躙されているでしょう。そうではありません?」
「へ、屁理屈を言うな……ッ!」
「屁理屈ではありません。本気で魔術を用いれば、この広間など消し飛ばしてしまえるでしょう。あなたはそんな魔術への恐怖心をただ煽っているだけ……。嘆かわしいことですわ」
仕込み杖という道具がありながらも、年上の男性である小太りの青年と堂々と渡り合うこの少女の態度は、青年の悪行を知る避難民たちの間で好感を広げたようだ。少女を見つめる視線が、熱を帯びていく。
そうした雰囲気を敏感に感じ取った青年は、すっかり余裕をなくしてきょろきょろと周囲を見回し、冷や汗を垂らしはじめている。
薄赤色の髪の少女は、その隙を見てアンナの前に回ると、身を低くしたまますかさず自分の背後に隠し、優しく声をかけた。
「アンナさん、よく頑張りましたね。もう大丈夫ですわ」
「わ、私は……。魔術師なんですか――?」
痛む手首をかばいながらも、目に涙を浮かべたアンナは少女の顔を見上げ、なおも嗚咽する。青年に吊し上げられたことよりも、自分が魔術師の一種なのではないかという事実の方が、精神的にこたえているらしい。
その訴えを耳にした薄赤色の髪の少女は、丸いメガネの奥で、紫色の瞳をふっと細めた。
「いいえ――。あなたは、魔術師なんかではありません」
そう優しく声をかけながら、細身の剣を木製の杖におさめた少女がゆっくりと立ち上がると、周囲にも聞こえるように清らかな声で、こう宣言した。
「ただ……。ほかの人とは少し、違う――それだけですわ」
腰のあたりまで伸びた薄赤色の髪をかき上げ、裏地が緋色になったマントを翻した少女は、アンナの背中を撫でてやると、あらためて小太りの青年を相手に、真向かいに対峙した。
周囲を取り囲んだ男たちや、じっと見ている避難民たちは、この少女に備わった自信満々の態度に敬服しつつも、次は何が起こるのやら、ドキドキながら成り行きを見守るしかない。
もはや絶体絶命。焦った小太りの青年は、ついに破れかぶれの行動に出た。もうどうなっても構わない。
全身に力をみなぎらせ、顔面を真っ赤に染めた青年が、おのれの体面を保つため再び無敵の拳を振り上げようとする。
「こ、こ、このアマぁ! 許せねぇ! こ、今度こそぶっ潰して――!」
しかし、その最高に汚い言葉は、最後まで結ぶことはかなわなかった。
その行動と時をおなじくして、背後に現れた大きな影が、青年を一瞬で羽交い締めにしたのだ。
「ぶっ潰す……? いったい、何をぶっ潰すんだ?」
重々しく響くその低音は、背後から青年を羽交い締めにした、座長ベンのものだった。
青年よりもさらに身体が大きいベンは、背後から力強く青年の両腕を締め上げつつも、これまで真っ向から対峙していた薄赤色の髪の少女と、驚きの表情で見つめるアンナたち三人に詫びた。
「申し訳ない。準備をしていて騒ぎに遅れてしまったな。大丈夫か? アンナ、スーザン、シェリル」
「は、はい……」
ベンは四人の少女にそう詫びながらも、青年への締め上げは少しも緩めようとしない。最初はわずかに抵抗していた青年も、羽交い締めをしてきたのがベンであることを知った瞬間、大人しくなった。
腰に手を当て、青年の前に立ったままだった薄赤色の髪の少女は、その瞬間に全身の緊張を解き、厳しかった表情を崩すと、一転して明るい笑顔を浮かべた。
「これで、わかってもらえたかしら? アンナさんは悪い魔術師でも、帝国の手先でもありませんわ」
「――ちっ。わかった、わかったよ」
少女が浮かべた笑顔に接して少し気勢を削がれたのか、青年は舌打ちしつつも承諾した。だがベンによる羽交い締めは、懲罰の意味もあってか依然として続行している。
あいかわらず立たされたままの青年は、薄赤色の髪の少女が思った以上に可愛らしいことに頬を染め、わずかに目をそらすと、今度は普通の口調で話しかけてきた。
「でも、第一、お前、誰なんだよ。なんで魔術師じゃないって、わかるんだよ?」
その質問を受けた薄赤色の髪の少女は、丸いメガネを光らせつつ、顔にかかってきた邪魔な前髪を左手の指でさっとかき上げた。
「わたくしですか。メル――と呼んでください。貧乏司祭のイズキール様と、一緒に旅をしていますの」
「司祭と、一緒に旅を……?」
女性の旅人を見ることなど、道端に落ちている硬貨を見つけるよりも難しいといわれた時代である。その名乗りとともに避難民たちの視線を一身に浴びた少女メルは、まっすぐ伸びた長い髪に腕を通し、さらっと空中に舞わせた。
「魔術のことなら、お任せを。危険な旅をしながら魔術を研究する、若き『天才』魔術研究家であるこのわたくしが、知らないことなどありませんので」
自分のことを臆面もなく「天才」だと名乗ったメルは、お嬢様口調で顎をしゃくり、控えめな胸をいっぱいに反らせたのだった。




