3-5 旅の聖職者イズキール
五 旅の聖職者イズキール
明かりが漏れないよう、鎧戸を閉めきった大広間は、人いきれのせいで蒸し暑い。
そんな大広間に、クルトとアンナの親子があいついで二階から降りてきた。
「――俺にお呼びがかかったってことは、いよいよ座長が、本気を出したってことか?」
クルトは先に、二階と一階を結ぶ急なはしご段を降りきると、その後から慎重な足取りでついてくるアンナに対して、何気なく話しかけた。
重症の引っ込み思案であるアンナは、父親の呼びかけに対してさえ、もじもじと返事をする。
「わ……私は、何も、聞いてない」
「ふうん。じゃあ単なる呼び戻しってことか……。まったく、広間にはシケたおっさんと女子供しかいねぇから、気が滅入って仕方ねぇ」
「…………」
こんな風に少し乱暴な言葉づかいを駆使し、ワイルドな親父を演じて笑いを取ろうとしても、娘のアンナはまったく表情を変えないどころか、うつむいて返事すらしないのである。
アンナは男性恐怖症である。たとえ会話の相手が父親のクルトであっても同じである。男性の前となると、途端に感情を出せなくなるのだった。
(親父が相手でも、この調子とはね……。例のあれのせいで、街の不良どもにいじめられ通しだったから……なんだろうねぇ)
クルトには、娘がこんな性格になってしまった理由がよくわかっていた。それでも何とか感情を解きほぐそうと努力してみるのだが、言葉の応酬が続かず、アンナはすぐにうつむいてしまう。
いつものようにクルトはやれやれと頭を掻き、途方に暮れつつもそんなアンナの姿を見つめた。
「そういえば、さっきのキリエちゃんは――」
そんなときは常套手段しかない。クルトは無理やり、キリエに関する話題に切り替えてしまう。
幼なじみで、年齢が離れた姉妹のように育った彼女たち。アンナはキリエの話になったときだけ、男性の前でも微笑することができるのである。
「律儀なことだねぇ。家業のパン屋を手伝うからって、わざわざ二階の窓から飛び降りてまで、家に帰っちまうはね……」
クルトは二階での出来事について話しながら、そのときのキリエの表情を思い出していた。
『――そ、そういえば! アタシは親父の手伝いをしなきゃいけないんだった! それじゃ、クルトおじさん! アタシは行くよ!』
二階の客室で一緒にしょげていたキリエだったが、一階で呼んでいると知らされた途端、急に焦りだしたかと思うと、そう言い残してすかさず持ち物をまとめ、二階の窓から飛び降りてしまったのである。
それはまさに電光石火ともいえる、十秒そこそこの出来事であった。
疲労困憊だったはずのキリエがここまで素早く行動できた理由。それは、一階に降りるとどうしても顔を合わせなければならない人物がいるからだ。
クルトはその人物について、おおよそ察しがついている。それを思うと、思わず顔がニヤけてしまうのであった。
(あんな男勝りのキリエちゃんも、やっぱり、女の子なんだねえ)
つい思い出し笑いをしたクルトだったが、アンナの表情は固いままである。話題を転換した効果がそれほどなかったと悟ったクルトは、心底がっかりした。
キリエの名前が出た途端に何かを思い出し、顔をこわばらせていたアンナはハッとして、いぶかしがるクルトの方を見返した。
「キリエお姉ちゃん……そ、そう、だよね……あはは」
必死にとりつくろい、愛想笑いを浮かべてみせるアンナ。顔をこわばらせていた理由はわからないが、クルトは前途の多難さを思い知らされていた。
男性との距離を取ることなど、人生の半分を損しているはずだと、クルトは正直に思う。
「――はあ、まあ仕方がないか。仲のいい友だちとは、よくしゃべるのにねぇ」
「ご……ごめんなさい……」
「謝ることはないさ。ほれ、最後の段だ。気をつけて降りろよ。お姫様」
「うん……。ありがとう、お父さん」
はしご段を先に降りきっていたクルトが、おとぎ話に出てくる王子様さながらに貴族らしい礼をし、キザったらしく手を差し出す。アンナはためらいながらもスカートをつまみ、父親の手を取って、一階の床に降り立った。
とは言え、アンナはくしゃくしゃに履き古した男物のブーツを履いている。貴婦人が靴音をカツンと鳴らすのとは対照的に、床に降りても音はしなかった。
だが、アンナが着ている青色のドレスは、ところどころに補修の跡があるもののまぎれもない高級品であった。
中央街区に住む大商人の令嬢が着ていたとしても、おかしくないほどの豪奢な造りである。可愛らしい丸顔とみごとな金髪が、その青色をさらに引き立てていた。むしろドレス以外の髪飾りやブーツなどが粗末であることが、妙な対比すら生んでいる。
アンナは貧しい本屋の娘である。それなのに顔立ちはよく、絵画から出てきたように美しかった。
その容貌には隠しようもない高貴さが匂い立ち、ウォーターサファイアのような青緑色の瞳は、輝く宝石のような神々しさすら帯びている。まっすぐに伸びた金色の髪は背中にまで達して、彼女の背後にみごとなヴェールを作り出していた。
これほど美しい娘なのに、どうして貧しいのか。彼女を知った者はみな、そう思うだろう。
「じゃあ……お父さん。私は、友だちを手伝いに行くから……」
「そうか。避難民はどんどん増える。忙しいだろうが、あまり、無理をするなよ」
「うん。気をつけるわ。それじゃ……」
父親のクルトに対しても、ぺこりと会釈をしてから去っていくアンナ。貧しいものの精一杯着飾った身なりと、その礼儀正しい態度には、両親の教育による影響が色濃くみられる。
(うーん、今度はちょっと高いブーツでも、頑張って買ってやらんとなあ)
頭を掻きながら、去っていくアンナの後ろ姿を見送るクルト。その頭の中がへそくりの算段でいっぱいになっていく。
クルトが営む書店は食べていくのがやっとで、まさに赤貧洗うがごとしの経営環境だが、一人娘のアンナにはできる限りよい服を着せ、お嬢様としての作法も習わせている。だが、クルトはそうする理由を誰にも語らない。
そのためか街区の中で、あのキザったらしい書店の親父はどこかの国の元貴族なのではないかと噂されているのだった。
――だが、書店のひとり娘アンナに隠された秘密は、これにとどまらない。
小走りでカウンターの方へ向かうアンナ。彼女はこの酒場で、下働きをしているのである。
カウンターの奥にある厨房では、黒髪をお下げにしたそばかす顔の少女が、溜まった洗い物と格闘していた。座長の傍らで老人を迎えようとしていた金髪ショートカットとは、別の少女である。
いくら広い宿酒場でも、突如として二百人もの人数を受け入れたのである。食事ごとに大量の食器が溜まってしまうため、洗っても洗っても追いつかない。
「あ、アンナちゃーん。遅い遅い! たーすーけーてー!」
冷たい水で必死に洗っていた少女は、厨房に入ってきたアンナを見つけるや否や満面の笑みを浮かべ、両手を振って大声で呼びかけてきた。
それを見たアンナは急いで厨房に入ると、背中の紐を結び直して薄汚い革のエプロンを固定し、煮炊きに使うかまどの薪を新たに持ちこみながら、申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめん、スーザン。ちょっと休憩しよう。お茶をいれるから、待ってて」
「お、アンナちゃんのお茶! あたし大好物なんだよねえ!」
スーザンというお下げ髪の少女は、そう言って洗いかけの食器を投げ出した。よほど洗い物に飽き飽きしていたらしい。
そんなスーザンを見てくすりと微笑んだアンナは、スカートのポケットに手を入れ、一枚の紙片を取り出した。火をおこすための火打ち石ではない。単なるよじれた紙片である。
――そして次の瞬間。思いがけないことが起こった。
手に持った紙片をアンナが空中に掲げ、目を閉じて念じた次の刹那。
火打ち石を使っていないというのに、紙片の先で「ポッ」と、小さな火が立ち上がった。
マッチなどもあるにはあったが、高価なので貴族が使うものであった時代。アンナは何もない空間から火を集め、空気中から生み出したかのように、紙片に点火させたのである。
「……ふう」
手品のような火起こし術を終え、ため息をひとつ漏らしたアンナは、ゆっくりと目を開けた。
だが、その瞳の色は清らかな青緑色ではない。秋に染まる紅葉のような、暗赤色に変わっていた。
「――お茶にした後で、洗い物を手伝うから。シェリルも呼んできてくれる?」
「あいよー!」
平然と返事をしたスーザンは、アンナの目の色もこの現象も、すでに見慣れているのだろう。金髪ショートカットの少女シェリルを呼びに、その場から走り去っていった。
アンナはそれを、赤く変わった瞳で見送りながら、発生させた火が消えないように体全体で覆い、かまどに向かうと、ふたを開け、紙片の火を素早くその中に移した。
そしてアンナは素早く火を吹き消すと、少し焦げた紙片を自分のポケットに入れた。紙は高価なので、捨てられないのである。
この不思議な力が使えるのは、街の中でアンナだけである。街に住む者のうち特に男たちは、気味悪がったり露骨に避けたりした。彼女の男性恐怖症は、そうした環境の中で形づくられた。
だから今では、こうした限られた用途で、しかも隠れた場所でしか、この能力を使わない。
(またあれか。手品にも見えるが……。まさか、「魔術」とかじゃないよねぇ……?)
遠くから何気なくそれを見ていたクルトだったが、魔術という言葉が脳裏に浮かんだ途端、ぞくりと身震いをした。
いにしえの魔導戦争が終わって以来、魔術はタブーである。最近では十五年前の「黒衣の魔女」事件をきっかけに、魔術そのものが徹底的に弾圧され、世界的に禁忌とされた。こんな場面が役人にでも見つかったら、とんでもないことになる。
くわばらくわばら……と思わず背を丸めたクルトは、広間の端で壁に背を向けて立っている、よく肥えた上に屈強そうな身体つきの中年女性を見つけると、のんびりと声をかけた。
「――よう、テレサ。待たせたな。何を見てるんだ?」
「うん? ああ、あんたかい。ようやく来たかね。あたしが見てないところで、まーた飲んだくれていたんじゃないだろうね?」
「あ、ああ……いや。飲んだけど、ほんのちょっとだけさ……ははっ」
声をかけられ、こちらに顔を向けた中年の女性は、クルトをひと目見るなり表情も変えずに嫌みを言う。
それでもなぜかクルトは頭を掻くばかりで、反論しないばかりか、言い訳がましく上目づかいになった。逆らえなくなっている証拠である。
この屈強そうな中年女性の名前はテレサ。長年クルトと連れ添った、彼の女房である。現在、街の書店である「書肆ボヴァリー」を実質上切り盛りしているのは、テレサなのである。
ゆえに、毎日飲み歩くばかりのクルトは、この妻に頭が上がらない。街ではすっかり、恐妻家として通っていた。
(まったく、絵に描いたような婿養子だよなあ、俺って……)
そんな風にぼやくクルトは、ひょろっとした痩せ形。いわば貧しさを体現した身体つきだといえるが、テレサはその正反対。よく太って恰幅がよく、声も顔も大きい。近隣住民のまとめ役も引き受けているため、彼女自身「街の豪快おばちゃん」的な存在である。
クルトと同じ「書肆ボヴァリー」のエプロンを身にまとい、ホコリ取りで立ち読み客を追い払う姿は、この街のちょっとした名物でもあった。
「――まあ、いいさね。座長さんがあんたを呼んだんだが、その後で例の『悍馬じいさん』と、ちょっと揉めごとを起こしたみたいなのさ」
「悍馬じいさん、か……。前はよく酒場に来て傭兵時代の話をしてたけど、ここ半年くらいは顔を見せなくなっていたなあ。今度は何をやらかしたんだ?」
クルトが面倒くさそうな顔で問い返すと、テレサは返答する前に、人だかりの方を顎で指し示した。
「帝国の連中がすぐそこまで来てるかもしれないってのに、避難所に入るのを嫌がってさ。まあ、異教徒が考えることは、あたしにはよくわからないさね」
「――ふうん。異教徒、ねぇ」
テレサが顎をしゃくって示した先を見ながら、クルトは複雑そうな顔で人だかりの方に目をこらした。避難所の雰囲気に飽きた人々が、玄関の方で起こっている口論を遠巻きに取り囲んでいるらしい。
しかしトラブルはすでに解消に向かっているらしく、まだ何かが起こるのではないかと状況を見守る者がいる一方で、興味なさそうに人だかりから離れていく者もいる。
だがそのとき、急に人だかりがざわめいた。何事かが起こったらしい。
大きな体躯をいからせ、へたり込んだ老人に迫ろうとしている酒場の主人を、肩に手をかけて制止した白装束の男が現れたからであった。
あの巨体を腕一本で制止したのだから、どよめきが起こらないはずがない。
「座長殿。いけません。そこまでです」
目が覚めるように明るい、青色の髪。その髪を首のあたりで切りそろえたスタイルは、まさに一神教会の聖職者そのもの。胸には首から鎖で吊った聖印が、控えめに光っている。
見た目の年齢は二十歳前後。白装束に見えたのは純白のマントで、身体にはこれまた純白の僧服を着ているが、その下に青銅の胴鎧と手甲、そして膝までを覆うすね当てを装着している。腰には、微妙な反りのある片手剣を帯びていた。
「し、司祭様……」
「座長殿。過去を掘り返されたお気持ちは、わたしにも辛いほどわかります。しかしここは、わたしの顔と職責に免じ、ご老人を許してやってはいただけませんか」
「…………」
白装束の青年に制止され、優しく諭されたのを契機として、怒りと絶望に燃えていた酒場の主人の目から、徐々に憤怒の炎が消えていく。
それを見てとった老人は、わずかな隙をついて若い衆の手を振り払うと、無言のままそそくさと、群衆の中へ紛れていった。
酒場の主人がその姿を見送るだけで、これ以上追おうとしないことを確認した白装束の青年は、そこで初めて、酒場の主人の大きな肩から手を離した。
それに引き続き、軽くポンと、その大きな肩を優しげに叩いた。
「これで落ち着かれましたか? 座長殿……いや、ご主人」
酒場の主人はそう声をかけられて、ようやく肩の力を抜いた。
街区の住民をまとめる座長という職務は、非常に重苦しいものである。白装束の青年は、あえて座長から酒場の主人という世俗の職業へと呼び換えたことで、過度な緊張をほぐそうとしたのである。
白装束の青年は、爽やかな色の髪には全然似合わない丸メガネをかけ、にきびの跡が残る童顔をほころばせつつ、堂々たる体格である酒場の主人に、再び声をかけた。
「『世のために怒れる者は、この世の真理を曲げんとするものに対して戦おうとする者である。神々は彼を祝福したもう』と、聖典にあります。秩序を保とうとしたあなたは正しい……。これだけは真理です」
興味なさげにバラバラと解散していく群衆を見送りながら、聖典の一節を引用した青年。それを聞いた酒場の主人はくるりと青年の方に向き直ると、大きな身体を折り曲げて一礼した。
「何とも……情けないことです。世のために怒るのはいいんですが、俺はまた、自分の過去をほじくり返されそうになったことに怒りを覚えてしまいました。まだまだ、修行が足らん証拠です」
「誰にでも、つらい過去のひとつやふたつはあるものです。かく言うわたしもそうです。ははは……」
この場を和ませようとしているのか、メガネをかけた青年はそう言い、声を上げて笑った。
そこへ、自分の居場所へと散っていく群衆をかき分けるようにして、さっきまで遠巻きから見ていたクルトとテレサの夫婦がやってきた。
「ようやく収まったようだね、司祭さん。それにしてもこの人を力で止めようだなんて、あんた……勇者だねぇ」
クルトがからかい半分に声をかけると、白装束の青年は苦笑して頭を掻いた。それを聞いたテレサが、すかさず口をとがらせる。
「あんたは、何をバカなこと言ってんだい。でも司祭さん、変なことにならなくてよかった。あたしからも礼を言うよ」
表現こそ違うものの、口々に白装束の青年をたたえるクルトとテレサの夫婦。青年はにこやかにそれを受けながら、いやいや……と謙遜し続ける。
酒場の主人に比べたらさほどでもないが、この青年も引き締まった肉体を持ち、身長もそこそこ高い。だが何よりも目を引くのは、真夏の晴天にも似た、すがすがしい青色をした髪であった。
青年は、木の杖に翼が生えたような十字の「聖印」を首にかけている。高位聖職者である司祭は、聖印を肌身離さず携行するように定められているのである。
その聖印には司祭の地位を示す、三角形を組み合わせた精巧な紋章が彫られている。その意匠が、高位聖職者である司祭の権威を際立たせていた。
こうしてみると普通の高位聖職者だが、異様なのはその若さと、左腕に装着された金属製の腕輪である。
その腕輪は外周に複雑な模様が彫られた逸品で、中心部には緑色の透明な石がはめ込まれている。ひと目で、高価なものだとわかる。
「そういえば、旅の司祭様。当店にいらっしゃるのは初めてでしたな。以前からこの辺で、お見かけはしておりましたが」
酒場の主人は、握手をしようと右手を差し出しつつ、白装束の青年に近づいた。敬虔な一神教徒である酒場の主人は、いかに若くとも、高位聖職者である青年には敬語で接する。
青年はメガネの奥に笑みを浮かべ、その右手をしっかりと握り返しながらも、恥ずかしそうに左手で後頭部を掻き、クルトとテレサの夫婦を指し示す。
「いやあ。宿にお世話になろうにも、先立つものがありませんでした。このご夫婦が営まれる書店で一週間ほど前から、居候させていただいている身です」
白装束の青年はそばかすが残る童顔をほころばせ、腰から吊した小さい袋をポンポンと叩いて「文無し」をアピールしつつも、どこか寂しそうにそう語る。
腰の小袋は財布らしいが、すっかり膨らみをなくしている。本当に旅費が尽きてしまったらしい。
それを見た酒場の主人は、何か思い出したらしく、青年とクルトの顔を見比べながら言う。
「もしかして、司祭様は女の子をお連れではありませんか。五日ほど前からピンク色の長い髪をしたメガネっ子が毎日来て、カウンターの端で本を読みながら、ツケでワインを飲むんですが、酔いつぶれて、そのまま閉店まで寝ているんです」
「…………」
青年司祭はたちまち恥ずかしいような、困ったような複雑な表情になると、そのまま勢いよく、ペコッと頭を下げた。
「それは……迷惑をおかけして申し訳ありません。わたしの旅の連れで、メルというのです。飲み代はいずれ、きっちりとお支払いしますので……少しお待ちいただければ」
自分の連れがツケ飲みをしていることを初めて知った青年は真っ青になって、まるで借金取り相手に懇願するかのように、必死に支払遅延を頼み込むのだった。
だが、街はもはや帝国の魔の手に陥りつつあり、明日をも知れない状況である。酒場の主人はため息をしつつも、やれやれといった表情で、クルトやテレサと顔を見合わせた。
酒場の主人はいかつい顔をほころばせ、改めて右手を差し出すと、歓迎の言葉と自己紹介を述べた。
「まあ、こんな状況ですが……お待ちしましょう。そんなことより、ようこそ、リーヴェンス『第十七区』へ。俺の名前は、ベンといいます」
そう言って親指で自分を指し示し、にっこりと満面の笑みをこぼすベン。年の頃はすでに五十歳を越えており、笑顔になると顔中が皺だらけになる。いかめしい面構えだが、不器用に笑うその顔は、どこか愛らしくも見えた。
「ああ、ベン殿……。あなたがそうでしたか。ああやっと、探し求めていた人物にたどり着きました。感謝いたします、わが主よ」
「俺のことを、探していた……?」
ベンの自己紹介を受けた途端、青年司祭は旅の目的を思い出したのか、ほっとしたかのように神への感謝をつぶやくと、胸の聖印を握り、天井を見上げる。ベンはそれを聞いて、いぶかしげに首をかしげた。
今度は、青年の方が自己紹介をする番である。ベンの顔をまっすぐに見つめながら、優しそうな笑顔で一礼をした。
「わたしは、公都リーナスで教区司祭をしておりました、イズキール・フェランと申します。今はしがない旅の聖職に過ぎませんが、どうぞ、お見知りおきを……」
青年司祭イズキールは、なぜか職名を過去形で紹介するなり、ベンの右手をしっかりと握り返した。




