3-1 魔剣、破滅への嚆矢
一 魔剣、破滅への嚆矢
少し前――。夕闇に沈む、城壁の内部。
城壁の内部に広がった街に灯る明かりは、まばらである。
帝国による包囲を前に、裕福な住民多くは安全な地を求め、急いで退去していった。
その結果、人口が半減した街に残るのは、この街で生を受けたものの、城壁から外に出ることなく暮らしてきた、貧しい住民ばかり。
他に行くあてのない彼らは、じっと息を殺し、災禍が通り過ぎるのを待つしかない。
そのせいか今夜は、目抜き通りにも裏路地にも、人っ子ひとり見かけない。
街で動くものといえば、道端のゴミをあさる野犬くらいのものである。
巨大な城壁で守られているのは、城でも砦でもない。
十万以上の人口を有する商業の街にして、ラッフルズート地域最大の街のひとつ、「自由都市」リーヴェンスである。
だが、その偉容も賑わいも、すでに見る影もなかった。帝国の脅威に直面した混乱ぶりを物語るかのように、瓦礫やゴミが散乱する街には、人口が激減したせいで人影が見えない。
港がある海峡の方向を除いて三方を、高い城壁に囲まれた城壁都市リーヴェンス。
城壁の内側では、所せましと建てられた石造りの家屋が、鮮やかな屋根の色彩を競っている。城壁という箱の中にぎっしりと押し込まれたかのように、小さな建物が立ち並ぶ。
昼の間に城壁の上から眺めたら、箱の中に整然と詰めこまれた、おもちゃの街のように見えたかもしれない。
その都市の中心を貫き、まっすぐに中央街区まで伸びていく、幅の広い石畳の大通りがある。
この大通り沿いには、意図的に高さを揃えられた立派な商館が、整然と軒を連ねる。ここは帝国によって包囲されるまで、商人や馬車が頻繁に行き来する活気あふれる街だった。
しかし、もうここには商人も、馬車の姿もない。あるのは、散乱し風に惑うゴミばかり。
そんな無人の大通りの始点となる城門前広場では、先ほどから破城槌の尖端が衝突するたび、天地が割れるのではないかと思うほどのけたたましい轟音が、幾度となく空気を震わせていた。
「みんな、大丈夫か……?」
普通の建物など、一撃で突き崩してしまうといわれる破城槌。それでも必死にその猛威に耐え続けている門扉を前にして、身体中から出血した守備隊の指揮官がよろめきながら、背後の部下たちに声をかけた。
彼の背後に集結した部下たちは、全員が負傷者である。城壁を舞台にした激しい戦いの結果、どうにか帝国軍を撃退したものの、彼らにはもはや、戦う力は残されていなかった。
守備隊はすでに、壊滅寸前にまで追い込まれた。残った味方はここにいる全員と、門扉のみ。
「ああ、何とかな……。どうにか生きてる、ぜ」
「へっ。ここが俺たちの死に場所ってわけ、か」
指揮官の周囲からどこからともなく、弱々しくも明確な答えがいくつも帰ってくる。
その返事とともに姿を現した男たちもまた、指揮官と同じく満身創痍の状態。返り血なのか自身の出血なのか、もうどうでもよい。誰もが全身を真っ赤に染めていた。
「ああ、そうさ……。この門扉も、誇り高きリーヴェンス守備隊も……」
やや自嘲ぎみにそう言った指揮官は、血で汚れた目をこすりながら目の前の門扉を見上げた。
「……そして、この街も、もうおしまいだよ」
全身全霊を傾けて戦い、その挙げ句に敗れた指揮官の顔は、むしろすがすがしさに満ちていた。
リーヴェンスの城門には、いつ鋳造されたかも定かでない、巨大な青銅の門扉が取りつけられている。
道路の石畳と同じ厚さだという青銅の門扉は、花柄の紋様の優雅さとは裏腹に、その内側に通された、教会の大理石柱ほどもあるという鋼鉄製のかんぬきとともに、数百年にわたって外敵を拒絶し続けてきた。
だが今や、巨大な破城槌の衝撃を数十回にわたって受け続けた青銅の門扉は、ついに耐えきれずに裂け目が生じ、鋼鉄製のかんぬきにも真新しいヒビが入っている。
門との接合部分である軸材は丸太のような金属の柱だが、すでに大きく曲がっていた。
城門の外に据えられた破城槌は、それを繰り返し押したり引いたりする帝国兵たちの掛け声とともに、前進・後退を繰り返す。そして何度も何度も、巨大な丸太を城門に衝突させ続ける。
もはや、城壁の外に展開した部隊は沈黙して久しい。止める者もない破城槌の暴風にさらされ続けた鉄壁の門扉は、もう、風前の灯火も同然であった。
「しかし……。変だな。破城槌の間隔が、いきなり長くなったぞ……?」
そこへ、もう数分も音を立てない門扉を見上げた部下のひとりが、ぽつりと呟いた。
その声につられて、指揮官もその他の部下たちもいっせいに、静まりかえった門扉を見上げた。
そう。最後の打撃音が鳴り響いてからもうずいぶん経過しているというのに、とどめになるであろう次の打撃が、なかなか来ないのである。
これまでは、二分に一度の間隔で打撃があった。それなのに、もう五分以上の間隔が空いているのだ。
「おかしい……。まさか、ここまで来て城門の攻撃は中止、ということなのか……?」
固唾を呑んだ指揮官が、門扉の向こうで動きを止めた帝国軍の思惑を図りかね、うめくように呟く。
だが、異変は、その直後に起こった。
巨大な門扉の中心付近が、横に通された鋼鉄製のかんぬきとともに、赤く染まりだしたのだ。
それはまさに、巨大な門扉が、鋳型に流し込む直前の青銅に戻ったかのような色だった。
たび重なる巨大な打撃を受けたせいで、門扉はすでに大きな損傷を受けている。特に中央部分は損傷が激しい。ただ鋼鉄製のかんぬきだけは、まだ損傷がそれほど大きくない。
もろくなった門扉と、いまだ耐久力を残すかんぬきの中心付近を狙い、高熱をともなった何らかのエネルギーを照射しているのか、赤熱部分が円形のまま、鋼鉄製のかんぬきもろとも、徐々に扉全体へと広がっていく。
「こ、これは……? 一体何を……?」
「扉の真ん中が、赤く……?」
「まさか、外で火を焚いて、鋼鉄のかんぬきを溶かそうとしているのか……?」
周囲に隠れていた部下たちが、この状況をどうにかして理解しようと口々に呟いた――そのときだった。
「――ぬうんッ!」
門扉の向こうから、聞いたこともないような大音響で、男の野太い掛け声が響いた。
それとほぼ同時に、赤色の棒のようなものが、赤熱し柔らかくなった門扉とかんぬきを串刺しにするかのように、突然、向こう側から飛び出したのである。
その棒のようなものは、燃えるように鮮やかな赤色に染まった、細長い騎士剣の剣身であった。
「なッ――! なにぃッ? バカなッ?」
眼前で起こった信じられない状況に、驚愕の色を隠せない指揮官。
部下たちもいっせいに駆けつけてきたが、彼らもみな一様に驚き、戦慄するばかり。
そこへ重ねて扉の向こうから、先ほどと同じ男の声が轟く。今度の声は、まさに絶叫そのものだった。
「……むう! ぬるい、ぬるいぞッ! 魔剣『堕ちたる天の使い』よッ! 汝の力は、まさかこんなものではあるまいッ!」
大きな掛け声と同時に、門扉とかんぬきをバターのように貫いていた剣身が、夕闇の中、さらに鮮やかに染まっていく。
その色は、火の赤すら通り越した赤。むしろ溶けた鉄のように、鮮烈に輝く橙色であった。
「破ッ!」
そして最後に轟いたのは、剣を持った男が発した声。それは、凄絶なる気魄のこもった気合。
その声と同時に、溶けた鉄のように熱くなった青銅の扉が、「バーン!」という破裂音とともに、城壁内に向けて一気に飛び散ってきた。
破裂した破片の勢いは、あたかも間近で火山が噴火したようなもの。赤熱した高温の塊が、門扉の前に集まっていた守備隊の生き残りたちに降り注ぐ。
「う、うわ、破片がッ! うあああああッ!」
「に、逃げ……ぐああああッ!」
重なり合う人々の絶叫。そこに容赦なく降り注ぐ灼熱の破片。それはまさに、地獄からの業火。
またたく間に火が広がった門扉前の広場は、酷烈なる阿鼻叫喚のちまたへと変貌した。
壮麗な街灯も、整然とした敷石も、堅牢な石造りの建物も――すべてが燃え、黒く焼け落ちていく。
「く、くそ……」
かろうじてその場に踏みとどまった指揮官は、破裂して内側にめくれ上がり、今なお真っ赤に溶けたどろどろの青銅を垂れ流し続けている門扉の向こうに、大柄の男が立っているのを見た。
だが、目に焼きついたその姿は、間もなく彼の最期のものになるだろう。すでに指揮官の腹には、鋭利な破片となったかんぬきの一部が、深々と突き刺さっていたのだから。
「フフフ……。魔剣を持つ者にはいずれ、その身の破滅が訪れるというが……。面白い余興であった」
その大男は、赤熱し高温の光を発している剣をその手にたずさえたまま、おもむろに門扉の内側へと歩を進めると、溶けた青銅が降ってくることなど構うことなく、広場へと入ってくる。
貴重な黒の鋳鉄と、ちりばめられた金で飾り立てられた豪華な全身鎧。鮮やかな緋色のマント。小脇にかかえた、鎧と同じデザインの兜。
軍人らしく短くされた頭髪は黒々としているのに、豊かな鼻髭にはところどころ白いものが目立つ。酒焼けし、赤みを帯びた浅黒い肌は汗ばみ、鍛え上げられた筋骨は油を塗られたように輝く、盛り上がらんばかり。背丈ほどもある長い騎士剣を、軽々と片手で握りしめている。
「三年……」
瓦礫を踏みしめ、リーヴェンス城内への地歩を確かなものにした大男はそう呟くと、空を見上げ、ついで目抜き通りのはるか向こうに遠望できる、市庁舎の尖塔に視線を向けた。
「あれから三年……か。ここに来ることを待ちわびたぞ、リーヴェンスよ」
当時を思い出しているのか、感慨深げにそう言った完全武装の大男は、ふと自分の目の前で、瀕死の状態ながらもこちらを睨みつけている守備隊指揮官の存在に気がついた。
指揮官にはもはや破片を引き抜く力も残っていなかったが、残されたすべての体力を振りしぼって立ち、大男の顔を睨み返していた。
「お……お前は、何……者……?」
瀕死の状態でも、気魄の力だけで立ち続ける指揮官。必死に声を紡ぎ出す。
次の瞬間、門扉をくぐって展開してきた帝国兵たちが、そんな彼を急速に取り囲むと、全員がいっせいに剣を抜き、前後左右から、彼ひとりに切っ先を向けた。
全身鎧の大男は腕を組み、その様子をしばらく無言で眺めていたが、血で汚れ、なおも火種をくすぶらせる瓦礫を踏みしめて一歩前に出ると、円形に取り囲んだ帝国兵たちの中へと割って入った。
「よい。剣を収めよ……。冥土のみやげだ、わしから名乗ってやろう」
野太い声でこう言った大男は、腕を組んだままの姿勢で両足を踏みしめて立ち、武装した帝国兵たちを背後に従えると、瀕死の指揮官を前に言い放った。
「わしはこのたび、遠征軍司令官を陛下より仰せつかった、帝国軍少将セルヴェラス・インクヴィドゥス。神々の聖業を再び天下に知らしめんがため、この地に舞い戻った者だ」
その声、その体躯、そして圧倒的な威圧感は、まさにこの世に出現した魔神そのもの。
帝国軍司令官セルヴェラスの姿を目前にしながらも、守備隊指揮官は反撃することもままならず、無言で、その場に崩れ落ちた。