1-2 城壁に囲まれた都市リーヴェンス
二 城壁に囲まれた都市リーヴェンス
ラッフルズート大陸の南に位置する、交易の島・リーナス島。
その北端にある都市リーヴェンスは、神とリーナス公国の名において認められた「自由都市」である。
自由都市とは、商業と人身の自由が保障された特殊な環境。規制や迫害が当たり前だったこの時代にあって、ここでは神と公国の名において、そのすべてから守られたのである。
商業の自由によって億万長者となった者は特権階級となり、当然、市政を握るようになった。
しかし、いつしかこの街には、経済的・政治的逆境から逃れようとする困窮者や小作地から逃げてきた農民、戦災や災害からの避難民などが自由を求めて集まるようになり、治安も悪化してきている。
それに加えて自由都市の名は垂涎の的となり、リーヴェンスは絶えず外敵に備えなければならなかった。そのためこの街には、外周をぐるりと囲む巨大な城壁が存在していた。
誇り高き自由都市。だがその人々はこの街を「城壁都市リーヴェンス」と呼ぶ。
その宗主国であるリーナス公国は、この島のみを領土とする諸侯領である。だが、もはや諸侯領は、世界でここにしか残っていない。
対岸の大陸にはかつて、数多くの諸侯領が割拠していた。しかしわずか二十五年前に大陸で勃興した「ルー帝国」によって、容赦なく併合されてしまったのである。
帝国が言う「聖業」という名のもとに行われた、苛烈な征服戦争の結果であった。
リーナス公国はそのうねりのなかにあって、みずから非武装中立を選択。戦争に荷担せず商業に徹することで、生き残りを図ってきた。
――ゆえに、この国から兵役制度が消えて、もう十年以上になる。
若き日に戦闘を経験した古強者は、めっきり少なくなった。戦争を知らない若い世代も多くなった。民衆は、好景気と長い平和に慣れきってしまった。
だが、ここで戦っている男たちの中で、ベテランとされる四十代以上の職人たちは、戦乱の時代を知る、数少ない生き残り。
若い頃に傭兵や兵士として戦場を駆け、多くの戦果を挙げた歴戦の男たちであった。
年齢を重ね、戦場から身を引いた彼らは、自由都市という新たな行き場を求めた。
そして吹き寄せられるようにこの貧民街に根を下ろし、日々の糧を得るために職人となり、腕を磨いた。
安住の地を得た彼らが、平和な余生を送っていたはずの日々――。
しかし、そんな安寧の日々は、無惨にも破壊されてしまった。
海を渡り、大挙して押し寄せてきた、対岸の帝国が実施した包囲作戦によって。
「まさか再び、これを持ち出すことになろうとはのう。まったく、長生きはしたくないもんじゃ」
ひときわ身長が低く、みごとに頭が禿げ上がった老鍛冶師が、ずっしりと重い戦斧を持ち直しながら、裏路地の木箱に座ったまま若者たちを眺めた。
そして大儀そうに立ち上がると、老鍛冶師は胸いっぱいに深呼吸をした。
普段は工房で、それぞれの手工業にいそしむ職人たち。老鍛冶師はもはや隠居の身である。
しかし今日ばかりは、かつておのれの分身ともたのんだ武器を物置から持ち出した。
年甲斐もなく死にもの狂いの力を振りしぼってでも、敵兵を押し出すため懸命に闘うのだ。皆でそう決めたのだ。
昨夜の出来事を思い出した老鍛冶師は、ニヤリと口元をゆがめた。
「昨日の晩、皆で誓い合ったのじゃからな。――生きてこの街を出よう、と。さあ出番じゃ」
ここは昼なお薄暗い住宅街だ。だが今や戦場である。老鍛冶師の血潮が沸いた。
戦場の現実は、どこの世界でも苛烈なもの。生きるか死ぬかの、命のやり取りの場だ。
向こうの路地ではすでに、革職人たちの戦いが始まっている。この路地にも敵兵の姿が見えた。
路地を押し通ろうとする敵兵が、目の前に展開した。銀色の鎧が陽光に照り映える。
だが、一歩も引くわけにはいかない。老鍛冶師は戦斧を構えなおし、ひとり前に進み出た。
「よっく見とれ、若いの! 戦いはこうするんじゃ……うおぉりゃあッ!」
背の低い老鍛冶師は一気に帝国兵との間合いを詰めると、威勢のいい掛け声とともに両腕で戦斧を振り上げ、鋼を断ち切るハンマーを打ち下ろすような動作で、正面の兵士に力いっぱい叩きつけた。
次の瞬間、うかつにも剣を振り上げ、襲いかかろうとしていた完全武装の帝国兵が、戦斧で真っ向からぶった斬られた。
「ぐッ! ぐあああッ!」
刹那、無惨にも叩き割られる鉄製の兜。それだけでなく、若い重装歩兵の胸元からは鮮血が勢いよく噴き上がって、裏路地をたちまち真っ赤に染めた。
老境に差しかかっているとは思えないほどの、しなやかで敢然とした動き。
彼を援護しようと飛び出しかかっていた若い後輩たちも、唖然とするほどの技の冴えだった。
力任せのその一撃を目の当たりにし、さらに戦友のあえない最期に衝撃を受けたのか、さすがの帝国兵たちも一瞬ひるんだらしい。口では強がっていても、動揺は急速に広がっていく。
「こ、こいつら……強すぎる……」
「こんなバカなことがあるか! 相手は烏合の衆だぞ!」
この展開を見て、鮮血に染まった老鍛冶師は左手を前に振った。「行け」の合図である。
その合図を契機として、勇気を奮い立たせた若者たちが武器を取り、猛然と帝国兵にぶつかっていく。
鎧を着ていない若者たちは、驚くほど身軽に動く。狭い裏路地で血戦が繰り広げられた。
「――よおっし、いいぞ鍛冶屋のピオ爺!」
そこへどこから見ていたのか、拍手とともに、弓使いの女の声が天から降ってきた。彼女は戦闘の一部始終を、屋根の上から眺めていたのだ。
真っ赤な鮮血を全身に浴び、若者たちの戦いを睥睨していた老鍛冶師は、その声に気づいて屋根の上を見上げた。
「なんじゃ、そこにいるのはキリエか。高みの見物とはいい身分じゃのう」
「へっ、そりゃご挨拶だな。ここでピオ爺さんがやられても、骨は拾ってやろうと思って見てたんだ。これでもアタシは、優しい女だからな?」
「……フン、年はガキと変わらんくせに、減らず口だけは一人前になりおって」
そんな応酬をした後、老鍛冶師は一度戦斧を降ろすと、若者のひとりを手招きして自分の言葉を伝え、大声を上げさせて戦いを止めた。
実のところ、ここでの戦いを繰り広げているのはすべて、彼の弟子たち。師匠の命令は絶対である。
「……それにだ。わしの名前は、ピウスじゃ。そのあだ名は嫌いじゃ」
そうぼやく鍛冶屋ピウスの背後へ、潮が引くように元の位置にかえった若い鍛冶職人たち。彼らは息を整えながら、師匠の後ろに整然と並んだ。
「獅子の盾……。あの部隊を復活させたのか。それだけ帝国も、本気なんじゃろう」
歴戦の風格を感じさせる、鋭い眼光。屈強であるはずの帝国兵たちが、一瞬後ずさりする。老鍛冶師ピウスはそんな帝国兵たちを睨みすえたまま、屋根の上に呼びかけた。
「弓使いとはいえ、女であるお前を戦わせちまった……すまん、キリエ。ここはわしらで持ちこたえる。お前は生きて、この街を出るんじゃぞ!」
「今さら水くせえ! ピオ爺さんこそ、こんなところでくたばるんじゃねえぞ!」
キリエと呼ばれた弓使いの女は、持っていた弓を軽々と掲げてそれに答えた。そして屋根を蹴ると、弓を背中に戻して一気に駆け出す。
体格のいい彼女が持つと軽く見えるが、大の男でも弦を引くのに精一杯の力を要するほどの、重くて長い弓である。
ピウス率いる職人たちが戦う裏路地が、みるみるうちに遠くなっていく。
この街で生まれ育ったキリエにとって、ここはかけがえのない故郷にほかならない。
大事な故郷を蹂躙しようとする者は誰であろうと敵であり、許すことができない存在だ。
奥さんが甘いお菓子を作ってくれたあの家も、壊れた弓をタダで直してくれたあの家も……。思い出深い家々が、次々と真っ赤な炎に包まれ、黒こげになっていく。
心の奥に穴が空くのではないかと思うほどの、強烈な喪失感。それに必死に耐えながら、キリエはひときわ大きな建物の屋根に飛び移った。
「酒場は異常がないか――よし。アタシは今度こそ、あのキザ野郎を……」
キリエは素早く現在地を確認すると、すかさず次の行動へ移ろうとした。
大きな弓は背中の革袋に差してある。森や原野を移動するときは、いつもそうしている。
弓を持ったまま動こうとすれば、灌木や木の枝に引っかかって音が出る。そうすると獲物に逃げられてしまうからだ。
だが、キリエが背中の革袋に弓を収める姿を、じっと見つめる人影が――。
距離にして百五十メートル以上。さすがのキリエも、戦闘音のせいかまったく気づかない。
大きな屋根に何本か立てられた、レンガ造りの煙突の陰――。
そこに隠れるように陣取り、戦闘用の弓に必殺の矢をつがえた帝国軍の狙撃手が、今にも弦を引き絞って、キリエの背中を狙っていた。
キリエはなおも、背中を向けたまま。この行動に気づいた様子はない。
「フフフ……。殺すには惜しい上玉だが、ここは戦場だ。悪く思うなよ」
これまで何人もの命を奪ってきた、熟練の弓兵なのだろう。気配を完全に消した帝国軍の狙撃手は、無防備に周囲を見回す彼女の背中を視界に捉え、弓の弦を限界まで引き絞った。
常人ならいざ知らず、自分であればこの距離でも外さない。熟練の弓兵は命中を確信し、口角を上げて不敵に笑うのだった。