1-1 絶望との闘い
一 絶望との闘い
「――それッ、次に死にたい奴はどいつだ!」
燃えゆく街を背に、射撃後、弓の弦から指を離した勇士が、快哉の雄叫びを上げた。
その視界の向こうでは、たった今放った矢が背中に命中し、もんどり打って木箱の上から墜落していく敵の兵士が見える。
その兵士は屋根の上に這い上がろうとしていたのだろう。そこを狙い撃ちされたのだ。
距離にして優に二百メートル以上。この距離で矢を命中させるなど、人間業とは思えない。
だがその矢は、正確に敵兵の足に当たっている。まさに神業ともいえる、命中精度であった。
「ふうッ……!」
興奮ぎみに、荒い息を吐いた弓使い。その髪は――漆黒。
背中まで届くほどの、長い髪。その黒髪を後頭部でポニーテールに束ね、くすんだ緋色のリボンで結びつけている。
薄汚れた麻のシャツに黒い革製の上衣をまとい、これも褐色の革ズボンを着用した弓使いは、目標が地面に墜落したことを視認するやいなや、背負った矢筒に手を伸ばしつつ呟いた。
「ちっ! もう、矢の残りが少なくなりやがった。こんなんじゃ、奴らを止められねぇ……」
その双眸には、燃えるような怒りの炎。
その口から漏れ出るのは、敵に対する激しい憎しみ――。
「でも、帝国の奴らは……絶対に許さねぇ!」
初夏の日射しが、燃え上がる家々から立ちのぼる黒煙を縫って降り注いでくる。
緊張のあまり流れ落ちた汗をぬぐい、屋根の上で立ち上がった弓使いが木製の弓をひと息に担ぐと、その拍子に、盛り上がった巨大な胸が鞠のように弾んだ。
立ち上がった弓使いは、女――。それも、胸以外に無駄な肉など少しもない、華奢な若い娘である。
もともと浅黒い上に、日焼けした褐色の肌が艶やかに際立つ。しかもその面構えは、驚くほどの美貌。
ハスキーな声色に、絶世とも思える完璧な容貌。ただその口調は、同年代の男よりも粗野。
それでいて身長が高く、くびれた腰に、盛り上がったみごとな胸。狩人として鍛え上げられたしなやかな肉体は、まさに野生の獣そのものであった。
彼女が携行するのは巨大な木製の弓と、腰に差した短剣のみ。まさに、森に潜む狩人が戦場に出てきたかのようだ。
「あの野郎はどこだ……。アタシのこの弓で、絶対に殺してやる!」
そう、強い呪いの言葉を吐いた弓使いの女は、今しがた仕留めた敵兵を一顧だにすることもなく、鋭い視線で次の獲物を探した。
侵入した敵兵が放火したのか、眼下に広がるいくつかの建物は、窓から炎を噴き上げて盛大に燃えている。周囲のあちらこちらで、赤黒い色をした煙が、異臭をともなってそそり立つ。
馴染んだ街が、思い出がたくさん詰まった街が、目の前で燃えていく。
帝国による猛攻に耐えきれず、城門はとっくに突破されたのだ。最期の時が刻々と迫る。
――ここは街の辺縁。流れ者が吹き寄せられた貧民街。
旧市街の一端ではあるが、高い城壁がすぐ近くに迫っている。その圧迫感たるや、凄まじい。
基本的に石造りの街並みではあるが、代々補修を繰り返した古い家屋が無計画に、雑然と立ち並ぶ貧民街。
石の建材が足りず、木材を多用した家々が縄張りを競うかのようにぎっしりと軒を連ねる姿は異様。だがそれこそが、人口の増加にともなって建て増しされてきた、移民たちの住み処なのであった。
狭い裏路地に置かれた可燃物はおびただしく、火を放たれたが最後、消す者がいなければ際限なく燃え続けるばかり。
放火され大半が灰燼に帰したスラム街。それでも飽き足らず、あらゆるものを燃やし尽くそうと欲するのか、今なお炎はたけり狂う。
時は初夏。夏至を迎えたばかりの午前の日射しが、容赦なく照りつける海辺の街――。
高い城壁に囲まれ、整然と積み木を詰めこんだような都市は、その身中に敵を抱えてしまった。
高い城壁に張りつくかのように粗末な家屋が建ち並び、商店や民家が渾然とした閉鎖的な街が広がる――。ここは「周辺街区」と呼ばれる区域。言わば、流れ者たちの「吹きだまり」である。
中心街区から遠く離れ、当局による管理が十分に行き届かない周辺街区には、海辺の街特有の湿気が否応なく流れ込み、糞尿や残飯などの汚物がない交ぜになった、強烈な臭いが充満していた。
「…………」
海からの湿った空気がもたらす、粘りつくような暑さの中。弓を持った女は流れ出る汗もいとわずに切れ長の精悍な目をこらし、瞳をせわしなく動かしながら、屋根の上から注意深く次の獲物を探す。
彼女は危険を承知の上で、みずから遊撃手となり、敵兵を狙撃するための単独行動をしているのだ。
そして、一度見た範囲に注意深く視線を走らせた、次の瞬間――。
彼女の視界の中に、三軒ほど向こうの屋根の上を、身軽に飛び回る男の姿が入った。
その男も弓の使い手らしく、弓使い独特の軽い革鎧に、動きやすそうな麻の服といういでたち。
だが、彼が着ている鎧は帝国のもの。しかも、やや上等なマントを翻している。
手に持っているのは、装飾が行き届いた上等な弓。男でありながら長髪をなびかせるその外見は、言うなれば天衣無縫。
だがよく見れば、軍装は贅沢なこしらえになっている。それだけでも、帝国の上流階級に属する男なのだとわかる。
その姿を見た途端、弓使いの女は全身の血液を沸騰させた。
「――いたか! このキザ野郎ッ! 待ちやがれ!」
見つけた! ――あれこそが、先ほどから追い続けている敵に違いない。
弓使いの女は、身体を焦がさんばかりに燃え上がる憎しみの炎を、歯を食いしばってようやく抑えつけると、すかさず弓を構えなおし、背中の矢筒へと手を伸ばした。
時間にして数秒。ずっしりと重くて大きな弓も、彼女の手にかかれば馴染んだ愛器となる。
「……へっ。じゃあな、お嬢さん。また会おう!」
ところが向こうから飛んできたのは、若い男のキザな捨てゼリフ。
驚くほどに軽い身のこなしを発揮した若い男は、戦うことなくひらりと逃げていく。
彼女の燃え上がらんばかりの殺気に恐れをなしたのか、あるいは無益な戦いを避けたのか。
帝国の弓使いは軽薄そうな笑みを浮かべたまま身を翻し、屋根から屋根へと飛び移ると、彼女の視界からあっという間に消えてしまった。
「ちっ……あの野郎!」
残された弓使いの女は盛大に舌打ちしたが、追うことなく足を止めた。任務上、これ以上深追いするわけにはいかないのだ。
たとえ遊撃手であろうと、戦場では決められた持ち場がある。軽々しくそこを離れることは許されない。
「…………」
追撃を思い直した女は、背中にたすき掛けした革袋に弓を収めると、深呼吸をして気持ちを落ち着けながら、注意深く周囲の様子をうかがった。
狩人の修行をしながら原野を駆け、森に潜んで鍛え上げた鋭敏な感覚。そして鍛え上げた身体能力とが、優秀な狙撃手としての彼女の真骨頂なのだ。
――そこへ足元から、帝国兵の怒鳴り声と激しい金属音とが、彼女の耳に届いてきた。
「いたぞ! 敵のゲリラどもだ!」
「路地へ誘い込め! 一気に殲滅するぞ!」
彼女が振り向く。戦闘の音は足下の曲がりくねった細い路地から聞こえてくるようだ。武器と思われる金属同士が激しく打ち合う、ガキン、ガキンという鮮烈な音と、鬨の声とが混じり合っている。
激しい戦闘の音だけではない。重装備の兵士たちが立てる、金属鎧が擦れ合う音も入り混じる。いやが上にも緊張感を催させる、戦闘音の競演だ。
狭い路地を埋めつくし、浸透するように押し寄せてくるのは、揃って鈍い銀色に輝く鉄製の鎧を着け、獅子の図柄が刻印された大型の盾をもつ、完全武装の重装歩兵たち。
臨時編成ながらも十分訓練され、熟練の指揮官に統率された精鋭たちである。
そして、それを真っ向から受けて立つのは、使い古した軽装鎧に身を包み、思い思いの武器を手にした中高年の職人たち。
統一性のかけらもない彼らの身なりは、整然と剣を並べる敵と比べて、格段に見劣りがする。
しかし、そんな粗末な装備ではあっても、彼らは街を守るために命を賭けて団結し、日常の職人道具を武器に持ち替えて、決死の思いで戦っていた。
「こっちだ! 狭いところで袋叩きにしちまえ!」
「帝国の奴らは、ひとりも生かして帰すんじゃねえぞ!」
「てめえらが差別しやがる革なめし職人の心意気、とくと見ろや!」
縦横無尽に暴れ回る中年の職人たち。口々に敵を罵りながらも組織的に、勇敢に立ち向かっていく。
そう、彼らは帝国と剣を交えながらも、「絶望」とも必死に戦っているのだ。
帝国の重装歩兵もそうはさせまいと、狭い路地に充満し、にわか武装の職人たちを力任せに押しまくってくる。
傍から見れば、装備でも統率でも劣る住民側に勝ち目などない。この先に待っているのは一方的な虐殺という末路しかないだろう。
「中央止まれ! 右翼出ろ、引っかき回せ!」
だがそこへ、よく通る甲高い男の声が響いた。後方から号令をかけているのだ。
この号令に従い、暴れ回っていた職人たちは前進をやめ、その場で武器を振るって重装歩兵に抵抗する。
そして向こうの路地から、ひときわ若い男たちの群れが現れたかと思うと、長く伸びた重装歩兵たちの側面へと突入を開始した。
選び抜かれた精鋭であるはずの重装歩兵たちは、戦闘においては素人同然だと侮っていた職人集団を前に、先ほどから一進一退を繰り返し、攻めあぐねている。
帝国の指揮官が舌打ちする。烏合の衆だと思っていた街の住人たちが予想以上に勇敢であり、ときおり響くこの号令に従って、組織的に行動していたからだ。
その整然とした行動の裏には、団結と明確な軍事的ドクトリンの存在、そして有能な指揮官による統率を考慮するほかない。
意外な展開に、楽勝を予期していた隊長が焦る。貴族制国家である帝国で、隊長は上流階級に属するが、彼は不幸にも、部下を指揮する能力が乏しいらしい。
「何をしとるか貴様ら! 帝国の聖業は絶対だ! 今こそ、神々の光輝を見せる時だろうがッ!」
顔を真っ赤にし、ただ叫ぶだけの隊長。この状況では、不甲斐ない部下を後方から叱り飛ばすくらいしかできないらしい。